Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

雑談と教養

かつて初期研修医をしていたとき、とある非臨床系診療科を回ったことがある。

 

その診断室ではクラシック音楽が流れており、大変博識だった部長の先生は音楽から哲学、世界史に至るまで幅広い雑談に花を咲かせていた。前の月まで回っていた診療科では、人々は常に仕事の話ばかりしていて、ようやく雑談が始まったと思ったら下品な飲み会の話や低俗な噂話や耳を塞ぎたくなるような下ネタでうんざりしていたものだ。このような環境で精神的にやや参っていた私は、チャイコフスキーについて語ったり、古代オリエントについての歴史談義に耽ったり、春になり冬眠から出てきたカエルの写真を見ながら啓蟄を感じたりする空間で、草木がまともに育たないツンドラから豊かな緑の生い茂る温帯にたどり着いたような安心感を覚えた。短い期間だったが、毎日そこで仕事をし、学び、また時に雑談に加わるのが楽しく、研修だけでなく日々の生活も充実した。あの診断室には間違いなく、文化の香りがした。

 

道端に街路樹や植え込みがあるのは、人工的な景色に自然な優しさを与えるためだ。建築物に一見不要と思われる装飾を施すのは、小さな芸術が生活に彩りを与えるからだ。同じように、教養や雑学というのは、生産性だけ考えれば全く意味のないことなのかもしれないが、日々の会話にまさに植え込みに咲く花や建築物の装飾のような彩りを添える。文化的であるというのはそういうことである。もし路上から街路樹や植え込みを取り払えば我々はアスファルトとコンクリートだけを目にしながら道を歩くことになるし、建築物は人を匿うだけのただの箱になってしまうだろう。それは生活にとっては必要十分であっても、本当に人間的な生活と言えるだろうか。

 

忙しい職種ほど、職業以外のことを考えなくなるのはある意味当然の事かもしれない。本業以外のことについて考える時間や余裕がない。考える時間と気力を奪われた人は仕事のことしか考えることができなくなり、さらに仕事に没頭していくことになる。つまり思考するツールを奪われた人がますます隷属的立場に置かれるという悪循環に陥っているわけだが、一度その悪循環にはまると、もはや抜け出すことができず、自身が隷属的立場にあるということすら認識することができなくなってしまう。

 

確かに、若手のうちは仕事の技術を身につけることが最優先という考え方はあるだろう。自分の職業の社会における偏りや立ち位置について立ち止まって冷静に考察することには意味のないことという人や、そういうことを考えること自体反抗的で気に入らないという人にはこれまでいくらでも遭遇してきたし、副業や週休3日制という話が出てきた現代では多少マシにはなったかもしれないにせよ、確実にそういう人はこれからも存在するだろう。仕事を疎かにしては間違いなく生活は立ち行かないし、どんな時も仕事の話をするのは仕事に対して真摯に取り組んでいる証左であるかもしれない。それは自分に欠けている部分かもしれず、反省の余地はある。しかしながら、仕事と一見関係なさそうなマージナルな部分がなければ、それこそツンドラの大地に放逐されるのと同じようなもので、文化的には無に等しい。最低限度の生活というのは健康で文化的なものだ。文化がないというのは人として死んでいるのに近い。(それに、命令に忠実で目の前のことしか考えられない人間ばかりを重用し、考える人材を育てなかった結果が今の日本の斜陽を招いたのも多分事実だろうが…それはまた別の話。)

 

仕事が大切なのになぜそれ以外の話をする必要があるのか。そういう質問を投げかけられたことがある。当時そのような質問をする人の存在を想定していなかった自分は呆気に取られ、なんと答えて良いかがわからなかった。自分が教養ある人やそういう話が飛び交う空間を豊かだと感じる理由をよく考えていなかった部分もある。しかし、今ならきっとその質問にも答えることができるのではないかと思っている。あなたは道端に草木の生えない道を永遠に歩き続けたいと思いますか、という質問を、逆に投げかけてみたい。私はやっぱり、多種多様な花が道端に咲き乱れた道を歩きたいと思う。それこそ高山植物の咲き乱れる登山道のように。そしてそれは意味のあることなのだと伝えられれば。