Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

イラン旅行(2)2016.2.20 シーラーズ、ペルセポリス

2/20

~10:00 シーラーズ観光

10:00~13:00 ペルセポリス、ナグシェ・ロスタム観光

13:00~ シーラーズ観光

ザンディーエ・ホテル泊

 

本日は一日中シーラーズ観光である。

イラン旅行の中では一つの目玉といってよいだろう、アケメネス朝ペルシアの遺構ペルセポリスやナグシェ・ロスタムを観光し、その後シーラーズの観光地をめぐる。ペルセポリスに向かう前に、「ステンドグラスのモスク」として有名なマスジェデ・ナスィーロル・モルクに向かう。この時間帯に訪問するのは、モスク内に差し込む太陽光によりもっともステンドグラスが美しく見えるのが朝の時間帯だという情報を得ていたが故。このモスク、ネット上では「マスジェデ・ナスィーロル・モスク」と紹介されているものが多いが、あれは間違いである。これを訳すと「ナスィーロル・モスクモスク」になってしまう。ネット上の情報にコピペが多いことの証左だろうか。情報があふれる世の中であるが、正しい情報にアクセスするのにはかつてよりますます困難になり、個々人のリテラシーがより要求される時代になったと思う。

 

ホテルを出発し、ひなびた街並みを歩いてモスクに向かう。朝のシーラーズの町は、現地の人々が路上をほうきで掃除する姿が多く認められ、この国の清潔に対する意識の高さをうかがわせる。フランスなど道路上に犬の糞が落ちていることがしばしばあり、それを踏んで気分の悪い思いをしたことがあったが、そもそもこの国では犬を飼うという習慣がないらしい。当然路上に動物の糞など落ちていない。お洒落で洗練されたイメージがあるフランスだが、その足元は思った以上に不潔であり、いろいろ考えさせられる(フランス語の教材にはglisser sur une merde de chien(「犬の糞でスベる」)などという表現が載っており、そういうことが日常茶飯事であることが推測される。なおこの知識はイラン訪問時にはなかった笑)。などと考えているとモスクに到着した。モスク入口のムカルナス(鍾乳石造り)が大変美しい。入場料は10万リヤル。

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マスジェデ・ナスィーロル・モルクのムカルナス。大変美しい

モスクに入ると、典型的なペルシャ様式の池があり、奥には上に人の手形のような装飾のついた小ぶりなミナレットが一対ある。この人の手は「ファーティマの手」であり、魔除けの意味があるらしい。そしてその左右にステンドグラスの窓がある礼拝堂が並んでいる。

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池のある中庭と「ファーティマの手」のあるミナレット

ステンドグラスの窓がある礼拝堂には絨毯が敷かれており、そこには昨日のシャー・チェラーグ廟とは異なった陶酔の空間が広がっている。

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鮮やかな色のあふれる空間に呆気にとられつつ写真を撮影し、その後ホテルに一度戻る。その際に日本人ツアーとおぼしきなんだかビクビクしたアジア人集団を見かけた。日本人は中国人や韓国人と似た東洋人風の顔貌をしているが、外国では大体少し怯え気味ですぐにそれとわかる。日本人は一言でいえば内弁慶なんだと思う(まあ、それが必ずしも悪いわけではないだろうけど)。イランを旅行していた十数日間で、日本人に遭遇したのはこの時だけであった。

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シーラーズのくすんだ町並み

ホテルのロビーで、ペルセポリス+ナグシェ・ロスタムに行くためにタクシーをチャーターしたい旨を伝えると、どうやら値段が決まっているらしい。たしか30ドル程度だったと記憶している。しばらく待っていると入口にタクシーが到着。てっぺんハゲで口髭を生やしたオッサンであるが味のある雰囲気を醸し出しており、なんだか優しそうだ。

タクシーでホテルを出てペルセポリスへ向かう。シーラーズ市街の道路は混雑しているが、日本の道路のように車線を守って走行する車はほとんどおらず、まるでゴーカートのようだ。レンタカーなど借りた暁には一瞬で事故に巻き込まれるに違いない。次第に人家が少なくなっていき、半砂漠地帯の高速道路を猛スピードで走行していく。そして現地のポピュラー音楽と思しき、聞いたこともない音楽を流している。基本的に短音階なのだが、乾いた大地の景色と大変にマッチしており、文化というのはその土地の気候や風土を多分に反映するものだと思わされる。なお、このタクシー運転手が流していた曲を大変気に入り、日本に帰ってから血眼で調べてみたところどうやらその曲に行き着いたので、下に記す。興味がある方はYouTubeなどでペルシアの空気を味わっていただければと思う。

♪Mahasti, Bezar man khodam basham

♪Mahasti, Nazi Nazi

♪Mahasti, Barge gol

途中マルヴダシュトという小さな町を抜け、広い松の林を抜けるとそこがペルセポリスである。タクシーの運転手のオッサンは我々一行をチケット売り場に案内してくれ、その後ここで待っているから行ってきなさいとジェスチャーで示す。

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我々をペルセポリスの入口へ案内するタクシー運転手のおっさん

ペルセポリスパルミラ、ペトラは中東の3Pと呼ばれ、観光客に大変人気な観光地である。ペルセポリスは、アケメネス朝の宗教的な首都として築かれ、ノウルーズなどの儀式が行われたという。しかしながら、紀元前331年、アレキサンダー大王の征服により陥落。宮殿は廃墟と化したという。日本の歴史を学ぶと法隆寺建立の607年ですら太古の昔のように感じるが、世界史を学ぶと日本の歴史もそれほど深くないのだなと思ったりもする。

 

ペルセポリスの入口は段の低く奥行きの大きな階段になっており、上っていくと羽の生えた人面獣の彫られた門が姿を現した。これはクセルクセス門というそうだ。顔面はおそらく偶像崇拝を嫌うムスリムによってであろう、削り取られているが、門の裏手の像は顔が残っており、なんとなく元の血の気の通わない平面的な顔貌を推察できる。門の壁には平面的に並んだ多くの人の姿が刻まれているが、上の段の人は顔が削られているのに対し下の段は彫刻がきれいに残っており、おそらく砂か何かに埋もれていたのではと考えられる。

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クセルクセス門の全貌

ホマーという双頭の鷲を横目に見ながら順路を進むと、女子中学校の社会科見学と思われる女性集団がいくつもおり、先生とおぼしき人がおそらく遺跡についての解説をしている。外国人観光客と気づくと手を振ってくる生徒がたくさん。とてもフレンドリーでほほえましい。このような集団をこの旅行では多く見かけることになる。

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百柱の間を見学する地元の学生集団

隣接する高台にはアタクセルクセス2世の墓があり、そこからペルセポリスの遺跡を一望することができる。乾いた風と日差しが実にさわやかだ。

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アタクセルクセス2世の墓からペルセポリス全景

ペルセポリスにはイランの企業や団体で現在使われているシンボルのもとになっている彫像や彫刻が大変多く認められる。例えばIranAirのマークはは先述のホマーをマークにしたものだし、ヤズドのゾロアスター教神殿に刻まれた守護霊プラヴァシのマークは、アタクセルクセス2世の墓にすでに彫刻として刻まれている。シーア派イスラームが国教となった今なお、ペルセポリスはある意味イラン人の精神的支柱の一側面を担っているわけである。
自分がイラン旅行に行くきっかけを作った野町和嘉氏の写真集「PERSIA」で大変印象的であった東階段の彫刻や、比較的保存状態の良い冬の宮殿など、実に見ていて飽きない。北アフリカやレバントにも古代遺跡はあるが、パルミラをはじめ多くは古代ローマの遺産である。非ヨーロッパ系文明の古代遺跡をこれほどの規模で拝めるところはなかなかないのではないだろうか。

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保存状態の良い「冬の宮殿」

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やはり東階段に刻まれたこの彫刻を載せないわけにもいくまい。

この彫刻は、世界各国からの使者が刻まれているそうであり、ガイドブックを見れば詳しく書いてあるが、残念ながら予習不足によりどれがどこの国の使者なのかは同定できなかった。しかしながら当時オリエント世界で絶大な影響を誇っていたアケメネス朝の強大さの片鱗を見るには十分だった。

先ほどのタクシーに戻る。次の目的地はナグシェ・ロスタムである。

ナグシェ・ロスタムはアケメネス朝の歴代の王が眠る墓が巨大な岩壁に彫られたものであり、その近傍にはゾロアスター教関連の建築物と思われる謎の建物が認められる。こちらもやはり規模が大きく圧倒される。しかしながら次第に日差しの強さと乾燥した空気でのどが渇いてきた。写真をササっと撮影し、タクシーに戻る。

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ナグシェ・ロスタム

(なお、最近知ったことだが、このロスタムというのはペルシャの民族的叙事詩であるシャー・ナーメにも登場するペルシャの英雄の名前だそうである。なおウズベキスタンサマルカンドにはアフラシャブの丘というのがあるが、アフロースィヤーブ(=アフラシャブ)というのはトゥーラーン(今のトルキスタン地方と比定されている)の英雄の名らしい。イラン文明圏に対する理解をさらに深めるには、このシャー・ナーメを紐解くことが必須と思われる。)

タクシーで1時間ほどで、シーラーズの市街に戻る。大体13時ごろにホテルに戻った。タクシー運転手にありがとうと言っていったんホテルに戻る。少し休憩し、午後は昼食&シーラーズ市街の観光スポットをめぐることにする。その前にホテルの近所の銀行で両替をしたが、100ドル=350万リヤルというかなり良いレートだった。

まずはマスジェデ・ヴァキールというモスクを訪れる。こちらは朝訪れたマスジェデ・ナスィーロル・モルクを一回り大きくしたようなモスクで、装飾は美しいが、やや無個性な感じがする。

昼食はバザール内にあるおという洒落なお店、サラーイェ・メフルを訪れることにした。バザールを本格的に歩くのは初めてだが、まるで迷路のように入り組んでおり、どこに何があるのかがよくわからず同じところをぐるぐると回ってしまう。少しわき道にそれると四角い池のある小広場に出たりする。緻密に積み上げられたレンガにより生み出される様式美が美しく、まるでおとぎ話の世界に入り込んだかのようだ。窓の装飾なども凝っており、これほどの文化的遺産の中で日常生活を送っているイランの人々が羨ましくもある。バザールには装飾品や有名なおみやげ物のミーナ・カーリー、香辛料や食べ物を売る店が区域ごとに集まっており、バザール内には香辛料の独特の香りが充満している。歴史が教科書上の記述ではなく、現在に連続していることを意識させられる空間。個人的には拳より一回りも二回りも大きいザクロが売っているのが印象的だった。

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美しいバーザールの空間

レストランはバザールの少し奥まった一角にあり、入口がわかりにくい。しかし内部は絵やステンドグラスがたくさんあり、とてもお洒落な雰囲気だ。ここで食べたチェロウキャバーブについていた焼きトマトは、その後食べたすべての焼きトマトの中で一番おいしかった。

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お洒落な雰囲気のレストラン。味もGOOD

その後は市街地の西のはずれにあるエラム庭園に観光に行くことにする。タクシーをひろうほどの距離でもないと考え、市街地を歩いていくが、やはり町並みは古びているものの清潔という印象だ。ヨーロッパ諸国にありがちな柄の悪い青年がたむろしているスラムのようなところもあまり見受けられない。1時間ほど歩くと、エラム庭園についた。内部のバラ庭園は絶賛整備中で重機が轟音を挙げて土を掘り返しており、四季折々の花が咲き乱れるというゴレスターンとは程遠い印象であった。このエラム庭園もまた、世界遺産に登録されているらしい。独特の形をした屋根が印象的だ。

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エラム庭園の宮殿は、ガージャール朝時代のもの

エラム庭園からは徒歩でホテルに帰る。今日もまた外に出る気力がないので部屋食である。ホテルのルームサービスで食事を持ってきてもらおうとも検討したが、結局高価だったのでやめた記憶がある。友人は近くの商店で買ったビスケットを食べていたが、私は持ってきた保存食を消費した。明日はヤズドへ移動することになる。どんな都市なのか楽しみだ。

 

 

 

 

イラン旅行(1)2016.2.18-19 イスラム圏の衝撃

2/19

QR813便 0:15 羽田→06:05ドーハ

IR682便 11:45ドーハ→13:30シーラーズ

ザンディーエ・ホテル泊

 

さて、待ちに待った2月18日になった。翌日0:15発の飛行機のために、2時間前の10時に羽田空港に到着。カタール航空カウンターの近傍の椅子に座って時間をつぶすことにする。

実は姉の結婚式がこの前の週にある予定だったのだがどういうわけか変更になり、イランへの旅にちょうど被ってしまった。このために十数日の日程を割いてくれた友人に対して日程変更を申し出るわけにもいかなかったため、残念ながら姉の結婚式には欠席することになってしまった。少し楽しみだっただけに申し訳ない。

 

カタール航空は中東の航空会社だからもっと広々とした座席だろうと推測していたが残念ながらエコノミークラスはそれほどシートピッチが広いほうではない。正直あまり快適ではなかった。ドーハのハマド国際空港に到着し、飛行機を出ると湿度が高く蒸し暑い。建物は全体的に新しく無機質でオイルマネーの気配が感じられ、初めて経験する中東の空気に少し戸惑う。歩いている人々の中にはアラブ風のゴトラやサウブを身に着けた男性や全身を黒いアバーヤで包んだ女性がちらほらいて、なんだかなれない世界に足を踏み入れた感じがしはじめた。

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ハマド国際空港は全体的に新しく無機質な感じだ

シーラーズに向かう便への乗り継ぎは5時間あまりあるが、別の航空会社に乗り継ぎになるため、イラン航空の航空券発券などの手続きをしなければならない。窓口に聞いてみると、肌の浅黒くスキンヘッドでやる気のなさそうなオッサンが、2時間後に窓口を開けるという。窓口近くで2時間ほど時間をつぶしたものの、空港wi-fiの速度も遅く特にやることもないので、朝の空港のけだるい雰囲気もあいまって待ち時間は異様に長く感じられた。

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掲示板の表示にIR682と見える。

手続きをすませたあとにようやくイラン航空の出発ゲートに向かう。

イラン航空の出発ゲートはすでに異様な雰囲気を呈していた。頭にターバンを巻いたもはやどこの出身か推測不可能な人、日本人がまず着なさそうな謎のスーツ風の格好をした浅黒いオッサン、全身を黒いアバーヤ(イランではチャドルという)で覆った女性。おそらくすべての人がイランの人もしくは宗教的な目的でイランを訪れる人だろう。無防備さをウリにするチャラチャラして浮足立った女子旅連中はおろか、マイナー国への旅行では定番のはずのキザでナルシスティックなバックパッカーの姿すらない。肌が浅黒く彫刻のように深い彫りの刻まれた人々の集団の中で、明らかに自分たちだけが浮いている。ウインナーコーヒーの上のクリームのような孤独感と不安に乾いた笑いがこみあげ、ニヤニヤが止まらない。自分はどうやらヤバい場所に来てしまったようだ。

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出発ゲートは異様な雰囲気を呈していた

 

シーラーズ行きの飛行機に乗り込む。イラン航空の機体は経済制裁により新しい航空機が購入できないことが影響し、かなり古い。ペルシア湾を超えるとイラン高原にそびえる乾いた山々が畝をなしている様子が見て取れ、その畝をひとつ超えるごとに少しずつ近づく異国への旅に緊張が高まる。途中で赤茶けた水をたたえた湖が見え、飛行機内の異様な雰囲気にさらなる彩りを添える。

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赤茶けた水をたたえた湖

シーラーズ空港は大変に古びた空港で、規模も小さく、雰囲気は哀愁を帯びていた。入国審査では髭を生やした不愛想な入国審査官がボン!とパスポートに判を押してあっという間に通過する。地球の歩き方には入国審査でいろいろ質問されると聞いていたので、そのユルさに少しほっとした。入国審査を終えると手荷物を回収するベルトコンベアーのあたりに異様な恰好をした人が多く集まっている。イランという国は海外から帰ってきた家族を総出で迎えるのだろうか、先ほど乗ってきた飛行機内の人数に比べて明らかに多い。たむろしているイラン人の一人に「Welcome to Iran!」などと声をかけられて戸惑う。現地人ばかりのこの空港では、東洋人の観光客はあからさまに浮いて見えるらしい。

そういうわけで、イランという国に我々二人はついに放り出されてしまった。

残念ながら旅行会社には出迎えを頼まなかったので、ホテルまではタクシーを呼ばなければならないのだが、現地通貨を一切持っていない。外国人観光客などほとんどいないのだろう、両替窓口すらない。どうしたものか。空港の職員に聞いてみたところ、空港の売店で両替をしてくれるという。なんとありがたい話だ。しかしながらありがたい話というのには悪い話がつきものである。それはまあ、これからじっくり語るとしよう。

売店で友人が両替を頼むことにした。売店の奥のほうから眼鏡をかけたお姉さんが出てくる。100ドル=250万リヤルで両替をしてくれるのだという。当時の相場(当時のレートでは100ドル=300万リヤル)を考えるとレートはやや悪いが、ここは両替をしてくれる親切心に素直に感謝することにした。

ありがたく店を去っていこうとすると、

「うちの売店で少し休憩していかない?」

売店のお姉さんが言う。まあ両替もしてもらったことだし、ありがたく売店で食べ物でも頼むことにしよう。メニューを渡される。この時点で値段が書いていないことに気付くべきであったが、残念ながら当時は注文の時点で値段を確認するという習慣がなかった。

頼んだジュースとケーキが出てくる。ジュースはまあいいとして、チョコレートケーキはまるでそこらへんのスポンジを食らっているかのようにパサパサで、味も薄くとても食べられたものではない。一体何なんだ。このあたりで我々は何やらおかしいことに気付き始める。しかしながらそれはすでにわれわれがぼったくりのカモにされた後であった。かなしいかな、我々はすでに罠にはまってしまったのだ。

会計をお願いすると、なんと2人分で80ドルだという。ジュースとパッサパサのケーキで一人4000円である。何をふざけたことを言っているんだこのお姉さんは。まともそうな雰囲気を醸し出していながら、中身はまったくまともではなかった。あまりにも高すぎると文句を言ったが、値段を聞かずに注文した我々の分が悪い。大変気分を悪くしたまま、そのへんのタクシーに乗る。残念ながら何かを注文する前には必ず値段を聞かねばならないという海外旅行の鉄則を身に着けるための授業料だと思うことにした。(なおその後数日にわたって私はぼったくられたことに対する文句をブツブツと友人に垂れ流していた。すぐに頭を切り替えられないのは自分の悪い癖である。本当に申し訳ない)

 

タクシーからはきれいに区画され、しかしながら古びたシーラーズの街並みが見える。たまに出現するタマネギ状のモスクのドームがまるでおもちゃのようで現実感がない。あまりにも慣れ親しんだものと違う街並みの雰囲気に頭がついていかず、これが人の住む場所であると認識できない。しかしながら長い経済制裁の影響だろうか、色あせた街並みはどこか哀愁を感じさせ、野町和嘉氏の写真集「PERSIA」の一節を思い出した。

 

イスラーム革命以来、アメリカとは国交を断絶したままで、長期にわたる経済制裁を受けていることもあって、経済的にはやや低迷が続いているが、反面、悪しきグローバリズムの洗礼は受けておらず、ややくすんだ街路には、ペルシア文化のしっとりとした情感が流れている」

 

そうこうしているうちに、ザンディーエ・ホテルに到着した。とても新しいホテルのようで、内装も綺麗だ。チェックインを済ませた後、エレベーターに乗りこむが、エレベーターは動き出すと音楽が流れる仕様になっている。しかも聞いたことがないような重厚な音階をもつ独特のメロディーで圧倒される。

まだ現地時間は14時ごろ。少し散歩する時間がある。町に出て観光地の1つくらいに行く程度の余裕はあるだろう。相談のうえ、鏡のモザイクで有名なシャー・チェラーグ廟に向かうことにした。シャー・チェラーグ廟は、十二イマーム派の第8代イマームの兄弟が祀られている霊廟であり、各地からの参詣者が絶えない。異教徒にも観光の門戸が開かれており、入口で待っていると観光目的の人には無料のガイドがついてくださるシステムであるらしい。

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青いタイルワークの美しいシャー・チェラーグ廟の入口

さらにもう一つの門をくぐると、いよいよシャーチェラーグ廟が姿を現した。

広々とした門を構え、白い幕が半分ほど降ろされた廟は外観からして風格がある。広場には参詣に訪れた多数の人が噴水前でたたずんでいる。

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シャー・チェラーグ廟の立派な構え

ガイドに導かれ、靴を脱いで廟内に上がる。廟の入口は男女で分けられている。廟内に入ると、細かい鏡のタイルワークによる光の反射がまばゆく、まるで小宇宙のような光の空間を作り出している。この光の洪水のような空間で、人々は祈りをささげたりくつろいだりと、思い思いの時間を過ごしている。自分のついたガイドは写真を撮ることにきわめて寛容で、廟の説明をしながら、「You can take the photo, no problem.」と繰り返していたが、そもそも入れるかどうかが運といううわさもあるし、入れても写真が撮れるかどうかもこれまた運といううわさもある。イン・シャー・アッラーというやつだろう。まばゆく華美な空間は不思議と安らぐ空気が流れており、写真を撮ったり装飾の美しさに息をのんだりしながら、ゆっくりと時間が過ぎていく。

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あまりの美しさに圧倒される
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同じ敷地内にはセイイェド・ミール・ムハンマドというシャー・チェラーグの弟の廟もある。こちらはシャー・チェラーグ廟よりも小ぶりでかわいらしい。

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左:敷地内にあるシャー・チェラーグの弟の廟 右:廟内

ガイドに一通りの案内を受けた後、ガイドたちの控室的なところに案内され、お茶が出された。彼らと話していると冊子を渡される。ハメネイ師の写真が掲載されており、なんだか内容も政治的だ。ガイドはその冊子の内容についていろいろ喋っていたが、正直あまり覚えていない。廟があまりにも美しすぎたがために、ふーん観光客に対する政治的な宣伝の意味合いもあるのねえ程度の印象しか残らなかった。

 

あまりの美しさに呆気にとられたまま、ホテルに戻る。すさまじい一日だった。見慣れぬ景色や音、人の姿や声そして言葉といった不慣れな情報の嵐に頭が混乱し、部屋に戻ると、我々はすでに外食に向かうエネルギーは残っていなかった。持ってきた保存食を夕食として食べて、そのまま寝てしまった。そんなこんなで、イラン旅行の初日はめまぐるしくあっという間に過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

イラン旅行(0)プロローグ

イランという国の名前を聞いたことがある読者は多いだろう。

最近ではウランの濃縮とか核合意とかイエメンとかシリアとかいうきな臭い文脈で語られることが多い。というか1979年のイラン革命以来、イランという国はほぼ常に、他国への介入の手痛い失敗を認めたくない西側諸国の、特に米国によって否定的なイメージとともに語られてきた。しかしながら、私という人間は性格がひねくれているので、否定的なイメージで語られれば語られるほどかえって興味がそそられるし、多数派に肯定されればされるほど懐疑的な眼差しを向ける癖がついてしまっている。

 

もっとも国際社会や世界情勢に向けるまなざしとしては、それは必ずしも間違った姿勢ではないようにも見える。他国を大国自身の都合が良いようにコントロールするために、自分と同じ社会システムを持つ国を肯定し、自分と異なった社会システムを否定するなどというのはもはや常套手段である。東西冷戦時代においては東側諸国否定のためのプロパガンダが跳梁跋扈していたし、現在でも続くキリスト教国によるイスラム教諸国への否定的な意見は西側諸国の一員とされている日本ではメディアによってほぼ無批判に垂れ流され、多くの人がそれを真に受けて、世界の真実であると思い込んでいる(確かに過激派によるテロが近年目立つような気はするが)。

そもそももこの世界には真実などどこにも存在しない(いや、正確に言うなら真実は人の数だけ存在するので、世界を解釈するにあたって一つの側面からしか物事を見れないのは不十分である)のだが、どういうわけか人々は真実という足元の大地に目を向けることはなく、何者かによって特定の意見に人々を誘導するために作られた通説を真実として信じ込んでしまう。その結果世界地図上でイランの位置が指せなかったり、イランとイラクの区別もつかないような人々が平気でイランは危ない国だなどと語ったりするわけである。

 賢者は歴史に学び愚か者は経験に学ぶというが、この世界では歴史は為政者に都合の良いように作り替えられることがしばしばあるわけだし、実際に目にし、話を聞き、経験することなしには真実の片鱗にすら到達できないことがたくさん存在するので、この諺は必ずしも正しくない。世界に流布する「イランは危ない国である」という通説が本当であるかどうかは、実際に現地に赴き、現地の人の話を聞き、現地の空気を感じることによって初めて検証するスタートラインに立てるものである。

 

長くなり過ぎてしまった前置きはさておき、まずはイランという国の歴史(といっても私は世界史にそれほど詳しいわけではないので、さわりだけ述べる。間違っていたらご指摘ください。むしろここは専門家にぜひ書いていただきたい)を簡単に紹介したい。

古代から文明の交差路であったイラン高原では、数多くの王朝が勃興を繰り返してきた。それに従い、イラン高原では豊かな文化が育まれ、人々の心に根付いてきたと思われる。世界史の授業で印象に残っているであろうジッグラトで知られるウル(古代メソポタミア)からエラム王国、大帝国を築いたアケメネス朝やゾロアスター教を国教としたサーサーン朝、サーサーン朝を倒してイラン高原イスラームを根付かせたウマイヤ朝アッバース朝、そしてその後のモンゴル勢力の襲来、サファヴィー朝によるペルシャ人国家の再興(これも眉唾らしいが…そもそもサファヴィー朝を興す原動力となったサファヴィー教団を興したサフィー・ウッディーンは今のイラン北部やアゼルバイジャンの周辺で活動したクルド系の人であったとも言われるらしい)と衰退、ナーディル・シャーによる一時的な再興、欧米列強やロシアの圧力を受けた苦難の時代を経る。このようなきわめて長くかつ多様な文明による征服・被征服を繰り返してきた重層的な歴史的経緯から、ペルシャ人の心にはイスラームの根底にゾロアスター教善悪二元論的な考え方があり、これがイランを中心に根付くシーア派の教義に通底すると指摘する書籍は多い。

近代ではパフラヴィー朝がきわめて欧米寄りの政策を行い、イスラム教勢力は弾圧にさらされた。ネットを調べればイラン人女性がスカートにヒール姿で街を闊歩する異様な姿の写真をすぐに見つけ出すことができる。欧米諸国は自分たちの利益のために政策に干渉を繰り返し、その結果怒りを蓄積させたイランの人々が起こしたのがイラン革命である。すなわち、これは冒頭の言葉にも結びつくが、イラン革命は欧米による他国への干渉の失敗の象徴であって、これを認めたくないがために欧米諸国がイラクを唆して勃発したのが8年に及ぶイラン・イラク戦争というわけである。

 

高校生の頃は世界史など全く興味がなく常に赤点スレスレで通過していたので当然勉強したことは記憶になく、ほぼまっさらな状態からの勉強になったが、このようにイランの歴史は文明の交差路だけあって世界史を集約したかのようで、きわめて興味深いものだった。特に興味を引かれたのがイラン革命の原因であった。イランの現体制は、多くの日本人がその「正しさ」や「権威」を信じて疑わない某大国が犯した間違いによって誕生したという事実(史実はいくらでも歪められるが、古今東西の大国たちの振る舞いを見ていると概ね真実であると思われる)はかなりの衝撃であった。

医学徒や優秀な知人たちは、無批判に、いや科学を極めるという自分の目標を達するためだと思うのだが、そこには世界の理があると信じて疑わないかのような勢いで某大国に吸いこまれていく。それはきっと、今の日本における常識に照らし合わせればきわめて正しいことだろうし、それ自体はまさに優秀さの象徴であり、素晴らしいことだ。しかし、某大国の犯した間違いはまさに彼らと同じようなエリートたちの手によって為されたものである。世界をある一つの見方でしか見られないようでは、科学的な真理に肉薄はできても、永遠に真実(世界は一つの論理に従ってconcentricに成り立っているのではなくmulticentricであり、個々の人間・集団・国ごとにそれぞれの論理があり、その全体像を把握するためには世界を演繹的ではなく面倒だがそれぞれを個別に解釈する必要がある。そうすることによっておぼろげながら世界の全体像が見えてくる。それを真実とここでは呼んでいる)には到達できない。そう考えるようになった。そして私は大学生活の終わりという一つの人生の節目に、この国を訪れてみようと決めたのだった。

当時海外旅行慣れしていなかった自分は一人で海外旅行に行くなど考えも及ばず、何人かの友人を誘ってみた。しかしながらイランという国のイメージから、手を挙げる人はほとんどいなかった。唯一興味を示した一人の友人とともに、イランに旅立った。2016年2月のことであった。

 

 

開設にあたって

高校の頃から知人の多くが開設していたブログというものを、いつか自分も書いてみたいと思いつつ、自分の飽きっぽさや文章の拙劣さを鑑みると到底他人の鑑賞に堪えるものが書けると思えず、ずっと手を付けられないままだった。

 

そんな自分をブログに駆り立てた大きな理由は、かつて大学の卒業旅行で訪れたイランという国があまりにも自分の心に絶大な影響を及ぼし、今なお及ぼし続けているからだ。他人と遭遇しないところに旅行したいというちょっとした出来心は、自分という人間の方向性を大きく変えてしまった感じがする。それは表面的には見えていなくても、自分の根幹における確実な変化である。

 

ひょっとしたら自分の人生の転換点であったかもしれない2016年2月の経験は、いまだに昨日のことのように思い出すことができる。それでも記憶というものは儚いものだから、少しずつ生々しさが薄れ、ノスタルジーによって味付けされ、次第に変質して元の形を失ってしまうかもしれない。自分がかつてどのような経験をし、何を感じ、何を得たのか。そういうのを文章にして残そうと思った。いや、残さなければと思った。

 

SNSというのは思ったことをヒョイと言葉にするのには優れているツールであるが、それはすぐに言葉の海に投げ込まれ、大波に飲み込まれて消えていく。何年もたったのちにかつての思考をたどるような使い方にはまったく向いていない。どうしたものかと考えた結果が、旧友が細々と更新しているブログだった。尤もブログだって所詮はオンラインサービスであるから時代の流れによる栄枯盛衰が著しいし、いつかサービス終了なんてことはいくらでもありうる。それこそかつて隆盛を極め、ご多分に漏れず私も夢中で記事を書いたはずのかつての某mi×iなど今や見る影もない。半永久的に自分の思考を遺すなんていうのは不可能なのかもしれないが、時間の経過に抗って自身の思考を遺したいというのはそれこそ先史時代から人類がやってきたことだし、人間に刻まれた抗いがたい性分なのかもしれない。

 

本ブログの開設目的はおもに下記のようになると考えている。

●2016年2月に旅行したイランの記録

●その他国内・海外の旅行記

●日常の所感

本ブログではオフィシャルな事項については一切触れない。ブログを書いているときくらい仕事をしていることはすべて忘却したいし、そもそもこのブログの開設目的に「社会から与えられた・受け入れざるを得ないofficialな立場への抵抗」という意味合いをわずかながら込めているつもりである。したがって日常の所感も仕事やそれに付随する事項とは一切の関係がなく、もし仕事と関連しているように推測されたとしても、それはofficialな立場とは何の関係もないことには留意されたい。

 

もっとも、このブログの更新自体、どれくらい続くかわからない。そもそも試験的な運用だし、先述の通り大変な飽き性であるうえ、文章は拙劣で読むに堪えないだろう。すでにこの文章自体が読むに堪えないのだが、どのように推敲すれば素晴らしい文章になるか見当もつかず途方に暮れているようなありさまである。

 

しかしまあ、日々の生活で思うところはたくさんあるわけなので、こういうのを少しずつ文章にして書いていこうと思う。苦手分野というのはある意味フロンティアであるから、文章の稚拙さも努力によって得意分野とすることができるかもしれないし。

 

そういうわけで、少しずつ更新していくつもりである。まずは本ブログの趣旨であり至上命題であるイラン旅行の記録から書いていこうと思う。

 

拙い文章ではあると思うが、これから書くであろう自分の文章が人の心に少しでも良い影響を与えられるなら、これほどうれしいことはない。

 

どうぞよろしくお願いいたします。