Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

イラン旅行(11) エピローグ:イランという国

今から考えれば、イランに旅行する遠いきっかけは2015年に南フランスを旅行したことだったように思う。旅行自体はニース、アヴィニヨン、リヨンを回るごく短いものだったが、エールフランス航空に登場した際に飛行機内の音楽ラジオをつけてみた際、"Moyen Orient"というジャンルが目に入った。当時フランス語など大してわからなかった自分は目にしたことのない文字の配列に興味を持ち、そのチャネルをつけてみた。すると突然今まで聞いたこともないような音楽が耳に入ってきた。短調とも長調とも捉え難い謎の音階で、男性のみならず女性もカワイさではなく力強さで勝負するスタイルの歌声、そして聞いたこともないような打楽器。その出会いは頭を破壊されるような体験で、フランス旅行の初日では頭の中でその音楽がいつまでもこだまして離れなかった。

アラビア語を学びたいなどと豪語していたがいまいちモチベーションが上がらず燻った大学生活を送っていた私に、アラブ音楽との出会いはアラビア語を学習する強力なモチベーションを与えた(現在も苦しみながら勉強を継続している)。アラビア語を勉強するにあたり当然アラブ地域の地理を学ぶことになるわけだが、そこで出てきたのがイランという国である。普通の人であればイランとアラブの違いすら指摘できないようなところだが、このイランという国を調べれば調べるほど面白い(この経緯はプロローグに詳しく書いた)。そしてどういうわけか同時期に野町和嘉氏のPERSIAというイランの写真集を手にし、その国土の美しさと魅力にとりつかれた。そういうわけで大学の卒業旅行にイランを選んだわけである。つまりイランという地に導かれたのは、ほんの偶然の連鎖であったわけだ。

 

10泊12日という日程は、思った以上にあっという間に過ぎていった。街中や公共空間に流れる不思議な音楽、見たこともないような乾いた景色、街の看板を埋めるナスタアリーク書体、絢爛な建築物の装飾。ヨーロッパの観光地しか知らなかった私にとっては全てが衝撃で、非日常的な体験だった。しかしそれ以上に素晴らしかったのは、イランでの人々との出会いだった。

見知らぬ日本人にかつての恩返しにとイスファハーンを案内してくれたおじさん、謎の議論を持ちかけようと試みる勉強熱心な青年、突然求婚してくる美人大学生、嬉しそうに外国人観光客に手を振る女子小学生の集団。私が目撃したイランという国の姿はこういうものだった。皆フレンドリーで気さくで、ホスピタリティに富み、そして文化的であり、それぞれの人生を楽しんでいた。ぼったくりを敢行したシーラーズ空港の売店の女性、法外な値段を吹っかけてきたタクシー運転手、「チュンチョンチャン!」を連呼するタブリーズの少年、後ろ指をさしたヤズドの女性二人組…悪い思い出もそれなりにあるはずであるが、それも含めてイラン旅行で私に残ったものの多くは、美しい景色ではなく人との出会いの記憶である。

見知らぬ土地を旅する人々に興味を持ち、手を差し伸べることを厭わず、様々な話をしようとする人々の姿勢は、どこか他人と深く関わることを避けようとする日本社会や、観光客を斜めな目で見るヨーロッパ人とは全く違った。人を下に見るということをせずに異質な人々を尊重し、親しくなろうというその姿勢はまさに本来我々が持っていたはずの人間の美徳そのものだった。それは社会を生きていくための仮面を作り上げていくうちに失ってしまったものかもしれないし、そもそも自分には備わっていなかったものかもしれない。それでもそんな彼らに出会って、初めて人間というものの素晴らしい側面に気付いたかもしれない、と思う。そして今まで意識的にか無意識にか捨象していた人とのつながりというものの大切さを自覚した。

 

イランという国を実際に歩き、人々と接したあとで、日本という国のあり方についても考えさせられる場面は多かった。日本という国は、新興国の台頭によりかつてほどの勢いはないものの先進国の一角であり、経済大国の一つということになっている。勤勉さは美徳であり、働くことは喜びであり、休暇を取ることは悪であり、人々は2週間をこえる休暇を取ることは滅多にない。必然的に自分を追い込み、自殺者は多くなる。しかしながらテレビをつければ「日本の技術力は世界一」だとか、「日本は世界で一番治安の良い国だ」などと嘯いており、日本の社会通念や社会システムそのものに疑念を抱かせるようなものは何一つない。もし日本を批判するような内容があるとすればそれはほぼ常に、「欧米では〜、しかし日本は〜」という文脈で語られるだろう。

私もかつてはテレビの内容を信じて日本は素晴らしく治安が良く技術は世界一で勤勉な国だと思ってきた。ある程度大きくなり、時代が進んで日本の退潮が露見しても、治安が良いとか勤勉だとかそういう部分ではあまり疑念を持ったことがなかった。しかしながら、その日本人が見向きもしないような貧しい国イランでは、人々は表情豊かで、フレンドリーで、自分たちの人生を楽しんでいるように見えた。貧しい国は大抵治安が悪いと思い込んでいたが、街は驚くほど平和で、日本に勝るとも劣らなかった。日本に帰ってくると、道ゆく人の表情はよそよそしく、暗く、常に見えない義務に追われる焦りと疲労に満ちている。日本は戦後の高度経済成長で豊かになったというが、我々は経済的な豊かさで何を手に入れたのか。経済的に満ち足りたことで衣食足りて礼節を知るよろしく人々の心が豊かになるどころか、経済システムを回すための駒に成り下がり、本当に大切なものを忘れてしまっているのではないか。大切なものとは日々を楽しみ、人生を楽しみ、他者との邂逅を楽しむ時間的な余裕であり、それに豊かさを見出す心なのではないか。そしてそれを見出すためのヒントは、日本の中や我々が崇敬する欧米諸国ではなく、我々が目を向けようともしない「発展途上国(この言い回し自体好きではないのだが…)」にこそあるのではないか。そんなことを考えさせられた。

 

イランは表向きにはいまだにアメリカと鋭く対立しており、ウランの濃縮だとかイスラエルとの戦争といったきな臭い話題は絶えない。もちろんこれは国際社会における被害者という側面が大きいように思うが、政治においては革命防衛隊が実権を持っていると言われており、イエメンやシリア、イラクに対する介入など、白い部分だけでこの国を語ることはできないというのもまた事実だろう。しかしながら、欧米のイメージだけでこの国を語るのはあまりにも間違った試みである。実際に足を運び、現地の人と話せばそれはすぐにわかる。問題は我々が正しい情報に触れていないために彼らに接しようとすらしないこと、日本人には彼らに接するための時間を含め、社会的義務以外のことを考え実行する時間が与えられていないことだろう。

 

なお、地球の歩き方のイラン編は、かつてはかなりの分厚さと内容を誇る本であったというが、バムで起きた誘拐事件のせいかケルマーンやバローチェスターン州は外務省の渡航注意情報で赤く塗られるようになり、それと前後して大きくページ数が削減されてしまったそうだ。我々がイランに行く頃には厚さ5㎜程度の小冊子になってしまい、載っているのも我々が旅した都市の情報しかない程度のものになってしまっっていた。交通手段や宿泊施設の手配をお願いしたイラン専門の旅行会社のお姉さんは昔の地球の歩き方を我々に見せつつ「昔はこんなに厚かったんですけどねえ」などと嘆いていたことが思い出される。その誘拐事件はほんの言い訳にすぎず、本当は某大国に対する忖度があったのではないかと邪推してしまうのは致し方ないことだろう。

 

かつて「インドを旅行すれば世界観が変わる!」などと豪語していた大学生を薄っぺらだと嘲笑していたものだが、そういう自分もまた偶然の連鎖によりイランという国を実際に歩いて、自分の人生や、自分が生きている社会について再考するきっかけを持つことになってしまった。結局は私も旅行で人生観を変えてしまうような薄っぺらな人間の一人であったというわけだ。しかしそれはとてもポジティブな体験として、これからも思い出されるだろう。私は大学生時代バックパッカーをやっていたわけでもないので、訪れた地域はそれほど多いわけではない。これから自分のまだ見ぬ世界を見て、出会ったことのないような人々や価値観と会いたい。そして自分の狭く凝り固まった世界観を壊し、再構築していきたい。それが世界の姿に近づくための歩みだと私は信じる。

 

最後に忙しい中この旅に同行してくれた友人A氏、我々の無理な要求にこたえてくださったペルシアツアーのM.S.様をはじめとした方々、そして何より旅先のイランで我々とかかわった現地のすべての人々に感謝の意を述べて、この旅行記の総括としたい。イランの旅行がこれほど心に残ったのは間違いなく彼らのフレンドリーさとホスピタリティのおかげである。この体験は一生忘れることはないだろう。本当にありがとうございました。

そしていつかまたお会いしましょう。