Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

le cri

今回の表題は文字通りの叫びである。

と言ってもかの有名なムンクの叫びではない。もっと一般的なことである。いや、そういう意味ではムンクの叫びも関係があるのかもしれないが。

 

高校時代くらいに他人のブログを指を咥えてみていた頃、こう言っては申し訳ないが彼らは何がしたいのかと思っていた。自分の行い、考えたこと、それらを記録したいのだろうか?それとも自分の活動を人に見せびらかしたいのか。人に見せるという行為を伴っている以上、当時の自分にはそれらは多かれ少なかれ自己顕示的な成分が含まれているように思われた。まあ昔の話なので、少しムッときた読者もどうかお許しいただきたい。

 

ところが歳を取ると(と言っても所詮はアラサーの若造ではあるが)物事の見方も立場も変わってくるもので、私もすでにブログを書く側の人間である。いったい誰が尋ね当たるのかというほど他のブログとの関連性も希薄であるが、それでもやっぱりこのようにブツブツと思ったことを書いている。何が自分をそうさせるのか。考えていると思い当たることがあった。それが表題の「叫び」である。

 

人間は元来孤独である。自分くらいの年齢ではちょうど結婚ラッシュで、私のような独り身を嘲笑うかのように日々幸せそうな結婚の報告を見るが(自分の蒔いた種という謗りは甘んじて受ける)、どれほど友人の数を自慢しても、満足できるパートナーを他人に顕示しても人間は孤独である。自分と全く同じ人間は存在せず、心から通じ合っている仲間などというのは実のところほんの一握りで、そういう人にしても友人を場面によって使い分けているのが実情だろう。そう考えた時ようやく理解した。だから叫ぶのだと。それはこの世界のどこかにいるはずの自分のよき理解者を、そして共感を求める叫びである。そして自身を理解してもらうことのできなかった相手への理解を求める叫びである。他人のいいねの数を誇るとか、閲覧数を稼いで云々とかそういうよりもっと奥底にある衝動なんだと思う。いや、根っこのところは同じという考えもあるかもしれないが、本当に同じであったならば、たとえば負け犬は遠吠えをしたりするだろうか?

 

このブログも結局のところそういう目的で設立した。私がこのブログを設立したのはただ過去の記録を残すためだけではない。それは届いてほしい声があり、伝えたい内容があり、よき共感者を求めているからだ。残念ながらこれくらいの年齢になると、そういう声というのは本当に届かせるべき人には届かないことも、朧げながら理解している。このブログでたまに書き綴る雑感にしても、自分の記事を読んでくださる人のほとんどはすでにある程度自分のことを「理解してくれている」人だろう。そうでない人にはどれほど自分の主張の正当性、とまではいかなくてもこういう考え方があることをせめて認めてほしい、と訴えても決して届かない。過去を振り返ってもそうだったし、それはきっとこれからも同じだろう。最も声を届かせたい人には決して到達しない叫び。それでもブログというものを通して私は叫ぶ。そうせずにはいられないからだ。

 

ブログだけではない。芸術も文学もきっとそうだろう。誰かが自身の最大の理解者になってくれるかもしれない。それは今すぐかもしれないし、1000年経ってからかもしれない。それでもその一人のために、彼らは叫んでいるのだろう。そう思うと、世の中に溢れる叫びというのが、正しい形で報われることを祈りたい気持ちになった。

 

ウズベキスタン(2) ヒヴァ

2019/10/31

7:25 タシケント空港 HY051便

8:55 ウルゲンチ空港 ヒヴァへ

終日ヒヴァ観光

オリエント・スターホテル泊

f:id:le_muguet:20210701023021j:plain

本日は朝早くヒヴァに移動し、1日中ヒヴァを観光する日程。宿泊はヒヴァ・ハン国時代の建築をリノベーションしたホテル、オリエント・スターに宿泊する。

朝6時半ごろに送迎車でホテルに来てもらい、タシケント空港に向かう。少し肌寒く、外はまだ暗い。空港の敷地に入る際に簡単なセキュリティーチェックを受ける。がらんとした空港国内線の待合室でしばし待機。荷物検査の際にハイアットリージェンシーからもらってきたガラス瓶入りの水をリュックに入れていたのだが、検査員の人は「これくらいならいいだろ」的な雰囲気で持ち込みを許可された。平和な国だ。

f:id:le_muguet:20210701020025j:plain
f:id:le_muguet:20210701020137j:plain
左:早朝のタシケント空港 右:待合室の様子

離陸すると、次第に景色が砂漠化していく。キジル・クム砂漠である。赤茶けた砂がさざ波のような地形を作っているのが見える。アムダリア川の流れが大地を潤しているのがよく見えるようになると、ほどなくウルゲンチに到着である。空港施設の規模はかなり小さく、それこそ日本の大東島空港のような趣である。

とても寒い。砂漠というのは朝晩は冷え込むくせに昼はかなり気温が上がる。乾燥しているので肌もガサガサになる。体調管理にはかなり気を使わなければいけない。空港のトイレはかなり汚れていて思わず顔をしかめてしまった。

f:id:le_muguet:20210701020828j:plain
f:id:le_muguet:20210701020918j:plain
左:アムダリヤ川の流れ 右:ウルゲンチ空港に到着。風が強く、寒い

ヒヴァ市街まではトラムが敷かれているが、今回は空港からホテルまでの嬉しい送迎付きということなので、ドライバーにヒヴァの市街に連れて行ってもらう。ありがたや。車窓からは綿花の畑が広がっているのが見える。ウズベキスタンの特にこのホラズム地方は綿花の一大産地であり、国旗にも綿花があしらわれている。旧ソ連時代にアムダリヤ川の灌漑によりこの地域には大規模な綿花畑がつくられたが、その結果アムダリヤ川流入先であるアラル海は干上がり、今やほとんどなくなってしまったというのは有名な橋である。スターリンはこの大規模な灌漑計画を「自然改造」といってむしろ肯定的にとらえていたそうな。渋い話である。

f:id:le_muguet:20210701021210j:plain

車窓からは一面に広がる綿花畑が見える

ヒヴァのイチャン・カラまではそれほど時間はかからなかった。車を降り、内城の中にあるホテルへまずは荷物を置きに行くことにする。内城の中はまるで別世界。中世のイスラム都市に紛れ込んだかのようだ。ホテルは城門の入口近くにあり、ヒヴァ・ハン国時代のムハンマド・アミン・ハン・マドラサを改装したもの。近くには有名な未完成のミナレット、カルタ・ミノルがあり、ヒヴァのシンボルになっている。なお、この城門の中に入るのにはチケットが必要。イスラーム・ホジャ・ミナレットに登ることのできるスペシャルチケットと、スタンダードチケットがある。当然のごとくスペシャルチケットを購入。高いところが好きなのである。馬鹿だけに。

f:id:le_muguet:20210701022126j:plain
f:id:le_muguet:20210701022208j:plain
左:イチャン・カラの城門 右:城門をくぐると、そこは別世界
f:id:le_muguet:20210701022743j:plain
f:id:le_muguet:20210701022824j:plain
左:オリエント・スターホテル内部 右:客室の様子。狭いが、それがいい

かつてのヒヴァ・ハン国の中心ヒヴァには、イチャン・カラとディシャン・カラという二重の城壁に囲まれた都市であったそうである。ディシャン・カラはすでになくなってしまったようだが、このイチャン・カラは非常に美しい状態で保存されている。かつての王宮や廟、マドラサやモスクなどが高い密度で配置されており、町全体が世界遺産。なかなか見事な様子である。文章で伝えるよりも写真のほうがよいだろうから、以下は写真を中心に街の様子を紹介していく。

チケットはパフラヴァン・マフムド廟を除いて全館共通になっている。まずはクフナアルクからお邪魔することに。

f:id:le_muguet:20210701023236j:plain
f:id:le_muguet:20210701023304j:plain
クフナ・アルクにて。左:音楽にあわせて踊る地元の方 右:高い柱とテラス天井

f:id:le_muguet:20210701023720j:plain

細密に描かれたアラベスク模様。微妙にゆがみがあって手作り感がある

f:id:le_muguet:20210701023819j:plain

こちらは王の間。絢爛な装飾

このクフナアルクには展望台のような施設があるが、最初に訪れたときはその存在に気付かずスルーしてしまった。後ほど再訪したので、写真はそちらを参照。メインストリートから外れると舗装の荒い道路に至る。おそらくこれが昔の舗装のままなのだろう。民家があり、住民の日常生活を垣間見ることができる。遠くにはミナレットが美しい。

タシュハウリ宮殿に向かう。こちらはヒヴァでもっとも絢爛な装飾を誇るそうだ。二つのゾーンに分かれており、入口が異なっている。南側のエリアは儀式が行われた場所だそうだが、ユルタが設置されている。ユルタというのはモンゴル語でゲル。移動式の住居である。北側のエリアは広く、4人の正妻のための寝室がある。それぞれの寝室前の天井装飾は4つの部屋それぞれで異なっており興味深い。

f:id:le_muguet:20210701024940j:plain

ユルタの設置された広場

f:id:le_muguet:20210701025131j:plain

こちらは正妻の寝室があるエリア。がらんとしている
f:id:le_muguet:20210701025247j:plain
f:id:le_muguet:20210701025323j:plain
寝室前の天井装飾がみごと。4つの部屋ごとに装飾は異なる

イランの宮殿のような華美さ、絢爛さはないものの、質実剛健さ、素朴さ、力強さが感じられる装飾はもとは遊牧民であったウズベク人の気質に由来するものだろうか。装飾もそこはかとなくシノワズリな風味があり、やはりここはシルクロードを通して中国の影響が少なからずあったのだろうと思われる。

次はメインストリートに戻り、ジュマモスクに向かう。高いがやや質素なミナレット、そしてなんといってもたくさんの柱が立ち並ぶ光景が印象的だ。柱のうち何本かは、10-11世紀のものだという。

f:id:le_muguet:20210701025807j:plain
f:id:le_muguet:20210701025926j:plain
左:ジュマモスクのミナレット 右:柱の間

f:id:le_muguet:20210701030030j:plain

古い木の質感が落ち着いた雰囲気を醸し出している

少し歩き疲れてきたのでお昼休憩。地球の歩き方には何個かレストランが載っているが、ホテルのフロントの方おすすめのレストラン、「ミルザボシ」に向かう。格子状の窓でおおわれた開放的な雰囲気が印象的のレストランで、緑色の麺が特徴的な「シュヴィト・オシュ」を注文した。麺の上に挽肉やイモがのっており、ヨーグルト(!)をつけていただく。ヨーグルトは日本で食べるもののような甘みがなく、酸味が印象的だった。あまり日本では食べない味だがそりゃそうか。これはこれで面白い。

f:id:le_muguet:20210701030924j:plain
f:id:le_muguet:20210701030951j:plain
左:レストラン・ミルザボシ 右:シュヴィト・オシュ。緑色の麺

 レストランをあとにして、レストラン奥の通りを南に進んでいく。スザニセンターといって地元の名産スザニを売っているところや、ホラズミの家博物館と称する古い建築が並んでいる。

f:id:le_muguet:20210701155433j:plain

ホラズミの家博物館?簾越しにパフラヴァン・マフムド廟のドームが見える

左に折れると正面にイスラーム・ホジャ・ミナレットが美しくそびえている。通りの右側には大きなマドラサ、左側にはお目当てのパフラヴァン・マフムド廟が見える。

f:id:le_muguet:20210701155720j:plain

イスラーム・ホジャ・ミナレット

パフラヴァン・マフムド廟は先述の通りヒヴァの共通入場券とは別のチケットが必要となる。6000スムと記憶している。廟内ではクルアーンを美しく読み上げる係員がおり、東南アジアから訪れたと思われる女性たちが祈りをささげていた。内装は繊細なタイルアートが非常に美しく必見である。

f:id:le_muguet:20210701160220j:plain
f:id:le_muguet:20210701160811j:plain
左:大ドーム天井の装飾 右:右手に続く部屋にも棺が置かれている

f:id:le_muguet:20210701160947j:plain

繊細で美しいタイルアート

次はさきほど正面に見えていたイスラーム・ホジャ・ミナレットに登ることにする。イスラーム・ホジャはヒヴァ最後のハンに仕えた大臣で、非常に進歩的な人でロシアを訪れて得た知識を生かして近代化を進めたという。しかしながら人気が出たためハンの怒りを買い、生き埋めにされたそうだ。その後ヒヴァ・ハン国はロシアに併合されることになる。出る杭は打たれるというが、悲しい話である。

ミナレットに登る入口付近からタイルアートを間近に見ることができるが、よくみると手作り感にあふれていることがわかる。近くで見ると丁寧どころか雑にすら感じるものだが、それが何枚も並べられることで統一感のある美しいパターンを生み出している。イランのモスクであればこれらの模様はおそらくすべてモザイクで表現されるだろう。やはり繊細というよりは(十分繊細ではあるのだが)力強さが感じられる建築美術である。

らせん状の階段を登っていく。ミナレットは基本的に石造りだが、天井は木の梁によって支えられている。木が朽ちたらいったいどうなってしまうのだろう。ミナレットの頂からは、ヒヴァの町並みが一望のもとに見渡せる。美しい緑色のドームがパフラヴァン・マフムド廟。土色の町並みが美しい。

f:id:le_muguet:20210701161708j:plain
f:id:le_muguet:20210701161746j:plain
左:よく見ると手作り感あふれるタイルアート 右:ミナレット頂上

f:id:le_muguet:20210701162016j:plain

ヒヴァの町並み

歩いているとイスラーム・ホジャ・マドラサの近くでスザニを売っているおばさんの熱烈なセールスを受けた。80ドルにするから買って!という。商人はイランよりも熱心なイメージがある。このおばさんのスザニは結局買わなかったけど、結論から言えばヒヴァのお土産品はブハラのそれと比較すると品質は2/3、値段は1/2程度。スザニに限ってはブハラと同程度の品質のものが半分以下の値段で買えるので、おみやげはヒヴァかブハラで買うのがおすすめ。サマルカンドはお土産品の品質はあまり高くないし、種類も少ない。

一通り内城の観光名所はめぐったので、今度はいったん内城を出て、ヌルラボイ宮殿を見ることに。こちらの宮殿も内城とは別の入場料を支払う。20世紀初めに商人の寄進により建てられたとのことだ。

f:id:le_muguet:20210701162717j:plain
f:id:le_muguet:20210701162812j:plain
左:内城の外観 右:ヌルラボイ宮殿

f:id:le_muguet:20210701162928j:plain

宮殿の内装は豪華絢爛で、やや西欧的

ホテルに戻ってしばし休むことにする。

イチャン・カラでは地元アーティストの陽気な音楽が流れている。アコーディオンのような音色の楽器を使った味わいのあるメロディが印象的だ。音楽を流している露店の青年にアーティストの名前を聞いてみた。Dilmurod Sultonovというらしい。興味がある方はぜひ聴いてみてください。

夕暮れ時の景色が見事とガイドブックにあった、クフナ・アルクにもう一度向かうことにする。入口はわかりにくいが、右手奥に屋上に向かう階段がある。登りきると内城の美しい景色を、先ほどのイスラーム・ホジャ・マドラサと違う角度から眺めることができる。

f:id:le_muguet:20210701163810j:plain

クフナ・アルクからの夕暮れの景色

夕食はファルーフという、ジュマモスクの近くにあるチャイハナで摂ることにした。夜が近いので人はまばらだが、作り立てのプロフを味わって食べる。プロフというのはいわゆるピラフで、ウズベキスタンソウルフードである。

f:id:le_muguet:20210701163510j:plain

プロフ

 日が暮れたのちも少し散歩をしてみることにした。カルタ・ミノルをはじめ多くの施設がライトアップされており、夜の景色も大変美しい。

f:id:le_muguet:20210701164555j:plain

ライトアップされるカルタ・ミノル

明日は送迎車でブハラに移動する。6時間ほど車に乗り続けるという過酷な日程である。ヒヴァは大変美しい町なので、もう一日滞在してもよかったかもしれないと思った。

 

ウズベキスタン(1) 青・白・緑

2019/10/30

12:30 成田 OZ101便

15:10 仁川空港 

17:10 OZ573便

20:20 タシケント

Hyatt Regency Tashkent泊

 

出発の日である。本日はアシアナ航空にてまずはソウルに向かい、そこでタシケント 行きの飛行機に乗り継ぐ。本来は直接ウルゲンチに向かいたいところだが、ウズベキスタンの国内線は国際線との接続が極めて悪いため、タシケントでそのまま投宿する日程になってしまった。ウズベキスタンは歴史的経緯により日本より韓国とのつながりが深いそうで、大韓航空アシアナ航空といった韓国の航空会社が隔日でタシケントへの直行便を出している。

 

f:id:le_muguet:20210629023313j:plain
f:id:le_muguet:20210629023404j:plain
左:成田空港第一ターミナル 右:これを見るといつもワクワクする

さて、一人の海外旅行というのは思った以上に心細い。成田空港第一ターミナルに来るのは初めてだし、そもそも国際線に一人で乗るなどという体験は初めてだ。Iphoneのウォレットに国際便のチケットが入っているはずなのだが、どうも落ち着かずに自動発券機の近くにいる案内員にこのチケットだけで問題ないのかを訊いてしまう。手荷物はちゃんと預けられるか。預けた手荷物はちゃんと目的地で回収できるか。そういう細かいことを考えてしまう。複数人数であれば他人に荷物を見てもらいながらトイレやお店などに行くことができるが、それはすべて自分一人で管理しなければならない。日本国内ならばまだしも、基本的に治安が日本ほどよくない※(とされている)海外ではスリの危険もあるので気が気でない。しかしまあ、自分でそれを選択したのだから慣れるしかない。

アシアナ航空の飛行機に乗り込む。飛行機の窓からはアシアナ航空の象徴である黄色と紺色、臙脂色の模様がよく見える。飛行機お決まりの景色ではあるが、青空と雲が美しい。何度見ても飽きない景色である。我々の暮らす雲の下では雨が降ったり嵐が吹き荒れたりしても、雲の上は必ず晴れている…そう考えればもう少し人生踏ん張れるという感じがしてよく空を見上げるのがお決まりである。まあ韓国は日本と距離的に隔たりもないので、ほどなくソウルの仁川空港に到着した。

f:id:le_muguet:20210629023640j:plain
f:id:le_muguet:20210629023716j:plain
左:雲が美しい 右:仁川空港周辺の風景

 ソウルの空港ではなんと日本語の案内も流れており、異国感は薄い。しかしタシケント行き飛行機の搭乗口付近の待合室には中央アジアの人々と思われる、コーカソイドモンゴロイドが入り混じった風貌の人々が多くみられる。こういう異国感のあふれる光景は何回見てもニヤニヤしてしまう。搭乗の待機列に並んでいると、青年がいて、電話で流暢な日本語を話している。少し話しかけてみることにした。

「日本語話されるんですね、どちらからいらっしゃったのですか」

「私はウズベキスタンから来ました、日本に留学していたのですが、これからウズベキスタンに帰るんです」

「そうでしたか、日本語がお上手ですね」

「日本で学びました」彼は照れくさそうに笑った。

「日本はどういう国という印象でしたか?」まあこれもお決まりの質問である。

「日本人は皆急いでいるという印象ですねえ」

私もそう思う。イランの記事のエピローグでも触れたが、日本人は常に何かに追われているような表情をして街を歩いている人が多い。何をそんなに急がなければいけないのか。社会の進歩のため?昇進のため?お金のため?本当に大事なものを自分の頭で考えず、社会の命令に従っているだけでは永遠に人として二流のままである。

ウズベキスタンでおすすめの食べ物は?」

シャシリクですね。おいしいですよ」

「ありがとう、またいつかお会いしましょう」

一人旅行の醍醐味は、「他人と話すこと」である。二人くらいまでならぎりぎりなんとかなるが、グループが3人以上になると、たいていの場合現地の人と対話するという楽しみはほぼ消滅する。大学生ぐらいまでは他人との対話を避けて自分の世界という殻にこもっていた気がするけれども、自分との対話はもう一生分やったという自負だけはある。だからこれからはより多くの人と接することで自分の内面を変革していきたいと思っている。もっとも、「話しかける人」自体に選択圧がかかっているので、これはそれなりに恣意的なものであるといわざるを得ないが。この青年はおそらくビザで日本に来ていたがビザが切れてしまったのだろう。日本にいる短期間のうちにこれだけの日本語を話せるようになるのだ、彼は間違いなく優秀なはずである。思うに人の能力というのは本人の才能ではなく環境でほとんどが決まってしまう節がある。有能でありながら社会の辺縁に生まれ、決して日の目を見ることなく一生を終える人がいる一方で、良い家柄に生まれたというだけで社会の中枢までいとも簡単に上り詰める人間もいる。世界というのは本当に無慈悲で残酷なものである。せめてこの青年に良い運命が待ち受けていることを祈りたい。

アシアナ航空タシケント便は、やや機体が古く、シートもモケットが分厚い旧型のものであるため、その分シートピッチが圧迫されてあまり快適とは言えない。まあそれも一興かもしれない。それでは早速この青空に音楽を響き渡らせることにしよう。ゆっくりと移りゆく眼下の景色を見ながら音楽を聴くのは最高のひとときである。

عسى الله يأخذ أحبابها

次第に日が暮れていくのが見える。ウイグルの上空あたりを飛んでいると暗闇の大地にはまるで星のように町のあかりが瞬いている。あの美しい街の明かりのもとで何が行われているかを想像すると、街灯のまたたきすら人々の叫びのように見えてくる。天山山脈を越えるとタシケントはすぐである。美しく輝く夜景が見えてすばらしい。

f:id:le_muguet:20210629023846j:plain

タシケントはもうすぐ

タシケントの空港に到着すると、なんだかがらんとした空港で人口密度が低い。日本から来たと思われる人々が散見されるが、女子旅率が高い。別にいいんだけど、海外でコーカソイド風の男性にホイホイ尻尾を振り、日本の女性は尻軽であるという印象を抱かせるような真似だけは本当に慎んだほうがいいと思う(地球の歩き方にも同じようなことが書いてある)。日本人女性特有の雰囲気は欧米人男性の心をくすぐるのかもしれないが、欧米から来た海外旅行客がけっこうピシッとした格好をしている一方で彼らがリゾート気分のような服装をしているのを見ると、これはさすがに犯罪にあっても仕方がないんじゃないかと思わされる時もある。それでもまあ、楽しみを共有できる友人と旅行に行けたら、きっと素晴らしい思い出になるんだろうな。羨ましくもある。

 

砂漠の国で緯度も40度台であるから、夜はそれなりの寒さを覚悟していたのだけども、そこまででもなくて拍子抜けする。入国審査ゲートを出るとなんと空港の職員が、空港を出たところでドライバーが待っているといっていろいろ案内してくれた。両替所でやる気のなさそうな女性職員に両替をお願いし、別の窓口でSIMカード(Ucell)を購入する。なおウズベキスタンのモバイル事情であるが、ネット上に詳しい情報が載っているとは思うが、国土のカバー率的に圧倒的にUcellがおすすめらしい。値段は失念してしまったが、常識の範囲内と記憶している。ネット上では携帯の設定を職員にしてもらう必要があると書いてあったものの、購入したSIMカードを携帯に挿入するだけですぐに起動できた。

タシケントの空港は一国の首都が擁する空港としてはかなり小さい。空港出口では客の到着を待つ観光ガイドであふれている。私もご多分に漏れずその一人である。人のよさそうなガイドの車に乗り込み、本日の宿へ向かう。空港から市街地へ向かう道路は青、白、そして緑というウズベキスタンの国旗の色でライトアップされている。市街地の電飾もこの3色が目立つ。このガイド曰く

Hyatt Regency Tashkentか。あたらしくていいホテルだね」

タシケントはとても治安がいい、夜に散歩するのも面白いと思うよ」

確かに夜の町を歩く人はまばらだが、柄の悪そうな人がたむろしている様子は見受けられない。そしてこう付け加えた。

ウズベキスタンはとてもいい国だ、きっとあなたの気に入ると思うよ」

f:id:le_muguet:20210629024140j:plain
f:id:le_muguet:20210629024228j:plain
左:タシケント空港 右:青・白・緑の3色に輝く街灯

ホテルに到着してチェックイン。確かに新しくて美しいホテルである。

過去の経験から、ホテルの質は旅行の質を決定するのはほぼ間違いないと思っており、今回の旅行で滞在するホテルはすべて自分で選んだ。1日のうち半分程度の時間はホテルで過ごすのだから、当たり前といえば当たり前なのだけど、案外見逃されがちな事実な気がする。異国の地に来て本来くつろぐべき場所で無駄な緊張を強いられ、次の日に無駄な疲れを残すのは本当に意味のないことだと思う。

どういうわけかスイートルームが予約されており、一人でがらんとした広い部屋を行ったり来たりして、調度品やシャワールームの美しさににやにやしながら時を過ごした(高級ホテルの滞在に慣れている人から見れば大したことはないのかもしれない、貧乏人の嗜みということで生暖かい目で見守っていただければ幸いです)。テレビをつけると映るチャネルはロシア系もしくはアラブ系メディアが多い。ここはれっきとしたイスラム圏であることを認識させられた。

f:id:le_muguet:20210629024438j:plain
f:id:le_muguet:20210629024533j:plain
左:ホテルのロビー 右:部屋は広くて快適

次の日は朝早くからヒヴァに移動する日程なので、早めに寝ることにする。

 

ウズベキスタン旅行(0) プロローグ

中央アジアの国、ウズベキスタンは、最近でこそ(といってもコロナ禍の前のことではあるが)インスタ映え(笑)的な旅行で女性に人気が出てきたものの、観光地としてはやはりマイナーな部類に入る国である。

過去にイランを旅行した際、ウズベキスタンもよいかもしれないと思っていたが、サマルカンドの有名なマドラサのエイヴァーンに描かれたモンゴル人風の顔がなんだかシュールで、イスラーム美術としては明らかに異端で洗練に欠けるという印象を受けた。その上、イランの建築美術のすばらしさ、人々のやさしさ、町を流れる音楽、そういった情感があまりにも忘れがたいものであったため、イラン旅行を超える体験はできないのではないかと思い、海外旅行への意欲が虚脱していた。しかしそれから3年も経つとかつての記憶も薄れ、イランとはまた微妙に異なった手作り感のある趣の青いタイルで装飾されたウズベキスタンの建築群もまた、魅力的に見えてくるようになるものである。

海外旅行というのは海外の生活にお邪魔させていただき、少しだけその雰囲気を体験させてもらう、そういったものであると思っている。限られた時間でより深い体験をするには、事前にその国の文化や歴史を紐解くことが肝要だと思っている。もちろんただ美しいとか、○○ヵ国に旅行したとか、インスタ映えとか、そういうこともモチベーションとしては大切なのかもしれないが、やはりそれだけでは30近くになった人間のやることとしては奥行きに欠ける。

かつては世界史になどみじんも興味がなかったが、地球の歩き方をはじめとした海外旅行のガイドブックを開くと、有名な遺跡にはたいてい由緒がある。ピラミッドはクフ王により建てられたものだとか、ペルセポリスアレキサンダー大王に略奪されたアケメネス朝の遺跡だとか、そういうかんじのものである。単にモニュメントの歴史的由来を知るということも重要だし、歴史というのは大変示唆に富むもので、それがまた興味を引く。歴史を学ぶことで、歴史上の人物の栄枯盛衰を通して、人間のはかなくも愛しい営為を追体験することになる。古典を紐解けば、自分が何か悩みに突き当たったり、解決できそうもない問題に頭を抱えたりするときに、歴史上の人物が時を超えて語り掛けてくるような感じがして、なんだか心強くなる。そういう血の通ったあたたかさが、文系の学問にはある。点数化して人の実力を測るにはあまり向いていないかもしれないし、私も受験科目としては苦手だったし興味がなかったが、近年は文学とか歴史とかそういったものの価値を再認識しているし、こういうものが人間というものの存在に奥行きを与えていると思う。

さていつものことだが話が逸れた。ウズベキスタンというのは1990年代になって旧ソ連の一員であったウズベクソビエト社会主義共和国から独立した国であるが、この地の歴史は大変長い。

ウズベキスタンの位置する地域の通称である、マーワラーアンナフル(ما وراء النهر:アラビア語で川の向こうの意)は古くからイラン文化圏の辺縁としてイランの影響を強く受けつつ、地元のテュルク系の人々の文化がまじりあって歴史が紡がれてきた地域である。シャー・ナーメではテュルク系民族トゥーラーンとして書かれ、トゥーラーンの英雄アフロースィヤーブの名前はサマルカンドの「アフラシャブの丘」の地名に見ることができる。

ウマイヤ朝により征服されたのちは、この地にイスラームが根付いていくことになる。アッバース朝の地方政権を由来とするサーマーン朝の中心都市として発展したブハラでは、この地域の最古のイスラーム建築のひとつ、イスマーイール・サーマーニー廟をみることができる。カラハン朝、ホラズム・シャー朝の支配ののち、この地はチンギス・ハン率いるモンゴルによって著しく破壊され荒廃したという。

モンゴルの征服後、チャガタイ・ハン国の支配を経て、この地域に突如登場したのがティムールという男である。ティムールはテュルク系言語で鉄を意味するらしい。文字通り鉄の男ティムールは戦争ではほぼ全戦全勝に近い戦績を誇る圧倒的な英雄であったという。征服した地域で捉えた職人をサマルカンドに連れ帰り、そこで大規模な建築事業を行った。サマルカンドでは素晴らしい建築文化が花開き、グーリー・アミール廟をはじめとしたティムール朝時代の大規模な建造物がみられる。ティムール朝はそれほど長くは続かず、ウズベク族により征服されてしまう(ので、ティムールがウズベキスタンの英雄というのは本来?であるらしい。)

その後テュルク系王朝、もしくはイラン系王朝の支配が続いたこの地であるが、次第に強大化したロシアにより保護領化され滅亡の運命をたどることになる。現在ウズベキスタンの市街地に残るロシア風の町並みから、その強い影響を見ることができるが、ロシア人は地元の人々の住む街を破壊せず、その辺縁に新しい市街を作ることを選んだため、現在でもブハラやサマルカンドで情感あふれる古い町並みを堪能することができる。

f:id:le_muguet:20210628025234j:plain

ブハラの町並み


 

 

実は、このウズベキスタン旅行は自分にとって初めての一人海外旅行であった。それ以外にも2019年という年はよくも悪くも自分にとって試練の年であり、それは今なお自分の人生に先の見えない影を落としている。何年も経過したのちに振り返れば解決済みか、どうでも良くなる類のものなのかもしれないが、こういうのは目に見える形で記録しておくというのが大切なように思われるので、敢えてこのような形で言及しておきたい。

そのころ聴いていたクウェートの歌姫(といってもおばさんだが)Nawal(نوال)の"قضى عمري(私の時を過ごした≒時が過ぎた の意)"を聞くと、当時の記憶や自分の考えていたこと、さまざまな感情が色鮮やかに思い出される。興味を持たれた方はネットに出ている歌詞をGoogle翻訳にでも投入してほしい。すべてが明らかになるだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=_ry_WDr_yTI

この言葉がしかるべき人に届くことを祈る。

 

 

تغيير

再び表題をアラビア語にしてみた。

تغيير(taghiir)

これはغيّر(変える)の動名詞形で、変化という意味。

同じく変化という単語にはتغيُّرというものもあるが、こちらはتغيّر(変わる)という意味の動名詞なので、どちらかというと自動詞的な意味が強い。表題のتغييرはより主体的なchangeというわけだ。

 

まあそんなことはどうでも良い。

 

何度も繰り返し書いているから読者の皆様はきっとうんざりされていることとは思うが、小中高とあまりいい目を見て生きてこなかったので、かつての自分から抜け出したいという意思は昔からあった。小心者で実行力もなくコミュ力も低く、人をまとめる能力がない。器用貧乏で意思が弱く飽き性で何事も続かない。協調性や社会的貢献に対する興味に至っては皆無である(まあ後者の二つはもうDNAレベルで刻み込まれていて、実際社会貢献やボランティア活動などお世辞にも全く興味がないので別にいいのだが…社会貢献大好き系の方々からは到底理解されないだろう。)

不本意な形ではあったが大学受験という大きな関門をくぐり抜けたあと、私には何も残っていなかった。あの頃の自分は荒れ果てた平原のようだった。当時の様子を知人から聞くに、周囲の人間からは明らかに浮いて呆然としていたらしい。そのころの自分の写真を見てみると確かに笑顔がなく暗い顔をしていてウケる。

 

その頃の自分は、ただ何も考えずに山ばかり登っていた。某大学某学部では体育会系の部活に入り、体育会系の上位下達の精神を涵養することが当然の流れとなっていたが、残念ながら私の気質には合うはずもなく、当然の如く去る羽目になった。特に個々人に対して恨みがあったわけではない。部活よりもやりたいことがたくさんあったし、部活動という因循姑息なシステム、それを変えることよりも従順であることを要求する空気に息苦しさを感じた。(その部活を紹介してくれた友人にはちょっと申し訳ないくらい辛辣な言い方になってしまっているが…すみません)。その頃の自分にとってはそれもまた大きな決断だったと思う。下界では冷たい人々に愛想笑いをして生きていかなければならないが、山に行けば美しい森林や高山植物、動物がいつも出迎えてくれる。悪天候や災害はどんな人に対しても平等に訪れ、人を地位や好みで差別することもない。厳しい自然を好む人々は心が優しくおおらかで、一人で山に乗り込み、山で出会った人々と話すことが私の救いだった。

 

大学4年生の頃、北アルプスを1週間で縦走するという計画を実行に移していた私は、とある人に出会うことになる。よく引き締まった壮年の男性。なんと自分と同じ大学出身であった。大変気前の良い彼はなんと北アルプスの登山口から私を東京まで車で送迎してくださった。当時の自分は受験の失敗から回復しきっておらず、「自分の人生はどん底ですよ」ということを自嘲気味に話したように思う。その時の彼の言葉は、「今がどん底ならこれから良くなるしかないと思えばいい」だったはずだ。暗闇でうずくまっていた自分の心に、その瞬間圧倒的な光明が差したことをよく覚えている。人のせいにはしたくないが、私の家族は某学部に子供を入れるという選択が正しかったことを主張するばかりで、モウロ将軍に対するムスカの言葉ではないが、心底うんざりさせられていた(親の名誉のためにも、その主張は必ずしも間違ってはいないこと、そして身近な人のアドバイスほど案外心に響きにくいことは断っておきたいが)ので、彼の発想は自分にとって革命以外のなにものでもなかったのだ。そうだ。今の自分は戦争後の焼け野原。これから自分の思い描く未来を作っていくんだ。何もないのだから、何でも作れる。そう思った。彼と別れ際に交わした握手、その手の大きさがよく記憶に残っている。この人には感謝しきれないくらい、今でも感謝している。

 

ようやく光が差した大地でふと考えたのは、「自分は何がしたかったのか」だった。周囲に流され、周りのご機嫌を取るためにしたこの選択が、自己肯定感を満たすことは1mmもなかった。今自分がここにいるのは親が自分に残した教育という遺産のお陰である。そこに自分の意思・オリジナリティはない。その遺産を自分の考えた方法で活用し運用していくことによって初めて自分自身の人生ということができるはずだ。言うならば今の自分は親の遺産を食い潰して生きているだけの状態。このままではいけない。変化しなくてはならない。自分のやりたいこと。自分のすべきことは何か。このままレールの上を走っていていいわけがないと思った。何かオリジナリティのあることをやりたい。そしてかつての失敗の損失分を埋めて、より優れた人間となりたいと思った。そこでふと思ったのが語学だった。今まで〇〇語をやりたいという大学生特有の希望的観測で物事を語りながらも、それを実行に移すことは決してなかった。私には努力の才能が欠如していたからだ。しかし自分を変化させるためには、そういう根本的な悪癖を完膚なきまでに破壊し、粉砕し、上書きしなければならない。正直語学というのは昔からあまり得意ではなかったが、毎日何らかの形で継続することに力を注いだ。今やフランス語なら会話の練習が圧倒的に不足しているがまあできると言っても差し支えない程度にはできるし、アラビア語の方もお陰様で苦労しつつもニュースが読める程度にはなっている。ロシア語の文法も格変化に悩まされながらも一通りは理解した。自分がここまでできるとは、思っていなかった。振り返ると普通に某学部に入ったら順当に進むであろう道を走っている人とはかなり違うポジションに自分がいるような気がして、まるで自転車で登ってきた峠を振り返るような、少しばかりの達成感がある。かつての荒野にも少しは植物が生い茂っているのかもしれない。

しかし、まだ語学を身につけたと言っても、所詮はまだ趣味レベルの域を抜け出せていないかもしれない。語学は手段であって、大事なのはそれを用いて何を成すか、である。自分はまだその段階には達していない。〇〇語は〇〇などと無教養な人間に自慢げに説いている自称教養人がいるが、そんなものは何の意味もない。自分がその言語が扱えないことに対する負け惜しみのようなものだ。何を成すべきか。何ができるか。そもそも本当にできるのか。それは私にもわからない。自身を過小評価しすぎなのかもしれないが、かつて過大評価しすぎて必要な努力を怠り、痛い失敗をした経験から、そう自分の能力を高く見積もることはできそうもない。しかし、フランス語に至ってはもう6年ほど続けている計算になるので、そろそろ何かを成すべき時に来ているのではないか。何をなすべきか、そしてそのために必要なパズルのピースが揃っているかを、今は検討すべき時な気がする。

 

きっと昔の自分から何一つ変わってないことはたくさんあるだろう。最初に挙げた悪癖のうち半分くらいはおそらく治っていない。そもそもこの文章に漂う過去志向自体、昔から何一つ変わっていないような気もする。旧知の人に久しぶりにあったときに「相変わらずだ」と言われるのは正直辛い。しかし自分の歩みが自分自身の人生を変化させる可能性に、今は賭けてみたいと思っている。

 

C64 インプレッション

全く今までの記事とは方向性が違うが、趣味で自転車をやっていて、このたびようやく新車が納入されたので、そのインプレッションを簡単にしていきたい。

自転車に関するブログというのは往々にして自慢になってしまいがちなので避けたいと思っていたが、インターネット上ではあまり自分とおなじ機材を使っている人が見当たらないので、これから同じ機材を使う人は参考にしていただければと思う。ただし脚力も体力も大したことないので、あまり参考にならないかもしれない。

◆主な機材編成

フレーム:Colnago C64 Disc 520S

コンポーネントCampagnolo Super Record 12S disc 機械式 50-34T, 11-32T

                             ディスクブレーキローター径 160mm-160mm

ホイール:Fulcrum  Racing Zero Carbon CMPTZN disc

ハンドル:Deda Alanera DCR

サドル:Most LYNX carbon

タイヤ:Schwalbe Pro One tubeless easy 25C

 

◆インプレッション

・フレーム

巷で硬い硬いと騒がれていたが、意外にしなりを感じる。C59よりは柔らかく、一点に固定されたクランクを必死にクルクル回す感じであったC59と比べると、ペダリングはかなりしやすい。しかしながらラグフレームなだけあって、フレームの隅の硬さはしっかり残っている印象。後述のホイールの特性もあって高速巡航がいまいちだが、他者のインプレッションを見ていると高速域での爆発力があるらしいので、これは完全にホイールのせいだろう。ボーラウルトラなどに履き替えれば全く違った印象になるはずだ。登り坂では絶妙なしなりで進行方向に吸い込まれるような快適なペダリングができ、どんな峠でも越えられそうな気がしてくる。フォークの安定性が際立っていて、高速コーナーでも全くビビりが出ない。この点ではピナレロのドグマよりも優れているように思う。

 

コンポーネント

今回のバイクはあらゆる峠を苦なく登れるようにとのことでフロントはコンパクト、リアはより大きなギアを採用した。このバイクで特筆すべきはやはりこののコンポだろう。リアの変速性能は元から文句ないが、今までシマノの105並みと揶揄されていたフロント変速は、確実にデュラエースに比肩するまでになっている。今までのカンパのフロント変速のようにチェーンリングにガリガリとチェーンを押し付けてようやく変速するような感覚は皆無で、シフトボタンを一旦奥まで押し込めば何もせず勝手に変速するというのは今までのカンパユーザーとしてはちょっと感動的である。私の言うことが信じられないなら近所の自転車屋でカンパ12sで組まれた自転車を触ってみると良い。

もう一つ特筆すべきはブレーキフィールで、シマノのディスクブレーキを触った時はその制動力の立ち上がりの急さとモッサリしたフィーリングに首を捻ったが、カンパのディスクブレーキは握った力に対してリニアに制動力が発揮され、しかも以前のカンパと比較して制動力の絶対値も高い。これは本当に素晴らしい。このブレーキフィールのためにカンパを選んだ価値があったというものである。ただし部品調達の関係でディスクブレーキのローターは前後とも160mmになっているので、後ろを140mmにしたら少し違うかもしれない。現在のカンパのディスクブレーキはローター径に応じてエルゴパワーの部分まで別仕様になっているらしく、種類が増えすぎて大変だそう。そして最近この12sには公式にはアナウンスされていないが微妙なマイナーチェンジがあって、ミネラルオイルの種類変更やリーチアジャスト機構の省略などが行われているらしい。圧倒的にマイナーチェンジ前のバージョンが推奨される。

カンパニョーロは以前から一部の玄人に好んで使用されているが、12sのシフトフィール、ブレーキフィールは本当に素晴らしい。そして変速操作そのものが好きなので機械式にこだわったが、これもやっぱり正解であった。シフトフィールは素晴らしく、それでいて余計な力はいらないので、電動変速の必要性に首を捻ってしまうほどだ。デジタル時計がどれほど発達しても機械式時計の魅力が決してなくなることがないのと同じように、どれほど電動変速が人口に膾炙しても機械式変速の魅力は衰えることがない。

 

・ホイール

登り坂でのペダリングの軽さと初速の軽さが際立っている代わりに、時速30キロを超えるあたりから加速が鈍化する。フレームのポテンシャル的にはここからが本番のはずなのでホイールのせいでは?と思って調べてみると、Twitter上でもレーゼロカーボンDBに対しては同じ意見を見つけることが出来るので、やはりそうなのだろう。まあ、この自転車は上り坂の軽さを追い求めた組み合わせだし、そもそも私はあまり高速巡航しないので自分には関係ないかもしれないが、高速巡航性を求めるならあまりこのホイールは得策ではないかもしれない。おそらくフロントに極太スポークが21本もあるせいだろう。コーナーリングでは特に違和感はない。

 

・ハンドル

昨年ツール優勝者のポガチャルも使っていたという例のハンドル、デダのアラネラ(ケーブル内装に対応したバージョン、DCR)である。下ハンの剛性はやや低く、思いっきり押すと結構たわむ。自分が持っているGDRの245という剛性最強の絶版カーボンハンドルと比べると剛性の低さが目立つが、まあ所詮は一体型ハンドル、カッコの方が大事ということだろう。個人的には重量があと30グラムくらい増加してもいいからもっと剛性が高い方がいいかも。

 

・サドル

コルナゴの自転車に敢えてピナレロのサドルをつけてみるという蛮行であるが、このサドル、結構座り心地がいい。特に後ろ乗りの時はまるでソファに座っているような座り心地で結構好きなんだよな。

 

・タイヤ

過去のサイスポのインプレでも好評であったシュワルベのプロワン。25Cであるが、レーゼロカーボンに装着すると太さは大体26mm程度になる。これは素晴らしいタイヤ。5〜6気圧くらいで走った印象だが、振動の減衰は早く、グリップ力は高い。転がり抵抗も軽くコロコロと走れる。文句があるとすればリムとの密着性がやや低く、大きな段差を超えるとリムとタイヤの間からシーラントが飛び出すことがあること、チューブレスにしてはやや空気の抜けが早いこと。そしてもう一つのネックは価格だろう。

اختيار

前回の記事更新からだいぶ経ってしまった。

 

コロナ禍という状況、かつ日本政府のワクチン周りの動きが異様に遅いせいで身動きが取れず、趣味であった海外旅行も封じられ、あまり生き甲斐という生き甲斐が見出せずにいる。

 

思えばかつての自分というのは自分の世界で完結していたので、あまり他者というものを必要としていなかった。おそらく大部分は自分のせいなのだろうが、小学校、中学校、高校とあまり常に行動を共にする友人やよき理解者はいなかった。思春期特有の自意識過剰さもあるのだろう、同級生たちはどこか私を斜めな目で見ているように思えてならなかった。しかし人間というのは孤独に次第に適応していくもので、なるべく他者とは関わらずに、人と関わらずに楽しみや生きがいを得る方法を身につけていったように思う。他者との交流の窓口を閉ざし、自分の心を閉ざす。そして安泰だが閉鎖的な心の空間が出来上がる。そうやって私という人間はできていった。それにとどめを刺したのは大学受験だっただろうか。あまり振り返りたくもないが、2度の人生の失敗は人生に対する絶望感を与え、その後数年間、やる気が出なかった。絶望の味というのはそれを味わったものにしかわからない、屈辱的な味がする。周りの人々は恋愛だ学生生活だなどと楽しんでいる中、私は絶海の孤島のように取り残されていた。そんな自分を、生々しい人との関わりの中で生きていく、本来の人間的な生き方をしていく世界に再び引き込んだのは、やっぱりイランへの旅行という選択だった。大袈裟ではなく間違いなく人生の転機であったように思う。あの国に行くことを選択していなければ、おそらく自分の人生は違うものになっていた。

 

さて、表題のاختيارとはアラビア語で選択の意である。

アラビア語にしたのは単なる気分で、それ以上の意味はない。

選択。

 

思えば自分の選択というのは常に迷いに満ちていた。正しいと思った選択や、熟慮の上決断したと思えることでも、数ヶ月や数年のうちに自分の間違いが露呈して、やるせなくなるということは幾度となく経験された。そのたびに自分が選ばなかった方の選択は美しく、輝いているように思われる。他人の判断に従った結果の失敗であれば他人のせいにしたくなるし、他人の判断に逆らって決断し失敗した暁には、「それ見たことか」という周囲の声が聞こえてくるような感じがして居た堪れなくなる。「決断力」のある人はいったいどのようにして生きているのか。迷いはないのか。たまにそういう人と話をすることがあるが、彼らは常に自信に満ちているように見える。そういう彼らは私にとってうらやましくもあるが、どうやったら彼らのようになれるのか?全く想像はつかない。

 

思えば人生の中で一番決定的だった選択は進路、職業選択だろうか。

大学受験から10年以上経った今思うのは、本当に自分の選択が正しかったのかよくわからないということ。資格があれば人生が安泰だとか、そういう周囲の言説に騙され、受験業界の巧言に騙されて某学部に入ったけれども、本当にそれが正しかったのかはわからない。もしかしたらもっと良い選択肢があったのかもしれない。しかし今考えてもそれはよくわからない。なりたいものとかやりたいことというのはすぐに移り変わっていくものだし、自分のやりたいことに対して才能に恵まれている保証もない。それだったら結局一応資格を持っておくというのも間違ってはいないのかもしれない。結局自分の中に確固たる信念を持っていない人間は、周囲の言説に振り回されて生きるしかないのだ。数学が得意でありながら裁判官になりたいと言って文系に進んだ同期や、圧倒的な優秀さで今や准教授の地位についているという噂の同期を横目に、いったい自分は何をしているんだろうと思わずにはいられない。しかし他に何をやるというのか?従順なサラリーマン?意識の高い起業家?朝から晩まで読書に耽る文学者?戦地に赴くジャーナリスト?自分は一体何に適性があるというのか。まあ、こうやって他者と比較する癖がついていること自体がよくないことなのかもしれない。それに、そもそもこのようなことで悩まなければならないのは日本という国が職業を変えることに対して極めて非寛容な社会システムを持っているからで、別の国に生まれたらこんなことで悩むこともないのかもしれないし、それこそサルトルの言うように我々は自由の刑に処せられている"L'homme est condamné à être libre"ので、あるいは選択の自由なんて最初からない方が楽なのかもしれぬ。

 

自分の答えは、外界からの雑音をシャットアウトし、自分の心の発する僅かな叫びに耳を傾けることでしか見つけられないのだろうか?そんなことは可能だろうか?何かを目指す圧倒的なモチベーションはそもそも自分の中にあるのだろうか?

今の自分に必要なのは、他者の推奨する選択ではなく他者の反対を押し切って何かを成し遂げるという強い意志であり、如何なる時も自分の選択を疑わないという強固なメンタルであり、その選択をして実際に成功を掴み取るという経験なのかもしれない。