Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

2025

 

2025年も残すところあと数日となった。

子育てというものはもちろん充実感もあるけれども、私からすっかり趣味と時間を奪い、思索を形にするエネルギーを奪ってしまった側面がある。よく通俗的には「置かれた場所で咲きなさい」だの「政治などの抽象的なことを考えるよりも、目の前のことに集中しろ」だの言われるけれども(そしてそういうナラティブは私はあまり好きではない)、それこそ子育ては「目の前のことに目を向け」させ、大きなことについて思考する余裕を奪う方向に作用することは偽り難い事実である。それでも依然として自分を自分らしくあらせようという意志のみは、捨てないでいるつもりである。ああ、もう最後に海外を訪れた日から、10ヶ月近く経ったんだな。

聞くところによると戦後80年だそうであるから、今回は「目の前のこと」ではなく、「もっと大きなこと」について、真剣な?物書きをしようと思う。

 

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かつて知人と政治について話していて、こんなセリフを聞いたことがある。

「デモやストライキを推奨するなんて危険な思想だ、やめた方がいい」

「政治家というのはみんな頑張っているのだから、彼らの言動を責めるべきではないと思う」

 

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首相が変わってからというもの、日々の悪い意味での目まぐるしさに生きた心地がしないのだが、謎に高支持率を維持しているらしく、多くの人の目にはどういうふうに映っているのか、全く想像がつかない。支持率の数字を見ても、全く実感がわかない。周囲に支持している人が全く見当たらないからだ。

 

官僚の書いた答弁書から自ら逸脱して地雷を踏み、その尻拭いを周囲の官僚や財界の人間にさせておきながら謝罪の言葉は一切なく、「自分の命は自分で守れ」などと自己責任論を吹聴する自己矛盾・自己欺瞞には心底驚嘆させられる。こんな人が自分の上司だったら、と想像するだけでただただ恐ろしい。そして今度は「核兵器を持つべき」などとの発言が飛び出した。保守を自称する人々が平和主義国家としての信頼を積み上げてきた先人の努力を灰燼に帰す発言の数々に、心底落胆させられる。

 

日本では自己責任論というのがとにかく叫ばれがちであるが、人々が自己の責任を自覚して行動するならまだしも、国民から頂いた税金で生きている政治家が、自己責任論を振り翳すのは筋が通らないと思う。自己責任というならばそもそも税金を取るべきではないし、ご自身の舌禍によってもたらされた経済的外交的損失は自分の財産と地を這うような謝罪で埋め合わせるべきである。最近の政治家はまるで自分のケツは自分で拭け、そして政治家のケツもお前らが拭けと言わんばかりの品位に欠ける物言いが目立つ。自分たちを選んだのは国民だからと居丈高に開き直るのだろうか?随分な他責思考で、見下げたものである。

 

国民を豊かにするための国の舵取りという、一番重要であるはずの国としての責任を放棄し、自己責任論を盾に国民に罪だけをなすりつけ、補助金ばかりがばら撒かれ、政府の補助金に集る怪しげな企業が蛆虫のように税金に群がり、怪しげなコンサルが跋扈する。現場で手を動かすことが忌避され、努力が嘲笑され、実直さが軽視され、システムをいかにしてハックするか、いかにして楽をしてゼニを増やすかばかりが注目される時代である。エアコンの効いた部屋で端末を操作するだけで利鞘が財布に転がり込む仕組みが国を挙げて推奨され、人々はその旨みに味を占め、誠実さを失いつつあるように見える。私の身の回りでも最近、ある日を境に突然仕事に対する誠実さを失い、不労所得の話を、キラキラした怪しげな目つきで嬉々として開帳し始める人が決して少なくなく、大変暗澹たる気持ちにさせられる。

始めた街中を歩けば古き良き街並みは根こそぎ破壊され、一部の巨大企業の手により、どこにでもあるようなつまらない高層建築が後先考えず雨後の筍のように林立し、それに補助金という形で血税が注ぎ込まれる。そしてその注ぎ込まれた血税で建てられた物件をダシに、人々は利鞘を求めて狂奔する。街中を歩けば戦前日本を礼賛する反動主義勢力や差別主義者が街中を跋扈する。政治は信者から強引な手法で献金を巻き上げ社会問題となってきたカルト宗教や、怪しげな反動主義勢力との関係を隠そうともせず、隣国では確実に刑事罰を免れないような汚職行為を暴露されても反省のそぶりすら見せずに開き直り、まるで腹話術人形のようにカルト宗教に似た怪しげな主張を復唱し、もはやかつての先進国であった日本は見る影もない。

 

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日本の歴史は80年おきに興亡を繰り返してきたという通称「80年史観」が半藤一利氏により提唱されているそうだ。世代が一巡することで、成功や失敗の記憶が世代から消えていき、同じことを繰り返すという仮説である。この国は逆境に置かれた時には集団で力を発揮し、困難に打ち勝とうとするけれども、その困難を打開し、うまく行き始めた途端に自己陶酔に陥り、過去に成功したスキームに拘泥し、反省もアップデートもせずに墜落への道を突き進む。これは「失敗の本質」でも繰り返し指摘されてきたことである。今はちょうど戦後80年。衰退に歯止めがかからない現在の状況は、まさにドンピシャというわけである。そして、その80年仮説においてちょうど折り返し地点となったのが、「バブル景気」なのではないか言われているし、私もそう思っている。

私が生まれた頃はすでにバブルが弾けていて、その残り香としてのバブルっぽい雰囲気だけが街を漂っていた。当時を生きていたわけではないのでその空気感は想像しかねる部分があるが、文献を紐解くに人々はマネーゲームに狂奔し、円高による購買力の上昇から不動産を買い漁っていたという。街ではディスコが流行り、怪しげなオカルトが流行った。そこにはただただ金銭的豊かさによる退廃だけがあり、知性に裏打ちされた慎重さというものは何も感じられないように思う。その時政治が何をしていたかと言えば中曽根政権がその国粋主義的な思想に基づいて国鉄労組解体に奔走し、それは偉大な見せしめとして労働組合を萎縮させ、労使協調という名の経営陣に対する労働組合の傀儡化が進み、人々はストライキを自主的に控えるようになり、自ら労働条件を改善する手段を放棄してしまった。その後日本は長い停滞に陥り、派遣という名の人の下に人を作るシステムで人々の生活はさらに切り詰められ、ITバブルの時も結局マネーゲーム以上のものは産まれることがなく、金融緩和という日本の再起のチャンスであったはずの政策は富裕層の所得を水増しするだけに終わり、何の技術革新ももたらさなかった。

浮ついたバブル時代の空気の中で、なぜ当時の人間が「通貨安で輸出し外貨を稼ぐ発展モデル」から「通貨高のもとで世界から信頼される様々な部門のセンターを作り、その手数料や権威の授与によって自らの価値を再生産する発展維持モデル(これはまさに米国が今やっているように、手数料を世界から巻き上げ、留学を通して自らの国のプラグマティックな思想を拡大輸出している)」にシフトできなかったのか、というのは、バブル時代の人々に対する私の最大の謎である。昭和天皇、本来この御方もなぜ戦争責任から免責されたのかというのはまた「無責任の体系」の象徴のようなところがあるけれども、彼が「通貨の価値が高くなるというのは、いいことではないのですか」と仰っていた言葉を正面から捉えることすら、当時の人々にはできなかったのである。高度経済成長とバブルの成功体験に味を占めた日本は産業構造を維持することに拘泥し、何度も通貨安の再来を試みたが、それはすでに他国が競争力を増す中で敢えて自国の価値をかつて発展途上国であった国々に並べるだけの愚策であった。もちろん、その産業構造の維持には利権がまるでゴルディアスの結び目のように絡みついていて、それとズブズブの自民党にはそれを解体再構築することなどできるはずはないのである。「一見ゴルディアスの結び目を切ったように見せかけて快哉を叫ぶ」政治家は過去にもいたが(それこそ郵政民営化の某首相)、その後日本に何をもたらしたかを考えると目も当てられない。

 

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さて、ここで冒頭の知人のセリフに戻る。

これらのセリフは近年のこの国に山積するまさに上記のような諸問題について話していた時に飛び出したものである。皆様はどう思われるだろうか。むしろその通りだと思う人も多いのだろうか?

私はまるでお上の言うことに楯突いてはいけない、権力構造の上位者ほどあらゆる責任から免れると言わんばかりのこれらの言説にも驚いたが、さらに唖然とするのは、これは世間的に見ればエリート階層の人間の言葉だということである。ならば、もし政治が誤った道を歩むことになった時、どうやって人々はその間違いを政治に訴えるのか?「正しいプロセスに従って」というが、そもそもその正しいプロセスを定義するのは権力の側ではないか?上位者ほど免責されるのであれば、誰がこの社会の行方に責任を取るのか?命令に従う側の人間ならともかく、人々を導く側の人間がこのような意識でいいのだろうか?

上記の2つのセリフは私の心に楔となって深く打ち込まれ、ただ強い違和感と論駁の必要性を感じただけでなく、なぜこのような思想が生まれるのかを探究する必要性を真剣に感じるようになった。折しも、怪しげな陰謀論や排外主義や歴史修正をカジュアルに繰り返す政党の躍進が目立つ時勢であった。危機感を持ち、あまり好きでなかった日本史や、日本文化論に関する本を紐解くことが多くなった。

 

個人の空虚さ、すなわち自分なりの行動原理や倫理規範を持たず、他者の行動や他者からの目に依存して自分の行動を決定するこの国の人々の性質は、多くの思想家や学者によって、たびたび指摘されてきたもののようである。まさにこれは河合隼雄の指摘した「中空構造」のことであろうか。

この中空構造は個々人の精神の構造だけでなく、この国の社会構造にまで及んでいるように見える。丸山眞男が「日本の思想」で提唱した、「無責任の体系」である。上位に位置するものほど責任が問われず、「抑圧の移譲」によって辺縁のものばかりが行動を求められ、責任を追及される。ここでは上位を政治家、下位のものを(特に政治とのコネクションもない)国民と考えるとわかりやすい。この際にナラティブとして多用されるのは、内田樹のいう、「『強いものは正しいから強いのだ、弱いものは間違っているから弱くなったのだ』という倒錯したトートロジー」である。

そしてさらに学びを進めていくうちに、このトートロジーは、深く日本人の通俗道徳に根ざすものであって、江戸期や明治期にはすでにその形を捉えることができるらしいというところまで至った。例えば安丸良夫「日本の近代化と民衆思想」によれば、石田梅岩石門心学や、二宮金次郎として有名な二宮尊徳報徳思想は、人々の貧しさの原因を人心の荒廃に求め、正しい行いをしていれば金銭的に豊かになることができるという思想が見て取れるということのようだ。

「あなたが誠実で勤勉であれば豊かさを手に入れ、あなたが放縦で自堕落な生活を送っていれば貧しくなる」。人々の精神が個人の地位や金銭的豊かさを保証するという、一見もっともらしくこの国では違和感なく受け入れられてしまいそうなこういった唯心論は、社会の構造や外的要因に目を向ければ無理筋で非論理的なものであることがすぐにわかるはずだが、社会システムについて大局的に考えるという視点がない市井の人々にとってはそれは難しかったのだろうか。通俗道徳に接続された思想であり、かつ正しい行いをさせて人々を既存の権力構造に取り込むという点で大変便利なものであったため、山縣有朋をはじめとする政治家によってある種のプロパガンダとして利用されたという。それは二宮金次郎像が小学校においていまだに残存していることからも、見ることができると思う。(私の育った小学校にも当然二宮金次郎像があった。報徳思想とそれが日本社会にもたらした悪影響に思い至った時、まるで二宮金次郎像がレーニン像や南米におけるコロンブス像のようにもみえ、こんなものさっさと壊してしまえばいいのにとすら思ったものだ。なおこの二宮金次郎像、最近は取り壊しや置き換えの風潮があるようだが、それは報徳思想の否定とは全く関係なく、本を読みながら歩くという「勤勉性の象徴」的な行為が「ながらスマホを助長する」かららしい。思想もクソもない実に現代的な理由で笑ってしまった)。そしてこの思想は人々の心の中で因果が逆転し、「地位が高いものは正しい精神を持っており、貧しいもの、地位の低いものは間違っているのだ」という言説を必然的に産むことになる。これが内田樹氏の指摘したトートロジーの正体である。

 

私の記憶によれば、2010年くらいまでは政治家はスキャンダルが露見するとその責任をとって辞めるのが普通であったように記憶しているのだが、かつてこの無責任の体系とか内田樹氏の指摘するトートロジー的な日本人の精神構造を悪用し、居直りに成功した宰相があった。マスコミで何を指摘されても無視し、国会での非難を逆に嘲笑し、自ら品性のないヤジで国会を愚弄した。その姿を長年見せつけられているうちに、人々は「偉い人は何をやっても許されるのだ」と思ったことだろう。高い地位にあるものはそれを濫用しようと思ったはずだし、抑圧されて生きてきた人は失意に打ちひしがれたはずである。そうやってトップが腐れば辺縁は腐っていく。根腐りした植物が全て枯れてしまうのと、全く同じことである。今や誰が見てもその根腐れが明らかな今の日本に、威勢の良い言葉と裏腹に空疎な価値しか持たないものが居座るのは、もはや時代の必然と言えるのかもしれない。

 

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マッカーサーは民主主義の発達段階において日本人を12歳の少年にたとえたという。日本を占領し指導にあたったマッカーサーは一時期「マッカーサー神社」や「マッカーサー銅像」を作る運動が起こるほどにもてはやされたが、日本人はこの言葉で一気に熱が冷めたというのが半藤氏の話である。まあ、為政者に対して常に暴走しないよう監視するという民主主義における国民の役割を放棄して、頂点に立ったものを崇拝するということしかできない幼稚性は、残念ながら12歳の少年以外の何者でもなかったのだということになる。

 

近年は歴史修正主義者や排外主義者が跳梁跋扈し、国の凋落から目を背け、日本すごいポルノで感動に耽り、自分たちの作り出した自分たちに都合の良い神話の紛い物を崇め奉ってオナニーする連中が幅を効かせている。現在の日本社会の何が問題なのかということを真剣に考えることが、この国が経済的に復興するための鍵であるはずなのに、愛国者を自称する連中に限って、解決すべき諸問題には決して目を向けようとしない。

 

我が家に生息する一歳半の嬰児は親に怒られても笑って誤魔化したり目を逸らしたりする有様でなかなか大変であるが、最近のこの国の人々の有様を見ていると、彼らはもはや大人になるためにもがく12歳の少年ですらなく、一歳半の嬰児という喩えの方が適切なのではないかとすら思えてくる。

マッカーサーよ、あなたの見立ては甘く、この国を高く見積りすぎていたのだった。そこには知日派としてこの国に対するあまりに温情的な評価があったのだろうと思う。それはある意味ありがたかったけれども、この国の宿痾や構造が温存され、結局同じ失敗を繰り返そうとしていることにもつながっている気がする。

 

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そもそも55年体制以降、ほとんど同一の政党ばかりが政権を担ってきたという現象からして明らかに何かがおかしいのであって、諸悪の根源はそこにあると言わざるを得ないのではないか。固着した結び目は、異なる理念体系を持つ政党にしか解き、もしくは切断し得ない。

しかし残念ながら近年人気を博するのは自民党の主張を一部取り出したり煮詰めたりしたものばかりで、そこにはオリジナリティなど微塵も感じられず、それ以前にオリジナリティを出そうとか理念からして1から考えようという気概自体が感じられない。それを対決より解決などと言い訳して、骨子の部分は与党に考えてもらって僅かにもたらした微修正をまるで針小棒大に自分たちの偉大な成果のように誇るさまは滑稽というほかない。

 

為政者に矛を向けることのできない臆病さを自分よりも弱いターゲットを見つけて袋叩きにすることで憂さ晴らしする卑屈さ、強いものを無批判に崇拝する幼稚さ、自分なりの信念体系を持ちそれを彫琢しようとすらしない臆病さ。こういった我々の欠点は先述のとおり、(それこそ保守を自称するならば知っていて当然のような)思想家によって度重なる指摘がされてきたものである。こういったものに向き合わないまま過去へのノスタルジーというリフレイン(コードギアスのアレ)を打ち続けたところで、いつまでたっても封建制の奴隷のままであり、決して民主主義の担い手にはなれないし、このスランプを乗り越えることもできないだろう。日本という「樹」が根腐れを起こしたのは当然かつてトップを務めた人間にも原因はあるが、それを生み出したのは国民であり、日本という「土壌」である。根腐れの治療や寄生虫の除去は当然必要であるが、「土壌」を改良しなければ根本的な原因は解決しない。そしてその土壌というのは我々に通底する通俗道徳であるはずである。我々は自らの奥底に流れる通俗道徳を反省し、悪いところは改め、廃棄していかなければならない。

 

 

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戦後80年の今年は、日本にとってまさに歴史のサイクルの一つの節目となりうる年だったのかもしれない。後から振り返れば今年の出来事のどこかにその「節目」が潜んでいるかもしれない。

冒頭の彼らのセリフを聞いたのがちょうど一年前くらいだったか。一方はSNSで、一方は飲み会で遭遇したので、当然対応も違った。前者は理論武装の希薄な拙い言葉で私の考えを投稿したが、後者ではあまりの自分の思想との懸隔に絶句し、何も答えられなかった。それから1年経ち、私なりに日本の通俗道徳や政治史について勉強し、これらの問題について一定の回答を得るに至ったつもりである。

最近この国が破滅に向かって突き進んでいる様、そしてこの状況で敢えて破滅に向かいますと叫んでいるも同然の宰相に熱狂する(?)国民を見ていると、いっそのことあの先の大戦のように、もう一度破滅に突き進むしかないのかとも思う。

人権は剥奪され、少数派は蹂躙され、愚かな人間の愚かな言動への服従を強要され、盲目的な集団の狂気に身を任せる、それが人々の望みであるならば、もはやもう一度破滅するしかない。しかしながら今度破滅した時に、マッカーサーという良心的な人がやってきて、それなりに良心的な統治をしてくれる保証はどこにもない。良心を持たない国において更なる収奪的な統治が行われる可能性も当然考えなければいけない。しかしそういう時にも多分この国の人は簡単にやってきた占領者を両手をあげて崇めるのだろうか?それこそ、戦前の愛国おじさんや国防婦人会おばさんが敗戦した途端に自由と民主主義を説くようになったように。これもまた丸山眞男が指摘していたことで、それをわかりやすく書いたのがはだしのゲンというだけのことである。本当に救いがない。

 

焼け野原の中傷だらけで立ち上がった先人たちの強靭な精神とかつて経済2位の大国にまで押し上げたその偉業に想いを馳せながら、そして彼らの置き土産の処理も怠ることなく、せめて80年前と同じ失敗を繰り返さないように、つまらない自己陶酔に逃避して解決すべき真の問題から目を背けることなく、人々が前に進んでいってほしいと思う今日この頃である。

 

 

 

 

スリランカ(11) エピローグ

 

スリランカ(9)の記事を書いてからというもの、日々の忙しさに振り回され、次第にブログを更新するモチベーションも下がっていき、更新が半年ほど滞っていた。今回一念発起してようやく記事を更新するに至った。

 

スリランカ自体は小さな島に高密度に歴史的遺産が集まる特異な島で、熱帯雨林から冷涼な高原地帯まで自然も変化に富んでいる、唯一無二の島国である。その素晴らしさは間違いなく傑出している。

 

しかしながら、その傑出したすばらしさゆえにあまりに観光地としてメジャーになりすぎている。とくにヨーロッパ人による観光汚染が目立ち、残念ながら地元の人々の生活にお邪魔させていただくという趣のある旅行からは、程遠くなってしまったのも事実である。相対的に言えばアヌラーダプラやポロンナルワといった北部の平原地帯は比較的欧米人観光客が少なく、歴史的遺産を堪能できたが、これはヨーロッパ人が難解な仏教遺跡を避け、「わかりやすい」シーギリヤロックやエッラなどの高原地帯を好んで訪れるからだそうである。

 

結局のところ、その国の滞在が素晴らしかったと思えるかどうかは、実際に遺産が豊富であったかどうかよりも、心に響く体験がどれくらいできたかによって決まるところがある。スリランカという国自体は素晴らしかったが、私にスリランカという国が見せた表情はどこかよそ行きで、どこか納得がいかなかったような気がするのは事実である。

 

私はもはや数年はひとりで海外旅行など行くことはできないだろうが、必ず行くであろうエチオピア旅行のために、アムハラ語の勉強を開始した。エチオピアの実質的な共通語であるアムハラ語はアラビア語と同様のセム語に属するので、アラビア語と共通する語彙は少なくないし、動詞の活用においてキモとなる語根システムは共通であるため、アラビア語をかじった私は一からアムハラ語を学ぶよりもハードルが低く感じているはずである。

古代南アラビア文字に源を発するゲエズ文字に四苦八苦しながら、あまり日本では聞きなれない特徴的な「放出音(ጠ/ጨ/ፀ/ጸ/ጰ)」をはじめとした独特の粗野な響きのある言語を身に着けていくことは着実な喜びがある。アフリカの角の高原地帯を訪れるその日のために、そして再び海外の地を踏む日のために(それは一人でか、家族を連れてになるかはわからないが)、少しずつ準備をしていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

スリランカ(10) コロンボへ、そして帰国

3/24

9時 ゴール出発

11時半ごろコロンボ

バワの事務所をリノベーションしたカフェ「パラダイスロード・ギャラリーカフェ」にて昼食

コロンボ観光、空港へ

UL454 2035COL

3/25

0810(+1)NRT 成田空港着

 

起床。

室外機が爆音で冷房をつけられずに寝たので肌がベタベタし気持ち悪い。

シャワーを浴びて、朝8時ごろ朝食。

昨日と同様、まあまあなスクランブルエッグだ。

朝食

ガイドは9時ごろ迎えに来るというので、朝のゴールを軽く散歩することにした。

柔らかい朝の日差しに照らされたかわいい町並みが、さわやかな海風とあいまって心地よい。

朝のゴール市街

ホテルに戻り、荷物をまとめてロビーでガイドを待つ。

9時になるとガイドが迎えに来た。ホテルの不愛想な主人には軽く挨拶して、宿を出た。主人はチップでも期待していたのだろうか、何か未練がましい顔をしていたが、残念ながら宿の中でも悪いほうの部屋をあてがわれ、夜も冷房をつけられず、あまりいい思いをできなかったのでチップを払う気が起きなかった。

海外旅行では宿はケチってはいけないという、以前あれほど苦い思いをして学んだはずの事実を再確認する羽目になってしまったのが残念である。

ガイドの車はゴールの町を出て高速道路へ入り、まっすぐコロンボに向かう。

コロンボ

過ぎ去っていく緑色の景色が旅の終わりを感じさせる。途中でサービスエリアにてトイレ休憩。このサービスエリアも先日の記事で触れた前大統領・ラジャパクサによって作られたそうである。

サービスエリアにはラジャパクサによって作られたと書かれた石碑が置かれていた

さらに1時間ほど走っていく。

しだいに都会の景色になっていき、ほどなくすると時折大きな建築が見えるコロンボの市街に入った。国際会議場、大きな仏像などが点在するが、基本的には土地を広く使った都市計画が印象的だ。スリランカはどこの都市もそうだが、水や緑の面積を大きく取ってゆったりとした雰囲気の都が好まれるという印象がある。

実質的な首都でありながら、緑の多い都市だ

ガジュマルの巨大な街路樹が並ぶ通りを抜けてしばらくすると、本日昼食をいただくレストラン、バワの建築を改築した「パラダイスロード・ギャラリーカフェ」の駐車場に到着した。

バワというのはコロンボ出身の建築家である。ヨーロッパ人とシンハラ人の血を引く彼は上流階級として生まれ、イギリスにわたりケンブリッジ大学で英文学を専攻し弁護士となった。その後スリランカに戻り、世界周遊の旅などで見識を深めたのち、再びイギリスにて建築を学ぶ。建築家としてのキャリアをスタートしたのは、38歳のことだったという。

彼の建築はスリランカの伝統的な建築様式や自然を生かしつつ、ヨーロッパ的なモダンさを加えてアレンジされた雰囲気のものが多い。簡単に言えばバエるのだけど、もう少し高尚な言い方をすれば、視覚的な端正さと幾何学的な美しさがある。今回利用するカフェも、入ってしばらく歩くと長方形の池があり、ここを通り抜けるとレストランに至るというおしゃれな演出がされていた。

昼食はエビのカレーを選択。盛り付けも綺麗で、なかなかおいしい。そしてバワの手によるおしゃれな空間がすばらしく、ゆっくりと食事を楽しめた。

エビのカレー。おいしかったです

食事ののち、ガイドの車に戻り何軒かバワの建築を回る。雑貨屋やカフェとして利用されている建築であるが、やはり池やメリハリのある空間の使い方が印象的だった。

こちらも別のバワによる建築だが、雰囲気が良い

次にはコロンボの中央部にあるふたつの寺院をめぐる。

まずは行ったのはガンガラーマ寺院。

ガンガラーマ寺院

こちらはコロンボの中で最も大きい寺院の一つである。入口に靴を預けて、中に入る。この寺院にはヒンドゥー寺院も併設されており、派手な極彩色に彩られたヒンドゥーの神々が印象的であった。

シヴァ神をまつるヒンドゥー寺院があった

肝心の仏教寺院のほうでは、こちらもインド的な色彩で彩られた立派な仏像が安置されていた。仏像やストゥーパ、立派な菩提樹の木などがみられる。寺院に併設されたホールは、日本の資金援助によりつくられたとのことである。

趣のある大きな菩提樹に、人々は手を合わせていた

次にシーマ・マラカヤ寺院を見学する。

こちらの寺院は人工的な池の上につくられたかわいらしい寺院であるが、これもまたバワによる設計で作られた寺院である。訪問時にはそれと知らなかったが、それくらい伝統的な建築としても違和感がなく、市街の雰囲気に溶け込んでいる。

靴を預けて寺院に入るが、太陽に熱された地面があまりに熱く、とても歩けたものではない。ようやく寺院に至るが、よく風の通る本堂、本堂を囲むように配置された仏像が印象的だ。

シーマ・マラカヤ寺院

背後には奇抜な造形の高層ビルが見えるが、日本のように乱立しているということはなく、周囲の景観とも調和がとれているように見える。経済的な豊かさはともかく、都市計画における独特の美意識を感じさせる国だ。

次に向かったのは、独立記念ホール。

このホールはキャンディ王国の終焉となった「キャンディ会議」が執り行われた、仏歯寺にある王族集会場を模して造られている。独立を記念するホールがシンハラ王国の終焉の象徴を模して造られているところに、「歴史の因果」、主権を取り戻すことに対するスリランカの人々の熱意を感じる。

独立記念ホール

インドの抗議によって当初の予定よりも高さが低く作られたというロータス・タワーを横目に、イギリス植民地時代の建築が立ち並ぶ、「フォート」へ向かう。ここでショッピングモールに案内され、飛行機の時間まで余裕があるから1時間くらい暇をつぶすようにと言われ、ガイドは駐車場に戻っていった。

フォートと呼ばれる旧市街。英国時代の建築はショッピングモールにもなっている

このカフェはDilmahという一部の日本人には有名なスリランカの紅茶ブランドのカフェらしい。私は知らなかったが、このカフェでゆっくりしていると聞きなれた言語を話すカップルが入ってきた。コロンボでは日本人の観光客を少なからず見かけ、案外スリランカが日本人に人気のある観光地であることをうかがわせた。しかしながらキャンディやヌワラエリヤではあまり見かけなかったように思うので、その訪問地には偏りがあるのかもしれない。

Dilmahのカフェではホワイトティーを注文。上品な味わい

暇をつぶしたのちガイドの車に戻る。

イギリス植民地時代の趣ある建物の間を通り、最後の目的地である空港に向かう。湖のそばを通り抜けると、ほどなくして空港に至った。

旧市街をぬけて、空港へ向かう

なんとなくおみやげ屋を回ってみるが、特に買うものもなさそうである。適当に紅茶を買って飛行機を待つことにした。あたりが暗くなってきたころ、飛行機に案内される。スリランカの地を去る瞬間であった。

機内食のカレーは美味だったが、モニターは行きと同様、調子が悪かった

 

 

 

カーリングストーンの輝き

「おお、久しぶりだなあ」

「これ、他の先生の洗濯物やねん。ちょっとどけるから、待ってな」

体育科準備室のドアを開けると、相変わらず強い関西弁で彼は私を迎えてくれた。

 

一歳半になる第一子を連れて、母校の文化祭を訪れていた。今年の文化祭のテーマは「輝」だそうである。

つい数日前に我が家に第二子が生まれた。第二子もまた第一子と同様、雨の日の夜に陣痛が始まった。寝ているまだ幼い息子を見ていてもらうために義母の到着を待ち、病院に向かう。妻の指定された病棟に向かうと、もう第二子は生まれていた。病院についてから出産までにかかる時間は5分ほどだったらしい。なんとも親孝行な第二子であるが、病院に到着してフラフラだった妻を事務当直が適当にあしらったらしく、産科病棟の看護師や妻が恨み節を吐いていた。

第二子の顔を覗き込んでみる。第一子と似ている顔立ちのように見えるが、心なしか顔が縦長である。第一子が生まれてすぐに目をあけ、心なしか笑ったりさまざまな表情を見せていたのとは対照的に、第二子は生まれてから私が病院をさるまで、一度も目を開けることはなかった。彼もまた3000gを超えており大きい。最近は小さく産んで大きく育てるのがトレンドというが、立派なものである。

 

第一子は私の膝の上で、マイペースに楽しみながら話を聞いている。

「〇〇が来る前にな、T君がきたよ。」その名前は久しぶりに聞いた。彼といえばかつて、それこそブログをめぐって一悶着あった同級生だ。まあ、当時私も彼も未熟だったので、それは仕方がない。特に彼を今更責め立てるつもりもない。許せど、忘れない。それが現在の彼、いやあえて彼らという言い方をしよう、に対する私のスタンスだ。

 

最近の時勢の話に。

兵庫県知事選って、大変なことになったよな。おれも兵庫県の出身やけど、兵庫県の連中は何やってんのやと思うし、生徒でもやっぱり『何やってんだ』という人は多い。でもそれは外から見ていたからそう言えるのであって、兵庫県民だったら本当に正しい判断ができたという保証なんてないよな。自由意志ってそんなもんやねん。」

兵庫県知事選でデマを垂れ流した人々が成功体験に味を占め、宮城県知事選をはじめとして選挙でデマの大量投下を用いて人々を煽動するスタイルが確立されてしまっているように思う。それに対して現在の選挙制度は有効な対策を打てていない。我々が自由意志と思っているものも、所詮は他者に作られたものかもしれない。高校時代は得意でなかった英語をなんとか使えるようにして海外旅行に行ったところ、日本のメディアで得られる情報と現地の実情は大きく異なっており感銘を受けた、という話をした。

 

結局自由意志というのは何かという話で、部活の話に。中学生時代はテニス部に入り、高校時代は一時期陸上部に所属したが長続きしなかった。それは「文武両道」を信奉する親の意向に対して反抗するという選択もなく運動部に入らせられたからであって、自分の意思ではない。しかし当時は自他の境界が極めて曖昧で、「親の言うことは絶対だ」と思わされていた。ある意味インプリンティングを受けた雛鳥のように。当時私は本当は鉄道研究部や生物部などの文化部に入りたかったし、心の奥底では彼ら(自分の意思で入る部活を決定することができる人)が羨ましかったし妬んでいたのではないか、という当時の私の深層意識と思われるものを正直に伝えた。

当時陸上部の顧問であったのが、箱根駅伝で学連選抜での出場経験もあるこの先生だったので彼にこの話をするのは申し訳ない気もしていたのだが、やはり当時の私の置かれた状況の答え合わせを彼ができるのではないかと思ったし、やはり過去の清算として、彼が現役の教師であるうちに話さねばならないことのような気がしていた。その返答としての「中高では好きなことをやったらええねん。嫌いなことはわざわざやらなくてもええ」という言葉に、彼の思慮を感じた。

 

自由意志というのは「自分の意志を自覚し」「それを表明する」ことで初めて達成される。自分の心の声が小さい人間は自分の意志を自覚することは難しく、他に命令者がいればかき消されてしまうだろうし、表明することに恐れを感じたり、そのほかなんらかの理由で表明できなければ結局それはないことになってしまう。自由意志の表明は、それが当たり前でない人にとっては訓練が必要なのである。「まあ、学年の半分くらいは自分のこと大好きで自分のことしか考えてないやつだったけどな。」そんな奴らはそこまで考えずに思ったことをすぐ発言できるようではある。これはこれである意味羨ましい能力だが。

彼は当時の私を振り返り、「昔の〇〇は、オレは従わないぞ、という雰囲気出てたけどなあ」などと言っていた。そこには今の自分にも通ずる反骨精神というか反権力的な考え方の萌芽がすでにあったのかもしれない。尤も今の私から見れば、それは極めてアンバランスで、未熟なものではあったが。

 

彼は最近の生徒について、「カーリングの石のようだ」という。曰く、最近は「カーリングアレント」という言葉があるらしい。かつてヘリコプターペアレントという言葉があったが、最近のカーリングアレントというのは子供の障害となるようなものをすべて「先回りして」取り除いてしまうのだという。それこそ、カーリングで選手が氷を磨くかのように。この傾向は私より3-4学年下あたりから顕著らしい。とにかく子供に失敗をさせたがらない。挫折をさせたがらない。もちろん、親は良かれと思ってそのようにするのだけれども、最近の生徒は命令に従うが自主性が低い傾向が強く、カーリングアレント的な風潮が悪影響をもたらしているのではないかと懸念しているという。まあ私なんて大学受験は失敗でしたからねえ、という話をしたところ、「俺の身の周りにも浪人した人はたくさんいるし、それが長い人生で見た時に失敗だったかどうかは、まだわからないんじゃないか」と仰った。

 

母校はいわゆる進学校であるが、多くの人が自分の時間を「削って」ここに来ている。勉強時間を捻り出すために、テレビを見る時間を削り、遊ぶ時間を削っている。だからこそ人としてのバランスにはどこか欠けているものがあるのではないか。そのような危惧が言葉の端々から感じられた。中学受験では「勉強」というものさしで人を測る。もちろんそれには平等性が担保されるというメリットもあるが、勉強によって本来学ぶべきことが削られているのも事実であって、それが当時中高生であった私にとっては「自由意志で決定する能力」だったのかもしれない。そしてその削られた部分を自身で獲得するための悪戦苦闘が、大学生以降の人生だったのかもしれない、ということになる。とにかく子供には私と同じ轍を踏ませたくない。まだ一歳半だが、自分の意思決定を大事にするよう、例えば食べ物などでも自分でどちらを選ぶのか選択させるように練習している。それに何か効果があるのか、実際のところわからないけれども。

 

母校はとにかく早熟型の人が多かった。いや、現実問題として早熟型でないと母校のような学校には非常に入りにくい。しかし彼によれば、もちろん早熟型の人は多いけれども、「最初はゆっくりだけど後から確実に伸びるヤツ」というのも存在したようである。どちらかといえば私は後者で、同年代としては圧倒的な見識を持つ同期に圧倒されていたのを思い出す。

しかし、今となって他人のせいにするつもりもないのだけれども、私の両親は私の性質を見誤っていたのだろうと今となって思う。私は姉の影響で(女子は男子と違って勤勉性が高いことが多いという性質を考慮することもなく)中高と行きたくもない某塾に通わされ、その結果がまあ以前から述べている通りの体たらくであったわけなのだが、それも今から考えるとコツコツ積み上げるよりも最初に好き放題やって無駄を蓄積し、最後の最後のスパートで一気に追い上げる方がどう考えても自分の性格に沿ったメソッドだったはずだ。それを見抜けなかったのはもちろん親でもあるのかもしれないが、私自身の性質を見抜けなかった、いや知らなかったのは他ならぬ私である。

私自身が自分を知らないから、親も私のいうことに説得力を見出さない。自分のやることに自信を持ち、自己に依拠し、実際に結果を出して行けば自ずと親も私を信用していたはずである。それをすべてお膳立てされるのを良いことに、完全に怠っていたわけだから、私が突如として自分の意思のようなものを発露しても、説得力を持たないのである。多くの生徒が当時、私よりも遥か先を行っていた。多くの同級生がよちよち歩きでも自分の意思の発露を経験している時、私はこの世界に生まれてすらいなかったのである。

結局自分のことを自分以上に知り得る人は存在しない。だからこそ自分を知るための努力というのは怠ってはならないし、他人に意思決定の手綱を委ねてはならないのだと改めて思う。自分の選択したものに従って自分の道を歩み、それで壁に突き当たっても自分の力で解決し、乗り越えていったという経験の蓄積が自分自身を強くするだけでなく、自身の発言の説得力を補強し、他者を納得させることもできるようになる。そしてその経験が、次に壁に突き当たった時の道標になる。そう、まさにドミノのように。それでも、最初のドミノはどう頑張っても自分自身で倒さねばならなかった。その最初のドミノを倒したもの、殻を破る一つつきを経験した雛だけが、この世界に生まれることができるのだと思う。

 

最後に彼に私の息子を抱っこしてもらい、写真を撮影して「この20年以上の間」大変にお世話になったことに礼を述べ、彼の部屋を後にした。

 

彼の用意してくれた空間は、今から考えれば暖かかったなあと思う。

時間をかけて言葉を選び繋いでいくスタイルの彼のトークは必然的に多くの時間を要し、おそらく少なからぬ人から「彼は話が長い」と言われてあまり好かれていなかったように思う。いまだに彼を得意としない同級生は少なからず見かける。

母校はいわゆるお受験校だったから、長時間拘束する彼のホームルームの時間は、受験勉強がすべてだと思っている…いやまあそれは大学受験を控えている多くの生徒にとって仕方がないことであるのだが… 生徒にとってはただただ長い説教であったという側面ももちろんあったのだろう。そして進学校における「学のない」体育科の教師。生徒やその両親がどこか彼に対して斜に構えていた部分があったのではないかと思う。かくいう私は、当時精神的に未熟だったからだろうか、彼の言っている言葉が理解できているようで理解できていなかったように思う。なんというか、彼の話している内容に私の思考のピントが合っていなかった。あれから20年近く経って彼と対峙すると、会話の焦点が当たり前のように合っていたことに後から気づいた。それは私の(あまりにも遅すぎる)成長なのだろうか。そう祈りたいけどね。そういえばかつての彼のホームページ、今はどうなっているのだろうか。

 

彼の母校での教師歴は40年以上にわたる。その間、現在は国会議員を務めている人をはじめ彼が担ってきた生徒の数は1000人をゆうに超えるだろう。その中での私は特別なにかに秀でた生徒というわけでもなく、彼にとって取るにたらない存在にすぎないはずだ。このようにさまざまな人の当時の生徒としての振る舞いを覚えていて、個人に入れ込むことも貶すこともせず、多くの生徒を見守り、世に送り出してきたのだろう。私は所詮そのうちの一人にすぎない。しかし人生長く生きているとふとした瞬間に近しい人との関係がプツンと切れてしまうこともあるわけで、そういう経験を積み重ねていくと、「所詮数千人のうちの一人」だからこそ良かったのではないか、と思う部分もあるわけである。そんな彼も今年で退官。文化祭でお会いできるのもこれが最後となると思うと、感慨深い。

 

今私がブログを使ってできることは、自分の思考の足跡を残すこと、そしていつこの世界を去っても良いように、私の人生をここまで導いたすべての人々への感謝の言葉をこの世に見える形で残すことだと思っている。そして画像SNSとAIが全盛を迎えているこの時代、人々が喜んで「自分の言葉」を捨て(ることを暗に誘導され)つつある現代社会への、ささやかな抵抗でもある。

でも私にはまだやるべきことがある。ようやく遅咲きで発現した私の自由意志で、私は自分の人生を生きなければならない。大学受験までの人生が親の人生であったとすれば、大学生以降から現在までは移行期であり、これからは私の人生を歩むことにする。

このままでは終わらないと、自分の可能性を信じてもう一歩、前に、いや、斜め上に進んでみようと思っている。

 

当日、母校の花壇に植えられていた瓢箪

 

スリランカ(9) ゴール

3/23

終日ゴール観光

Fort Bliss泊

 

朝7時半ごろに起床。室外機の爆音で冷房を長い時間つけることができず、部屋は暑い。シャワーを浴びて朝食。

朝食は(この建物の中では)わりとお洒落なホールで。

スクランブルエッグやマッシュルーム、フルーツを持って来てくれる。きわめて庶民的な感じのする朝食で、味もまあまあ。なお、昼食も昨日と同様のレストランのタダ券があるという。べつに食事の店くらい自分で探すのだけどね。

朝食

荷物を片付けて、本日は1日をゴールの観光に充てる。こういう整然とした町並みをゆっくり歩くのが好きで、楽しい時間だ。日光に照らされた白い壁と赤い煉瓦、通りに面して柱が整然と並ぶ建築様式と差し色の鮮やかな緑が美しい。何時間でも歩いていられるような、かわいい町だ。オランダ様式の教会は、本日はミサであり一般公開は午後とのことで、午後に再度訪れることにした。

ゴールの町並み

一度フォートを出て市場へ向かってみる。果物や花、衣類などが所狭しと並べられている。ヨーロッパの様式が濃い町だが一歩外に出るとローカルな雰囲気をしっかり感じることができる。すでに暑い。

フォートを出てみる

花やフルーツが並ぶ

シンハラ文字が並ぶ。フォート内が観光客向けのゴールとすれば、こちらは地元民のゴールというところか

 

ふたたび城砦にもどり、仏教寺院に改装されたキリスト教会という珍しい建築などを観察しながら路地を歩いていく。気温の上昇が激しく、大した展示のないちょっとした博物館に寄ったのちにレストランに向かい、昼食をいただく。なお、ガイドから連絡があったが、本日の夕食はツアー会社が奮発してくれたので、フォート内の高級ホテル。ガイドがわざわざ案内してくれるとのことである。

仏教寺院に改装されたキリスト教
昼食

 

その後は部屋に戻り、爆音の冷房をつけて耳栓をし、数時間寝た。当然ながらベッドメイキングなどされているはずもない。

 

起床するともう4時半だ。

しまった寝坊した。あわてて荷物をまとめてオランダ教会に向かう。教会はほぼ閉まりかけていたが、スタッフのおばさんが門を開けてくれた。教会内はがらんとしており、入口付近の足元には墓石がたくさん埋め込まれている。この様式はインドのコーチンの教会でも目にしたものだ。ステンドグラスは暖色でまとめられ、熱帯の趣である。

オランダ教会

夕方のゴールの町並みを散歩しながら宿に戻った。

随所に美しい建築が現れ、すばらしい

本日の夕食は「ザ・ゴールフォート・ホテル」だそうだ。入口をくぐるとホールは広く、さらに奥には広い中庭に小さなプールがありちょっとした宮殿のようである。白壁と濃い色の木を基調とした建物は、荘厳さと落ち着きに満ちており、自分の宿泊しているホテルとの格差には愕然とした。

ゴールフォートホテルは素晴らしい雰囲気だった。こういうホテルにしておけばよかったのだが

調べてみると一泊3-4万円とのことだから、ここに泊まってもそれほど大きな出費ではなかっただろう。Fort Blissの良いGoogle口コミを信頼してしまい、ほかのホテルの選択肢をちゃんと考えなかった自分の愚かさを恥じた。旅行の最後の夜をしみったれたホテルで過ごすのは、惨めだ。

夕食。ココナッツライスに3種のカレー。とてもおいしかった

地ビールとおいしい食事、綺麗な空間でスリランカの最後の晩餐を楽しんだ。食事後はガイドがわざわざ近くにあるホテルまで送ってくれた。明日の出発時間は9時半とのことで、ゆっくり起床することにする。

 

 

スリランカ(8) ブドゥルワーガラとゴール

3/22

10時半ごろ ホテル発

ナインアーチ・ブリッジ

Rawana滝

ブドゥルワーガラ遺跡観光

ゴールへ

Fort Bliss泊

 

朝7時ごろゆっくりと起床した。

昨日窓の外に映っていた険しい山々と切れ落ちていく谷が、目の前に広がっている。

すがすがしい朝

 

朝食の会場に向かうとすでに多くの人が朝食を楽しんでいた。開放的な食堂は夜とは打って変わり、日差しに照らされてとても明るい雰囲気だ。フルーツを取りに行くとスタッフがその場でカットしてくれる。新鮮なマンゴーやパッションフルーツは絶品であった。

朝食をいただく

食堂の横にあるプールで裸体を見せびらかしている欧米人カップルを尻目に部屋に戻り、窓の外の美しい風景を見ながら朝寝を決め、9時半ごろに再度起床。

かなり明るく、暑くなってきた。荷物をまとめて部屋を出る。フロントに行くとガイドが待っていてくれた。

98 Acres Hotel自体はかなり良いホテルで景色もよく気に入ったものの、いかんせんエッラの市街が欧米人によるオーバーツーリズムでスリランカらしさは見る影がなく、正直言えばエッラではなく近くのハプタレーなどで宿泊した方がローカル感を楽しめたのではないか、などと若干後悔した。

ホテルをあとにする

さて、本日はナインアーチブリッジで鉄道の通過を待ったのち、エッラのある高原から下り坂を駆け下り、Rawana滝をさっと観光しつつ、ブドゥルワーガラという大乗仏教時代のスリランカの仏教遺跡を観光する。こののち海岸沿いにゴールへ向かうという日程である。ゴールは美しい旧市街が有名な世界遺産の街。多くの日本人は日帰り観光で済ませるとのことだが、旧市街好きの私はしっかりと2泊することにした。

まずはナインアーチ・ブリッジへ。こちらはエッラの市街の外れに車を止め、そこから徒歩10分ほど坂を下っていく。やや足場の悪いところもあるが、時折食べ終わったトウモロコシの芯が転がった道をしばらく歩くと、かの有名なナインアーチ・ブリッジに出た。

ナインアーチブリッジへ

ナインアーチブリッジはエッラの名所の一つであり1919年に作られた。特徴としては岩と煉瓦、そしてセメントのみで作られており、金属が一切使用されていない点に特徴があるようだ。周囲はスリランカ人や欧米人、アジア人などの観光客で賑わっている。橋のたもとから谷を下って写真を狙う人もたくさんいる。ガイドに導かれて橋の上を歩き、対岸に渡った。

立派な橋だ

10分から20分ほど待っていると、欧米人の多く乗った列車が大きな音を立てて通過していった。これではまるで欧米人のためのアトラクションのようだ。

列車には欧米人が多く乗っていた

 

元来た坂道を歩いて戻り、車に乗り込む。ここからは高原地帯を脱し、下り坂に付けられた道をゆく。随所に素晴らしい景色が広がるが、なかなか綺麗に写真を撮るのは難しい。程なくしてRawana滝へ。

花崗岩の大岩の間を縫って流れ落ちる、水量と落差の大きい滝だ。多くの観光客で賑わっていた。ここで昼食を取ることもできるとガイドに言われたけど、まだそれほど空腹ではなかったので、次の街に向かいたいと伝えた。

Rawana滝

車はグングンと標高を下げていき、あっという間に坂を下り切って水田地帯の広がる平原にまで辿り着いた。気温はかなり暑そうだ。

車は標高差900mあまりをあっという間に下ってしまった

ここから少し道を進行方向左手に外れ、おそらくかつて街があった頃に作られたのであろう、スリランカの街にありがちな人工池のほとりを走っていき、用水路工事のコンクリートが剥き出しのところや、水に沈んだ木々が水面に映る静謐な池を眺めつつ、ブドゥルワーガラの遺跡入り口に到着した。

ブドゥルワーガラへは静かな道が続く

これまた光背の光る仏像が交差点にあった

ブドゥルワーガラの遺跡についてはガイドも来るのは初めてらしくあまり詳しくはなかったので、ここは地球の歩き方の記述をそのまま引用する。

かつてスリランカにはアヌラーダプラにおいてアバヤギリ大塔を本拠とする大乗仏教の流れと、ルワンウェリ・サーヤ大塔を中心とする上座部仏教の流れがあった。12世紀に大乗仏教は制圧され、スリランカで滅亡することになる。この遺跡は9世紀に作られ現存する、スリランカにおける大乗仏教の数少ない痕跡だという。

静かな森のなか、スリランカの著名な世界遺産と違って人もまばらな綺麗な森林を歩いていくと、目の前に仏像の彫られた大きなモノリスが現れた。ここで靴を脱ぎ、灼熱の地面を裸足で歩いていく。仏像は穏やかな表情でどこか落ち着きをたたえているように見えるのは、我々の見慣れた大乗仏教の仏像というのが関係あるのだろうか。仏像が彫られた岩はそれほど丈夫なものではなくあまり仏像を彫るのに適していなかったため途中で放棄されたものも幾らかあったようだ。

林の中を歩いていくと、岩に彫られた仏像が大きく現れた

静かな雰囲気で、落ち着いて観光できる

元来た道をメインストリートまで戻り、南下する道に入る。

途中スコールに降られた。道中でとても鄙びた雰囲気のローカルレストランにて昼食休憩となる。

しばし休息
観光客向けに辛味の抑えられたエッラのホテルとはちがい、しっかり辛い

ビュッフェ形式のレストランで、なんだかあまりバエない感じにカレーがディスプレイされているが、魚のフライやカレーなど、味付けはローカルレストランらしくスパイシーで大変美味しい。やはりスリランカのカレーはこうでなくてはならない。食あたりするか若干不安はあったものの結局当たることはなかった。

この近くで、ガイドがカードを売っている売店に案内してくれた。

本来カードというのは素焼きのお皿に入れて売られているのが伝統的なスタイルだそうだ。今回はこの伝統的スタイルのカードをガイドがご馳走してくれた。もちろん美味しいけど、素焼きのお皿の土臭い匂いが若干カードに移っている感じがする。これがローカリティか。悪くない。

道端の売店でカードを食べる

カードを頂いたのち、ここからはノーストップでゴールへ向かう。

ガイドの話によると、この辺りの地域はかつてのスリランカの大統領であるラジャパクサの地盤であるらしい。大して利用者が見込めないにもかかわらず利益誘導のために空港をこの辺りに建設した。しかし借金が返せないので、この空港は99年間中国に貸し出すということになったらしい。中国との癒着が大変な国民の反発を呼び、彼は失脚したそうである。なお、途中から高速道路に入ったが、この高速道路も中国の資金援助によってなされたものだそうである。

車窓からはヤシの林や水田、川の広がる美しい景色が続くが、これは高速道路から眺めるよりも下道を走ったほうがよほど美しいに違いない。利便性と引き換えに我々が失うものは、確実にあるのだろうな。それは日本でもおそらく同じである。

ところどころに美しい車窓が現れる

1時間ほど高速道路を走ると高速道路を降りて、市街地に入る。本日の目的地、ゴールである。海岸沿いに開放的な市場があり、賑わいを見せている。ゴールの城砦の手前で、ガイドは一旦車を停めた。

スコールのあとで、虹がかかっていた

城砦の入口にあったオランダ東インド会社の紋章

この城壁の門に描かれているのは、オランダ東インド会社の紋章であるそうだ。ゴールは最初にポルトガルに占領され、その後にオランダ、イギリスと次々に欧米諸国の手に渡った。ゴールは城塞都市のようになり、ポルトガルやオランダの影響を受けた建築様式の美しい街並みが形成されたという。

立派なガジュマルの生えた公園

くすんだ赤茶色のレンガに白壁の家々が整然と並ぶ町並みはスリランカの伝統的な建築をベースとしつつもヨーロッパ、特にポルトガルの影響を強く感じさせるが、イギリスやオランダの様式の建築も多く点在しており、落ち着いた興味深い街並みを形成している。ガイドに案内されながら簡単にゴールの名所を案内してもらった。海岸の城壁からは、高曇りのくすんだ夕日に照らされた海が美しい。

暮れなずむゴール・フォート

最後にホテルに案内された。

本日のホテルは城壁の中のブティックホテルである。ホテルの門は閉じており、ガイドがインターホンを押すと愛想の悪い爺さんが現れた。部屋は4室しかないようだが、残念ながら案内されたのはそのうち1部屋だけの1階の部屋だった。

部屋の中は安っぽいライトとペンキで装飾され、がらんとした雰囲気だ。風呂場もあまり清潔感がなく、期待していたブティックホテルのイメージからかなり外れており正直落胆しなかったといえば嘘になる。夕食は提携している近くの中東料理レストランで摂ってくれということで、夕食の金券をくれた。

ローカル感が溢れすぎの宿でもやは民宿といった趣だ

しばし休憩。冷房の電源はこまめに切ってくれとかいう注意書きが萎える。暑いので冷房をつけてみたところ、外壁に直付けされている室外機からの爆音が激しくて耐え難い。

レストランは19時からということで、19時ごろにレストランに向かう。電飾で装飾された小径は可愛らしい街並みとマッチしてとても綺麗な雰囲気だ。

夜のゴールの町並み

こんなところに来てまで中東料理というのもなんだかなとは思うが、とりあえず料理は美味しかった。店の雰囲気も綺麗で良かったと思う。ホテルに戻り、お湯のなかなか出ないシャワーを浴びて就寝。先述の通り騒音が激しく冷房をつけ続けることもできず快適に寝ることもできない。ここに2泊ですか。ああ、ホテルをケチるとこうなるんだよなあ。

夕食は中東料理のレストランであった

 

 

目が覚めると、まだ朝早く、暖色の光が窓から差し込んでいた。

 

隣にはまだ生まれて一年と少しの我が息子がすうすうと綺麗な寝息を立てている。瞑るときりっとした目、少し上を向いたかわいらしい鼻、ふっくらとして落ちそうなほっぺ、端正な口元。お世辞にもそこまで美形とはいえない私と相方からこんなにかわいらしい息子が生まれるとは。いったい誰に似たのだろうか。

もとはといえば、相方と私で「女の子だったらいいね」と言っていたのだった。特に相方は女の子を望んでいた。親族が女の子ばかりで男の子を育てるノウハウがないなどと言っていたが、結局のところ女の子の方が手がかからないこと、大きくなったら同性として様々なことを共有できること、そして何よりきな臭い昨今、国同士の諍いに巻き込まれる可能性が低いことが理由なのだろう。そんな相方も私も、生まれたての息子の顔を見たら、私も相方もそんな邪念はすべてがどうでもよくなってしまった。

ただ、大きくなっても大人になっても幼い頃のかわいさを幾分は保持し続けることのできる女性とは違い、男性は成長期に大きく姿が変わり、髭は生え、声は低くなり、幼い頃の可愛らしさはほぼ跡形もないほどに失われてしまう。我々の魂はホモ・サピエンスという「うつわ」にがんじがらめにされている。親としてはこのかわいさが消えてしまうことが残念でならないし、男か女か本人の意思の如何にかかわらず振り分けられてしまうこと自体が理不尽で残酷だよなあとはどうしても思ってしまう。

今の時代でも男尊女卑という概念がいまだに絶えることなく亡霊のように残っているが、生まれて持った性質が性別のステレオタイプにはまらなければ苦労するのは、男も女も同じ。女は女らしくあれという型枠と同じくらい、男は男らしくあれ、責任感を持て、多く稼げ、力強くあれ…という型枠は息苦しく押しつけがましく不愉快なものだ。そういう意識は残念ながら競争的で戦闘的で序列的な男性コミュニティの中だけではなく、男性を評価する女性側の総意としても消えることなく残っている。そしてそれは女性の権利向上と違って、中途半端に花を持たせられているからこそ訴えづらいというのもまた真実のように、男性側に振り分けられてしまった私としては思うわけだ。

そんな冗長で「非現実的な」思索を巡らせる私をよそに、息子はすくすく育っている。坐っていない首は座り、くるくる手首を回す癖はいつのまにか消え、乳首の咥え方すらすっかり忘れ、笑うことと泣くことしか知らなかった彼も少しずつ喜怒哀楽を表に出すようになった。

一年前から随分と成長したように感じる彼だが、生まれたての頃とたいして変わらない寝顔を見ると、一年という歳月の長さと短さを思い知る。彼には自分らしく生きてほしい。ステレオタイプという窮屈な型枠に嵌め込むのではなく、本人が自分らしさを存分に発揮できるように、自分の心の声にきちんと耳を傾けられる習慣をつけることを促していきたい。我々両親はそのための補助輪である。「誰が産めと頼んだ?誰が作ってくれと願った?*1」と思わせないことが、これから親としての責務になるのだろう。

 

そういえば、夢を見ていたのだった。

夢の中ではおそらく自分の脳味噌が適当に記憶をつなぎ合わせて形作ったのだろう、強いデフォルメの効いた元気な女の子のキャラがくるくると踊っているシーンがあった。そのBGMが夢の中でとても気に入って、目が覚めてもフレーズを忘れないように頭の中で反芻した。テンポが速いいかにもアニソンといったメロディではあったけれども、変ホ長調の暖かみを感じる旋律はどこかアニソン離れしているようにも感じる。

 

かつて私はアニメが大好きだった。

失敗した大学受験の末遅れてやってきた青春のエネルギーは、ほかの多くの大学生がそうするように異性とかかわることではなく、自分が高校生の頃やりたかったができなかったことに向けられた。自転車で日本全国を駆け巡り、夏休みが来るたびに山を駆け回り、授業がないのをいいことに夜遅くまで深夜アニメを見ていた。

今私の部屋には壁に立てかけられた自転車(これにもまた随分お金をかけたものだった)が2台あるがほとんど乗らなくなってしまったし、登山はコロナ禍をきっかけに足が遠のいてしまった。アニメに至ってはもはや何が楽しかったのかすら忘れてしまったように感じる。人の創作した世界の「狭さ」がどうも気になるようになってしまい、その関心は画面の中から国境の外へ飛び出ていった。かつてのアニメへの熱中は今の私にはほとんど残っていない。だけど夢の中で私は、夢中になって画面に張り付いていたかつての大学生の頃と同じようにその脳内生成されたアニメに見入り、キャラの見事にかわいらしいコケティッシュな動きに夢中になっていた。そのアニメに絶妙に合わせられた音楽に心を躍らせていた。

目が覚めると、私の心には楽しげに流れていたメロディと映像の断片、そしてあの頃の心の躍動がかすかに残っていることに気が付いた。それは私の人生の軌跡、かつて何かに夢中になって時を過ごしたあの頃の情熱が、ほとんど記憶から消えてしまった今も私の心の奥底に深く刻まれていることを意味しているように思われた。それには形はないけれども、とてもあたたかでうれしい、ささやかな贈り物だった。「いつか時が過ぎて 思い出になるころ 心を燃やしたことを 誇れるように」…という某アニメのエンディング曲の一節*2を、ふと思い出していた。

 

夢というのは朝目が覚めた段階でほとんど消えてしまうのだけれども、ごくまれにその夢があまりにも美しくて、映像やBGM(BGMがある夢とない夢がある)とともに記憶に残っているものがいくつかある。「おそらくあの頃に見た景色やあの時聞いた音楽がもとになっているんだろうな」と思うことはあれど、その「もとになった記憶」よりも美しく脚色されていることがあるから不思議だ。美しい海を臨むまちで、海の上に掛けられた鉄道橋の上を走っていく景色とニ長調のメロディ、ターコイズブルーの水をたたえた海に浮かぶ多島海の上にある遊歩道を歩いていく映像。たくさんの島を眺めながら空を飛んでいく映像。夕暮れの湾に大きく広がる、これまたターコイズブルーの海。…こうやって羅列してみると、なぜか海に関するものが多い。山ばかり登っていた私だが、案外海に対するあこがれがあるのか。それともターコイズブルーという色に魅せられているのか、それはわからないけれど。記憶の奥底にある、本人でも思い出せないような映像や旋律を組み合わせて、時に本人が理性ある状態では決して作り出せないものを作り上げてしまう。夢って不思議だ。

そういえばかつて「勉強を始める」と豪語した音楽理論だけれども、ほかの勉強にかまけてほとんど進んでいない。頭の中にふと浮かんだ旋律や夢の中で聞いた旋律はほとんどが消えてしまうが、それは私には和音や音の長さを記録する手段がないからだ。普段から夢のような状態で生きている人ならともかく、大したことのない理性を肥大させてしまったがためか普通の状態で美しいものを生み出す思考回路へのアクセスをほぼ遮断されてしまった私にとっては、音楽理論こそが朧げな記憶を組み立てていくためのツールであるのかもしれない。

音楽といえば昨年Twitter(X)で目にした一連の呟きが印象に残っている。こちらをご覧いただきたい。

https://x.com/muchonov/status/1861255807549218977?s=46&t=PxD3B_HowhAydHegsHyzKA

イェール大学助教授との肩書きを持ち、よくメディアに露出もしている特徴的なメガネの彼の音楽業界に対する冷笑的な呟きに対する、市井の方の返しがあまりにも素晴らしい。カネが全ての尺度と信じてやまない人に対して、この世界にはカネで測れない素晴らしい価値があるのだと優しく諭すような物言いには、すぐに拝金主義的という悪徳にムキになって反論してしまう私にはない、美しい世界観を見た。この年齢になっても未だにこういった新鮮な驚きに出会うことが、人生の醍醐味なのだろう。新自由主義と拝金主義が跋扈する世の中ではあるが、お金にならなくても人の心にそっと寄り添う旋律のような美しいものに気づけるような人でありたいと願う。

 

かつては隆盛を極めていた記憶があるブログであるが、最近はすっかり書く人が減ってしまった。短い呟きで完結するSNSやショート動画によってどんどん人々の思考回路は短く切り取られるようになった。人々が長い文章を書く機会は次第に減ってきたと思うし、ネットで見られる長い文章は一応あるにはあるが、「収益化」という名のもとに他者からカネを集める手段に成り下がってしまってきているようにも感じ、ひたひたと自由な空間に迫りくる資本主義の薄汚い匂いを感じる。最近は「これ明らかにAIで書いただろう」という風情の無機質な箇条書きが並ぶブログも多く見かけるようになったが、本人の執筆しない文章にいったい何の価値があるのかさっぱりわからない。知性の捏造のためか?それとも単に流行ツールであるAIを使ってみたかっただけなのか。いずれにせよ便利だ便利だと言っている間に人間自身が自分の開発したツールに侵食されているようで、少しグロテスクな感じもする。もっともインターネットというもはや古典的になり果てたツールを使ってブログを書いている私も、あまり人のことは言えまい。

かくいう私もブログを執筆するのはかなり久しぶりになってしまった。子育てが脳内のリソースの多くを占拠し続けていたがためか、少しずつブログを書くという行為そのものが頭に占める割合が減ってきていたようだ。スリランカ旅行は満足いくものであった一方であまりにも観光地化が著しくあまり心に響かなかったというのも、モチベーションが上がらない理由の一つではあるけれども、それ以上に執筆することに対する情熱を失いかけていた、というのが多分真実に近い。こうしてかつて登山やサイクリングへの情熱を失っていったのだろうし、アニメを見て純粋に楽しむ気持ちも消えて行ってしまったのだろうと思う。「そうやって人間は歳を取っていくのだ」と人は言う。

 

今日の朝目が覚めたときに夢の記憶とともに私の中に残っていたあたたかな気持ちは、まるでファンタジー映画やアニメ、小説で「もう一つの世界」に別れを告げて現実世界に戻ってきたときに、なぜか握りしめたまま残っていた異世界のアミュレットのようだった。それこそが今、久しぶりに私をブログ執筆に向かわせている。すっかり忘れてしまっていたけれども、「何かに情熱をあげて取り組んできたこと」が消えることなく確実に今の自分を形作っているということは、私のささやかな誇りでもあるように感じる。

 

久しぶりに大切なものを思い出した。

それは夢を追いかける楽しさや充実感を夢で思い出すという、少し変わった体験だった。

しばらくサボっていたスリランカの記事の残りも、近日中に更新したいと思う。次世代に何を遺すかを考え、行動するかというのも大切なのだろうが、何より私自身が「何かに向かおうとしている」姿を次世代に見せることこそが、大切な教育の一環なのかもしれない。我田引水と言われても仕方がないけれども、やっぱりそう思う。今の私は、あの頃向かおうとしていた場所にたどり着きつつあるのだろうか。まだ遠いのだろうか。それとも方向を間違えているだろうか。それはやりきってみないとわからないことなんだろう。「向かおうとする意志さえあれば …(中略)…いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな……… 違うかい?*3」

何が私にとっての真実なのか今はわからないが、少なくとも自分が向かうべきだと思うものに手を伸ばそうとする姿勢、「夢を追いかけること」は、忘れないようにしたい。

 

*1 映画「ミュウツーの逆襲」より

*2 桑島法子「私らしく」機動戦艦ナデシコED

*3 ジョジョの奇妙な冒険 第5部 アバッキオの死に際に友人が発したセリフより