Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

le cri

今回の表題は文字通りの叫びである。

と言ってもかの有名なムンクの叫びではない。もっと一般的なことである。いや、そういう意味ではムンクの叫びも関係があるのかもしれないが。

 

高校時代くらいに他人のブログを指を咥えてみていた頃、こう言っては申し訳ないが彼らは何がしたいのかと思っていた。自分の行い、考えたこと、それらを記録したいのだろうか?それとも自分の活動を人に見せびらかしたいのか。人に見せるという行為を伴っている以上、当時の自分にはそれらは多かれ少なかれ自己顕示的な成分が含まれているように思われた。まあ昔の話なので、少しムッときた読者もどうかお許しいただきたい。

 

ところが歳を取ると(と言っても所詮はアラサーの若造ではあるが)物事の見方も立場も変わってくるもので、私もすでにブログを書く側の人間である。いったい誰が尋ね当たるのかというほど他のブログとの関連性も希薄であるが、それでもやっぱりこのようにブツブツと思ったことを書いている。何が自分をそうさせるのか。考えていると思い当たることがあった。それが表題の「叫び」である。

 

人間は元来孤独である。自分くらいの年齢ではちょうど結婚ラッシュで、私のような独り身を嘲笑うかのように日々幸せそうな結婚の報告を見るが(自分の蒔いた種という謗りは甘んじて受ける)、どれほど友人の数を自慢しても、満足できるパートナーを他人に顕示しても人間は孤独である。自分と全く同じ人間は存在せず、心から通じ合っている仲間などというのは実のところほんの一握りで、そういう人にしても友人を場面によって使い分けているのが実情だろう。そう考えた時ようやく理解した。だから叫ぶのだと。それはこの世界のどこかにいるはずの自分のよき理解者を、そして共感を求める叫びである。そして自身を理解してもらうことのできなかった相手への理解を求める叫びである。他人のいいねの数を誇るとか、閲覧数を稼いで云々とかそういうよりもっと奥底にある衝動なんだと思う。いや、根っこのところは同じという考えもあるかもしれないが、本当に同じであったならば、たとえば負け犬は遠吠えをしたりするだろうか?

 

このブログも結局のところそういう目的で設立した。私がこのブログを設立したのはただ過去の記録を残すためだけではない。それは届いてほしい声があり、伝えたい内容があり、よき共感者を求めているからだ。残念ながらこれくらいの年齢になると、そういう声というのは本当に届かせるべき人には届かないことも、朧げながら理解している。このブログでたまに書き綴る雑感にしても、自分の記事を読んでくださる人のほとんどはすでにある程度自分のことを「理解してくれている」人だろう。そうでない人にはどれほど自分の主張の正当性、とまではいかなくてもこういう考え方があることをせめて認めてほしい、と訴えても決して届かない。過去を振り返ってもそうだったし、それはきっとこれからも同じだろう。最も声を届かせたい人には決して到達しない叫び。それでもブログというものを通して私は叫ぶ。そうせずにはいられないからだ。

 

ブログだけではない。芸術も文学もきっとそうだろう。誰かが自身の最大の理解者になってくれるかもしれない。それは今すぐかもしれないし、1000年経ってからかもしれない。それでもその一人のために、彼らは叫んでいるのだろう。そう思うと、世の中に溢れる叫びというのが、正しい形で報われることを祈りたい気持ちになった。