Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

雑談と教養

かつて初期研修医をしていたとき、とある非臨床系診療科を回ったことがある。

 

その診断室ではクラシック音楽が流れており、大変博識だった部長の先生は音楽から哲学、世界史に至るまで幅広い雑談に花を咲かせていた。前の月まで回っていた診療科では、人々は常に仕事の話ばかりしていて、ようやく雑談が始まったと思ったら下品な飲み会の話や低俗な噂話や耳を塞ぎたくなるような下ネタでうんざりしていたものだ。このような環境で精神的にやや参っていた私は、チャイコフスキーについて語ったり、古代オリエントについての歴史談義に耽ったり、春になり冬眠から出てきたカエルの写真を見ながら啓蟄を感じたりする空間で、草木がまともに育たないツンドラから豊かな緑の生い茂る温帯にたどり着いたような安心感を覚えた。短い期間だったが、毎日そこで仕事をし、学び、また時に雑談に加わるのが楽しく、研修だけでなく日々の生活も充実した。あの診断室には間違いなく、文化の香りがした。

 

道端に街路樹や植え込みがあるのは、人工的な景色に自然な優しさを与えるためだ。建築物に一見不要と思われる装飾を施すのは、小さな芸術が生活に彩りを与えるからだ。同じように、教養や雑学というのは、生産性だけ考えれば全く意味のないことなのかもしれないが、日々の会話にまさに植え込みに咲く花や建築物の装飾のような彩りを添える。文化的であるというのはそういうことである。もし路上から街路樹や植え込みを取り払えば我々はアスファルトとコンクリートだけを目にしながら道を歩くことになるし、建築物は人を匿うだけのただの箱になってしまうだろう。それは生活にとっては必要十分であっても、本当に人間的な生活と言えるだろうか。

 

忙しい職種ほど、職業以外のことを考えなくなるのはある意味当然の事かもしれない。本業以外のことについて考える時間や余裕がない。考える時間と気力を奪われた人は仕事のことしか考えることができなくなり、さらに仕事に没頭していくことになる。つまり思考するツールを奪われた人がますます隷属的立場に置かれるという悪循環に陥っているわけだが、一度その悪循環にはまると、もはや抜け出すことができず、自身が隷属的立場にあるということすら認識することができなくなってしまう。

 

確かに、若手のうちは仕事の技術を身につけることが最優先という考え方はあるだろう。自分の職業の社会における偏りや立ち位置について立ち止まって冷静に考察することには意味のないことという人や、そういうことを考えること自体反抗的で気に入らないという人にはこれまでいくらでも遭遇してきたし、副業や週休3日制という話が出てきた現代では多少マシにはなったかもしれないにせよ、確実にそういう人はこれからも存在するだろう。仕事を疎かにしては間違いなく生活は立ち行かないし、どんな時も仕事の話をするのは仕事に対して真摯に取り組んでいる証左であるかもしれない。それは自分に欠けている部分かもしれず、反省の余地はある。しかしながら、仕事と一見関係なさそうなマージナルな部分がなければ、それこそツンドラの大地に放逐されるのと同じようなもので、文化的には無に等しい。最低限度の生活というのは健康で文化的なものだ。文化がないというのは人として死んでいるのに近い。(それに、命令に忠実で目の前のことしか考えられない人間ばかりを重用し、考える人材を育てなかった結果が今の日本の斜陽を招いたのも多分事実だろうが…それはまた別の話。)

 

仕事が大切なのになぜそれ以外の話をする必要があるのか。そういう質問を投げかけられたことがある。当時そのような質問をする人の存在を想定していなかった自分は呆気に取られ、なんと答えて良いかがわからなかった。自分が教養ある人やそういう話が飛び交う空間を豊かだと感じる理由をよく考えていなかった部分もある。しかし、今ならきっとその質問にも答えることができるのではないかと思っている。あなたは道端に草木の生えない道を永遠に歩き続けたいと思いますか、という質問を、逆に投げかけてみたい。私はやっぱり、多種多様な花が道端に咲き乱れた道を歩きたいと思う。それこそ高山植物の咲き乱れる登山道のように。そしてそれは意味のあることなのだと伝えられれば。

 

イラン旅行(4)2016.2.22 砂漠都市ヤズド、イスファハーンへ

2016/2/22

AM ヤズド観光

13:00 ヤズド・バスターミナル発、バスでイスファハーンへ

19:00 イスファハーン

アッバースィーホテル泊

 

本日は午前中にヤズドの旧市街を観光し、午後はバスでイスファハーンに移動する、ややあわただしい日程である。ヤズドの旧市街はマレク・オットジャールから通りを挟んで向かい側に広がっており、バザールと連続している。まずは市内のどこからでも目立って見えるミナレットを備えた建築、アミール・チャグマーグのタキーイェに向かう。

f:id:le_muguet:20210419184936j:plain

アミール・チャグマーグのタキーイェ

タキーイェというのは寺院やバザールなどの複合施設で、ミナレットに挟まれた通路沿いにちょっとしたバザールがある。しかし朝早いからだろう、閉じている店が多い。広場の右には謎の木造構造物が鎮座しているが、これはナフルといって8代目イマーム、ホセインのシンボルであるらしい。大きな広場には噴水や植え込みがあったようだが、絶賛工事中で掘り返されていた。写真を撮り忘れてしまったが、この建築物の柱と柱の間に道路が敷かれており、なかなか不思議な感じがする。

いったんメインストリートを戻り、バザールを抜けて旧市街へ向かう。少し時間がたったのでそろそろ開店している店が増えてもいいはずだが、シャッターが下りている店が目立ち、やや寂れている感じがする。バザールを抜けると、左手にマスジェデ・ジャーメが見えた。このモスクのミナレットはイランでもっとも高いのだという。正面入り口のエイヴァーンは深みのある青緑のタイルで装飾されており、重厚感のある雰囲気だ。中に黒ずくめの女性がたくさんいて近づきがたい雰囲気だったので、のちほど再度観光することにして、旧市街の中心部へ向かう。

f:id:le_muguet:20210419185944j:plain

マスジェデ・ジャーメのミナレット

このあたりで再び女子小学生の集団に出会う。彼らは外国人観光客とわかるととても嬉しそうに手を振ってくれ、こちらも嬉しくなる。この旅行ではイスファハーンなどの観光地で多くの学生集団に出会ったが、決まって外国人観光客とわかると笑顔で手を振ってくれる。しかも作った笑顔ではなくとても嬉しそうなのである。彼らの笑顔を見るたびに、異質な人に自然に笑顔を向けられるような社会は素敵だなあと思うし、「見知らぬ人についていかないようにしなさい」と徹底的に教えられ、外国人を見れば眉を顰める(欧米人には尻尾を振るが)日本人とは対照的だなと思わされる。

f:id:le_muguet:20210419191425j:plain

嬉しそうに手を振る小学生たち

閑話休題

バザールを通り抜けると迷路のような旧市街に至る。広場からはレンガ造りのバードキールが多数認められ、独特の景観を呈している。これはカナート内の熱をここから逃がすための設備で、「天然の冷房」なのだという。砂漠で生きる人々の知恵が垣間見える。天井まで土で塗り固められた通路が迷路状に張り巡らされているところもある。これも日差しが強いこの地ならではのものだろう。町はとても閑静であるが生活の香りがしてなんだかほっとする。旧市街の一角では兄弟がサッカーを楽しんでいた。

f:id:le_muguet:20210419191937j:plain

地下の貯水池とバードキール

f:id:le_muguet:20210419192434j:plain

迷路のような旧市街。閑静で雰囲気が良い

f:id:le_muguet:20210419192533j:plain

広場でサッカーを楽しむ兄弟

f:id:le_muguet:20210419193233j:plain

旧市街の一角にて

途中にアレキサンダー大王が建てたというアレキサンダーの牢獄という観光スポットがあるが、正直なかなか綺麗でとても紀元前の建築には見えない。

f:id:le_muguet:20210419192315j:plain

アレキサンダーの牢獄なる建物

別の道を通ってマスジェデ・ジャーメをめざす。先ほどのような黒づくめの人(おそらく礼拝に来ていたのだろう)の集団はすでに去っていた。先ほど写真で紹介したエイヴァーンはメッカの方向を向いておらず、入ると左手にドームがある。すなわち動線は正門から90度折れ曲がっているという独特の構造である。ドームに至る回廊は天井が高く開放的かつ威厳があり、ドームの外観も内装もほかのモスクではあまり見ないような独特の装飾が施されていてとても美しい。

f:id:le_muguet:20210419194008j:plain

マスジェデ・ジャーメ

f:id:le_muguet:20210419194203j:plain

ドームへの入口。装飾が美しい

f:id:le_muguet:20210419194426j:plain

天井の装飾も独特

バーザールを見て回ってはみたものの、シーラーズのバーザールと比較すると規模も質もやや劣る。特にミーナ・カーリーや絨毯などのお土産品はほとんど売っておらず、生活感が強い。というかそれ以前に先述の通り閉店している店が多く少し物寂しい雰囲気だ。買い物を楽しみたいならイスファハーンかシーラーズがよいかもしれない。両替はAmin exchangeという両替所で行ったが、100ドル340万リヤルと、そこそこのレートだった。なお、道を歩いている途中で、女二人組に「チーニー(中国人)」と後ろ指をさされた。この国でも残念ながらお隣の大国の印象はあまりよくないらしい。

午後はホテルに預けていた荷物を回収してバスターミナルへ移動し、いよいよ世界史にも名をとどろかせる観光地、イスファハーンへの移動になる。今回のバス会社は、Hamasafarというらしい。旅行会社から渡されたPDFチケットを印刷したものを持って乗り込むが、乗客の一人の女性が、近くのオフィスに行ってチケットに替えてこいという。ヤズドに向かうバスではそんな手続きなど必要なかったので、何かの間違いかなと思いスルーしたところ、バスのスタッフがチケットを確認しに来た。PDFを印刷したチケットを見せたところしばらく居なくなり、別のチケットを手にもって戻ってきた。どうやら先ほどの女性の言ったことは本当だったらしい。申し訳ないことをした。まあ、結果良ければすべてよし、ということで。

f:id:le_muguet:20210419200003j:plain

ヤズドのバスターミナル

バスからの車窓は相変わらず単調であったのであまりよく覚えていないが、一度検問所を通過する際に「Police check.」といってバスを降ろされた。なお、イランの高速バスは軽食がついているのでとても快適である。

18時を過ぎたころにようやくイスファハーンに到着する。すでに日が没し薄暗い。バスターミナルでは定番のタクシー客引きがたむろしていたが、英語を話せるタクシードライバーが「どこまで行くか?」という。「アッバースィー・ホテル」と言うと、50ドルなどというとんでもない値段を吹っかけてきた。一応高級ホテルということになっているので、足元を見てきたわけである。大体こういう観光地で英語を流暢に話す奴はロクなことがない。顔もまるでキツネのようで、狡猾で性格が悪そうだ。申し訳ないが君のタクシーには乗れない。吹っかけずに正直な稼業をするタクシードライバーを応援したいんでね。近くの別のタクシードライバーにお願いし、アッバースィー・ホテルの名を出さずにホテル近くの広場、Meydan-e-Emam-Hussainまで行ってくれるようお願いする。16万リヤルであった。さっきのキツネ男はざっと10倍以上の値段を吹っかけてきたわけである。あまり吹っかけるとその国に対する観光客の印象が悪くなって自分たちの首を絞めるのでやめたほうがいいと思う。笑。

イスファハーンは夜だというのに町はネオンが輝き、ごった返している。イランというのは砂漠で昼間は暑いから人はあまり外に出ず、日が没するとまるで土から春の虫が這い出てくるかのように家から出てくるわけである。道はやや雑然としているが、もう夜であるにもかかわらず女性や子供が普通に歩いており、スリのような変な人がいる雰囲気ではない。そもそもヨーロッパの都会であれば外出がはばかられるような時間帯である。イランという国のイメージと内情の違いにはつくづく驚かされる。

f:id:le_muguet:20210419201028j:plain

イスファハーン市街の夜の様子。人で混雑している。

青い大きなドームを持つモスクを過ぎると、ようやくアッバースィー・ホテルに到着した。イスファハーンの中でも有名な5つ星ホテルである。ぼったくりタクシードライバーのカモにされるわけである。受付のプライドの高そうな女性にバウチャーを渡すと、流暢な英語で「おたくの旅行会社はダブルベッドの部屋を予約したようですよ」と苦笑しており、ツインの部屋に替えてもらった。ホテルには大きな中庭があり、外観、内装ともにとても美しい。我々の部屋は増築された新しい部分にあり、あまりその重厚な雰囲気を味わえなかったのが残念だ。ホテルには内装の美しい(一部改装中だったが)レストランがついており、夕食はそこでいただくことにした。

f:id:le_muguet:20210419201815j:plain

ホテルの中庭

f:id:le_muguet:20210419201926j:plain

レストラン


ヤズドは派手さはない都市ではあるものの随所にイランの長い歴史の痕跡、特にゾロアスター教の遺産が色濃く残っていた。その町並みには砂漠を生き抜く知恵が随所にあふれていて、ローカルで味わいがあった。明日はいよいよ「世界の半分」を存分に体験することになるわけだ。

 

イラン旅行(3)2016.2.21 拝火教の軌跡

2016/2/21

7:00 シーラーズ・バスターミナル

7:30 高速バスにてシーラーズ発

15:00ごろ ヤズド・バスターミナル着

ヤズド市内観光(ゾロアスター教寺院、鳥葬の塔)

マレク・オットジャールホテル泊

 

本日はヤズドへ移動の日だ。Breakfast boxをあらかじめ頼んでおき、早朝にホテルを出る。タクシーでバスターミナルまでは11万リヤルだったが、10万リヤル札しか持っていないことを伝えるとまけてくれた。ありがたし。

自分たちの乗るバスはバスターミナルの15番に停車していた。Miihannur-Aaliyaaというバス会社のものらしい。ヤズドに来ていたというオーストラリアからの旅行者が今まで訪れた自分の旅行先について語っていた。親の遺産で食いつないでおり仕事はしていないという。イランは北朝鮮と並びもっとも面白い旅行先だったという。北朝鮮に旅行するとガイドがぴったりとついて親切に案内してくれるのだという。なるほどね。私も親の遺産で食いつないで好き放題旅行したいわ。と思ったのは内緒。

f:id:le_muguet:20210418145355j:plain

朝のシーラーズのバスターミナル

バスに乗り込む。バスでも相変わらずローカルな音楽が流れている。この国では乗り物で音楽を流すのは普通のことなのだろうか。そういえば沖縄で高速バスに乗った時、日本では珍しく音楽を流していたことを思い出した。昨日ペルセポリスに行く際に通った道をさらに進んでいき、深く刻まれた谷を越えると、次第に景色が砂漠化してくる。まばらに枯草の生えた茫洋とした地平をただただ進んでいく。途中でトイレ休憩をはさむが、そこで珍しい5000リヤルのコインを手に入れた。

f:id:le_muguet:20210418145456j:plain

トイレ休憩。周りは完全な砂漠で、こんなところに放置されたら多分死ぬだろう。

砂漠地帯から少しずつ標高を上げ、頂上に雪をいただいた山が見えてくる。植物が次第に増えてきて峠を越えたと思うと市街地に下っていく。本日の目的地、ヤズドだ。なおこの峠、手元の高度計を見ると2000mを優に超えていた。もっともイラン高原上の都市は多くが標高1000m以上のところにあるので、それほどすごいことではないのかもしれない。

f:id:le_muguet:20210418150019j:plain

山を越えるとヤズド市街に出る。奥には残雪を抱いた山も

ヤズドのバスターミナルではタクシードライバーたちがバスの扉のところにスタンバっていて、おそらく白タクの運転手に半ば強引に勧誘された。ホテルへ向かう途中、タクシー運転手は「マレク・オットジャールホテルはきわめてイマイチのホテルだ、○○ホテルのほうが絶対にいい、そっちにしなさい」というが、残念ながらすでに手配済みである。若干眉唾な雰囲気のオッサンだし、とりあえず聞いたふりをして右から左に流した。ホテルまで14万リヤル程度で、調子のいいオッサンのわりにあんまりぼったくってこないなあなどと思った。しかしそのドライバーはトランクから荷物を取り出す際に、友人のザックのサイドポケットがトランクのどこかの突起に引っかかっていたのを力づくで取り出したので、友人のザックの一部が破れてしまった。なお新品だったそうである。

マレク・オットジャールホテルはキャラバンサライ(隊商宿)を改装したお洒落な雰囲気のホテルで、全館にかぐわしいフレグランスが焚かれている。こういうお洒落な装飾は日本だと妙齢の女性が「カワイイ~」などと声を上げてまるで女子力の象徴であるかのように女性雑誌に取り上げられるが、本来こういうのは現地の人々が生活に彩を添えるための遊び心で、元来性別というのは特に意識されていないはずである。荷物を置いて少し休んだ後、タクシーを呼んで拝火教神殿と鳥葬の塔に向かう。ヤズドのメインストリートは正面に大きなミナレットを備えた建築が見え、大変印象的だ。

f:id:le_muguet:20210418151159j:plain

メインストリートの奥にそびえるタキーイェが印象的

拝火教神殿では入口で5万リヤルを払う。小ぶりな建物であるが、ゾロアスター教の守護霊プラヴァシが描かれている。

f:id:le_muguet:20210418152922j:plain

ゾロアスター教寺院(アーテシュキャデ)。小ぶりな建物だ

内部に入ると1500年前から燃え続けているという火が展示されているほか、ゾロアスター教の教祖ザラスシュトラの絵が飾られている。ニーチェの有名な著作、「ツァラトゥストラはかく語りき」のツァラトゥストラである。あの著作ももはや有名になりすぎて一種の流行になってしまった感じがある。人口に膾炙することと正しく理解されることは残念ながら往々にしてトレードオフの関係にある感があり、流行になるということは当然多数の人にとってわかりやすいように棘が抜かれ、内容が歪められて消費物の一つに成り下がってしまったことを意味する。それは本当にニーチェの望んだことだろうか。

さて、ゾロアスター教の軌跡については自分の知識の整理も兼ねて一応まとめておく。ゾロアスター教はアケメネス朝ペルシア時代にはイランの国教であったといわれており、ペルセポリスでも王の墓に守護霊プラヴァシ(フラワシ)が刻まれていることを述べた。その後アレキサンダー大王による一時的な征服、セレウコス朝アルサケス朝といったヘレニズム文化の影響を受けた王朝の隆盛と衰退ののちに、サーサーン朝において再度国教としての扱いを受ける。サーサーン朝はイランやトルクメニスタンアフガニスタンからアナトリアに至る大帝国を築き上げるが、東ローマ帝国との相次ぐ抗争の果てに国力が減弱。7世紀に興ったイスラーム勢力との闘いに次々と破れ、651年にあっけなく滅亡してしまう。その後のイスラーム王朝による支配によりペルシアの地にはイスラームが浸透していき、ゾロアスター教は次第に衰退していくことになったわけである。

なお現在のイランでは、ヤズド市の1割にあたる3万人程度の信者がいるそうだが、ゾロアスター教は信徒を親に持たない人の入信を受け入れていないらしい。燃え続ける火もなんだかさびしげで、縁起でもないかもしれないが風前の灯火という言葉を思い出してしまう。この火はガラス越しにしか眺めることができないので、あまりきれいに写真を撮れなかった。

f:id:le_muguet:20210418153024j:plain

燃え続ける火

f:id:le_muguet:20210418153855j:plain

ゾロアスター教の祖、ザラスシュトラ

そのままタクシーで鳥葬の塔に向かう。鳥葬の塔は町のはずれの小高い山の上にある。塀に囲まれた区画の入口で5万リヤルを払い、少しゴツゴツして歩きづらい山の上にある塔をめざす。敷地内にはバードキールというカナートの換気口がある。

f:id:le_muguet:20210418151832j:plain

鳥葬の塔とバードキール


火を神聖なものとみなすゾロアスター教のもとでは火葬は行われず、遺体が鳥により食べられることで土に還す鳥葬という独特の葬儀が行われた。この葬儀を行う場所が鳥葬の塔というわけである。このエリアには2つの鳥葬の塔があるが、より手前にある立派な塔をめざすことにする。頂上からは雑然としているが様式美のある旧市街と、人工的なアパートの立ち並ぶ新市街が見て取れるヤズドの市街が一望のもとに見渡せる。鳥葬の際に遺体が安置されたであろうへこみがあるが、当然人骨などのおどろおどろしい気配はなかった。友人はこの塔で寝ころんだ写真を撮っていた。

f:id:le_muguet:20210418152311j:plain

鳥葬の塔から市街地を見下ろす

鳥葬の塔から降りたころにはすでに日はだいぶ傾いていた。タクシーでホテルに戻る。ホテルの部屋の鍵は古びた閂だが、カギをこじ開けて侵入するような人などそうはいないのだろう。白塗りの壁に囲まれた狭い部屋だが、ところどころに遊び心がある。このホテルは中庭が雰囲気のよいレストランになっており、ひさしぶりにくつろいでまともな夕食をいただくことができた。感無量である。バスターミナルで拾ったタクシーの運転手が言っていたよりよほどまっとうなホテルである。なおバスタブはなくシャワーであったが、それは砂漠都市という都市の事情を考えれば、仕方のないことだろう。

f:id:le_muguet:20210418154930j:plain

ホテルの中庭はレストランになっており、雰囲気がよい

f:id:le_muguet:20210418155250j:plain

久しぶりにまともな夕食にありつけた。ナン、サフランライス、ヤズドの煮込み料理

 

イラン旅行(2)2016.2.20 シーラーズ、ペルセポリス

2/20

~10:00 シーラーズ観光

10:00~13:00 ペルセポリス、ナグシェ・ロスタム観光

13:00~ シーラーズ観光

ザンディーエ・ホテル泊

 

本日は一日中シーラーズ観光である。

イラン旅行の中では一つの目玉といってよいだろう、アケメネス朝ペルシアの遺構ペルセポリスやナグシェ・ロスタムを観光し、その後シーラーズの観光地をめぐる。ペルセポリスに向かう前に、「ステンドグラスのモスク」として有名なマスジェデ・ナスィーロル・モルクに向かう。この時間帯に訪問するのは、モスク内に差し込む太陽光によりもっともステンドグラスが美しく見えるのが朝の時間帯だという情報を得ていたが故。このモスク、ネット上では「マスジェデ・ナスィーロル・モスク」と紹介されているものが多いが、あれは間違いである。これを訳すと「ナスィーロル・モスクモスク」になってしまう。ネット上の情報にコピペが多いことの証左だろうか。情報があふれる世の中であるが、正しい情報にアクセスするのにはかつてよりますます困難になり、個々人のリテラシーがより要求される時代になったと思う。

 

ホテルを出発し、ひなびた街並みを歩いてモスクに向かう。朝のシーラーズの町は、現地の人々が路上をほうきで掃除する姿が多く認められ、この国の清潔に対する意識の高さをうかがわせる。フランスなど道路上に犬の糞が落ちていることがしばしばあり、それを踏んで気分の悪い思いをしたことがあったが、そもそもこの国では犬を飼うという習慣がないらしい。当然路上に動物の糞など落ちていない。お洒落で洗練されたイメージがあるフランスだが、その足元は思った以上に不潔であり、いろいろ考えさせられる(フランス語の教材にはglisser sur une merde de chien(「犬の糞でスベる」)などという表現が載っており、そういうことが日常茶飯事であることが推測される。なおこの知識はイラン訪問時にはなかった笑)。などと考えているとモスクに到着した。モスク入口のムカルナス(鍾乳石造り)が大変美しい。入場料は10万リヤル。

f:id:le_muguet:20210417180856j:plain

マスジェデ・ナスィーロル・モルクのムカルナス。大変美しい

モスクに入ると、典型的なペルシャ様式の池があり、奥には上に人の手形のような装飾のついた小ぶりなミナレットが一対ある。この人の手は「ファーティマの手」であり、魔除けの意味があるらしい。そしてその左右にステンドグラスの窓がある礼拝堂が並んでいる。

f:id:le_muguet:20210417181748j:plain

池のある中庭と「ファーティマの手」のあるミナレット

ステンドグラスの窓がある礼拝堂には絨毯が敷かれており、そこには昨日のシャー・チェラーグ廟とは異なった陶酔の空間が広がっている。

f:id:le_muguet:20210417181857j:plain

鮮やかな色のあふれる空間に呆気にとられつつ写真を撮影し、その後ホテルに一度戻る。その際に日本人ツアーとおぼしきなんだかビクビクしたアジア人集団を見かけた。日本人は中国人や韓国人と似た東洋人風の顔貌をしているが、外国では大体少し怯え気味ですぐにそれとわかる。日本人は一言でいえば内弁慶なんだと思う(まあ、それが必ずしも悪いわけではないだろうけど)。イランを旅行していた十数日間で、日本人に遭遇したのはこの時だけであった。

f:id:le_muguet:20210417182316j:plain

シーラーズのくすんだ町並み

ホテルのロビーで、ペルセポリス+ナグシェ・ロスタムに行くためにタクシーをチャーターしたい旨を伝えると、どうやら値段が決まっているらしい。たしか30ドル程度だったと記憶している。しばらく待っていると入口にタクシーが到着。てっぺんハゲで口髭を生やしたオッサンであるが味のある雰囲気を醸し出しており、なんだか優しそうだ。

タクシーでホテルを出てペルセポリスへ向かう。シーラーズ市街の道路は混雑しているが、日本の道路のように車線を守って走行する車はほとんどおらず、まるでゴーカートのようだ。レンタカーなど借りた暁には一瞬で事故に巻き込まれるに違いない。次第に人家が少なくなっていき、半砂漠地帯の高速道路を猛スピードで走行していく。そして現地のポピュラー音楽と思しき、聞いたこともない音楽を流している。基本的に短音階なのだが、乾いた大地の景色と大変にマッチしており、文化というのはその土地の気候や風土を多分に反映するものだと思わされる。なお、このタクシー運転手が流していた曲を大変気に入り、日本に帰ってから血眼で調べてみたところどうやらその曲に行き着いたので、下に記す。興味がある方はYouTubeなどでペルシアの空気を味わっていただければと思う。

♪Mahasti, Bezar man khodam basham

♪Mahasti, Nazi Nazi

♪Mahasti, Barge gol

途中マルヴダシュトという小さな町を抜け、広い松の林を抜けるとそこがペルセポリスである。タクシーの運転手のオッサンは我々一行をチケット売り場に案内してくれ、その後ここで待っているから行ってきなさいとジェスチャーで示す。

f:id:le_muguet:20210417183944j:plain

我々をペルセポリスの入口へ案内するタクシー運転手のおっさん

ペルセポリスパルミラ、ペトラは中東の3Pと呼ばれ、観光客に大変人気な観光地である。ペルセポリスは、アケメネス朝の宗教的な首都として築かれ、ノウルーズなどの儀式が行われたという。しかしながら、紀元前331年、アレキサンダー大王の征服により陥落。宮殿は廃墟と化したという。日本の歴史を学ぶと法隆寺建立の607年ですら太古の昔のように感じるが、世界史を学ぶと日本の歴史もそれほど深くないのだなと思ったりもする。

 

ペルセポリスの入口は段の低く奥行きの大きな階段になっており、上っていくと羽の生えた人面獣の彫られた門が姿を現した。これはクセルクセス門というそうだ。顔面はおそらく偶像崇拝を嫌うムスリムによってであろう、削り取られているが、門の裏手の像は顔が残っており、なんとなく元の血の気の通わない平面的な顔貌を推察できる。門の壁には平面的に並んだ多くの人の姿が刻まれているが、上の段の人は顔が削られているのに対し下の段は彫刻がきれいに残っており、おそらく砂か何かに埋もれていたのではと考えられる。

f:id:le_muguet:20210417185455j:plain

クセルクセス門の全貌

ホマーという双頭の鷲を横目に見ながら順路を進むと、女子中学校の社会科見学と思われる女性集団がいくつもおり、先生とおぼしき人がおそらく遺跡についての解説をしている。外国人観光客と気づくと手を振ってくる生徒がたくさん。とてもフレンドリーでほほえましい。このような集団をこの旅行では多く見かけることになる。

f:id:le_muguet:20210417210203j:plain

百柱の間を見学する地元の学生集団

隣接する高台にはアタクセルクセス2世の墓があり、そこからペルセポリスの遺跡を一望することができる。乾いた風と日差しが実にさわやかだ。

f:id:le_muguet:20210417210823j:plain

アタクセルクセス2世の墓からペルセポリス全景

ペルセポリスにはイランの企業や団体で現在使われているシンボルのもとになっている彫像や彫刻が大変多く認められる。例えばIranAirのマークはは先述のホマーをマークにしたものだし、ヤズドのゾロアスター教神殿に刻まれた守護霊プラヴァシのマークは、アタクセルクセス2世の墓にすでに彫刻として刻まれている。シーア派イスラームが国教となった今なお、ペルセポリスはある意味イラン人の精神的支柱の一側面を担っているわけである。
自分がイラン旅行に行くきっかけを作った野町和嘉氏の写真集「PERSIA」で大変印象的であった東階段の彫刻や、比較的保存状態の良い冬の宮殿など、実に見ていて飽きない。北アフリカやレバントにも古代遺跡はあるが、パルミラをはじめ多くは古代ローマの遺産である。非ヨーロッパ系文明の古代遺跡をこれほどの規模で拝めるところはなかなかないのではないだろうか。

f:id:le_muguet:20210417211303j:plain

保存状態の良い「冬の宮殿」

f:id:le_muguet:20210417212133j:plain

やはり東階段に刻まれたこの彫刻を載せないわけにもいくまい。

この彫刻は、世界各国からの使者が刻まれているそうであり、ガイドブックを見れば詳しく書いてあるが、残念ながら予習不足によりどれがどこの国の使者なのかは同定できなかった。しかしながら当時オリエント世界で絶大な影響を誇っていたアケメネス朝の強大さの片鱗を見るには十分だった。

先ほどのタクシーに戻る。次の目的地はナグシェ・ロスタムである。

ナグシェ・ロスタムはアケメネス朝の歴代の王が眠る墓が巨大な岩壁に彫られたものであり、その近傍にはゾロアスター教関連の建築物と思われる謎の建物が認められる。こちらもやはり規模が大きく圧倒される。しかしながら次第に日差しの強さと乾燥した空気でのどが渇いてきた。写真をササっと撮影し、タクシーに戻る。

f:id:le_muguet:20210417213316j:plain

ナグシェ・ロスタム

(なお、最近知ったことだが、このロスタムというのはペルシャの民族的叙事詩であるシャー・ナーメにも登場するペルシャの英雄の名前だそうである。なおウズベキスタンサマルカンドにはアフラシャブの丘というのがあるが、アフロースィヤーブ(=アフラシャブ)というのはトゥーラーン(今のトルキスタン地方と比定されている)の英雄の名らしい。イラン文明圏に対する理解をさらに深めるには、このシャー・ナーメを紐解くことが必須と思われる。)

タクシーで1時間ほどで、シーラーズの市街に戻る。大体13時ごろにホテルに戻った。タクシー運転手にありがとうと言っていったんホテルに戻る。少し休憩し、午後は昼食&シーラーズ市街の観光スポットをめぐることにする。その前にホテルの近所の銀行で両替をしたが、100ドル=350万リヤルというかなり良いレートだった。

まずはマスジェデ・ヴァキールというモスクを訪れる。こちらは朝訪れたマスジェデ・ナスィーロル・モルクを一回り大きくしたようなモスクで、装飾は美しいが、やや無個性な感じがする。

昼食はバザール内にあるおという洒落なお店、サラーイェ・メフルを訪れることにした。バザールを本格的に歩くのは初めてだが、まるで迷路のように入り組んでおり、どこに何があるのかがよくわからず同じところをぐるぐると回ってしまう。少しわき道にそれると四角い池のある小広場に出たりする。緻密に積み上げられたレンガにより生み出される様式美が美しく、まるでおとぎ話の世界に入り込んだかのようだ。窓の装飾なども凝っており、これほどの文化的遺産の中で日常生活を送っているイランの人々が羨ましくもある。バザールには装飾品や有名なおみやげ物のミーナ・カーリー、香辛料や食べ物を売る店が区域ごとに集まっており、バザール内には香辛料の独特の香りが充満している。歴史が教科書上の記述ではなく、現在に連続していることを意識させられる空間。個人的には拳より一回りも二回りも大きいザクロが売っているのが印象的だった。

f:id:le_muguet:20210417215310j:plain

美しいバーザールの空間

レストランはバザールの少し奥まった一角にあり、入口がわかりにくい。しかし内部は絵やステンドグラスがたくさんあり、とてもお洒落な雰囲気だ。ここで食べたチェロウキャバーブについていた焼きトマトは、その後食べたすべての焼きトマトの中で一番おいしかった。

f:id:le_muguet:20210417214803j:plain

お洒落な雰囲気のレストラン。味もGOOD

その後は市街地の西のはずれにあるエラム庭園に観光に行くことにする。タクシーをひろうほどの距離でもないと考え、市街地を歩いていくが、やはり町並みは古びているものの清潔という印象だ。ヨーロッパ諸国にありがちな柄の悪い青年がたむろしているスラムのようなところもあまり見受けられない。1時間ほど歩くと、エラム庭園についた。内部のバラ庭園は絶賛整備中で重機が轟音を挙げて土を掘り返しており、四季折々の花が咲き乱れるというゴレスターンとは程遠い印象であった。このエラム庭園もまた、世界遺産に登録されているらしい。独特の形をした屋根が印象的だ。

f:id:le_muguet:20210417220300j:plain

エラム庭園の宮殿は、ガージャール朝時代のもの

エラム庭園からは徒歩でホテルに帰る。今日もまた外に出る気力がないので部屋食である。ホテルのルームサービスで食事を持ってきてもらおうとも検討したが、結局高価だったのでやめた記憶がある。友人は近くの商店で買ったビスケットを食べていたが、私は持ってきた保存食を消費した。明日はヤズドへ移動することになる。どんな都市なのか楽しみだ。

 

 

 

 

イラン旅行(1)2016.2.18-19 イスラム圏の衝撃

2/19

QR813便 0:15 羽田→06:05ドーハ

IR682便 11:45ドーハ→13:30シーラーズ

ザンディーエ・ホテル泊

 

さて、待ちに待った2月18日になった。翌日0:15発の飛行機のために、2時間前の10時に羽田空港に到着。カタール航空カウンターの近傍の椅子に座って時間をつぶすことにする。

実は姉の結婚式がこの前の週にある予定だったのだがどういうわけか変更になり、イランへの旅にちょうど被ってしまった。このために十数日の日程を割いてくれた友人に対して日程変更を申し出るわけにもいかなかったため、残念ながら姉の結婚式には欠席することになってしまった。少し楽しみだっただけに申し訳ない。

 

カタール航空は中東の航空会社だからもっと広々とした座席だろうと推測していたが残念ながらエコノミークラスはそれほどシートピッチが広いほうではない。正直あまり快適ではなかった。ドーハのハマド国際空港に到着し、飛行機を出ると湿度が高く蒸し暑い。建物は全体的に新しく無機質でオイルマネーの気配が感じられ、初めて経験する中東の空気に少し戸惑う。歩いている人々の中にはアラブ風のゴトラやサウブを身に着けた男性や全身を黒いアバーヤで包んだ女性がちらほらいて、なんだかなれない世界に足を踏み入れた感じがしはじめた。

f:id:le_muguet:20210417004141j:plain

ハマド国際空港は全体的に新しく無機質な感じだ

シーラーズに向かう便への乗り継ぎは5時間あまりあるが、別の航空会社に乗り継ぎになるため、イラン航空の航空券発券などの手続きをしなければならない。窓口に聞いてみると、肌の浅黒くスキンヘッドでやる気のなさそうなオッサンが、2時間後に窓口を開けるという。窓口近くで2時間ほど時間をつぶしたものの、空港wi-fiの速度も遅く特にやることもないので、朝の空港のけだるい雰囲気もあいまって待ち時間は異様に長く感じられた。

f:id:le_muguet:20210417005048j:plain

掲示板の表示にIR682と見える。

手続きをすませたあとにようやくイラン航空の出発ゲートに向かう。

イラン航空の出発ゲートはすでに異様な雰囲気を呈していた。頭にターバンを巻いたもはやどこの出身か推測不可能な人、日本人がまず着なさそうな謎のスーツ風の格好をした浅黒いオッサン、全身を黒いアバーヤ(イランではチャドルという)で覆った女性。おそらくすべての人がイランの人もしくは宗教的な目的でイランを訪れる人だろう。無防備さをウリにするチャラチャラして浮足立った女子旅連中はおろか、マイナー国への旅行では定番のはずのキザでナルシスティックなバックパッカーの姿すらない。肌が浅黒く彫刻のように深い彫りの刻まれた人々の集団の中で、明らかに自分たちだけが浮いている。ウインナーコーヒーの上のクリームのような孤独感と不安に乾いた笑いがこみあげ、ニヤニヤが止まらない。自分はどうやらヤバい場所に来てしまったようだ。

f:id:le_muguet:20210417010126j:plain

出発ゲートは異様な雰囲気を呈していた

 

シーラーズ行きの飛行機に乗り込む。イラン航空の機体は経済制裁により新しい航空機が購入できないことが影響し、かなり古い。ペルシア湾を超えるとイラン高原にそびえる乾いた山々が畝をなしている様子が見て取れ、その畝をひとつ超えるごとに少しずつ近づく異国への旅に緊張が高まる。途中で赤茶けた水をたたえた湖が見え、飛行機内の異様な雰囲気にさらなる彩りを添える。

f:id:le_muguet:20210417010940j:plain

赤茶けた水をたたえた湖

シーラーズ空港は大変に古びた空港で、規模も小さく、雰囲気は哀愁を帯びていた。入国審査では髭を生やした不愛想な入国審査官がボン!とパスポートに判を押してあっという間に通過する。地球の歩き方には入国審査でいろいろ質問されると聞いていたので、そのユルさに少しほっとした。入国審査を終えると手荷物を回収するベルトコンベアーのあたりに異様な恰好をした人が多く集まっている。イランという国は海外から帰ってきた家族を総出で迎えるのだろうか、先ほど乗ってきた飛行機内の人数に比べて明らかに多い。たむろしているイラン人の一人に「Welcome to Iran!」などと声をかけられて戸惑う。現地人ばかりのこの空港では、東洋人の観光客はあからさまに浮いて見えるらしい。

そういうわけで、イランという国に我々二人はついに放り出されてしまった。

残念ながら旅行会社には出迎えを頼まなかったので、ホテルまではタクシーを呼ばなければならないのだが、現地通貨を一切持っていない。外国人観光客などほとんどいないのだろう、両替窓口すらない。どうしたものか。空港の職員に聞いてみたところ、空港の売店で両替をしてくれるという。なんとありがたい話だ。しかしながらありがたい話というのには悪い話がつきものである。それはまあ、これからじっくり語るとしよう。

売店で友人が両替を頼むことにした。売店の奥のほうから眼鏡をかけたお姉さんが出てくる。100ドル=250万リヤルで両替をしてくれるのだという。当時の相場(当時のレートでは100ドル=300万リヤル)を考えるとレートはやや悪いが、ここは両替をしてくれる親切心に素直に感謝することにした。

ありがたく店を去っていこうとすると、

「うちの売店で少し休憩していかない?」

売店のお姉さんが言う。まあ両替もしてもらったことだし、ありがたく売店で食べ物でも頼むことにしよう。メニューを渡される。この時点で値段が書いていないことに気付くべきであったが、残念ながら当時は注文の時点で値段を確認するという習慣がなかった。

頼んだジュースとケーキが出てくる。ジュースはまあいいとして、チョコレートケーキはまるでそこらへんのスポンジを食らっているかのようにパサパサで、味も薄くとても食べられたものではない。一体何なんだ。このあたりで我々は何やらおかしいことに気付き始める。しかしながらそれはすでにわれわれがぼったくりのカモにされた後であった。かなしいかな、我々はすでに罠にはまってしまったのだ。

会計をお願いすると、なんと2人分で80ドルだという。ジュースとパッサパサのケーキで一人4000円である。何をふざけたことを言っているんだこのお姉さんは。まともそうな雰囲気を醸し出していながら、中身はまったくまともではなかった。あまりにも高すぎると文句を言ったが、値段を聞かずに注文した我々の分が悪い。大変気分を悪くしたまま、そのへんのタクシーに乗る。残念ながら何かを注文する前には必ず値段を聞かねばならないという海外旅行の鉄則を身に着けるための授業料だと思うことにした。(なおその後数日にわたって私はぼったくられたことに対する文句をブツブツと友人に垂れ流していた。すぐに頭を切り替えられないのは自分の悪い癖である。本当に申し訳ない)

 

タクシーからはきれいに区画され、しかしながら古びたシーラーズの街並みが見える。たまに出現するタマネギ状のモスクのドームがまるでおもちゃのようで現実感がない。あまりにも慣れ親しんだものと違う街並みの雰囲気に頭がついていかず、これが人の住む場所であると認識できない。しかしながら長い経済制裁の影響だろうか、色あせた街並みはどこか哀愁を感じさせ、野町和嘉氏の写真集「PERSIA」の一節を思い出した。

 

イスラーム革命以来、アメリカとは国交を断絶したままで、長期にわたる経済制裁を受けていることもあって、経済的にはやや低迷が続いているが、反面、悪しきグローバリズムの洗礼は受けておらず、ややくすんだ街路には、ペルシア文化のしっとりとした情感が流れている」

 

そうこうしているうちに、ザンディーエ・ホテルに到着した。とても新しいホテルのようで、内装も綺麗だ。チェックインを済ませた後、エレベーターに乗りこむが、エレベーターは動き出すと音楽が流れる仕様になっている。しかも聞いたことがないような重厚な音階をもつ独特のメロディーで圧倒される。

まだ現地時間は14時ごろ。少し散歩する時間がある。町に出て観光地の1つくらいに行く程度の余裕はあるだろう。相談のうえ、鏡のモザイクで有名なシャー・チェラーグ廟に向かうことにした。シャー・チェラーグ廟は、十二イマーム派の第8代イマームの兄弟が祀られている霊廟であり、各地からの参詣者が絶えない。異教徒にも観光の門戸が開かれており、入口で待っていると観光目的の人には無料のガイドがついてくださるシステムであるらしい。

f:id:le_muguet:20210417021121j:plain

青いタイルワークの美しいシャー・チェラーグ廟の入口

さらにもう一つの門をくぐると、いよいよシャーチェラーグ廟が姿を現した。

広々とした門を構え、白い幕が半分ほど降ろされた廟は外観からして風格がある。広場には参詣に訪れた多数の人が噴水前でたたずんでいる。

f:id:le_muguet:20210417021418j:plain

シャー・チェラーグ廟の立派な構え

ガイドに導かれ、靴を脱いで廟内に上がる。廟の入口は男女で分けられている。廟内に入ると、細かい鏡のタイルワークによる光の反射がまばゆく、まるで小宇宙のような光の空間を作り出している。この光の洪水のような空間で、人々は祈りをささげたりくつろいだりと、思い思いの時間を過ごしている。自分のついたガイドは写真を撮ることにきわめて寛容で、廟の説明をしながら、「You can take the photo, no problem.」と繰り返していたが、そもそも入れるかどうかが運といううわさもあるし、入れても写真が撮れるかどうかもこれまた運といううわさもある。イン・シャー・アッラーというやつだろう。まばゆく華美な空間は不思議と安らぐ空気が流れており、写真を撮ったり装飾の美しさに息をのんだりしながら、ゆっくりと時間が過ぎていく。

f:id:le_muguet:20210417022052j:plain

あまりの美しさに圧倒される
f:id:le_muguet:20210417022930j:plain
f:id:le_muguet:20210417023135j:plain


同じ敷地内にはセイイェド・ミール・ムハンマドというシャー・チェラーグの弟の廟もある。こちらはシャー・チェラーグ廟よりも小ぶりでかわいらしい。

f:id:le_muguet:20210428225131j:plain
f:id:le_muguet:20210428225106j:plain
左:敷地内にあるシャー・チェラーグの弟の廟 右:廟内

ガイドに一通りの案内を受けた後、ガイドたちの控室的なところに案内され、お茶が出された。彼らと話していると冊子を渡される。ハメネイ師の写真が掲載されており、なんだか内容も政治的だ。ガイドはその冊子の内容についていろいろ喋っていたが、正直あまり覚えていない。廟があまりにも美しすぎたがために、ふーん観光客に対する政治的な宣伝の意味合いもあるのねえ程度の印象しか残らなかった。

 

あまりの美しさに呆気にとられたまま、ホテルに戻る。すさまじい一日だった。見慣れぬ景色や音、人の姿や声そして言葉といった不慣れな情報の嵐に頭が混乱し、部屋に戻ると、我々はすでに外食に向かうエネルギーは残っていなかった。持ってきた保存食を夕食として食べて、そのまま寝てしまった。そんなこんなで、イラン旅行の初日はめまぐるしくあっという間に過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

イラン旅行(0)プロローグ

イランという国の名前を聞いたことがある読者は多いだろう。

最近ではウランの濃縮とか核合意とかイエメンとかシリアとかいうきな臭い文脈で語られることが多い。というか1979年のイラン革命以来、イランという国はほぼ常に、他国への介入の手痛い失敗を認めたくない西側諸国の、特に米国によって否定的なイメージとともに語られてきた。しかしながら、私という人間は性格がひねくれているので、否定的なイメージで語られれば語られるほどかえって興味がそそられるし、多数派に肯定されればされるほど懐疑的な眼差しを向ける癖がついてしまっている。

 

もっとも国際社会や世界情勢に向けるまなざしとしては、それは必ずしも間違った姿勢ではないようにも見える。他国を大国自身の都合が良いようにコントロールするために、自分と同じ社会システムを持つ国を肯定し、自分と異なった社会システムを否定するなどというのはもはや常套手段である。東西冷戦時代においては東側諸国否定のためのプロパガンダが跳梁跋扈していたし、現在でも続くキリスト教国によるイスラム教諸国への否定的な意見は西側諸国の一員とされている日本ではメディアによってほぼ無批判に垂れ流され、多くの人がそれを真に受けて、世界の真実であると思い込んでいる(確かに過激派によるテロが近年目立つような気はするが)。

そもそももこの世界には真実などどこにも存在しない(いや、正確に言うなら真実は人の数だけ存在するので、世界を解釈するにあたって一つの側面からしか物事を見れないのは不十分である)のだが、どういうわけか人々は真実という足元の大地に目を向けることはなく、何者かによって特定の意見に人々を誘導するために作られた通説を真実として信じ込んでしまう。その結果世界地図上でイランの位置が指せなかったり、イランとイラクの区別もつかないような人々が平気でイランは危ない国だなどと語ったりするわけである。

 賢者は歴史に学び愚か者は経験に学ぶというが、この世界では歴史は為政者に都合の良いように作り替えられることがしばしばあるわけだし、実際に目にし、話を聞き、経験することなしには真実の片鱗にすら到達できないことがたくさん存在するので、この諺は必ずしも正しくない。世界に流布する「イランは危ない国である」という通説が本当であるかどうかは、実際に現地に赴き、現地の人の話を聞き、現地の空気を感じることによって初めて検証するスタートラインに立てるものである。

 

長くなり過ぎてしまった前置きはさておき、まずはイランという国の歴史(といっても私は世界史にそれほど詳しいわけではないので、さわりだけ述べる。間違っていたらご指摘ください。むしろここは専門家にぜひ書いていただきたい)を簡単に紹介したい。

古代から文明の交差路であったイラン高原では、数多くの王朝が勃興を繰り返してきた。それに従い、イラン高原では豊かな文化が育まれ、人々の心に根付いてきたと思われる。世界史の授業で印象に残っているであろうジッグラトで知られるウル(古代メソポタミア)からエラム王国、大帝国を築いたアケメネス朝やゾロアスター教を国教としたサーサーン朝、サーサーン朝を倒してイラン高原イスラームを根付かせたウマイヤ朝アッバース朝、そしてその後のモンゴル勢力の襲来、サファヴィー朝によるペルシャ人国家の再興(これも眉唾らしいが…そもそもサファヴィー朝を興す原動力となったサファヴィー教団を興したサフィー・ウッディーンは今のイラン北部やアゼルバイジャンの周辺で活動したクルド系の人であったとも言われるらしい)と衰退、ナーディル・シャーによる一時的な再興、欧米列強やロシアの圧力を受けた苦難の時代を経る。このようなきわめて長くかつ多様な文明による征服・被征服を繰り返してきた重層的な歴史的経緯から、ペルシャ人の心にはイスラームの根底にゾロアスター教善悪二元論的な考え方があり、これがイランを中心に根付くシーア派の教義に通底すると指摘する書籍は多い。

近代ではパフラヴィー朝がきわめて欧米寄りの政策を行い、イスラム教勢力は弾圧にさらされた。ネットを調べればイラン人女性がスカートにヒール姿で街を闊歩する異様な姿の写真をすぐに見つけ出すことができる。欧米諸国は自分たちの利益のために政策に干渉を繰り返し、その結果怒りを蓄積させたイランの人々が起こしたのがイラン革命である。すなわち、これは冒頭の言葉にも結びつくが、イラン革命は欧米による他国への干渉の失敗の象徴であって、これを認めたくないがために欧米諸国がイラクを唆して勃発したのが8年に及ぶイラン・イラク戦争というわけである。

 

高校生の頃は世界史など全く興味がなく常に赤点スレスレで通過していたので当然勉強したことは記憶になく、ほぼまっさらな状態からの勉強になったが、このようにイランの歴史は文明の交差路だけあって世界史を集約したかのようで、きわめて興味深いものだった。特に興味を引かれたのがイラン革命の原因であった。イランの現体制は、多くの日本人がその「正しさ」や「権威」を信じて疑わない某大国が犯した間違いによって誕生したという事実(史実はいくらでも歪められるが、古今東西の大国たちの振る舞いを見ていると概ね真実であると思われる)はかなりの衝撃であった。

医学徒や優秀な知人たちは、無批判に、いや科学を極めるという自分の目標を達するためだと思うのだが、そこには世界の理があると信じて疑わないかのような勢いで某大国に吸いこまれていく。それはきっと、今の日本における常識に照らし合わせればきわめて正しいことだろうし、それ自体はまさに優秀さの象徴であり、素晴らしいことだ。しかし、某大国の犯した間違いはまさに彼らと同じようなエリートたちの手によって為されたものである。世界をある一つの見方でしか見られないようでは、科学的な真理に肉薄はできても、永遠に真実(世界は一つの論理に従ってconcentricに成り立っているのではなくmulticentricであり、個々の人間・集団・国ごとにそれぞれの論理があり、その全体像を把握するためには世界を演繹的ではなく面倒だがそれぞれを個別に解釈する必要がある。そうすることによっておぼろげながら世界の全体像が見えてくる。それを真実とここでは呼んでいる)には到達できない。そう考えるようになった。そして私は大学生活の終わりという一つの人生の節目に、この国を訪れてみようと決めたのだった。

当時海外旅行慣れしていなかった自分は一人で海外旅行に行くなど考えも及ばず、何人かの友人を誘ってみた。しかしながらイランという国のイメージから、手を挙げる人はほとんどいなかった。唯一興味を示した一人の友人とともに、イランに旅立った。2016年2月のことであった。

 

 

開設にあたって

高校の頃から知人の多くが開設していたブログというものを、いつか自分も書いてみたいと思いつつ、自分の飽きっぽさや文章の拙劣さを鑑みると到底他人の鑑賞に堪えるものが書けると思えず、ずっと手を付けられないままだった。

 

そんな自分をブログに駆り立てた大きな理由は、かつて大学の卒業旅行で訪れたイランという国があまりにも自分の心に絶大な影響を及ぼし、今なお及ぼし続けているからだ。他人と遭遇しないところに旅行したいというちょっとした出来心は、自分という人間の方向性を大きく変えてしまった感じがする。それは表面的には見えていなくても、自分の根幹における確実な変化である。

 

ひょっとしたら自分の人生の転換点であったかもしれない2016年2月の経験は、いまだに昨日のことのように思い出すことができる。それでも記憶というものは儚いものだから、少しずつ生々しさが薄れ、ノスタルジーによって味付けされ、次第に変質して元の形を失ってしまうかもしれない。自分がかつてどのような経験をし、何を感じ、何を得たのか。そういうのを文章にして残そうと思った。いや、残さなければと思った。

 

SNSというのは思ったことをヒョイと言葉にするのには優れているツールであるが、それはすぐに言葉の海に投げ込まれ、大波に飲み込まれて消えていく。何年もたったのちにかつての思考をたどるような使い方にはまったく向いていない。どうしたものかと考えた結果が、旧友が細々と更新しているブログだった。尤もブログだって所詮はオンラインサービスであるから時代の流れによる栄枯盛衰が著しいし、いつかサービス終了なんてことはいくらでもありうる。それこそかつて隆盛を極め、ご多分に漏れず私も夢中で記事を書いたはずのかつての某mi×iなど今や見る影もない。半永久的に自分の思考を遺すなんていうのは不可能なのかもしれないが、時間の経過に抗って自身の思考を遺したいというのはそれこそ先史時代から人類がやってきたことだし、人間に刻まれた抗いがたい性分なのかもしれない。

 

本ブログの開設目的はおもに下記のようになると考えている。

●2016年2月に旅行したイランの記録

●その他国内・海外の旅行記

●日常の所感

本ブログではオフィシャルな事項については一切触れない。ブログを書いているときくらい仕事をしていることはすべて忘却したいし、そもそもこのブログの開設目的に「社会から与えられた・受け入れざるを得ないofficialな立場への抵抗」という意味合いをわずかながら込めているつもりである。したがって日常の所感も仕事やそれに付随する事項とは一切の関係がなく、もし仕事と関連しているように推測されたとしても、それはofficialな立場とは何の関係もないことには留意されたい。

 

もっとも、このブログの更新自体、どれくらい続くかわからない。そもそも試験的な運用だし、先述の通り大変な飽き性であるうえ、文章は拙劣で読むに堪えないだろう。すでにこの文章自体が読むに堪えないのだが、どのように推敲すれば素晴らしい文章になるか見当もつかず途方に暮れているようなありさまである。

 

しかしまあ、日々の生活で思うところはたくさんあるわけなので、こういうのを少しずつ文章にして書いていこうと思う。苦手分野というのはある意味フロンティアであるから、文章の稚拙さも努力によって得意分野とすることができるかもしれないし。

 

そういうわけで、少しずつ更新していくつもりである。まずは本ブログの趣旨であり至上命題であるイラン旅行の記録から書いていこうと思う。

 

拙い文章ではあると思うが、これから書くであろう自分の文章が人の心に少しでも良い影響を与えられるなら、これほどうれしいことはない。

 

どうぞよろしくお願いいたします。