Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

ウズベキスタン旅行(0) プロローグ

中央アジアの国、ウズベキスタンは、最近でこそ(といってもコロナ禍の前のことではあるが)インスタ映え(笑)的な旅行で女性に人気が出てきたものの、観光地としてはやはりマイナーな部類に入る国である。

過去にイランを旅行した際、ウズベキスタンもよいかもしれないと思っていたが、サマルカンドの有名なマドラサのエイヴァーンに描かれたモンゴル人風の顔がなんだかシュールで、イスラーム美術としては明らかに異端で洗練に欠けるという印象を受けた。その上、イランの建築美術のすばらしさ、人々のやさしさ、町を流れる音楽、そういった情感があまりにも忘れがたいものであったため、イラン旅行を超える体験はできないのではないかと思い、海外旅行への意欲が虚脱していた。しかしそれから3年も経つとかつての記憶も薄れ、イランとはまた微妙に異なった手作り感のある趣の青いタイルで装飾されたウズベキスタンの建築群もまた、魅力的に見えてくるようになるものである。

海外旅行というのは海外の生活にお邪魔させていただき、少しだけその雰囲気を体験させてもらう、そういったものであると思っている。限られた時間でより深い体験をするには、事前にその国の文化や歴史を紐解くことが肝要だと思っている。もちろんただ美しいとか、○○ヵ国に旅行したとか、インスタ映えとか、そういうこともモチベーションとしては大切なのかもしれないが、やはりそれだけでは30近くになった人間のやることとしては奥行きに欠ける。

かつては世界史になどみじんも興味がなかったが、地球の歩き方をはじめとした海外旅行のガイドブックを開くと、有名な遺跡にはたいてい由緒がある。ピラミッドはクフ王により建てられたものだとか、ペルセポリスアレキサンダー大王に略奪されたアケメネス朝の遺跡だとか、そういうかんじのものである。単にモニュメントの歴史的由来を知るということも重要だし、歴史というのは大変示唆に富むもので、それがまた興味を引く。歴史を学ぶことで、歴史上の人物の栄枯盛衰を通して、人間のはかなくも愛しい営為を追体験することになる。古典を紐解けば、自分が何か悩みに突き当たったり、解決できそうもない問題に頭を抱えたりするときに、歴史上の人物が時を超えて語り掛けてくるような感じがして、なんだか心強くなる。そういう血の通ったあたたかさが、文系の学問にはある。点数化して人の実力を測るにはあまり向いていないかもしれないし、私も受験科目としては苦手だったし興味がなかったが、近年は文学とか歴史とかそういったものの価値を再認識しているし、こういうものが人間というものの存在に奥行きを与えていると思う。

さていつものことだが話が逸れた。ウズベキスタンというのは1990年代になって旧ソ連の一員であったウズベクソビエト社会主義共和国から独立した国であるが、この地の歴史は大変長い。

ウズベキスタンの位置する地域の通称である、マーワラーアンナフル(ما وراء النهر:アラビア語で川の向こうの意)は古くからイラン文化圏の辺縁としてイランの影響を強く受けつつ、地元のテュルク系の人々の文化がまじりあって歴史が紡がれてきた地域である。シャー・ナーメではテュルク系民族トゥーラーンとして書かれ、トゥーラーンの英雄アフロースィヤーブの名前はサマルカンドの「アフラシャブの丘」の地名に見ることができる。

ウマイヤ朝により征服されたのちは、この地にイスラームが根付いていくことになる。アッバース朝の地方政権を由来とするサーマーン朝の中心都市として発展したブハラでは、この地域の最古のイスラーム建築のひとつ、イスマーイール・サーマーニー廟をみることができる。カラハン朝、ホラズム・シャー朝の支配ののち、この地はチンギス・ハン率いるモンゴルによって著しく破壊され荒廃したという。

モンゴルの征服後、チャガタイ・ハン国の支配を経て、この地域に突如登場したのがティムールという男である。ティムールはテュルク系言語で鉄を意味するらしい。文字通り鉄の男ティムールは戦争ではほぼ全戦全勝に近い戦績を誇る圧倒的な英雄であったという。征服した地域で捉えた職人をサマルカンドに連れ帰り、そこで大規模な建築事業を行った。サマルカンドでは素晴らしい建築文化が花開き、グーリー・アミール廟をはじめとしたティムール朝時代の大規模な建造物がみられる。ティムール朝はそれほど長くは続かず、ウズベク族により征服されてしまう(ので、ティムールがウズベキスタンの英雄というのは本来?であるらしい。)

その後テュルク系王朝、もしくはイラン系王朝の支配が続いたこの地であるが、次第に強大化したロシアにより保護領化され滅亡の運命をたどることになる。現在ウズベキスタンの市街地に残るロシア風の町並みから、その強い影響を見ることができるが、ロシア人は地元の人々の住む街を破壊せず、その辺縁に新しい市街を作ることを選んだため、現在でもブハラやサマルカンドで情感あふれる古い町並みを堪能することができる。

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ブハラの町並み


 

 

実は、このウズベキスタン旅行は自分にとって初めての一人海外旅行であった。それ以外にも2019年という年はよくも悪くも自分にとって試練の年であり、それは今なお自分の人生に先の見えない影を落としている。何年も経過したのちに振り返れば解決済みか、どうでも良くなる類のものなのかもしれないが、こういうのは目に見える形で記録しておくというのが大切なように思われるので、敢えてこのような形で言及しておきたい。

そのころ聴いていたクウェートの歌姫(といってもおばさんだが)Nawal(نوال)の"قضى عمري(私の時を過ごした≒時が過ぎた の意)"を聞くと、当時の記憶や自分の考えていたこと、さまざまな感情が色鮮やかに思い出される。興味を持たれた方はネットに出ている歌詞をGoogle翻訳にでも投入してほしい。すべてが明らかになるだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=_ry_WDr_yTI

この言葉がしかるべき人に届くことを祈る。

 

 

تغيير

再び表題をアラビア語にしてみた。

تغيير(taghiir)

これはغيّر(変える)の動名詞形で、変化という意味。

同じく変化という単語にはتغيُّرというものもあるが、こちらはتغيّر(変わる)という意味の動名詞なので、どちらかというと自動詞的な意味が強い。表題のتغييرはより主体的なchangeというわけだ。

 

まあそんなことはどうでも良い。

 

何度も繰り返し書いているから読者の皆様はきっとうんざりされていることとは思うが、小中高とあまりいい目を見て生きてこなかったので、かつての自分から抜け出したいという意思は昔からあった。小心者で実行力もなくコミュ力も低く、人をまとめる能力がない。器用貧乏で意思が弱く飽き性で何事も続かない。協調性や社会的貢献に対する興味に至っては皆無である(まあ後者の二つはもうDNAレベルで刻み込まれていて、実際社会貢献やボランティア活動などお世辞にも全く興味がないので別にいいのだが…社会貢献大好き系の方々からは到底理解されないだろう。)

不本意な形ではあったが大学受験という大きな関門をくぐり抜けたあと、私には何も残っていなかった。あの頃の自分は荒れ果てた平原のようだった。当時の様子を知人から聞くに、周囲の人間からは明らかに浮いて呆然としていたらしい。そのころの自分の写真を見てみると確かに笑顔がなく暗い顔をしていてウケる。

 

その頃の自分は、ただ何も考えずに山ばかり登っていた。某大学某学部では体育会系の部活に入り、体育会系の上位下達の精神を涵養することが当然の流れとなっていたが、残念ながら私の気質には合うはずもなく、当然の如く去る羽目になった。特に個々人に対して恨みがあったわけではない。部活よりもやりたいことがたくさんあったし、部活動という因循姑息なシステム、それを変えることよりも従順であることを要求する空気に息苦しさを感じた。(その部活を紹介してくれた友人にはちょっと申し訳ないくらい辛辣な言い方になってしまっているが…すみません)。その頃の自分にとってはそれもまた大きな決断だったと思う。下界では冷たい人々に愛想笑いをして生きていかなければならないが、山に行けば美しい森林や高山植物、動物がいつも出迎えてくれる。悪天候や災害はどんな人に対しても平等に訪れ、人を地位や好みで差別することもない。厳しい自然を好む人々は心が優しくおおらかで、一人で山に乗り込み、山で出会った人々と話すことが私の救いだった。

 

大学4年生の頃、北アルプスを1週間で縦走するという計画を実行に移していた私は、とある人に出会うことになる。よく引き締まった壮年の男性。なんと自分と同じ大学出身であった。大変気前の良い彼はなんと北アルプスの登山口から私を東京まで車で送迎してくださった。当時の自分は受験の失敗から回復しきっておらず、「自分の人生はどん底ですよ」ということを自嘲気味に話したように思う。その時の彼の言葉は、「今がどん底ならこれから良くなるしかないと思えばいい」だったはずだ。暗闇でうずくまっていた自分の心に、その瞬間圧倒的な光明が差したことをよく覚えている。人のせいにはしたくないが、私の家族は某学部に子供を入れるという選択が正しかったことを主張するばかりで、モウロ将軍に対するムスカの言葉ではないが、心底うんざりさせられていた(親の名誉のためにも、その主張は必ずしも間違ってはいないこと、そして身近な人のアドバイスほど案外心に響きにくいことは断っておきたいが)ので、彼の発想は自分にとって革命以外のなにものでもなかったのだ。そうだ。今の自分は戦争後の焼け野原。これから自分の思い描く未来を作っていくんだ。何もないのだから、何でも作れる。そう思った。彼と別れ際に交わした握手、その手の大きさがよく記憶に残っている。この人には感謝しきれないくらい、今でも感謝している。

 

ようやく光が差した大地でふと考えたのは、「自分は何がしたかったのか」だった。周囲に流され、周りのご機嫌を取るためにしたこの選択が、自己肯定感を満たすことは1mmもなかった。今自分がここにいるのは親が自分に残した教育という遺産のお陰である。そこに自分の意思・オリジナリティはない。その遺産を自分の考えた方法で活用し運用していくことによって初めて自分自身の人生ということができるはずだ。言うならば今の自分は親の遺産を食い潰して生きているだけの状態。このままではいけない。変化しなくてはならない。自分のやりたいこと。自分のすべきことは何か。このままレールの上を走っていていいわけがないと思った。何かオリジナリティのあることをやりたい。そしてかつての失敗の損失分を埋めて、より優れた人間となりたいと思った。そこでふと思ったのが語学だった。今まで〇〇語をやりたいという大学生特有の希望的観測で物事を語りながらも、それを実行に移すことは決してなかった。私には努力の才能が欠如していたからだ。しかし自分を変化させるためには、そういう根本的な悪癖を完膚なきまでに破壊し、粉砕し、上書きしなければならない。正直語学というのは昔からあまり得意ではなかったが、毎日何らかの形で継続することに力を注いだ。今やフランス語なら会話の練習が圧倒的に不足しているがまあできると言っても差し支えない程度にはできるし、アラビア語の方もお陰様で苦労しつつもニュースが読める程度にはなっている。ロシア語の文法も格変化に悩まされながらも一通りは理解した。自分がここまでできるとは、思っていなかった。振り返ると普通に某学部に入ったら順当に進むであろう道を走っている人とはかなり違うポジションに自分がいるような気がして、まるで自転車で登ってきた峠を振り返るような、少しばかりの達成感がある。かつての荒野にも少しは植物が生い茂っているのかもしれない。

しかし、まだ語学を身につけたと言っても、所詮はまだ趣味レベルの域を抜け出せていないかもしれない。語学は手段であって、大事なのはそれを用いて何を成すか、である。自分はまだその段階には達していない。〇〇語は〇〇などと無教養な人間に自慢げに説いている自称教養人がいるが、そんなものは何の意味もない。自分がその言語が扱えないことに対する負け惜しみのようなものだ。何を成すべきか。何ができるか。そもそも本当にできるのか。それは私にもわからない。自身を過小評価しすぎなのかもしれないが、かつて過大評価しすぎて必要な努力を怠り、痛い失敗をした経験から、そう自分の能力を高く見積もることはできそうもない。しかし、フランス語に至ってはもう6年ほど続けている計算になるので、そろそろ何かを成すべき時に来ているのではないか。何をなすべきか、そしてそのために必要なパズルのピースが揃っているかを、今は検討すべき時な気がする。

 

きっと昔の自分から何一つ変わってないことはたくさんあるだろう。最初に挙げた悪癖のうち半分くらいはおそらく治っていない。そもそもこの文章に漂う過去志向自体、昔から何一つ変わっていないような気もする。旧知の人に久しぶりにあったときに「相変わらずだ」と言われるのは正直辛い。しかし自分の歩みが自分自身の人生を変化させる可能性に、今は賭けてみたいと思っている。

 

C64 インプレッション

全く今までの記事とは方向性が違うが、趣味で自転車をやっていて、このたびようやく新車が納入されたので、そのインプレッションを簡単にしていきたい。

自転車に関するブログというのは往々にして自慢になってしまいがちなので避けたいと思っていたが、インターネット上ではあまり自分とおなじ機材を使っている人が見当たらないので、これから同じ機材を使う人は参考にしていただければと思う。ただし脚力も体力も大したことないので、あまり参考にならないかもしれない。

◆主な機材編成

フレーム:Colnago C64 Disc 520S

コンポーネントCampagnolo Super Record 12S disc 機械式 50-34T, 11-32T

                             ディスクブレーキローター径 160mm-160mm

ホイール:Fulcrum  Racing Zero Carbon CMPTZN disc

ハンドル:Deda Alanera DCR

サドル:Most LYNX carbon

タイヤ:Schwalbe Pro One tubeless easy 25C

 

◆インプレッション

・フレーム

巷で硬い硬いと騒がれていたが、意外にしなりを感じる。C59よりは柔らかく、一点に固定されたクランクを必死にクルクル回す感じであったC59と比べると、ペダリングはかなりしやすい。しかしながらラグフレームなだけあって、フレームの隅の硬さはしっかり残っている印象。後述のホイールの特性もあって高速巡航がいまいちだが、他者のインプレッションを見ていると高速域での爆発力があるらしいので、これは完全にホイールのせいだろう。ボーラウルトラなどに履き替えれば全く違った印象になるはずだ。登り坂では絶妙なしなりで進行方向に吸い込まれるような快適なペダリングができ、どんな峠でも越えられそうな気がしてくる。フォークの安定性が際立っていて、高速コーナーでも全くビビりが出ない。この点ではピナレロのドグマよりも優れているように思う。

 

コンポーネント

今回のバイクはあらゆる峠を苦なく登れるようにとのことでフロントはコンパクト、リアはより大きなギアを採用した。このバイクで特筆すべきはやはりこののコンポだろう。リアの変速性能は元から文句ないが、今までシマノの105並みと揶揄されていたフロント変速は、確実にデュラエースに比肩するまでになっている。今までのカンパのフロント変速のようにチェーンリングにガリガリとチェーンを押し付けてようやく変速するような感覚は皆無で、シフトボタンを一旦奥まで押し込めば何もせず勝手に変速するというのは今までのカンパユーザーとしてはちょっと感動的である。私の言うことが信じられないなら近所の自転車屋でカンパ12sで組まれた自転車を触ってみると良い。

もう一つ特筆すべきはブレーキフィールで、シマノのディスクブレーキを触った時はその制動力の立ち上がりの急さとモッサリしたフィーリングに首を捻ったが、カンパのディスクブレーキは握った力に対してリニアに制動力が発揮され、しかも以前のカンパと比較して制動力の絶対値も高い。これは本当に素晴らしい。このブレーキフィールのためにカンパを選んだ価値があったというものである。ただし部品調達の関係でディスクブレーキのローターは前後とも160mmになっているので、後ろを140mmにしたら少し違うかもしれない。現在のカンパのディスクブレーキはローター径に応じてエルゴパワーの部分まで別仕様になっているらしく、種類が増えすぎて大変だそう。そして最近この12sには公式にはアナウンスされていないが微妙なマイナーチェンジがあって、ミネラルオイルの種類変更やリーチアジャスト機構の省略などが行われているらしい。圧倒的にマイナーチェンジ前のバージョンが推奨される。

カンパニョーロは以前から一部の玄人に好んで使用されているが、12sのシフトフィール、ブレーキフィールは本当に素晴らしい。そして変速操作そのものが好きなので機械式にこだわったが、これもやっぱり正解であった。シフトフィールは素晴らしく、それでいて余計な力はいらないので、電動変速の必要性に首を捻ってしまうほどだ。デジタル時計がどれほど発達しても機械式時計の魅力が決してなくなることがないのと同じように、どれほど電動変速が人口に膾炙しても機械式変速の魅力は衰えることがない。

 

・ホイール

登り坂でのペダリングの軽さと初速の軽さが際立っている代わりに、時速30キロを超えるあたりから加速が鈍化する。フレームのポテンシャル的にはここからが本番のはずなのでホイールのせいでは?と思って調べてみると、Twitter上でもレーゼロカーボンDBに対しては同じ意見を見つけることが出来るので、やはりそうなのだろう。まあ、この自転車は上り坂の軽さを追い求めた組み合わせだし、そもそも私はあまり高速巡航しないので自分には関係ないかもしれないが、高速巡航性を求めるならあまりこのホイールは得策ではないかもしれない。おそらくフロントに極太スポークが21本もあるせいだろう。コーナーリングでは特に違和感はない。

 

・ハンドル

昨年ツール優勝者のポガチャルも使っていたという例のハンドル、デダのアラネラ(ケーブル内装に対応したバージョン、DCR)である。下ハンの剛性はやや低く、思いっきり押すと結構たわむ。自分が持っているGDRの245という剛性最強の絶版カーボンハンドルと比べると剛性の低さが目立つが、まあ所詮は一体型ハンドル、カッコの方が大事ということだろう。個人的には重量があと30グラムくらい増加してもいいからもっと剛性が高い方がいいかも。

 

・サドル

コルナゴの自転車に敢えてピナレロのサドルをつけてみるという蛮行であるが、このサドル、結構座り心地がいい。特に後ろ乗りの時はまるでソファに座っているような座り心地で結構好きなんだよな。

 

・タイヤ

過去のサイスポのインプレでも好評であったシュワルベのプロワン。25Cであるが、レーゼロカーボンに装着すると太さは大体26mm程度になる。これは素晴らしいタイヤ。5〜6気圧くらいで走った印象だが、振動の減衰は早く、グリップ力は高い。転がり抵抗も軽くコロコロと走れる。文句があるとすればリムとの密着性がやや低く、大きな段差を超えるとリムとタイヤの間からシーラントが飛び出すことがあること、チューブレスにしてはやや空気の抜けが早いこと。そしてもう一つのネックは価格だろう。

اختيار

前回の記事更新からだいぶ経ってしまった。

 

コロナ禍という状況、かつ日本政府のワクチン周りの動きが異様に遅いせいで身動きが取れず、趣味であった海外旅行も封じられ、あまり生き甲斐という生き甲斐が見出せずにいる。

 

思えばかつての自分というのは自分の世界で完結していたので、あまり他者というものを必要としていなかった。おそらく大部分は自分のせいなのだろうが、小学校、中学校、高校とあまり常に行動を共にする友人やよき理解者はいなかった。思春期特有の自意識過剰さもあるのだろう、同級生たちはどこか私を斜めな目で見ているように思えてならなかった。しかし人間というのは孤独に次第に適応していくもので、なるべく他者とは関わらずに、人と関わらずに楽しみや生きがいを得る方法を身につけていったように思う。他者との交流の窓口を閉ざし、自分の心を閉ざす。そして安泰だが閉鎖的な心の空間が出来上がる。そうやって私という人間はできていった。それにとどめを刺したのは大学受験だっただろうか。あまり振り返りたくもないが、2度の人生の失敗は人生に対する絶望感を与え、その後数年間、やる気が出なかった。絶望の味というのはそれを味わったものにしかわからない、屈辱的な味がする。周りの人々は恋愛だ学生生活だなどと楽しんでいる中、私は絶海の孤島のように取り残されていた。そんな自分を、生々しい人との関わりの中で生きていく、本来の人間的な生き方をしていく世界に再び引き込んだのは、やっぱりイランへの旅行という選択だった。大袈裟ではなく間違いなく人生の転機であったように思う。あの国に行くことを選択していなければ、おそらく自分の人生は違うものになっていた。

 

さて、表題のاختيارとはアラビア語で選択の意である。

アラビア語にしたのは単なる気分で、それ以上の意味はない。

選択。

 

思えば自分の選択というのは常に迷いに満ちていた。正しいと思った選択や、熟慮の上決断したと思えることでも、数ヶ月や数年のうちに自分の間違いが露呈して、やるせなくなるということは幾度となく経験された。そのたびに自分が選ばなかった方の選択は美しく、輝いているように思われる。他人の判断に従った結果の失敗であれば他人のせいにしたくなるし、他人の判断に逆らって決断し失敗した暁には、「それ見たことか」という周囲の声が聞こえてくるような感じがして居た堪れなくなる。「決断力」のある人はいったいどのようにして生きているのか。迷いはないのか。たまにそういう人と話をすることがあるが、彼らは常に自信に満ちているように見える。そういう彼らは私にとってうらやましくもあるが、どうやったら彼らのようになれるのか?全く想像はつかない。

 

思えば人生の中で一番決定的だった選択は進路、職業選択だろうか。

大学受験から10年以上経った今思うのは、本当に自分の選択が正しかったのかよくわからないということ。資格があれば人生が安泰だとか、そういう周囲の言説に騙され、受験業界の巧言に騙されて某学部に入ったけれども、本当にそれが正しかったのかはわからない。もしかしたらもっと良い選択肢があったのかもしれない。しかし今考えてもそれはよくわからない。なりたいものとかやりたいことというのはすぐに移り変わっていくものだし、自分のやりたいことに対して才能に恵まれている保証もない。それだったら結局一応資格を持っておくというのも間違ってはいないのかもしれない。結局自分の中に確固たる信念を持っていない人間は、周囲の言説に振り回されて生きるしかないのだ。数学が得意でありながら裁判官になりたいと言って文系に進んだ同期や、圧倒的な優秀さで今や准教授の地位についているという噂の同期を横目に、いったい自分は何をしているんだろうと思わずにはいられない。しかし他に何をやるというのか?従順なサラリーマン?意識の高い起業家?朝から晩まで読書に耽る文学者?戦地に赴くジャーナリスト?自分は一体何に適性があるというのか。まあ、こうやって他者と比較する癖がついていること自体がよくないことなのかもしれない。それに、そもそもこのようなことで悩まなければならないのは日本という国が職業を変えることに対して極めて非寛容な社会システムを持っているからで、別の国に生まれたらこんなことで悩むこともないのかもしれないし、それこそサルトルの言うように我々は自由の刑に処せられている"L'homme est condamné à être libre"ので、あるいは選択の自由なんて最初からない方が楽なのかもしれぬ。

 

自分の答えは、外界からの雑音をシャットアウトし、自分の心の発する僅かな叫びに耳を傾けることでしか見つけられないのだろうか?そんなことは可能だろうか?何かを目指す圧倒的なモチベーションはそもそも自分の中にあるのだろうか?

今の自分に必要なのは、他者の推奨する選択ではなく他者の反対を押し切って何かを成し遂げるという強い意志であり、如何なる時も自分の選択を疑わないという強固なメンタルであり、その選択をして実際に成功を掴み取るという経験なのかもしれない。

イラン旅行(11) エピローグ:イランという国

今から考えれば、イランに旅行する遠いきっかけは2015年に南フランスを旅行したことだったように思う。旅行自体はニース、アヴィニヨン、リヨンを回るごく短いものだったが、エールフランス航空に登場した際に飛行機内の音楽ラジオをつけてみた際、"Moyen Orient"というジャンルが目に入った。当時フランス語など大してわからなかった自分は目にしたことのない文字の配列に興味を持ち、そのチャネルをつけてみた。すると突然今まで聞いたこともないような音楽が耳に入ってきた。短調とも長調とも捉え難い謎の音階で、男性のみならず女性もカワイさではなく力強さで勝負するスタイルの歌声、そして聞いたこともないような打楽器。その出会いは頭を破壊されるような体験で、フランス旅行の初日では頭の中でその音楽がいつまでもこだまして離れなかった。

アラビア語を学びたいなどと豪語していたがいまいちモチベーションが上がらず燻った大学生活を送っていた私に、アラブ音楽との出会いはアラビア語を学習する強力なモチベーションを与えた(現在も苦しみながら勉強を継続している)。アラビア語を勉強するにあたり当然アラブ地域の地理を学ぶことになるわけだが、そこで出てきたのがイランという国である。普通の人であればイランとアラブの違いすら指摘できないようなところだが、このイランという国を調べれば調べるほど面白い(この経緯はプロローグに詳しく書いた)。そしてどういうわけか同時期に野町和嘉氏のPERSIAというイランの写真集を手にし、その国土の美しさと魅力にとりつかれた。そういうわけで大学の卒業旅行にイランを選んだわけである。つまりイランという地に導かれたのは、ほんの偶然の連鎖であったわけだ。

 

10泊12日という日程は、思った以上にあっという間に過ぎていった。街中や公共空間に流れる不思議な音楽、見たこともないような乾いた景色、街の看板を埋めるナスタアリーク書体、絢爛な建築物の装飾。ヨーロッパの観光地しか知らなかった私にとっては全てが衝撃で、非日常的な体験だった。しかしそれ以上に素晴らしかったのは、イランでの人々との出会いだった。

見知らぬ日本人にかつての恩返しにとイスファハーンを案内してくれたおじさん、謎の議論を持ちかけようと試みる勉強熱心な青年、突然求婚してくる美人大学生、嬉しそうに外国人観光客に手を振る女子小学生の集団。私が目撃したイランという国の姿はこういうものだった。皆フレンドリーで気さくで、ホスピタリティに富み、そして文化的であり、それぞれの人生を楽しんでいた。ぼったくりを敢行したシーラーズ空港の売店の女性、法外な値段を吹っかけてきたタクシー運転手、「チュンチョンチャン!」を連呼するタブリーズの少年、後ろ指をさしたヤズドの女性二人組…悪い思い出もそれなりにあるはずであるが、それも含めてイラン旅行で私に残ったものの多くは、美しい景色ではなく人との出会いの記憶である。

見知らぬ土地を旅する人々に興味を持ち、手を差し伸べることを厭わず、様々な話をしようとする人々の姿勢は、どこか他人と深く関わることを避けようとする日本社会や、観光客を斜めな目で見るヨーロッパ人とは全く違った。人を下に見るということをせずに異質な人々を尊重し、親しくなろうというその姿勢はまさに本来我々が持っていたはずの人間の美徳そのものだった。それは社会を生きていくための仮面を作り上げていくうちに失ってしまったものかもしれないし、そもそも自分には備わっていなかったものかもしれない。それでもそんな彼らに出会って、初めて人間というものの素晴らしい側面に気付いたかもしれない、と思う。そして今まで意識的にか無意識にか捨象していた人とのつながりというものの大切さを自覚した。

 

イランという国を実際に歩き、人々と接したあとで、日本という国のあり方についても考えさせられる場面は多かった。日本という国は、新興国の台頭によりかつてほどの勢いはないものの先進国の一角であり、経済大国の一つということになっている。勤勉さは美徳であり、働くことは喜びであり、休暇を取ることは悪であり、人々は2週間をこえる休暇を取ることは滅多にない。必然的に自分を追い込み、自殺者は多くなる。しかしながらテレビをつければ「日本の技術力は世界一」だとか、「日本は世界で一番治安の良い国だ」などと嘯いており、日本の社会通念や社会システムそのものに疑念を抱かせるようなものは何一つない。もし日本を批判するような内容があるとすればそれはほぼ常に、「欧米では〜、しかし日本は〜」という文脈で語られるだろう。

私もかつてはテレビの内容を信じて日本は素晴らしく治安が良く技術は世界一で勤勉な国だと思ってきた。ある程度大きくなり、時代が進んで日本の退潮が露見しても、治安が良いとか勤勉だとかそういう部分ではあまり疑念を持ったことがなかった。しかしながら、その日本人が見向きもしないような貧しい国イランでは、人々は表情豊かで、フレンドリーで、自分たちの人生を楽しんでいるように見えた。貧しい国は大抵治安が悪いと思い込んでいたが、街は驚くほど平和で、日本に勝るとも劣らなかった。日本に帰ってくると、道ゆく人の表情はよそよそしく、暗く、常に見えない義務に追われる焦りと疲労に満ちている。日本は戦後の高度経済成長で豊かになったというが、我々は経済的な豊かさで何を手に入れたのか。経済的に満ち足りたことで衣食足りて礼節を知るよろしく人々の心が豊かになるどころか、経済システムを回すための駒に成り下がり、本当に大切なものを忘れてしまっているのではないか。大切なものとは日々を楽しみ、人生を楽しみ、他者との邂逅を楽しむ時間的な余裕であり、それに豊かさを見出す心なのではないか。そしてそれを見出すためのヒントは、日本の中や我々が崇敬する欧米諸国ではなく、我々が目を向けようともしない「発展途上国(この言い回し自体好きではないのだが…)」にこそあるのではないか。そんなことを考えさせられた。

 

イランは表向きにはいまだにアメリカと鋭く対立しており、ウランの濃縮だとかイスラエルとの戦争といったきな臭い話題は絶えない。もちろんこれは国際社会における被害者という側面が大きいように思うが、政治においては革命防衛隊が実権を持っていると言われており、イエメンやシリア、イラクに対する介入など、白い部分だけでこの国を語ることはできないというのもまた事実だろう。しかしながら、欧米のイメージだけでこの国を語るのはあまりにも間違った試みである。実際に足を運び、現地の人と話せばそれはすぐにわかる。問題は我々が正しい情報に触れていないために彼らに接しようとすらしないこと、日本人には彼らに接するための時間を含め、社会的義務以外のことを考え実行する時間が与えられていないことだろう。

 

なお、地球の歩き方のイラン編は、かつてはかなりの分厚さと内容を誇る本であったというが、バムで起きた誘拐事件のせいかケルマーンやバローチェスターン州は外務省の渡航注意情報で赤く塗られるようになり、それと前後して大きくページ数が削減されてしまったそうだ。我々がイランに行く頃には厚さ5㎜程度の小冊子になってしまい、載っているのも我々が旅した都市の情報しかない程度のものになってしまっっていた。交通手段や宿泊施設の手配をお願いしたイラン専門の旅行会社のお姉さんは昔の地球の歩き方を我々に見せつつ「昔はこんなに厚かったんですけどねえ」などと嘆いていたことが思い出される。その誘拐事件はほんの言い訳にすぎず、本当は某大国に対する忖度があったのではないかと邪推してしまうのは致し方ないことだろう。

 

かつて「インドを旅行すれば世界観が変わる!」などと豪語していた大学生を薄っぺらだと嘲笑していたものだが、そういう自分もまた偶然の連鎖によりイランという国を実際に歩いて、自分の人生や、自分が生きている社会について再考するきっかけを持つことになってしまった。結局は私も旅行で人生観を変えてしまうような薄っぺらな人間の一人であったというわけだ。しかしそれはとてもポジティブな体験として、これからも思い出されるだろう。私は大学生時代バックパッカーをやっていたわけでもないので、訪れた地域はそれほど多いわけではない。これから自分のまだ見ぬ世界を見て、出会ったことのないような人々や価値観と会いたい。そして自分の狭く凝り固まった世界観を壊し、再構築していきたい。それが世界の姿に近づくための歩みだと私は信じる。

 

最後に忙しい中この旅に同行してくれた友人A氏、我々の無理な要求にこたえてくださったペルシアツアーのM.S.様をはじめとした方々、そして何より旅先のイランで我々とかかわった現地のすべての人々に感謝の意を述べて、この旅行記の総括としたい。イランの旅行がこれほど心に残ったのは間違いなく彼らのフレンドリーさとホスピタリティのおかげである。この体験は一生忘れることはないだろう。本当にありがとうございました。

そしていつかまたお会いしましょう。

 

 

イラン旅行(10) テヘラン、そして帰国

2016/2/28

9:00頃 タブリーズ空港着 

10:10 ATA航空5203便でテヘラン

11:10 テヘラン・メフラバード空港

テヘラン市内観光

17時ごろ テヘラン市を出発、エマーム・ホメイニー空港へ

22:30 カタール航空499便 ドーハへ

2/29

0:05 ドーハ・ハマド国際空港

1:15 カタール航空806便 成田へ

16:55 成田空港到着

 

この日はイラン観光の最終日である。残念ながら写真があまり残っていないので、若干淡泊な感じの記事になってしまうと思うがお許しいただきたい。

タブリーズのホテルをチェックアウトし、空港へタクシーで向かう。どんより曇った天気だ。タブリーズ空港の待合室は広く、開放的な雰囲気。

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左:タブリーズ空港は開放的な雰囲気 右:ATA航空の飛行機

 メフラバード空港に到着。やはりどんよりと曇っている。空港に並んでいるタクシーを拾い、まずは空港から一番近い観光地であるアーザーディータワーにまず向かうことにする。例によってタクシーが何台か並んでいたが、吹っかけてくる人もいたので一番良心的なタクシーを地元女性客とシェアすることにした。

アーザーディータワーは1971年、ペルシア建国2500年を記念して建てられた。イラン革命がおこる前の1971年のこと、パフレヴィ―朝時代のことである。当時は大変に先進的な建築であったに違いなく、おそらく親欧米政策を採っていたため欧米からの援助もあったのだろう。塔の地下は博物館になっており、謎のミニチュアが展示されているスペースや動画を放映しているスペースなどいろいろある。しかしながらいずれもイランらしさは薄く、どこか欧米的な商業っぽさを感じる。塔の最上階は展望台になっており、六角形の形をした特徴的なエレベーターで昇っていくが、エレベーターの動きが遅くて若干怖く、そのうちワイヤーが切れて落下するんじゃないかと思った。最上階の窓にはガラスなどはついておらず、展望台を吹き抜ける風が強い。

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アーザーディー・タワー
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左:地下の博物館への入口 右:最上階の展望台

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展望台からテヘランの市街が一望できる


 展望台から見る市街は高層ビルなどほとんど見えず、古いアパートや建物が目立つ。長期にわたる経済制裁で国が疲弊しているのだろう。またテヘランは大気汚染がひどい都市としても有名であり、本来市街の奥に見えるはずの山脈はかすんでほとんど見えない。

アーザーディー・タワーからはタクシーを拾い、ひとまずテヘラン駅に向かう。駅の有人ロッカーに我々の荷物を預け、今度はBRTに乗ってイラン考古学博物館へ。ここの博物館、構えは大変立派だし、地球の歩き方には大変大きなページを割いて取り上げられていたので楽しみにしていたのだけれども、中に入ってみると案外狭く、展示も羅列的で極めて淡泊と言わざるを得ず、かなりがっかりスポットであった。物事を博物学的に羅列するのが得意な欧米人とは違い、ペルシャの人々には珍しいものを蒐集して系統的に並べるという習性がないのだろう。かつてサーサーン朝と東ローマ帝国が抗争していた時代、ゾロアスター教より体系的にまとめられたキリスト教に信者が流れ、それがサーサーン朝弱体化の一因になったといわれている。体系化、系統化は欧米人のお家芸ということか。展示物そのものだけではなく、見せ方も博物館における大事な要素であることを実感させられる。まあ、イランにはまるで屋外博物館のような遺跡や建築がたくさんあるので、こういう生きたものに触れに行ったほうがよほど良いと思われる。

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門構えの立派なイラン考古学博物館
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博物館の部屋は簡素で、展示も淡泊

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こちらはチョーガ・ザンビールというジッグラトからの発掘物。かなり価値があるものらしいが、とてもそうは見えない。

博物館を出て、何をしたのか正直あまり覚えていないのだけど、イラン、特にテヘランは信号がろくに整備されていないので、横断歩道を渡る際は車の途切れたスキを見て渡らなければならない。交通量も多いので横断は命がけである。横断歩道一つ渡るのに命を懸けるなんて大変な国であるなあ。正直大都会の街歩きは風情がないのであまり好きではないし、10日異国に滞在して疲労が隠せない我々は早めに荷物を回収して空港に向かってしまうことにした。

なお、一応備忘録的に書き残しておくが、テヘランのバーザールはかなりゴミゴミしていて、雰囲気も地方都市のバーザールと違って趣が乏しくごちゃごちゃしており、あまり雰囲気がよろしくなかった。確実に歩いた記憶はあるのだが、訪れたのは2月26日か28日かの記憶がまったくない。しかし、東へ向かうBRTに乗ったのちにバーザールを訪れたような気がするのと、バーザールはゴレスターン宮殿に隣接しているので、ひょっとしたら26日にバーザールを訪れてからゴレスターン宮殿を訪れたのかもしれない。(すると(8)の記事は一部に間違いがあることになる。)そしてそのBRTであるが、専用線にバイクや車が入り込んでいて専用線の意味をなしていなかった。まあ、覚えてないということはあまり印象に残っていないということなんだろう。

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イランの市街地ももう見納めと思うと感慨深いが、都会でどうも落ち着かない

BRTで駅まで戻り、駅前で待機しているタクシーでエマーム・ホメイニー空港に向かう。市街地から空港まではかなり距離があり、1時間ほど走る。50万リヤルほどであった。空港でもあまりにも時間が余っているのでダラダラして時間をつぶし、夕食はアメリカ風ファストフード店で済ませた。空港のおみやげ売り場ではイランの代表的なミーナ・カーリーやガラム・カールなどのお土産品を売っているが高価だし、種類も少ない。友人はホメイニー師の顔写真マグネットを買ってニヤニヤしていた。売店で買ったペットボトル入りのザクロジュースは不思議な味がした。

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人の少ない空港内で時間をつぶす

イランでの10日間はあっという間に過ぎていった。前半の3都市での濃密な体験と比較すると、後半は都会が多かったということもありなんだか淡泊な体験であったようにも思われるものの、それでもかなり濃厚な体験だった。カタール航空にてドーハへ。ドーハからはわずかな乗り換え時間で日本に向かう。帰りの飛行機は比較的すいており、ゆっくりと過ごせた。

成田空港からはお決まりのスカイライナーで上野へ。上野でこれから間髪入れずオーストラリアに向かうという友人と別れて帰宅した。あまりにも強烈な文化的体験をしたせいか、それとも緊張の糸がほどけたせいかはわからないが、帰宅後数日間発熱で寝込んでいた。

 

 

イラン旅行(9)2016.2.27 トルコ人たちのイラン

2016/2/27

終日タブリーズ観光

タブリーズ・インターナショナルホテル宿泊

 

この日は終日タブリーズを観光する。

タブリーズの名所といえば、なんといっても規模の大きなバーザールだろう。このバーザールの歴史は1000年以上前にさかのぼるとされ、現在の建物の原型は15世紀ごろに成立したのだという。15世紀といえば黒羊朝(カラ・コユンル)やティムールによる占領、白羊朝(アク・コユンル)の時代であり、白羊朝の首都はタブリーズに置かれていたというから、そのくらいの時代に作られたものということだろう。

タブリーズ・インターナショナルホテルは中心市街から少し外れているので、BRTを利用して市街にアクセスすることになる。BRTはイランの乗り物の常で、男女別々の車両に分けられている。ホテルから10分程度の乗車で、ほどなくバーザールやモスクのある中心市街である。空の色はシーラーズやヤズドといった南部の都市のそれよりも少しくすんだ青色をしていて、どこか控えめな感じがする。気のせいかと思っていたが、写真を振り返ってもやはりシーラーズの空はタブリーズに比べ抜けるような青色をしている。緯度の問題だろうが、こういう細かいが確実な違いは町並みへの印象に少なからぬ相違を与えている。

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左:タブリーズのBRT 右:市街地の時計台

市街地ではよく居るニセ両替おじさんの誘いを無視して、両替屋に向かる。Sephehr Exchangeというところで、レートは100ドル=345万リヤル程度とシーラーズに迫る良いレートであった。町並みは特段に伝統的なスタイルというわけでもないのかもしれないが、くすんだレンガでできた高さの揃った家屋と、落葉した並木の色が調和して美しい町並みを作り出している。

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美しい中心市街の町並み

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両替屋の近くにある構造物はアルゲ・タブリーズという城塞の遺構で、14世紀のイルハン朝(フレグ・ウルス)時代に建てられたものだという。タブリーズ一帯は地震が多い地域であり、この城塞の遺構も一部しか残っていない。装飾にも乏しく、なんだかちょっと寂しげだ。

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寂しげにたたずむアルゲ・タブリーズ

バーザールのお店が開くにはちょっと時間が早いと考えたので、この町の最も大きなモスク、マスジェデ・キャブ―ドに向かう。外から見るとレンガ色をした2つの形の異なるドームが並んでいるのが印象的だ。5万リヤルを支払って構内に入る。

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左:マスジェデ・キャブ―ドと詩人ハーガーニーの像 右:モスク構内

このモスクは15世紀、先述の黒羊朝(カラ・コユンル)のスルタン、ジャハーン・シャーの時代に建てられたものだという。今土色をしたドームも、かつては美しいブルーの装飾タイルでおおわれていたらしいが、度重なる地震で装飾は大きな損傷を受けたそうだ。エイヴァーンや外壁の一部に装飾タイルが残っており、地震ではがれ落ちたタイルの一部が展示されている。

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露出した漆喰が痛々しいエイヴァーン

モスク内部の装飾は修復中のようで、床には工事現場のような緑色のシートが敷かれている。やはりオリジナルの装飾タイルが残存しているのはごく一部にとどまるものの、その8本の大きな柱で区画された大ドームは大変特徴的な構造をしている。修復のためと思われる、仮塗りされてまだタイルが埋め込まれていない装飾が認められ、もとの美しい姿が偲ばれる。

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大ドーム内部の装飾。一部にオリジナルが残る

上の写真の明るい部屋のほうに向かうと、こちらには地震で落ちてしまったタイルの一部が展示されている。振り返ると今まで見たこともないような濃い青の6角形タイルで装飾されている部分が残る。かつて完全に装飾がなされていたころには、この部屋にいるとさぞかしコバルトガラスの瓶の底に沈められたような気持ちになったに違いない。

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左:濃い青のタイルの装飾が残る 右:地震で落ちてしまった装飾タイル

モスクをあとにする。バーザールに向かう途中で、若者の集団に声をかけられた。このあたりの大学の大学生だという。そのうちの一人、オードリー・ヘプバーン似の美人な女性が私のところに寄ってきて、「私もラインやってるの!ライン交換しましょう!」とか「ガールフレンドはいないの?私と結婚しましょう!」などと適当なことを言ってくる。いや、あまりに日本にいる奥ゆかしい()女性たちとは異なることをいってくるもんだから真意がつかめない。同行する友人も別の女性に絡まれていた。この国の人々は本当に他人に話しかけることに躊躇がないし、女性はとても積極的なイメージがある。いつも男性のアプローチを待っている日本人女性は少し見習っていただきたい…とかいうとたぶんフェ●ニ●トがこのブログを発見したときに発狂するだろうからやめておく。この大学生集団と記念撮影させてもらったが、我々の映っていないほうを掲載しようと思う。

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市街地で出会った学生さんたち

ここで学生さんたちとは別れて、バーザールに向かう。途中の道で「チュンチョンチャン!」と言ってきた少年が。イラン旅行のブログで、中国人を揶揄するこの「チュンチョンチャン!」のうわさを聞いてはいたのだが、実際にこれを喰らったのは初めてである。外交上は友好関係を保っているものの、実際のところ例の国に対するイラン国民のイメージは決して良くないように思われる。

さて、本日の目玉、バーザールに入っていく。迷路のような建築なので入口は当然多数あるが、イランの建築の常で入口からは内部の美しさは想像できない。

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バーザールに入っていく

バーザールは迷路になっており、これはほかの都市のバーザールでも同じだが、道によって扱っている商品のジャンルが異なる。このバーザールでは特に絨毯のお店が目立つ。それも観光客向けのチャラチャラしたお店ではなく、地元民向けの大きなサイズの絨毯が平積みにされていて、なかなか壮観だ。狭い道を歩いていると急に開けた天井の高いところに出たり、ちょっとした庭のような場所に出たりして、そぞろ歩きはなかなかに楽しい。空から見たらこのバーザール全体の建築はいったいどうなっているのか気になるところだ。リアカーを引いた老人が「Ya Allah!Ya Allah!(どいたどいた!)」と言いながら突き進んでいく姿にも風情が感じられる。

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バーザールの風景。左の写真に映っているような絵の描かれた絨毯が多く売られている

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宝飾系を扱うエリア

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広い空間に出る。この周辺では絨毯を扱う店が多い

質素ではあるが様式美を感じられる建築であり、迷うのが楽しい。少し歩き疲れたので開けたところで休んでいたところ、謎のおじさんが出現してポーズを取り始めたので、しっかりと写真を撮らせていただいた。

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謎のおじさん

先述したようにこのバーザール、規模は大きいがおそらくすべて地元民向けであり、観光客向けのミーナ・カーリーを売っている店は皆無に等しい。金属加工品を売る店もわずかだ。これは観光客が少ないというのもあるが、後述するように民族の違いによる文化の相違によるところもあるかもしれない(推測でしかないが)。

お昼の時間になったため、いったんバーザールを離れてレストランに向かう。レストランはエマーム・ホメイニー通り沿いにある適当なお店に入った。地下への入口を入るとそこには広いお店の空間が広がっている。英語メニューもあった。メニューがありすぎて何を頼んだのかあまり記憶がないのだが、店はすいており、個人ガイドとともに入店したフランス人女性くらいしかほかの客はいなかった。

適当に街を散策することにする。先ほど訪れたマスジェデ・キャブ―ドに隣接して公園があり、そちらで一休み。するとこちらでも地元の学生が話しかけてきた。どこからともなくお茶が出される。彼曰く、「我々はトルコ人」だという。トルコ人ペルシャ人の違いは、彼ら的には顔でわかるらしい。最初は何を言っているのかよくわからなかったが、調べてみると興味深いことがわかってきた。

現在のイランの領土のうち、北東部のアルダビールやタブリーズでは住民の多くがトルコ系のアゼリー(つまりアゼルバイジャン人と同じ)である。アゼルバイジャンもかつてはイランの領土であり、ガージャール朝時代にロシアとの戦争に敗北しゴレスターン条約にてこの領域を失ってしまうが、住民的にはアゼルバイジャンと同じ系統というわけだ。イランというのはペルシャ人の国家ではなく、ペルシャ人やトルコ人、オルーミーイェ州の西のほうに多く住んでいるクルド人など多くの民族を抱える国家である。もっとも興味深いのは、多民族国家だからと言って民族対立が起きているわけでもないということである。国の最高指導者ハメネイ師はそれこそテュルク系の人である。

近代において流行った思想に国民国家とか民族自決とか言った概念があるけれども、民族で国境を分けようとするとその境目はかえって恣意的になり、今まで意識されていなかった民族意識というものが生まれ、民族内での団結は深まるがその一方で今まで意識に上ることがなかった「他民族」という概念を生み出し、無駄な争いが生じることになる。こういういい方は身もふたもないかもしれないが、宗教も民族自決国民国家の概念も、方向性は違えど人類の団結力を深める手段として発明された概念という点では共通しているが、これらの概念を維持するには共通の敵というものが必要である。すなわち団結というのは血なまぐさい争いによって担保されているわけである。本当に民族自決という概念は世界に利益をもたらしただろうか?「トルコ人の民族国家」を作った結果クルド人問題を抱えるトルコや、恣意的に奇妙な国境線が引かれたトルキスタン諸国、そして最近では民族ごとに州を分けた結果ティグレ人とアムハラ人の争いから内戦に突入したエチオピアなどを見ていると、強い疑問がわいてくるわけである。

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ミナレットのある風景。これも見納めに近い

閑話休題

バーザールは大方見終わったので、ほかに特に見るものがないということもありホテルに戻る。本日はイランでの滞在の最終日ということで、ホテルのレストランでは夕食に加えノンアルコールビールを注文した。このビール、なんだかオレンジジュースのような味がして、ビールとして飲むと違和感があるが、案外おいしい。この10日間はあっという間であったように感じられ、名残惜しさとともにイランでの最後の眠りについた。