Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

メキシコ(9) ウシュマル・カバー

2/26

ウシュマル・カバー観光

マヤの家庭訪問

メリダ空港へ

1810(1930) AM837 MID発

2025(2145) MEX 第2ターミナル到着

 

2/27 0100 NH179 MEX 第1ターミナル発

2/28 0645 NRT 第一ターミナル着

 

長かったメキシコ旅行も、本日が最終日と思うと少し名残惜しい。腹痛と発熱に苦しんだプエブラも、スペイン語がわからない中で必死にコミュニケーションを取って色々なところを回ったクエツァランももう、あっという間に過ぎ去ってしまった。大変に感慨深い。

ホテルメリダのパティオ

起床して荷物をまとめる。本日はウシュマル・カバー遺跡を訪問したのち、そのまま空港へ連れて行ってもらい、日本への帰途につくことになっている。朝7時半にレストランに行き、昨日対応してくれた青年から本日の朝食を受け取る。パンケーキ3枚。厚くお礼申し上げ、チップを払いホテルをあとにした。メリダがなぜ人々に支持されるのか、ようやくわかってきた気がする。ゆったりとした空気、治安の良さ。日本ではカンクンに紛れて全くと言っていいほど知られていないが、とても魅力のある町だと思う。

 

さて、本日出迎えてくれたガイドはいかにもイケイケといった感じのおっさんで、サングラスが似合う。本日はまずウシュマル遺跡へ。ついでカバー遺跡に向かう。近くのマヤの家庭を訪問し、ランチ。最後にメリダの空港まで送迎していただくという日程である。

 

ホテルを出て、まずは南方へ、ウシュマルに向かう。昨日の団体ツアーはなかなか楽しかったが、それでもやはり個人ツアーは変な気を使わないので大変気が楽だ。他人との会話は楽しいが、その分消耗は免れない。本日は小型車の後方座席をゆったりと使わせていただき、いただいたパンケーキを食べる。1時間ほどで、ウシュマル遺跡に到着。

このツアーが素晴らしかったのは、遺跡などの入場料はすべて込みだったこと。参考までにウシュマル遺跡の掲示には、530ペソと書いてあった。チチェン・イッツァほどではないにせよ、やはりここもかなりの入場料である。まるでチームラボ。チチェン・イッツァとの大きな違いは、構内に出店の類が全くないことで、静かに遺跡の観光を楽しむことができる。玄人向けの遺跡である。

入場するとまず大きな井戸のような構造物が。これは、雨季に降った水を地中にためておくための設備だという。雨季には多くの雨が降るが、乾季にはほとんど雨の降らないこの地域では、雨季に降った雨を貯めておくことが重要であった。このような施設は近傍の遺跡にも見られ、後ほど訪問するカバー遺跡でもみることができた。そして正面には魔法使いのピラミッドが。このピラミッドは断面が四角形ではなく、楕円形に近い形、いうならば競技場のトラックのような形をしていることが最大の特徴である。

魔法使いのピラミッド

ガイドがこのピラミッドの前で手を叩くと、「シューン!」という不思議な反響音が。これは計算されたものとも、材質が石灰岩であるからとも言われる。よくみるとピラミッドの斜面にイグアナがへばりついている。

魔法使いのピラミッドを回り込むと、プウク様式に特徴的な鋭角のアーチが残されている。一部は崩れてしまっているが、その断面を見ると1つの角が鈍角である三角形の石を積み上げることによって、このアーチが形作られていることがわかり興味深い。この構造物を回り込むと、ユム・チャック(雨の神)の顔がたくさん彫られた建築物が見られる。ユム・チャックはアステカではトラロックと言われ、マヤでは大きな顎と涙、そして特徴的な長い鼻を持つ。この建物の横を通って、尼僧院の広場に出た。

プウク様式のアーチと、ユム・チャックの彫刻が施された建築

尼僧院の広場

 

この尼僧院はウシュマル遺跡のハイライトとも言える建築である。北と南、西と東のそれぞれの面にファサードがあるが、その高さや意匠はそれぞれ異なっている。マヤの世界では二元論が信じられていた。光と闇。西と東。北と南といった具合であり、それぞれの方位が対になり別々の役割を持つと考えられていた。この尼僧院は人々に農耕や天文学などを教える、教育施設だったと考えられているそうだ。

壁面には格子模様や渦巻き模様に混じってククルカンなどの神の彫刻が刻まれている、典型的なプウク様式の建築である(プウクとはマヤ語で高台を意味する)。東面には何やら小型のカメのような甲羅に小さな笑顔の不思議な生物が。この建物を建築設計したXiu氏のレリーフなのだという。このXiu氏の末裔は現在もOxkutzcabという町に住んでいるとのことだが、なんと本日、そのXiu氏の末裔というおばあさんが子供たちを連れてこの遺跡に来ていた。

精緻な模様で装飾された尼僧院の建物

左はマヤ文字の石碑。右のカメの甲羅に顔が付いた彫刻は、この建築をデザインしたXiu氏のものらしい

中央がXiu氏。マヤの伝統衣装をまとっている

 

南面ファサードにあるアーチを抜けると、小さな球技場へ。この球技場はガイド氏曰く「子供向けの球技場」で、子供が成長するとチチェン・イッツァに送られ、生贄の球技をすることになったらしい。先ほどの尼僧院が少し高台にあるのに対し、この球技場は一段低いところにある。近くにある建物もそうだが、この辺りは子供の教育施設、学校のようなものだったようだ。

一段低いところにある球戯場。ピラミッドを振り返る

再び階段を登って高台に出る。こちらには総督の館と呼ばれる、非常に立派な建造物がある。ここは王族の住居であったようだ。広場には双頭のジャガーの像と、地中に斜めに埋まっている棒状の構造物がある。双頭ジャガー像はペルセポリスにおけるホマーのようで、ちょっと面白いが、こちらのジャガーは左右で頭の高さが明瞭に異なる。これもマヤ的二元論の表れだろうか。後者の斜めに埋まった構造物は男根の象徴とも言われているらしい。総督の館の奥には亀の館と呼ばれる、可愛らしいカメの装飾が施された小さな建造物があり、ここは老人の住むところであったらしい。

威容を誇る総督の館
双頭のジャガーと、亀の館

昨日も紹介したように、マヤの社会には明瞭な階級があった。階級が高いものの居所は標高の高いところに、低いものの居所は標高の低いところに定められていたようだ。この総督の館・亀の館の高台を降り、裏手に回り込むとピラミッドがある。このエリアは発掘調査が完了していないらしく、黄色いkeep outのテープが貼られていた。このあたりでウシュマル遺跡を後にすることになった。

遺跡ではイグアナを多く見かけた

ウシュマル遺跡は、その規模自体はチチェン・イッツァと比較するとやや小さいもののそれぞれの建築の完成度は高く、またその保存状態は大変良い。お土産物屋もないためそれほど観光地化されていない印象を受け、じっくりと遺跡観光を楽しむことができた。

 

さて、次はウシュマル遺跡のほど近くにあるカバー遺跡である。カバーというのは何かの覆いではない。Kabah(マヤ語で、強い手の意味)である。こちらもウシュマルと同様、プウク様式の建物が見られるが、カバーが王族の居所であったとすれば、こちらは軍隊の居所であったとガイドは言う。小規模な遺跡で、ユム・チャックの顔が埋め尽くされていることで有名なコズ・ホープは、残念ながら修復中。この建物の前の広場には、ウシュマルでも見られた井戸状の構造物が見られる。「強い手」の由来となった像は、足場にかけられたビニールシートの隙間からみることができるのみであった。

ユム・チャックの顔が壁を埋め尽くすコズ・ホープ

バンド状になった細い通路から、宮殿跡へ。宮殿には地位の高い人が住み、その周囲には調理場などもあったらしく、皿なども発見されているという。

宮殿跡

道路の対岸には未修復のピラミッド様構造物が見える

ガイドはこの遺跡の車道を挟んで対岸にあるアーチを一人で見てくるように私に言う。あまり整備されていない道を行く。この遺跡は現在修復中で、修復中の建物の奥には木の生えた大きなピラミッドも見えるが、観光地として公開されるのはこれからなのだろう。さらに奥に進むとガイドの言っていたアーチが見えてきた。かつて祭祀センター同士を繋ぐ道があり、このようなアーチが設けられていたらしい。

 

次はマヤの家庭を実際に訪問することができるという。

昨日チチェン・イッツァに向かうときバスの車窓から藁葺き屋根の家々が見え、彼らの生活様式は大いに気になっていた。彼はとある集落に車を止め、藁葺き屋根の家が並ぶうちの一つに私を導いてくれた。出迎えてくれたのはMaas Cocomさん。純血のマヤ族である。鼻が高く鼻筋がよく通っており、パレンケの王、パカル王のレリーフにそっくりの顔貌。90歳とは思えないほど矍鑠としている。彼は伝統的な治療法を行う医者、すなわちこの地に生えている植物由来の成分を用いて薬の調合を行う知識を持っており、現代医療では治療できないような疾患を治すことができるという。実際に足が膨れて壊死してしまった青年の治療を彼が引き受け、その青年の足は治癒したらしい。その治療費はわずか300ペソ。莫大な費用のかかる現代医療とは桁違いである。彼の功績を讃える州から贈られた表彰状が、彼の家に飾られていた。なお、彼曰く若さの秘訣は「女性だね!」だそうである。これだけは万国共通か。笑。

Maas Cocomさんが出迎えてくれた

マヤの伝統的な家庭には2つの大きな藁葺き屋根の家屋がある(その横には小さな藁葺き屋根のトイレがある)。1つは寝室。こちらは壁を藁と漆喰を混ぜた材料で作った白い壁を持ち、虫などを通さないようになっている。彼らはハンモックで寝るそうだが、家の骨格を保持する木は丈夫にできておりハンモックを吊るしても簡単には折れない。家の内部にはおそらくグアダルーペ聖母像が飾られた簡素な祭壇とタンスが置かれていた。

こちらは寝室。藁葺き屋根の天井は、整然と編まれている

もう一つの家屋はリビング・ダイニングに相当する家屋で、壁は漆喰ではなく枝でできており、風通しが良くなっている。マヤの家庭では火を一日中つけっぱなしにするらしいので、酸素を取り入れる役割もあるのだろう。風通しのいいログハウス風の建物は、この気温の高いマヤの地においては何の違和感もなく現代の日常生活に溶け込んでいる。

こちらはリビング・ダイニングに相当する

家屋の周囲には、殺菌作用のあるタバコ、実を乾燥して容器として使用するJicaraやアボカド、チューインガムの木やパパイヤなど、生活に有用な植物がたくさん植えられていた。彼らはいまだに半分自給自足に近い生活を送っているのだろう。

チューインガムの木と、パパイヤ、タバコ

果実が有用な植物、Jicaraも庭に植えられていた

500年前にスペイン人が侵攻し、改宗を強要されてもなおマヤの人々は伝統的な生活様式を頑なに守り続けているというわけである。彼には家に上げさせてもらったお礼として15ペソをお渡しした(本当は20ペソをお渡ししたかったが、20ペソ札を持っていなかった)。

 

本日のレストランは、マヤの伝統的な藁葺き屋根を模した建築。昨日や一昨日とは異なりビュッフェ形式ではなかったが、これまた多くの欧米人観光客でごった返していた。

食事はなかなかの美味で、空腹に効く。飲み物代はどうせ有料なのだろうが、喉が大変乾いていたのでタマリンドジュースを注文。色はあまり綺麗ではないが、適度な酸味が効いており味はおいしい。

とんがり帽子を被せられ、テキーラを一気飲みする謎イベントが発生したが、一気に飲む前にむせてしまい飲むのに時間がかかってしまった。

本日のツアーも、もうあとは空港に向かうのみである。彼と彼の家族が住むというムナの町に寄り、カボチャの種をすりつぶした食料を受け取っていた。これをさまざまな食べ物に混ぜて使うらしい。しばらくのドライブで、空港に到達した。彼にお礼申し上げ、50ペソをチップとして渡した。

 

さて、あとは日本に戻るだけだが、まだ気は抜けない。メリダの空港のチェックイン機は2台あったが、一台は1300メキシコペソを払う直前でフリーズし、もう片方はタッチパネルが死んでいる。流石はメキシコである。有人カウンターで荷物を預けるが、check-in luggageはどういうわけか別料金を徴収されなかった。チェックイン機で荷物の手続きをすると1万円以上取られるのに、有人カウンターで手続きすると無料なのか?正直よくわからない。そしてなんと席が用意できないから空港に入って待てという。どこかのHPには「アエロメヒコはチェックインしないと高率にダブルブッキングが発生します」とか書いてあったなあ、帰れなかったらどうしようなどと気を揉んでいたら席が取れたようである。

メリダの空港内は広く、のんびりとした雰囲気

チェックインし、荷物検査を済ませ空港内へ。ネット上の情報ではアエロメヒコとANAは荷物のスルーができないという話が出ていたので、メキシコシティの空港で荷物を回収し、ANAのカウンターで再び預けることにした。空港はのんびりした雰囲気で、土産物屋が充実している。オアハカの名産・バロネグロが売っており、かねてから欲しいと思っていたので1つ買うことにした。イランで買ったような形状のポット、350ペソなり。買ったはいいものの包装はいい加減だし、箱も付いていなかったのがなんだかメキシカンクオリティで微笑ましいが、持って帰るのには神経を使う。飛行機はなんと出発が1時間以上遅れるという。かなり余裕を持って計画をしたつもりだったが、もしさらに遅れてANAの便に間に合わなかったらどうするのかと気を揉む。アナウンスはスペイン語のみで電光掲示板の情報も最新でないため、空港カウンターの人に直接尋ねて情報を得る。本来の出発予定の1時間後にようやく飛行機の搭乗が開始され、19時30分にメリダを出発。

飛行機がさらに遅れるのではとヒヤヒヤしていた

21時45分ごろに飛行機はメキシコシティの空港第2ターミナルに到着した。ターミナル間の移動手段としてはモノレール、バス、タクシーがあるが、モノレールがどこにあるのかよくわからなかったので空港バスに乗る。運賃は25ペソかかるが、まあいいだろう。10分ほどで第1ターミナルに到着。

バスで第一ターミナルへ。第一ターミナルの建物は古く、多くの店はすでに閉まっていた

初日に降り立ったのと同じあの空港、このボロさにもかえってちょっとした懐かしさすら感じる。飛行機が遅れたり席が取れなさそうだったりして最後まで気が抜けなかったが、ここまでくると安堵感がある。ああこの旅行ももう終わりか、と思うと感慨深さと一抹の寂しさを覚えた。それはメキシコという国に対する愛着、思慕の念だったのかもしれない。

 

ビジネスクラスのラウンジは、空港の建物自体が古いためお世辞にも綺麗とは言えないが簡単な食事と水分、そしてシャワーを浴びることができた。時間になったので、23番ゲートへ。飛行機に乗り込み、人生初のビジネスクラスである。旅行の最後にまで新鮮な体験を事欠かず、飽きることのない仕様である(完全な自己満足ではあるが)。

離陸前にジュースやシャンパンといった簡単な飲み物が出されるが、離陸のタイミングまでに飲み切ることができず少しこぼしてしまった。

ビジネスクラスは人生初である

離陸直後には夜のメキシコシティのあかりが、まるで地面にちりばめられた宝石のようにまたたいていた。山の裾野に見えるこの家々はきっとスラム街のそれだろう。しかしながら遠くから眺めると、それは宝石のように輝いて見えるのだな。大変に感慨深い。

これはAM837の車窓から見たメキシコシティの夜景。一番きれいに撮れた、メキシコシティの夜景

ビジネスクラスの席はフルフラットになるので、横になって寝ることができる。また、飲み物の選択肢も豊富で、食事も定時に出される食事のほかに任意のタイミングで軽食を注文できる。夕飯を抜いておりお腹が空いていたので、牛すき焼き定食を注文。ついでにロゼワインを注文した。食事が終わり、少しずつワインを飲んでいくつもりだったが、強い眠気に襲われてそのまま寝てしまった。

こだわりの食事をいただくことができる

フルフラットになった座席からの景色

15時間弱のフライトはなかなかの長丁場であったが、次第に夜が明けて(日付変更線を跨いているので、この表現も妙だが)くると鹿島の工業地帯が見えてくる。

程なくして成田に到着し、帰途に就いた。

旅の終わり