2016/2/24
午前中:イスファハーン観光
12:00ごろ イスファハーン空港
13:30 Iran Airtour 943便でマシュハドへ
イランホテル泊
本日は午前中は再びバーザールを観光し、午後は空の便でマシュハドへ移動する。
昨日目星をつけたものを買いに行くために再びイマーム広場のバーザールに向かう。友人とは昨日お世話になったおじさんのお店で待ち合わせさせていただくこととし、個人で自由行動(買い物)をすることにした。昨日と比べると少し雲が多く風が強い。そして心なしか人が多い気がする。小学校や中学校の社会科見学、芝生でピクニックをする人たち。多くの人たちでにぎわっている。ここはイスファハーン市民にとっては世界史の学びの場であり、ペルシアの栄光を鼓舞する場所であり、憩いの場でもあるのだろう。確かにこの建造物の規模は日本の有名な古都京都ですら比較にならないほどで、あらためてため息が出る。
昨日よさそうだと思ったミーナ・カーリーのお店を何点か回ってみると、一つ大変美しいものを見つけた。青と茶色を基調としたポットで、今までみたものよりもはるかに模様が繊細で美しい。お店の人に聞いてみると「これはオールド・マスターが作ったものだ」という。大きいものと小さいものがあり、大きいものは100ドルほどだという。はじめて心から気に入ったものを見つけたので、価格交渉してみる。100→50→75→70ドルで、結局70ドルで落ち着いた。(今更だが、イランはアメリカと断交しているものの、おみやげ店ではUSDがかなりの確率で使える。)
値段が決まると、店の人が「Congratulations!」といって握手してくれた。丁寧に包んでもらったポットをザックの中にしまい、お店を後にする。ペルシア絨毯のうちで大きさや値段が手ごろなものを買えれば、と思っていたが、美しいシルク製の青色の絨毯は1000ドルオーバーだったので、今回は遠慮しておいた。値段や大きさの点では、ミーナ・カーリーのほうがお土産品として優れていると思う。余った時間で、去るのが名残惜しいイマーム広場の写真をたくさん撮った。
昨日お世話になったお店に集合すると、友人は小さなミーナ・カーリーの小さなコーヒーカップのセットを買ったという。また広場では謎のイラン人に「日本はなぜアメリカの言いなりなのか」などという質問をされたのだという。(まあここまで欧米に追い込まれてもなお自らの主張を曲げないイランという国の人々にとっては、他国にこびへつらってばかりの日本が理解できないのも当然だろう。日本は資源がない弱小国家であり、生き残りのためには主張を捨てるのはやむを得ないことだと思う。そこはそれなりに面積のある国家で、資源も豊富なイランとは違う。日本では自分の意見をはっきり述べることはよしとされないということも、これを助長していると思われる。)
2日間お世話になった絨毯店のおじさんとしっかり握手をして去る。いつになるかはわからないけど、私はきっとまたこの国を訪れるだろう。そのときまでどうか達者でいてほしいと願う。偉大な文化と寛容な精神の宿る土地。本当に素晴らしいところだった。
ホテルのフロントに預けていた荷物を回収し、タクシーで空港に向かう。空港までの景色はほとんど記憶にない。イスファハーン空港はこれといって特徴のない地方都市の空港といった趣。
古びた機体に乗り込んで1時間ほどであっという間にマシュハドの空港である。空港を降りるとどこか暖かさを感じるシーラーズや圧倒的な文化都市イスファハーンとは違った、少しピリピリした雰囲気が町に漂っている。かなりの大都会で、近くに山とか丘という自然の造形があまり見当たらず、殺風景な雰囲気だ。さっさとタクシーを拾って本日の宿、イランホテルにチェックインする。
マシュハドとは殉教地を意味する(アラビア語の語根sh-h-dは示すとか殉教するとかいう意味を持つ。マシュハドはこの語根から派生した単語)。8代目エマーム・レザーの殉教地であり、イラクのナジャフやカルバラー、イラン革命の震源地コムと並んでシーア派の重要な聖地のひとつとされている。
マシュハドの宿はかなり取りにくいことがあるので直前にならないとどうなるかわからない、と旅行会社の方が言っていたが、宿とれました、それなりに綺麗でよいホテルだと思いますよーとのことだった。イランホテルは4つ星のホテルで、外装はややオンボロであるが絶賛改装中。部屋は広いというよりだだっ広く、シャワー室が妙に簡素なのが印象的だった。
荷物を置いてマシュハドのほぼ唯一かつ最大の観光(巡礼)スポット、ハラメ・モタッハル広場に向かう。ハラムの中に入る際に「camera mamnu3(カメラ禁止)(3はʕ、すなわち有声咽頭摩擦音を示す)」と説明されカメラを預けることになるが、スマホはどういうわけか回収されないので、スマホで内部の写真を撮ることは可能だ。外国人入口というものもあって、そちらを通ると案内人がつくらしいが、我々はどうやら巡礼者に見えたらしく、特に何のお咎めもなく巡礼者として入ることができた。
モスクや聖地はムスリム以外入域禁止となっている国がかなり多い。たとえば聖地メッカやマディーナはムスリム以外入域不可能だし、2019年に旅したウズベキスタンでもモスクとして現在使用されている場所には基本的に入れてくれなかった。オマーンでも観光客がモスクに入れる時間帯は限定されていた。イランという国はこの辺に非常に寛容で、名だたるモスクや聖地には非ムスリムも入ることが許されている。これはある意味例外的な寛容さなのかもしれない。イラクに行ったことがないのでよくわからないが。
ハラムの建築はティムール朝にさかのぼるかなり古い部分もあるが新しい部分も多くみられ、訪問当時大きなミナレットが工事中だった。ここは歴史的なモニュメントではなく、今なお多数の巡礼者を迎え入れ、拡張され続けている場所なのだと実感する。
エマーム・レザーの棺は黄金のドームの中にあり、銀色の柵でおおわれている。ドーム内は神聖な色とされている緑色の光を放つシャンデリアで照らされている。多くの人がこの銀の柵に触れてご利益にあやかろうと押し合いへし合いしており、室内はすごい熱気だ。持ち込んだスマホのカメラでレザーの聖墓の写真を撮ろうとする人もいるが、監視員のような人が先に毛の生えた棒みたいなものでそっと牽制される。私もこっそり写真を撮った。
人々はレザーの棺を安置する銀の柵に触れた後も、右胸に手を当てて敬意を示し、何度も棺に向かって礼をしながら少しずつこの空間を後にしていく。訪れる人々の敬虔さがうかがわれる。なお、この空間に連続してまるでシャー・チェラーグ廟のような鏡の空間があったが、撮影は忘れてしまった。
このハラムにはいくらかの博物館が付属している。かつて使われていたレザーの棺を覆うための銀柵や、どういうわけか魚の剥製まで展示されている、割と謎な博物館がある。絨毯博物館というのもあり、こちらは繊細な模様の描かれた巨大な絨毯が多数展示されていて圧巻だった。
いったんホテルに戻りしばし休憩。マシュハドはサフランの名産地でもあり、市街には赤いサフランの袋詰めを売っている店が多数みられる。残念ながら食事をできそうな店がなさそうなので、ホテル内のレストランで夕食をすませた記憶がある。夕食を済ませたのち、再度日没の時間にハラムに向かうことにした。
黄昏時のハラムは集団礼拝のため多くの人が集まってきており、緊張感のある雰囲気だ。礼拝の方法などはまったく学んでいなかったので、我々は集団礼拝の様子を呆気にとられながら眺めていた。中には集団礼拝に加わっていない人も少しいて、なんだか温度差が感じられる。
礼拝が終わって少しゆるんだ空気の中、ハラム内を散策してみる。黄金のドームやティムール朝時代に作られたという青いドームが美しくライトアップされていて、昼に来るのとはまた違った趣がある。
バーザールに寄ってからホテルに戻ることにする。ここのバーザールは規模も小さく、お土産品のようなものはサフラン以外ほとんどない。香水売りのおっさんにムエットを渡された。中東では香水文化が深く根付いているという話を聞いたことがあるが、どうも本当のようだ。
イスファハーンとマシュハドの都市の雰囲気の違いには正直圧倒された。マシュハドの乾いたよそよそしい雰囲気は、観光客である我々には刺々しく感じられ正直居心地が悪い。聖地を訪れる人々の熱気に疲れた我々は、さっさと眠りについた。