Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

ドイツ人との対話

先日のパタゴニア旅行において、チロエ島ツアーでたまたま同席し、どういうわけか同じクレジットカード被害に遭い、謎に連帯を強化したドイツ人が現在日本に旅行に来ているというので、なんという偶然か東京で会うことになった。

 

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偶然WhatsAppを交換していたことで現地の警察にクレジットカード被害を届け出ることができ、奪われた金銭を回収する一助となったわけで、彼女は本当に私にとっては命の恩人である。カードの一件後、彼女とそれほど頻繁にコンタクトを取っているわけではなかったので、いつものパターンで関係がフェードアウトしていくのかと思ったが、どういうわけか今度は日本に来るということで、彼女に会うというある意味奇跡の再会が実現した。

 

彼女は千鳥ヶ淵で桜を見たのちに夕食を食べるということで、18時半に半蔵門駅で待ち合わせ。早速合流し、地下鉄で丸の内に向かい、丸ビルで適当な店を探して入ることにした。

結局お店は何回か入ったことのある酢重ダイニングにて。比較的奥の落ち着いた席に案内された。卵アレルギーが強いとのことで、卵が含まれていないメニューを選択し、注文。

今回彼女はチリを旅行したのちサンティアゴオークランドの長時間フライトを利用して直接ニュージーランドに飛び、北島と南島を旅行。ミルフォードサウンドを5日かけてトレッキングし、それは大変素晴らしかったらしい。日本旅行では広島の宮島、石見銀山、京都、城崎温泉を訪問し、本日城崎温泉から東京に来たとのこと。

彼女は弁護士の資格を持ち、法律関係の省庁に勤務しているそう。彼女の職場では年間30日の有給休暇を取得することができ、今回はサバティカル休暇ををフルに活かし、さまざまな国を旅行することにしたらしい。

 

食事をしながら、さまざまな話題で盛り上がった。

「今の日本はさまざまな問題を抱えていると思う。例えば窓の外に広がっている景色は一面高層ビルです。最近は古い街並みを破壊して高層ビルばかり建てることが流行っています。日本を伝統ある国だと思うなら、なぜ古い町並みを大事にしないのかと思います。ヨーロッパでは町並みが保存されているでしょう。なぜそのようにしないのか疑問です。」

「桜もそうだけれど、日本はとても美しい国だと思う。美しい国であるがゆえに、日本人はその美しさに無頓着なのではないかしら。」

今の日本にはさまざまな問題があると私は考えていて、政治参加に対する意識の低さ、民主主義に対する無理解、国民の内向き思考、外国人の排斥… 今や自民党(英語ではLDP)はフランスメディアでultra conservateur(超保守)と表現されるほどだが、日本人はそれにすらあまり関心がなさそうである。

「やはり日本は海に囲まれているというのが大きいと思う。ヨーロッパ、EU圏は常に人の出入りがある。EU圏ならどこにでも住むことができる。でも日本は海に囲まれているでしょう?英語ができないというのもあるし、外国と触れ合う機会がないから、どうしても外国人の本当の姿を知らない。それが排他性を増長させているのではないかしら」

「ドイツでも東ドイツと西ドイツで大きな違いがある。私が住んでいる西ドイツは比較的人々の往来があり自由な空気だけれども、東ドイツは閉鎖的で外国人を嫌がる雰囲気があるわ。もちろんそれは歴史的経緯によるものだと思う」

「排他的と言えば、旅行で出会うアメリカ人は皆民主党支持者なのよね。共和党支持者なんて出会ったこともない。(確かにアメリカは豊かな国だけど)あの国には多くの社会的問題があると思う。ドナルド・トランプを支持する人がいるなんて私には想像できない(けど、それを支持する人が実際かなりの数いるというのもまた事実である。昨年メキシコで出会ったアメリカ人やカナダ人がこれについて激論を交わしていた。下記記事を参照されたい。)」

 

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「私が驚いたのはチリの人々がベネズエラの難民についてよく思っていないということね。今ベネズエラは経済危機で難民が多く出ている。同じラテンアメリカなのに…」

彼女はアジア人にとって、アジア言語と全く異なる英語の習得は困難なはずだという。しかしながら、韓国人や中国人は英語を話すのに、日本人で英語を十分に話せる人は極めて稀だという。なぜ日本人は英語が話せないのか、疑問に思っているそうだ。

「やはり教育に問題があると思います。日本では英語を読むこと、書くこと、聞くことは学けど、スピーキングの練習はほとんどしない。この教育が英語を話せない日本人を産んでいるのではないでしょうか」

彼女に言い忘れたことだが、今から考えれば問題点はそれだけではなく、そもそも海に囲まれ外国人の少なかった日本人では、英語を話すことが人々にとって必要ではなかったというのも大きいと思う。

「英語に限らず、日本は自分の頭で考えるような教育をせず(そういう意味では教育の質が低く)、それが人々の視野を狭くさせ、(人々が学問に意味を見出さなくなるため)さらに教育の質が低くなっていくという悪循環に陥っているように見えます」

 

次にデモについて。最近の日本では規模の大きいデモが行われることは極めて稀だ。そのことについても意見を聞いてみた。

「私の住んでいる町ではパレスチナアフガニスタンの人がいて、パレスチナ支持のデモを当たり前のようにやっている。デモは民主主義の基本だし、デモが行われていることを通して為政者は国民の意見を知ることができる。自分の意見を表明すること、人と議論することは民主主義の基本だと思う」

「日本人は自分の意見を主張することを恐れているように見えます。そして地位が上の人を崇拝する傾向にあります(英語では説明しにくかったのだが、「目上」の立場の人間に文句を言ってはいけないと思い込まされている、と表現した。)」

「確かにそうかもしれない。日本人はおとなしくて従順と言うのもわかるわ。逆に、ドイツ人は口うるさすぎる、いつも文句ばかり言っているわね。日本の人々は笑顔に溢れている、良いところもたくさんある。でも、それ自体が欠点を生み出す土壌になっているというのもまた理解できるわ」

ドイツは多くの移民を受け入れているが、それについての考えも聞いてみた。

「移民自体を排斥する動きもあることは知っているけれども、私自身はEUには移民や難民を受け入れるだけの能力があると信じている。でも、そのために彼らは早くその国の言語を身につけ、社会の一員となる必要があると思うわ。ドイツに避難してくる人々が2年も3年も何の職にもつかずにいる状態は社会にとっても良くない」

そしてドイツ人の一人に一番聞いてみたかった問題について、質問をぶつけてみた。現在行われているガザにおける虐殺の問題である。ハマスに対するイスラエルの反撃はもはや反撃の度を超しており、少なくとも数万人と言われる無辜の市民を虐殺している。もし彼女がイスラエル支持であると話が大変ややこしくなるので少し勇気のいる質問ではあったがここはやはり聞かないわけにはいくまい。

「私はあれは不条理な虐殺だと思っている。イスラエルパレスチナに対して今までしてきたこと、そして今していること、あまりにもひどいと思う。だけど歴史的経緯から、すなわちドイツではホロコーストの歴史があるので、イスラエルを公に批判することは許されないのよ。(ネタニヤフはじめイスラエルが虐殺の批判をユダヤ人批判と敢えて混同させているのも)本当に卑怯だと思う。シオニズムユダヤ人は別のものだと思う」

 

さまざまな話題について話したが、最後に話したのは今まで訪れた国の話だった。

最も印象的だった国について尋ねてみると、

「それは決められないわね。どの国もそれぞれの良さがあった。例えば私はナミビアに(詳細は聞き取れなかったが、おそらく政府開発援助的な)仕事で訪れたんだけど、皆ごく僅かなお金で生活していることが伝わって来たわ。その時『足りるを知る』ということについて考えさせられたわね。ドイツ人はいつも文句ばかり言っているから。」しかし、現状に対して不条理を指摘し、声を上げることもまた大切なことだ。それができていないから今の日本は経営者が労働者を搾取し放題という環境に甘え、コストカットばかりで技術革新のための投資を怠り、その顛末が今の日本の凋落である。

「それもそうね。物事は何事も中庸が大事だと思う。」

そして印象に残った国についての話を続けた。

「アラスカでは、イヌイットの人々が非常に多くて、彼らと接するのは非常に興味深かった。グランドキャニオンの自然は圧倒的で非現実的だったし、チリのパタゴニアの自然も素晴らしかった。もちろんニュージーランドもそう。そして日本。とても1つには決められないわね」

私にとってやはり印象的だったのはやはり、まずはラテンアメリカである。ラテンアメリカでは音楽は人々の生活に根付いているのを実感した(こちらの記事に詳しく書いてある。興味があればラテンアメリカの音楽をお聞きください。)アメリカの空港を経由したが、米国の音楽は商業主義的な感じがして、心に響かない感じがするという話をしたところ彼女も納得していた。

 

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最後に最も印象に残った国の話をしてみた。そう、イランである。2016年2月のあの経験が自分の人生を変えたこと、自分の目で世界を見る必要性を痛感したこと、人々の文化への愛着、笑顔あふれる世界などなど、について話した。

彼女にイランの写真を見せてみたところ、彼女が一番驚いていたのは、イランの人々が皆笑顔で、幸せそうにしていたという点だった。

「もちろん欧米諸国から見たイラン像が100パーセント間違っているとは思いません。しかし人々が日々を楽しみ、文化的に暮らしているという側面も間違いなくあります。そのためにアメリカのビザを取得する価値は、十分あると思いますよ(もちろん半分ジョークだが。)」

 

彼女を東京駅まで見送り、彼女に厚く感謝の意を伝え、帰路に着く。

大変充実した時間になった。外国人との対話は刺激に満ちている。そして彼らと対話するたびに、新たな発見がある。これこそが海外との交流を持つことの醍醐味であり、海外旅行で得ることができたものの一つだと思う。

 

2016年にイランを訪れてからかれこれ8年になる。

 

あの時は英語なんてろくに話せなかった。8年後には外国人とさまざまなトピックで議論を交わせる程度の英語力を身につけ、外国人と食事をしつつ話すなどという機会を得ることになっていた。毎日語学を勉強する時は決して実感できないことだが、こうして成果として現れると我ながら感慨深いものがある。そしてそれはもちろん自身の日々の努力だけでなく、周囲の人々に恵まれたおかげだろう。努力の仕方を背中で教えてくれる人間が周囲にいたからこそ、日々倦まず学ぶという習慣の重要性が理解できたのは事実だと思う。

世の中にはさまざまな学びがあるけど、私の世界を最もドラスティックかつドラマティックに変化させたのは算数でも国語でも理科でも社会でもなく、外国というものの存在であり、そして外国語を学んだことだった。それは学ぶことによって今まで話すことのできなかった人と話せるようになり、今まで見ることのできなかった世界を見ることができるようになったからだと思う。そして広がった世界それ自体が、さらに世界の広さを教えてくれる。今は英語とちょっとしたフランス語、そしてカタコトのアラビア語程度しか使えないけれども、日々の積み重ねが劇的な進化を生み、さらに8年後には全く違う世界を見ているかと思うと、少しワクワクする。そしてそれこそが努力する意味で、生きる意味でもあるのだと思う。

 

最後に、日本を訪問した外国人をなぜここまでもてなすのか自分でもよくわからなかったのだけれど、それは所謂「おもてなし」という東京オリンピックで安っぽく濫用された概念とは無縁であり、よく考えてみるとやはり2016年のイランでの経験が強烈に刻み込まれていたことに気づいた。

イランでは多くの人が私に見返りを求めることなく助けの手を差し伸べてくれた。もちろん悪い人もいたけれど、そんなものどうでも良くなるくらい、多くの素晴らしき人に出会った。その時初めて「人間が素晴らしいものであること」を自覚したこと、そしてイスファハーンで我々の世話をしてくれた絨毯屋の店主の男性が「日本では日本人が本当に親身に接してくれました。これはその恩返しだと思っています」と語っていたことを思い出す。日本へ帰国してイランの興奮冷めやらぬ間、私がどう生きるべきかについて考えさせられた。

日本を訪れる人々をもてなすことは、私にとっては異国にはまだ見ぬ素晴らしい世界が広がっていること、そして人間の素晴らしい側面を教えてくれたれたイランの人々への恩返しであり、私に課された使命なのだと思っている。

 

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海外旅行に関するメモ

今のところまだ渡航する予定がない国の中で、行きたい国を自分用にメモしておく。

正直有言不実行というのが一番みっともないので、「〜〜行きたい!」みたいなのはあまり記事にしないようにしているのだけど、ひょっとしたらこの記事が将来自分にとって旅行先を決める一助となる可能性もなきにしもあらずということで、思考の記録として残すことにした。

 

今年末から家庭の事情で、おそらく今のような頻度で海外旅行に行くのは困難になるだろう。

世界一周というのは昔からあまり興味がないし、192カ国全制覇というのもほとんど食指が湧かない。要は私が行きたいと思わされた国に全て行くことができればそれでいい。とりあえず今興味があるものを備忘録的にリストアップしようと考えた。1軍は絶対に行きたい国、2軍はまあまあ行きたいが優先順位は何らかの理由で1軍より劣る国。再訪したい国もメモとして残しておくことにする。

 

・1軍

ベネズエラ

ツアーはあるようだがカラカスの治安がやばいという話はよく聞く。正直行くのが恐ろしいが、エンゼルフォールやカタトゥンボの雷で有名なマラカイボ湖など、ここにしかない見どころがたくさんある。実はカラカス以外は治安は良いという噂もある。可能ならコロンビアをセットにして、ぜひ訪れてみたい。

 

エクアドル

最近囚人が大脱走して大荒れのエクアドルだが、ここはインカ帝国が滅ぼされる前にアタワルパが拠点としていたキト、美しいコロニアル都市クエンカなどがある。キトから南下して、地球の中心から最も遠い山チンボラソ山のトレッキング、インガピルカ遺跡や、南部の小都市ロハなどに訪れてみたい。そのまま陸路でペルー北部と一緒に訪れたい。特にアタワルパ終焉の地であるカハマルカやその周辺を訪れれば意味のある旅行になるだろう。ガラパゴス諸島はそこまで興味はないが、機会があるなら行きたい。

 

イラク

世界史好きなら絶対に訪れたい地域。古代メソポタミアの時代から栄え、その文学はギルガメシュ叙事詩として、現代の人間もその翻訳を読むことができる。サーサーン朝時代には首都クテシフォンが置かれ、いまだにその遺構が残る。イスラーム勢力の拡大の時代にはシーア派スンナ派の戦いの舞台となり、その後アッバース朝の都として栄えた。古代遺跡ウルのジッグラト、アッバース朝の都として栄えたバグダッドシーア派の聖地カルバラーやナジャフ、北部の城塞都市アルビルなど、見どころがたくさん。最近は渡航した人の情報もちらほら出て来たものの、外務省の渡航安全情報では依然として真っ赤に塗られた部分が多く、さすがにそうホイホイとは行けまい。実際に渡航中突然情勢が変わってハラハラしたという旅行記も見られる。

 

イエメン

イエメンもシバの女王の国としてイスラーム以前から栄えた歴史ある地である。イスラーム文化が好きなものとしてサヌア旧市街は必ず生きているうちに行きたい場所の一つである。日干しレンガで作られた高層建築シバームもぜひ訪れたいところ。しかしながらいかんせん情勢が悪い。イランが支援するアンサールッラーに支配される北部、UAEやサウジが支援する国軍など群雄割拠の状態で、北部は観光客へのビザを出していない。ソコトラ島なら今でも行けるそうだけど、小さな島に自然を見に行くだけに1週間というのもどうもテンションが上がらない。情勢が良くなってこの国をじっくり訪れる日が来ることを期待したい。

 

エチオピア

素晴らしい地形と自然が残るシミエン国立公園大地溝帯のダイナミズム・ダナキル砂漠など自然が素晴らしいのはいうまでもない。さらにこの国はブラックアフリカとしては例外的なまでに歴史の長い国であり、イエメンとともにシバの女王の国の時代から知られていた。アクスム王国時代のステッレがアクスムに残る。その後、何度も栄華と衰微を繰り返しつつ、1974年ハイレ・セラシエが逮捕され滅亡するまで王朝が続いた。この地には早くから独特のキリスト教であるエチオピア正教が根付き、ラリベラの教会やティグレ地方の岩窟教会群などに代表されるように、独自性の高い文化を築いてきた。現在でもアムハラ語がこの国の作業言語であり、独自の不思議な文字を使用する。コーヒー発祥の地としても知られ、コーヒーセレモニーで有名だ。発酵食品インジェラもまた有名。世界の中でも有数の「濃い」国であり、興味を持たないはずがない。本当は2020年の秋冬あたりに行くはずであったが、コロナとそれに引き続く内戦でしばらく行くことができずにいた。最近は停戦が続いており、このまま状況が改善に向かうなら、遠くないうちに訪問できるかもしれない。ハラールを経由してジブチエチオピア鉄道でジブチに出るのも面白そうだ。

 

・2軍

エジプト

言わずと知れたエジプト。完全な観光地であるが、やはり興味はある。古代エジプトの遺跡だけでなく、さまざまな王朝の都として栄えてきたカイロ旧市街も時間をかけたい。

 

サウジアラビア

パキスタンの項目でも触れたので、詳細は省略。

 

コーカサス3国

期限前後から独特の文化を保ってきたジョージアアルメニア、そしてイランとともにシーア派の強いアゼルバイジャン。いずれも興味がある。ジョージアではトビリシだけでなく煙突の町メスティアも訪問したい。

 

トルコ

直行便があるため比較的訪問が容易、そしてイスタンブールは非常にメジャーなので2軍にしたが、魅力的なのは間違いないだろう。最近はアンカラ〜シヴァスに高速鉄道が開通したとのことで、シヴァスやボアズキョイなども訪問しやすくなったと聞く。頭がもげてしまった石像群ネムルト・ダウは必ず訪れたい。イランと組み合わせて、陸路で国境越えなども面白そうだ。

 

ロシア

最近何かときな臭い国なので今すぐに訪問というのは難しそうだが、やはり文化としては興味深い。なぜああいうことが起きのかも含めて文化的背景を知りたいと思っている。モスクワ、サンクトペテルブルグはもちろんだが、ロシア発祥の地ノブゴロドや黄金の環にも時間をかけたい。

 

南アフリカ(+周囲の国々)

歴史的建造物は特にないが、ナマクワランドという9月ごろに2−3週間だけ現れるという大きなお花畑を見に行きたい。南アフリカ周辺は独特の植物相を有することで有名で、興味のあるところ。世界最古の砂漠ナミブ砂漠を有するナミビアや、ビクトリア滝を擁するジンバブエボツワナ周辺をともに訪れたい。

 

ウイグル自治区

カシュガルはかつて中央アジアらしい美しい町並みが広がっていたとのことだが、今は旧市街の中央部に大きな通りが作られたりしているらしく、正直かつての面影を残しているかどうかは私にはわからない。パキスタンからカラコルムハイウェイを経由してタシュクルガンを経由し、カシュガルへ至るルートも素晴らしそうだ。ウルムチトルファン、そしてヤルカンドなど、少なくともかつてのウイグルらしさが残っていれば見どころはあるはずだが、今のところ訪問は見通せないでいる。

 

 

・3軍

ミクロネシア連邦-ナンマトルの遺跡に興味がある。

ザンジバル-ストーンタウン。オマーン支配時代の古い町並み。

スリランカ-独自の仏教文化。中央高地にお茶畑が広がる。

ネパール-カトマンズの建築群、エベレストトレッキング。

ギリシャ-やはり西欧文明揺籃の地。パルテノン神殿や、メテオラなど。

マルタ-イスラーム西欧文化が混じったような町並み。マルタ語はアラビア語の1変種である。

スペイン-アンダルシアにおけるイスラームの遺構。コルドバのメスキータ、アルハンブラ宮殿など。

チュニジア-マグリブマシュリクの境界として栄えた。聖地カイラワーン、カルタゴの遺跡、砂漠のマトマタなど。ややモロッコとキャラが被る。

アルジェリア-ビザ取得の難易度が高いことで有名。アルジェ、コンスタンティーヌ、トレムセン、オラン、そしてガルダイア。こちらもややモロッコとキャラが被る。

マリ-トンブクトゥと泥のモスク。治安がやばすぎてとても今は行けない。

コロンビア-なんとなく行きたい。大岩ピエドラ・デル・ぺニョール、ボゴタ旧市街、カルタヘナなど。なぜか知らないが、トゥンハに行きたい。あと世界で有数のプロミネンスを持つ謎の山、クリストバルコロン山に興味がある(登るつもりはないが…)。

 

・必ず再訪したい国(もしくはすでに予定があるが、もう一度行きたい国)

イラン

イランは非常に長い歴史を有する国で、国全体に歴史的モニュメントが散在する。前回は王道とも言えるイスファハーン、シーラーズ、ヤズド、マシュハド、テヘラン、そしてタブリーズを訪問し、その素晴らしさの片鱗を覗いた。次回訪問するときはペルシャ語を身につけ、ペルシャの素晴らしい文学についても教養を深めておきたい。次回行きたい場所としてはフーゼスターン地方(ジッグラトやシューシュタルなど)、ケルマーンとバム、ハマダーンやカーシャーン、カスピ海沿岸、そしてアルダビール。とても2週間で回り切れる量ではない。ひょっとしたらあと2回くらい訪れることになるかもしれない。

チリ

以前の記事にも書いたが、中南米の先住民問題は私の大きな関心事項の一つである。次回は風光明媚なマプーチェの人々の土地であるアラウカニアを中心に訪問したい。ビオビオ川河口のコンセプシオンから旅をはじめ、テムコ、コンギジオ国立公園を訪問したい。チロエ島も次回はゆっくり時間をかけて滞在したいと思う。パタゴニアは私の高校生の頃の憧れであったが、今はだいぶ趣味趣向が変わってきているので、再訪するかどうかはわからない。

ペルー

2024年9月下旬に訪問予定であるが、とても1回で回りきれないほどのみどころがある。特に北部のトルヒーリョやカハマルカ、チャチャポヤスはエクアドルとともに、また機会があれば訪問したいと思っている。

 

・めちゃめちゃ再訪したいわけではないが、再訪してもいい国

インド

インドもみどころが多く非常に興味深いし、嫌いではないのだが、インドの魅力にハマる一部の人のように、私がインドにどハマりすることはなかったようだ。今まで訪れた国々の中では興味深い程度のところで留まってしまっておりそこまで再訪に強い興味があるわけではない。でもアグラーやワラーナシーくらいは行っていいかな。ラジャスターン地方も面白そうだとは思う。

 

・家族が行きたいと思っているらしい国

スイス

ベルンの町並みが綺麗らしい。物価が高いらしいが、今や日本の物価が安すぎるので参考にならない。

アイスランド

オーロラを見たいらしい。こちらも物価が高いが、それは日本が安すぎるせいである。

どこかの海リゾート

退廃的なリゾートも小馬鹿にせず一度は体験する価値があるのかもしれない。でもリゾートで出会うタイプの人、ちょっと苦手なんだよな。誰もいないただただ綺麗な海を眺めながらゆっくりしたいという気持ちはある。

 

 

 

 

パキスタン(0) プロローグ

 

GWにどこかに行こうと思い立ったとき、「久しぶりにイスラム圏に行きたいな」などとふと思った。一番行きたいのはイエメンだが当然今の情勢では普通の人は行けない。イラクはようやく外国人向けにアライバルビザの発給を始めたそうで、旅人からの情報も少しずつ集まるようになってはきたものの、やはりまだ危険と隣り合わせの印象が拭えない。今行けるイスラム圏の国で興味深いところをピックアップし、サウジアラビアパキスタンが思い浮かんだ。

 

サウジアラビアといえば数年前に観光ビザ発給が開始されたばかりの国である。イスラームの2大聖地メッカとマディーナを擁し、ワッハーブ派イスラームに基づいた政教一致絶対君主制国家…などというイメージは過去のもので、確かに文面上は変わらないのだが、ムハンマド皇太子の政策رؤية ٢٠٣٠(ビジョン2030)に基づいて改革開放路線が進められ、若者の多さも相まってこの路線が国民からも評価を得ており、凄まじい勢いで旅行者へのソフト・ハード面でのインフラ整備が進められている。メッカは依然としてイスラム教徒のみの訪問に限定されているが、最近はマディーナの預言者のモスクも旅人に実質的に解放されていると言われており、イスラームの始まりの地について理解を深めることができる。マダイン・サーレハなどの世界遺産やジェッダ旧市街、そして緑豊かな高原地帯アスィール地方にもリジャール・アルマなどの見どころがある。砂漠の高速鉄道なんかに乗るのも面白そうだ。海外安全情報としては薄い黄色で、自分が今まで薄い黄色の国を訪れた経験からしてかなり安全性は高いと思われる。

パキスタンといえば昨年冬に訪れたインドと犬猿の仲であることで有名な国である。カシミール地方で紛争を抱えるほか、西のパシュトゥーン人居住地域がテロ組織の温床になっていると言われており、テロなども度々起きて治安が悪い。外務省の海外安全情報では大体濃いオレンジ色で塗られており、西側の国境地帯など真っ赤に塗られており恐ろしい。そんなパキスタンであるが、どういうわけかバックパッカーの聖地などという話も聞く。調べてみるとまるでナウシカの世界のような桃源郷フンザの四季折々の景色が大変美しいということだ。また、モヘンジョダロハラッパなどのインダス文明の主要な遺跡、そして一時ムガル帝国の都として栄えた文化都市ラホール、聖廟の町ムルターンとウチ・シャリフなど、インダス川沿いに歴史的価値の高い見どころが点在している。

 

正直この二つを並べられたらサウジアラビアを選びそうなものである。事実当初はサウジアラビアでも行ってこようなど考えていた。しかしどういうわけか、ある日とあるホームページで白と青のタイルで絢爛に装飾されたイスラーム建築の写真を見てしまう。これがウチ・シャリフの聖廟であることがわかり、一気に心がパキスタンに傾いた。さらに調べれば調べるほど、パキスタンは濃度の高い歴史的建築や遺跡を多く擁する魅力的な国であるということがわかってきて、もはやここに行くしかないなどと思い始めた。どうせ所帯じみたら危ないところなどそうホイホイ行けなるなる。行くなら今が最後のチャンスだろうと思った。

 

正直言えばバックパッカーの聖地とか、ナウシカの舞台とかいう響きにはそこまで興味があるわけではない。いわゆる聖地巡礼には昔ほど食指が動かないし、訪問先の選択は純粋に自分の意思に従わないと大抵あとで後悔することは理解しているが、それでもやはり元々登山畑出身の身として、ヒマラヤの山岳地帯の厳しい自然と人々の生活が織りなす和音には惹かれるものがある。イスラーム建築の美しいモザイクタイルも、やはり定期的に触れたくなる芸術美である。そして知られざるインダス文明の巨大遺跡。GWをフルに活用して、これらをすべて訪れるプランを計画した。

 

計画の概略は以下の通りである。期間は4/26-5/6を予定している。

day1 成田発、イスラマバード

day2 イスラマバードからカラコルムハイウェイを通って、チラス泊

day3 カラコルムハイウェイを北上し、カリマバード(フンザ)泊

day4 カリマバード(フンザ)泊

day5 飛行機でイスラマバードに戻り、イスラマバード観光、イスラマバード

day6 サッカル泊

day7 モヘンジョダロ、サッカル泊

day8 ウチ・シャリフ(±デラワールフォート)、ムルターン観光、ムルターン泊

day9 ムルターン観光後、ハラッパに寄らずにラホールへ、ラホール泊

day10 ラホール観光、深夜ラホール発

day11 帰国

 

随分と物騒な地名が並び、ある意味テンションが上がる。日本とパキスタンの往復にはタイ航空を使用し、スワンナプーム国際空港で乗り継ぐことになる。東南アジアにはシンガポール以外行ったことがなく、経由のみとはいえタイに上陸するのも初めてだ。

今回は11日間に自分のこだわりを詰め込んだ。特にフンザへの道は飛行機ではなく陸路で訪れることにこだわった。これは、山奥の集落の真の価値を知るには、スポット的にフンザを訪れるのではなく、険しく長い道のりを経ることで初めて困難な環境で生きる人々の生活が理解できるのではないかという確信に近い考えがある。

今回はイスラーム色溢れる市街歩きに重点を置きたいと思ったが、治安が悪く単独行動が危険な場所もあるため、基本的にはガイドと行動を共にすることになる。それでもムルターンやウチ・シャリフの美しい聖廟、そしてムガルの華ラホールの歴史的建造物はしっかり時間をとって訪問したいと思い、「ただの原っぱ」と形容されるハラッパは訪問しないことにし、デラワールフォートも時間が許せばの訪問とし、ムルターン市街歩きを優先する。

4-5月はパキスタンは高温期にあたり、雨季ではないが日中の最高気温は40度を超える。なかなかハードであるが、こればかりはそう時期を選んでいられないので仕方ない。雨季ではなかったのでよしということにしたい。

なお、パキスタンのビザはオンライン申請にて取得することができる。もしビザをこれから取得する方がいるならば、Google検索で上位に出てくる偽サイトに騙されずに在日本パキスタン大使館のホームページからのリンク(http://visa.nadra.gov.pk/)からアカウントを作成し、ビザを申請されたい。申請にあたっては、西遊旅行のホームページ(https://www.saiyu.co.jp/blog/pakistan/2019/10/28/パキスタンの-e-visa/)や、こちらのサイト(https://suzukikeiko.com/pakistan/information/e-visa/)が大変参考になる。入力項目がたくさんあり面倒だが、7-10日で発給されるという話であったのに申請したら1日で発給された。

地球の歩き方は2007−8のものが最新版であり、現在絶版でメルカリで不当な高値が付けられている上に、情報が古く参考にならない※。Lonely Planetですら古いものしかないようだ。情報が少ないが、それはかえってニュートラルな気持ちで訪問を楽しめるということでもある。計画自体は100点満点に近いものができている。不安も当然あるが楽しみだ。トラブルに巻き込まれないように祈り、かつ対策も怠らないようにしつつ、全力で地元の文化に浸りたいと考えている。

 

※3/14追記:と思っていたが、中古の2007-8年版を手に入れて読んでみると、それほど分厚くはないものの内容は大変に充実していた。歴史や文化、建築に関する解説からマイナー都市の解説まで非常に興味深く、そして大変に読みやすい。地球の歩き方というのは妙にポップな方向に走っていたり、はたまた著者のカラーが強く出過ぎていて自分と合わない部分があったりするものもあるが、この地球の歩き方は解説のアカデミックさと旅のダイナミックさのバランスが非常に優れていて、臨場感がある。これがあるだけで旅行のイメージが湧きやすくなり、計画を膨らませることができるだろう。今の時勢ではあまり近づきたくないクエッタやペシャーワルなど、アフガニスタン国境の街に関する解説まで充実していたのには驚いた。

 

 

パタゴニア(16) レファレンス

 

今回の旅行記では新しい試みとして、旅行で出会った音楽や文献などを記録として残していきたいと思っている。といってもこのリストに含まれる文献はわずかで、大部分は音楽の羅列されたリストになると思う。

それぞれの日ごとに出会ったものをリスト化し、それに対して調べた結果をメモのように記録する。当然、興味があるものは調べたが、興味のないものはあまり調べていない。スペイン語にそれほど堪能ではないことから、このリストはおそらく多くの推測や間違いを含むことになる。もし間違いを見つけたらぜひ指摘して教えてくださると、泣いて喜びます。

 

1/28

・音楽

Nicky Jam, El Perdon

サンティアゴの街中で。

サンティアゴではクンビアではなくレゲトンを耳にすることが多かった。庶民的だがどこか優しい響きのあるクンビアと違い、レゲトンはどこか不良っぽい趣があり、実際スラムっぽい街中で耳にすることが多かった。

Soda Stereo, Juegos De Seducción

空港に向かうUberの中で。こういう1980年代の米国ポップスを真似たテイストのスペイン語曲は割と耳にするのだが、クンビアと比較すると印象に残りにくい。

 

1/30

・音楽

Ke Personaje, Adios Amor/Oye Mujer

 

 www.youtube.com

ダルカウエのマーケットにて流れていた曲。Ke personajeとは"Que personaje"を捩ったものだと思うが、これは「なんてやつだ」と訳すので合っているだろうか。アルゼンチンのクンビアグループである。

 

なお、この曲は2017年ごろにChristian Nodalというメキシコのアーティストから発表されて大ヒットした曲のクンビア・アレンジである。原曲の金管楽器アコーディオン(バンドネオン)を多用したメキシコらしいしっとりした雰囲気と比較すると、軽快でテクノ風である。

・文献

チロエ島のツアーにてラ・セレナ在住という弁護士のおばさんから伺った本のリストである。全て私は知らなかった。一部のものは有名らしいが、無教養ゆえ知らなかった。

①Jean M Auel. 1980. The Clan of the Cave Bear

私はこの本を知らないのだが、調べてみると子供向けの本らしい。スペイン語題名は"El Clan del Oso Cavernario"。インディヘナが最終氷期ベーリング海峡を渡って南北アメリカにやってきたモンゴロイドであるという点に興味を持っている、という話をしていたときにこの本が言及された。

②Ken Follett. 1989. The Pillars of the Earth

ケン・フォレットによって1989年に英国で発表された歴史小説で、邦題は「大聖堂」。スペイン語題名は"Los Pilares de la Tierra"。あらすじについては詳しく知らない。確か私が「イスラームの建築文化が好きだ」という話をしていたときに、小説の中でイスラム文化について触れた一節があった、ということでこの本の名前を出してきたのだと記憶している。

③Julia Navarro. 2013. Dispara Yo Ya Estoy Muerto

Julia Navarroによって書かれた物語。イスラエルにおけるユダヤ人の不法入植についての話だそうである。確か現在のガザによる急襲とそれに対する虐殺にも近いイスラエルの対応について話していたときに、この本の名前が挙がった。

④Katerine Araya T, Macarena Almonacid B. (年不明). Castro Memoria de Intervencion Patrimonial Iglesia San Francisco de Castro

こちらはこのおばさんが現地で購入したものを見せてくれた、カストロの木造教会の写真集。建設の経過なども詳細に書かれていたと記憶している。

 

1/31

Los Reales del Valle, Regalo Equivocado

 

 www.youtube.com

乗せていただいた警察車両の中で流れていた曲。Shazamするために携帯を音源に近づけると警察の人は音量を上げてくれた。こういう寛容さというか、「外れ値的行動に対する懐の広さ」が南米の魅力の一つである。

 

このグループはランカグアというチリのサンティアゴから南におよそ100kmのところに位置する小都市を拠点とし、"Cumbia Ranchera"のバンドと書かれているが、クンビア感はあまりない。チリのクンビアを名乗るジャンルの音楽はテンポが速く、クンビア感に乏しいのが特徴のようだ。

 

Grupo Frontera &Bad Banny, un x100to

所謂クンビアの曲。

Christian Nodal, Adios Amor

 

 www.youtube.com

これはKe PersonajeのカバーしていたAdios Amorの原曲である。

 

上記2曲はプンタアレーナスの大衆食堂Lomito'sで流れていたもの。他にLos Angeles Azulesなど有名どころも流れていた。

 

Los Angeles Azules & Nicky Nicole, Otra Noche

1曲、一番気に入った曲をShazamしたがヒットせず。この曲、どうしてももう一度聴いてみたい。典型的なテンポのクンビアリズムで、変ホ長調バンドネオンの美しいハーモニーが前面に出た間奏が特徴で、確か女性ボーカルだったと思う。この食堂は有名どころの曲ばかり流していたので、おそらくこの曲もヒットソングであるはず。知ってる方いたらぜひ教えてください。→1か月ほど探し続けてようやくこの曲を発見。覚えていた通りNicky Nicoleのハスキーボイスに変ホ長調の曲だった。この曲を聴くとクレカ詐欺に衝撃を受けながらもクンビアの流れる空間で食事をしていた時の気持ちをよく思い出す。

www.youtube.com

 

2/1

Los Tigres del Norte, El Niño y La Boda

Los Tigres del Norte, El Bilingüe

Ranchera系の曲を作るメキシコのバンドらしい。マグダレナ島へ向かうボートで。

 

2/2

・音楽

Louis Fonsi, Despacito

ウシュアイアに向かうバスにて。小さな女の子が携帯から流していた。デスパシートは世界的に有名で、米国アーティストをフィーチャーしたり日本語版もあるとかないとか。口ずさみやすいメロディと裏腹に歌詞の内容は際どい。とても3−4歳の女の子が口ずさんでいい歌詞ではない。笑。

 

・文献その他

https://www.youtube.com/watch?v=LBaXgE2eRfU

こちらは現地で出会った音楽ではないが、本文中に触れる機会がなかったので備忘録的にリンクを貼っておく。2022年、最後の純血のヤーガン族の女性、クリスティナ・カルデロンさんが亡くなったというニュース。ヤーガン族とはウシュアイア周辺の先住民で、気温の低い大地でもほぼ半裸で生活していたという。今は純血のヤーガン族はいなくなってしまったが、ウシュアイアでも背の低い先住民風の人々を少なからず見かけた。

②最果ての島で馬と暮らす、南米ティエラ・デル・フエゴ

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/stories/21/093000061/

こちらも現地で出会ったわけではなく、旅行後に調べていて初めて出会った記事。非常に興味深いのでこちらに残しておく。クロアチアを出て移住し、フエゴ島に住み、アルゼンチンのカウボーイ、「ガウチョ」として遊牧生活を送る人々の話。プンタアレーナスにクロアチア系移民が多いという話は聞いていたが、彼らは南米で先住民と混じり、独特の文化を形作っている。こういう視点もなかなかに興味深い。

 

2/4

Leo Mattioli, Tramposa y Mentirosa

Leo Mattioliは比較的若くして亡くなったメキシコのクンビア・アーティストらしい。メキシコ発の曲は、特にクンビアを中心にラテンアメリカ全体で聞かれている印象がある。地元のおばあさんが大音量で携帯から流しながら歩いていた。

 

2/9

Rey Ruiz, No Me Acostumbro

www.youtube.com

2/5-8に特に音楽に出会わなかったわけではない。いくらか調べたものはあるがあまり印象に残らなかったので掲載していない。

こちらの曲はクンビアではなくサルサキューバ出身のアーティストらしい。Savoy Hotelのホールで流れていた。クンビアと比較すると、大変おしゃれな印象がある。

 

総括

南米、いやラテンアメリカというのは本当に音楽文化が豊かな地域である。トランジットで経由したヒューストンの空港やユナイテッド航空の機内で流れていた音楽と比較したのでよくわかるのだが、商業的な売れを強く意識し、確かに大衆の心にはそれなりにリーチするが強く突き刺さることがなくどこかよそよそしい響きの所謂洋楽と比較すると、ラテンアメリカの音楽はまさに人々の営為そのものであり、彼らの生活の一部という感じがする。

今一つ洗練されない部分はあるが、その分人々の心に強く訴えかけ、人々が口ずさみ踊り出したくなるような楽しさ、華やかさ、率直さがある。人々は大衆食堂やバスの中、道端だけではなく、仕事中でさえ好きな音楽を流している。もちろんそれに眉を顰める現地の人間など全く存在しない。この記録はあくまで今回のパタゴニア旅行のシーンに刻まれた個人的なものだが、ラテン音楽に興味がある人はぜひ調べて聴いてみてもらえれば幸いです。そして私にもぜひ素晴らしいアーティストや素晴らしい曲を教えてくださると、なお幸いです。

 

 

 

パタゴニア(15) クレカ不正利用事件の顛末

 

この記事では、1/27-2/11の南米旅行期間中、1/28におそらく(白)タクシー乗車時に行われ、今回の旅行を大いに揺るがすことになった、クレジットカード不正利用事件についての詳細と、事の顛末についてをまとめようと思う。

完全な自分のための記録であるが、もしこれからサンティアゴに訪れることがあれば、そしてもし海外でクレジットカードの不正利用に遭遇してしまった方がいらっしゃったら、この記事が参考になれば幸いである。

 

1/28

0850

ユナイテッド航空便がサンティアゴ空港に到着。

0930ごろ

トイレをすませ、コンベアのところで荷物を回収。いつも空港のATMで現金を引き出すようにしていたが、ここにATMがなかった。

ホテルに向かうにはタクシーもしくは公共交通機関を使う必要があるが、今回は他者様のブログを拝読し、シェアタクシー"TransVip"の利用を考えた。このオフィスは空港の人の出入りが制限されるエリアに位置していたが、このオフィスに人がいなかった。他のタクシー予約ブースには人がいたが、タクシーよりも先にATMで現金を手に入れたいと思い、ここのブースの人にATMの場所を聞く。ATMがこのエリアのすぐ外にあることを聞き、エリアを出る。

エリアを出るとATMがあったが、手数料が高い(1300円ほどだったと思う)。流石に躊躇した自分は近くの人に話しかけた。無線を持った空港職員風の男①に話しかけ、市内でのATMなら手数料が安いことを聞く。この男がタクシー(?)を呼び、立体駐車場に案内させられた。

男①は私にどこから来たのか聞いた。日本についてはラーメンが美味しいですよね!チリでも食べられるんですよ。などと言っていた。雰囲気的には善良そうに見える青年であった(実際のところは知らない)。この男からホテルまでは25USD程度であることを知らされる。

白いタクシー(?)に乗り込む。タクシードライバーの男②と男①が値段について打ち合わせ、ホテルまで25USDという。了解し、タクシー(?)は駐車場を出た。車は一旦太い道から外れ、この位置(側道の設けられたところ、Hertz Santiago Airport +56 2 2712 8787
https://goo.gl/maps/Y2ivDRqQPD5s3KsA7)付近で停車。青いクレジットカード端末を持った男③が現れた。現金をあまり使いたくなかったので、まずこのクレジット端末に1枚のカードを挿入し、暗証番号を入力したが、支払いができないとのことであった。一方が使えないというのは比較的よくあることなので、もう1枚のカードも同様に挿入し、暗証番号を入力。こちらも使えず、結局現金で支払い。男③は30USDを要求し、私は①②が25USDと言っていたと主張するが彼は25000CLPは30USDと強弁したため30USD支払った。

 

1/30 

ツアーにてドイツ人の旅行客より、サンティアゴのタクシーで数十万チリペソの不正請求があったという話を聞く。すでに暗証番号を入力してしまったためその金は返ってこないと悲しそうにしていたが、その時は人ごとだと思っていた。

 

1/31

朝、Hotel Cumbres Puerto Varasから空港に向かうため、Uberを使用しようとしたところカードが使えないことに気づく。昨日ドイツ人女性から話を聞いていた私はよもやと思いweb明細を確認したところ、XX万チリペソ(日本円にして二桁万円相当)がそれぞれ別の名前で2回引き出されたのちに、知らない仮想通貨サイトで4回ほど計Y万ほど使用されていることを発見した。この時もう一枚のカードは使用することができたが、すでに暗証番号などの情報が相手に渡っている可能性が高い以上、このカードはweb明細を確認できないタイプのカードであったが、すでに不正利用されているか今後不正利用され使用できなくなる可能性があると考え、この時点で旅行会社に連絡した。

プンタアレナスの空港からホテルへUberを使用したのを最後に、もう一方のカードも使用できなくなった。親族より使えるカード番号を教えてもらい、そちらで国際電話が使用可能なeSIMを購入。日本の営業時間、つまり現地夜9時以降に国際電話で2つの銀行に状況を説明し、カードを止めてもらうようにお願いした。メインで使用していた緑色の銀行のカード会社は2/7の現地時間夜10時以降に審査結果を連絡すると回答があり、もう一方の赤い銀行のカード会社からはやはりXX万チリペソの不審な請求があるとのことで、2/13の日中に審査結果を回答するというとのことであった。

ドイツ人女性のWhatsAppを交換していたため、上記につき相談。PDIに相談するのが良いとのことだったので、PDIを訪問。スタッフより、このカードはinternationalなもので我々に管轄権がないから、Carabineirosに行って被害届を出すこと、そしてPolicia de Investigaciones de Chileで滞在証明書を取得するように言われる。

Carabineirosで被害届を出し、ポリスレポートを取得。Policia- は昼の13時までしか開いていないため、明日訪れるようにとのことだった。

 

2/1

昼11時ごろ、Policia- にて滞在証明書を取得。この証明書には各カードのカード会社名が記載された。

 

今回はカード不正利用に絞ってまとめた記事なので、ホテル手配とかの話は別記事を参照されたい。

 

2/9

緑の銀行のカードからの連絡がまだ来ていないことを不思議に思い始める。

 

2/13

すでに日本に帰国している。赤い銀行のカードより、XX万チリペソ分の請求について調査するため、当該請求を請求書から削除するとの連絡。カード会社はすでに2024年になってからサンティアゴで同様の不正利用が多発していることを把握しており、それぞれの請求は全て職業や名前がバラバラで明らかに不審であることを知らされた。私がどのように被害にあったのかも詳しく聞かれた。調査のために現地警察からもらった書類をメールで提出するようにとのことであった。

緑の銀行のカードから一向に連絡が来ないため不審に思い、連絡したところ2/7に確かに審査結果をSMSで連絡しようとしたがSMSの送信に失敗した記録が残っている旨を知らされ、2−3営業日以内に連絡すると回答あり。

 

2/16

夕方ごろになっても回答が来ないため、再び緑の銀行のカード会社に連絡し、すでに報告から2週間以上経過しており対応があまりに遅いことに苦言を呈すると、すぐに当該部署より連絡するとの回答を得た。17時半ごろに電話で女性④から連絡があり、Y万円の方は補償できるが、XX万ペソ×2の方はすでに暗証番号が入力されており補償の対象外と言われる。赤い銀行のカード会社よりすでに事情を聞いていたため、こちらのカード会社にもどのような被害にあったのかを説明し、同じ請求者であったはずなのに2回、違う名前で請求が来ること自体がおかしいのではないか、他のカード会社からは同時期に同地域で不正利用が多発しているとの情報を得ているのだからそういう情報は必ずあるはずで、きちんとした調査をお願いしたい旨を強く申し出た。どういうわけか同じ部署の違う人⑤から電話があり、同じことを説明させられた。この間に1回目の人の電話が着信したが出ることができず、留守電には現地警察で取得した書類について聞きたいとのメッセージが残されていた。

 

2/20

朝ごろよりSMSにて、緑のカード会社より不正と思われたXX万ペソ×2の請求を含む計6項目の不正利用申請を確認する旨のメッセージが届く。全ての項目に不正利用の印をつけて返信。夕方ごろに電話で⑤の人物から電話があり、やはり不正利用であること、これから補償申請の書類を送るので用紙に押印・記入し、警察の書類(すなわちポリスレポート)を添付して返送するように連絡あり。なお、このポリスレポートは写しで良いとのこと。

 

2/22

緑のカード会社より補償申請の用紙と封筒が届く。記入し、書類を添付の上返送。

 

***

 

以上が事の顛末である。

結局全額が保障されることになったようだが、一番肝要であったのがCarabineirosにおける被害届(ポリスレポート)の取得であった。これがなければ今回の不正利用に対する補償請求が通らなかった可能性が否定できない。

一般的に、暗証番号を入力した取引は対面のものとみなされ、補償の対象外となることが多いらしい。おそらく今回の不正利用は、そのルールを熟知した人間によってなされたもので、おそらく、というかどう考えても組織的なものである。同じ人が名前を変えて2回請求していることから、システムを何らかの形でハッキングしているのだろうと思われる。

 

反省点としては、空港で現金を手に入れようとするのは時に危ないということ(これはブラジルの話だが、ブラジル・サンパウロの空港ではATMにスキミング機が仕込まれており、被害に遭った人が多いという話だ)、カードは限度額が低いもののみ使用すること、そして1回カードが使えなかった場合は次のカードを使うのではなく現金で支払った方が安全であるということだ。特に今回の旅行では電子的な決済に頼ることの危なさ、現金の頼もしさを再認識した。

 

以前の記事にも書いたように、そもそもそのタクシーを利用してしまったのが原因なのは間違いないわけで、それを利用しない手立てはあったのではないかと思わなくもないが、やはり長いフライトで疲れて判断力がやや低下していたこと、国や空港によってATMやタクシーブースの場所が違うこと、そして呼び子と金銭徴収人を分ける巧みかつ組織的な犯行が疑われることから、今回の事象を避けるのは困難だったようにも思う。さらにサンティアゴの空港からはUberを使うことはできないことになっている。

 

海外旅行で主要なトラブルは今回含め2回あったのだが、実を言うとどちらも初日の空港とその周囲でトラブルが起きている。トラブルに巻き込まれる確率自体は低いのだが、トラブルが起きるのは100%初日の空港到着時〜市街移動までということになる。初日の到着時は長いフライトの後で特に判断力が鈍りがちで、さらにその国にも慣れていないこと、さらにそういった人をカモにする連中が手ぐすねを引いて待っていることが、トラブルに遭遇する原因ではないかと思う。一番安全なのは、初日の空港から市街への移動には、GetYourGuideや旅行会社などから送迎車を手配しておくことであり、それが結果的に安上がりなのではないかと思う。やはり君子は危うきに近寄らないことである。そもそも海外旅行自体が危うきという向きもあるかもしれないが、個人的に海外は虎子を得るための虎穴である。

 

なお、今回の一件では赤いカード会社の対応は(Web明細がないこと含めアナログを感じる対応ではあったが)緑のカード会社よりはるかに優れていたことは、ここに明記しておく。緑のカード会社は問い合わせに対する回答に時間がかかった上に、その初回の回答は赤いカード会社と比べて明らかに少ない(不正利用関係の)情報しか把握していないこと、丁寧な調査を行わずおざなりの対応をしていることがありありと伝わってくるものだった。多くの顧客を抱えており忙しいのかもしれないが、そもそも赤い銀行のカードには年会費を払っていない一方で緑の銀行のカード会社には年会費をそれなりの値段を払っていたのだから、サービス品質の向上を強く希望したい。

 

 

パタゴニア(14) エピローグ

 

朝起きると、見慣れた天井が広がっている。ああ自分は日本にいるんだなあとしみじみ思うとともに、もうその大地を離れてから2週間以上経つ南米での記憶を、ぼんやりと思い出す。

 

今回の旅行は本当に大変だった。旅行が続行不可能なのではないかと思ったし、路頭に迷って餓死する可能性も頭をよぎったほどだった。しかし大変だったからこそ今回の訪問は間違いなく、唯一無二のものとなったと思う。現地の警察のお世話になり、辛い時に手を差し伸べてくれた人々の良心に触れ、大衆食堂で現地の人に混じってクンビアを聴きながら、ああ私はラテンアメリカにいるのだなあということをしみじみと感じた。

 

海外から帰ってくると日本という国についていつも考えさせられるのだが、今回感じたのは、日本という国は「他人は良き人間でなければならない」という通念が取り巻く社会なのではないかということだった。この哲学は人々の社会における行動を束縛し、鬱陶しいほどに細かく多岐にわたるマナーを守り、他人に望まれるべき人間であることを強要する。南米のような治安の心配は全くないが、南米のように他者に寛容でもないし、「他人」に対して手を差し伸べる心根の優しさよりも、どうしても他者との関わりを避けるよそよそしさが前景に立ってしまう。それを本当に「日本は世界で最も治安がよく、市街も綺麗で生活がしやすい素晴らしい国(残念ながらすでに経済大国ではない)」の言葉で片付けていいのだろうか。あまりに短絡的すぎやしないか。

 

そういえば、旅行に行く前にチリについてブログで調べていたときに、「チリの人は日本人に似て謙虚さが感じられルールにも従順で好ましい」という記述をいくつか見かけて首を傾げていたが、その違和感の正体の少なくとも一部は、上に述べたようなところにあるのではないかと思う。少なくとも南米という地域は日本と同じ尺度で人々が行動していない。日本にある良さがない代わりに、日本にない良さが溢れている。日本のテレビに限らず人間というのは殊更自分たちとの相対的な類似性に基づいて他者の価値を決めたがる傾向にあるが、これは世界を見る視野を狭めてしまう。大変にもったいないことであり、自分への戒めでもある。

 

思うに南米の人々の心の奥底にあるものは、人間は愚かである、否、「愚かなのが人間である」という哲学なのではないかと感じる。

他人が音楽を楽しみながら仕事をすることを許容し、社内で他人が電話することを許容し、困っている外国人に手を差し伸べる。そこには、人間というのは間違いを犯すことが当然で、日々を楽しみたいと願って生活することが当然で、外れ値を許容することが当然であるのだという独特の通念が感じられた。それはそれは日本社会でところどころに顔を出す「他人は良き人間でなければならない」という通念とは綺麗に対照をなしているように思われた。

確かにクレジットカードの不正利用(そしておそらくそれは組織的なものだ)を行ったのは南米の人間だったが、その詐欺被害に遭った時に嘲笑する素振りなど見せずに手を差し伸べることを厭わなかったのもまた、南米の人だった。それは全く関係のない2つの側面ではない。おそらく同じものを別の側面から見ただけにすぎない。そしてその2つの側面から見えた同じもの、それが南米の人々、もしくは南米の社会、南米の人々に通底する哲学のようなものだと思う。そして、このようなクレジットカード被害に遭っておきながら、未だにそんな南米の大地や空気感に魅せられてしまっている私もまた、立派なその愚かな人間の一員なのだろう。もっとスペイン語を学び、南米の人と不自由なく話せるようになりたい。彼らの思考回路、哲学、そして大切にしているものについてもっと知りたいと思う。残念ながら、この国で社会から要求されているような善き人間には、なれそうもない。

それでも私は、それでいいのだと思っている。やはり日々の生活を楽しみ、素朴さを持って人々に優しく接する人間でありたい。リズミカルな音楽を流し、家族や知人、そしてときには他人とのつながりを何よりも大切にしながら、常に楽しむことを、少なくとも心の奥底では忘れないような生き方を目指したい。社交性が低く他者との関わりが受動的になりがちな私にはそれを完全に自分のものとすることは難しいかもしれないが、それは必ずしも享楽的に生きることを意味しないと思うし、重苦しい不文律が支配するこの国での羅針盤となりうる物事の捉え方だと思う。

 

チロエ島、プンタアレーナス、ウシュアイア…、今回の訪れたさまざまな場所で得た経験は、かつての異国への訪問がそうであったように、自分の宝物である。人々との出会い、そして個人の力の限界、謙虚であることの大切さ、人々の優しさ、自分の目で確かめることの大切さ、そのほかたくさんのことを学び、思い知らされ、刻みつけられた。そして、この素晴らしい財産は、高校生の頃の自分からの贈り物でもあったのかもしれないな、などとも思っている。

 

かつてその名前に憧れていたプンタアレーナスは、窮地に追い込まれた自分を助けてくれた人々の優しさや人々の心に触れた、非常に印象的な滞在となった。カード不正利用に遭った自分に対し嘲笑もせず対応してくれたPDIのスタッフ、警察の車に自分を乗せて私を町外れのオフィスまで連れて行ってくれたCarabineirosの人々、そして食糧をたくさんくれたホテルのスタッフ。彼らとの触れ合いは、この旅行の価値を決定づけたものだった。そしてその名前を高校生の頃から心に留めていたウシュアイアは、ここ数年で色々なことを経験し人生が展開していく中で、すでに失われてしまったものだと思っていた、自然に美しさを見出し感動する心を蘇らせてくれた。フエゴ島国立公園の真夏でも雪をいただいた山々に囲まれた美しい森の中を歩いている時、かつての自分のように感動している自分がいることに気がついた。この2つの都市での滞在はこの旅行の中でも特に印象的なものであり、今から考えればかつての自分が将来の自分に残したタイムカプセルのようにすら思われる。狭い視野で地図と解像度の悪い写真だけからこの地に興味と憧れを抱いた高校生の頃の私はある意味慧眼の持ち主だったとも言えるわけで、運命とは不思議なものである。

 

今回の訪問はたったの2週間、それは長いようで短いものではあったけれども、得たものは自分の中にずっと残る。私はその経験をロケットペンダントのように身につけ、握りしめ、時折その中に折り畳まれた写真を心に描きながら生きていく。

 

 

さて、今回の旅行で悔やまれるのは、チリ南部の先住民族、マプーチェ族の歴史や文化について興味を持っていながら、彼らの生活について深めるような訪問が全くできなかったことだ。クレジットカードの件以上に、こちらの方が心残りである。なぜそれほど彼らに惹きつけられるのかわからないが、もしかするとインカやアステカという大帝国がスペイン軍になすすべなく敗れていった一方で、彼らの戦法を取り入れ先住民を糾合し、ペドロ・デ・バルディビアを破ったラウタロの勇敢さと賢さ、200年以上独立を守った誇り高さへの敬意、そして今置かれている彼らの不遇な地位に、どこか自分を重ね合わせているからかもしれない。アラウカニアの州都テムコや、彼らの自然信仰の中心であったアラウカリアの木々が美しい景観をなすコンギジオ国立公園には、必ず訪れたい。そしてマプーチェの生活がさらに色濃く残る地域がどこかに必ずあるはず。メキシコのクエツァランのように。

チリは将来必ず再訪するつもりでいる。そしてその時は今よりもう少し現地に対する理解を深め、マプーチェの人々の軌跡と現在について学びたい。そしてできれば今回早足での訪問となってしまったチロエ島にも数日間滞在したい。これは今の自分からの、将来の自分への宿題である。いつ再訪できるか全く予想がつかないが、その時にどういう人生を経ているだろうか。どういう世界を見ているだろうか。人間というのは人生の終わりまで変化し続けるもの。今よりさらに広く、そして素晴らしい世界を見れる人間になっていてほしいと思うし、そのように努力しつつ齢を重ねていきたい。

 

 

 

パタゴニア(13) ブエノスアイレス

2/9

終日ブエノスアイレス観光

1730ごろ空港へ

2/10

UA818

2205EZE 0535IAH

ヒューストン空港にて乗り継ぎ

UA007 1000IAH

2/11

1510NRT 成田空港着

 

2週間に及ぶ旅も本日が最終日。ブエノスアイレスを観光する。

ブエノスアイレスは東京からの距離が1万8千kmをこえており、日本から最も遠い都市の一つで、まさに「地球の反対側の都市」である。そんなブエノスアイレスは「南米のパリ」とも言われ、先住民がほとんどいない無人の草原を切り拓いて、主に白人の移民によって作られた町。ヨーロッパ風の町並みが広がるそうだが、その町並みはヨーロッパのそれとは似て非なるものとも言われ、独特の哀愁が漂っている、らしい。母を訪ねて三千里的なノリだろうか。下馬評としてはそんな感じだが、海外旅行では往々にして下馬評に裏切られるので、ニュートラルな視点での観光を心がけるようにする。

昨日の飛行機が深夜にブエノスアイレスに到着したということもあり疲れていたので、本日は朝8時半ごろゆっくり起床。9時半ごろに食堂に向かうが、スペイン語を話す現地の宿泊客で賑わっていた。食堂の雰囲気、建築意匠もまた素晴らしい。


昨日乾かしていた服を回収し、荷物をまとめてチェックアウト。Savoy Hotelのチェックアウトは12時と比較的遅くまで滞在できるが、観光のため流石に10時半ごろにはチェックアウトを済ませ、市街観光をすることにした。

すばらしいSavoy Hotelの意匠

ブエノスアイレスはそれほど治安が良くないということで、安全なルートを昨日ガイドに教えてもらっていたので、概ねそれに沿って歩く。行動の概略としては、まずはHotel前の通りを北上し、劇場を改装して本屋にした「世界で最も美しい本屋」の一つ、エル・アテネオにて休息。その後高級住宅街レコレータ地区を通ってレコレータ墓地へ向かう。レコレータ墓地を訪問したのち、7月9日大通りを経由してメトロポリタン大聖堂へ。大統領宮殿前の大通り沿いに歩き、ブエノスアイレスで最も古いカフェの一つ、カフェ・トルトーニで軽くランチしつつ昼食。ホテルに戻る計画とした。サンテルモ市場にも寄れればいいが、時間と自分の体力との相談となりそう。

 

ホテルを出る。国会議事堂近くに位置するホテルの周辺は道端に時折ルンペンの姿を見かけるものの、比較的賑わいがあり、サンティアゴのような「人が少なくて不安になる感じ」はない。ホテル前を南北に走るEntre Rios通りに沿って北上する。10ブロックほど、やや荒んだヨーロッパのような町並みを歩き、左折。ここに本屋「エル・アテネオ」はある。

 

エル・アテネオは壮大な劇場を改装して本屋にしたもので、当時の面影を残す天井の装飾や建築様式はなかなかの面影がある。ステージ部分はカフェになっていた。本日の天気は時折分厚い雲が出現し通り雨がやってきそうな雰囲気だが、よい雨宿りにもなりそうだ。特に何かの本を買うというわけではないのだが、ブエノスアイレスの文化の一角を堪能できた。

 

エル・アテネからはさらに北上し、少し右側に曲がっていく通りをそのまま北上。レコレータ墓地へ向かう。通りの名前は気がついたらCallao通りになっている。

エル・アテネオの目の前の大通りを越えるとあたりは急に整備された美しい街路樹に囲まれた高級感のある町並みとなり、ブティックが並ぶ。この地区では飼い犬と散歩している人を多く見かける。建物の共用入り口にシャンデリアが使われていたりして、高級感と趣のあるところだ。

 

左折してManuel Quintana通りに入り、レコレータ墓地前の広場に出た。

 

レコレータ墓地の入場料は5090ペソで、カード払いのみ。カードがなかったが、家族共用のカード番号を持っており、これを伝えると支払うことができた。

入場。とても静かな雰囲気の墓地だが、樹木が植えられ、綺麗に手入れされている。ところどころに天使の像が置かれたまるで小聖堂のようなお墓が並ぶ様子は、日本の墓地のような物々しく幽霊の出そうな感じはなく、どこかすがすがしく満ち足りた雰囲気を感じる。ここは歴代大統領や偉人、富豪などが葬られた場所。おそらく裕福に生まれ、周囲から大切にされて育ち、周囲の人々から尊敬の念を抱かれ、多くの親族や関係者に見守られながら静かに最後を終えた人ばかりなのだろう。

 

レコレータ墓地を出て、7月9日大通りへ向かう斜めに走った道路を歩いていく。このエリアも高級ホテルや素敵なブティックが並ぶ。香水ファンとしては必見のFueguia 1833のブエノスアイレス店も発見。しばらくいくとおしゃれなフランス大使館に突き当たり、ここから7月9日大通りに合流。

ブティックが並ぶ。Fueguia1833のブティックもあり、香水ファン必見

7月9日大通りは大変な賑わい。広い通り、咲き乱れる花々、なかなか美しいところだ。通り沿いには大きな劇場などもある。ところどころに警察が配置されており、治安の心配はそれほどない。大きなオベリスクのある交差点で斜めに走る通り沿いに入る。

オベリスク

この通りからCasa Rosada周辺までは、特に街並みに統一感があり美しいところだ。

 

しばらく歩くと、メトロポリタン大聖堂、カサ・ロサーダがある広場に到達。まずはメトロポリタン大聖堂で一休み。

メトロポリタン大聖堂

ブエノスアイレスのメトロポリタン大聖堂は、ファサードがまるでギリシャの神殿のようだ。内部は黄金色にライトアップされた広大な空間が広がり、荘厳な雰囲気。

 

中にはサン・マルティン将軍の棺が祀られている場所があり、天井はローマにあるパンテオンを模したものと推測される美しいドームになっている。サン・マルティン将軍はアルゼンチン独立戦争を率いた将軍であり、シモン・ボリバルほどではないにせよ南米南部諸国独立の立役者とされている。

 

この教会でしばし休息し、体力回復。

教会を出て、カビルドという時計塔のような建物(確かアルゼンチンの独立宣言が行われた歴史ある建物であったはずだ)とカーサ・ロサーダを横目に見て5月通りを少し西に進む。ここも大きなポプラの木とアイボリーのビルの壁が美しい通りだ。しばらく歩くと、カフェ・トルトーニがある。

カビルド(左)とカーサ・ロサーダ(右)

 

ここはすでに長い行列ができていた。時刻は14時ほど。ちょうどカフェでゆっくりしてホテルに戻るのに最適な時間だ。並んでいる人は多くが地元の方で、ブエノスアイレスの人々に親しまれているのがわかる。特に名前を記入する紙などはなく30分ほど並ぶと、カフェ内に案内された。

行列のできるカフェ、Cafe Tortoni

内部はアールデコ調の大変美しい装飾で、ゆっくり落ち着くことのできる場所だ。カプチーノと看板メニューのチュロス、そしてベーコンとトマトのトルトーニ特製サンドイッチを注文した。しばらくゆっくりしていると、チュロスとコーヒーが出てくる。サンドイッチがまだ来ないのでおや?と思ったが、すぐに来た。

 

コーヒーはシナモンがかかっており独特の苦味。

サンドイッチは5800ARPとは思えないほどボリュームがあり、ベーコンやトマト、そして何よりチーズの質がよく、値段から考えられないほどおいしい。

サンドイッチを食べ終わった後に、デザートのチュロス

チュロスは中が空洞となっており、キャラメルが入っている。どちらもホッとするような味だ。

 

会計を呼んだがすぐに来ず、スタッフが来るまで10分以上待たされた。その間スタッフを観察すると、スタッフ同士で楽しそうに会話したりキスしたりしている。彼らは彼らのリズムで仕事をしているらしい。そして確かにこういうリズム、こういうゆっくりとした時間の過ごし方がブエノスアイレスには似合う。生き急ぎすぎているのは、私の方なのかもしれないなと少し反省した。

 

あとは5月通りを歩いて数百メートル、国会議事堂前を通って、ホテルに戻るだけだ。

立派な国会議事堂

時間は16時を回っている。非常にいい時間の使い方ができた。ロビーに近接する歴史あるホールでしばらく携帯をいじっていると、ガイドのおばさんは17時にやってきた。道が混むことがあるので少し早く来たらしい。

 

ホテルを出発。昨日は暗闇で見えなかった街の姿が見える。

ブエノスアイレスを観光した正直な感想としてはサンティアゴのセントロと比較するとよほど活気があり、治安も良く、人々も生き生きとしているように見えた。確かに昨今のミレイ大統領就任とそれに伴う経済的混乱によるものか、路上生活者が少なくなかったのは事実だが、少なくとも私はサンティアゴより居心地の良さを感じたし、ずっと気に入った。

確かに時折デザインが周囲と統一されていないビルやアパートがあったりして街並みの完成度自体はヨーロッパのそれと比較するともちろん劣るけれども、おしゃれなカフェや点在する大劇場など、かなり文化的な生活が営まれている雰囲気があり、そして南米ならではの明るさと輝きがあった。哀愁と呼べるような物悲しさを私は見出すことができなかった。「哀愁漂う南米のパリ」というのは所詮「かつてヨーロッパから出稼ぎせざるを得なかった貧しい人々がヨーロッパ風の町並みを夢見てブエノスアイレスを建設し、日々の苦労を忘れるためにタンゴを踊り、酒を飲んだ」という文脈に当てはめるための定型句であって、現実はそれとは大きく異なっていたように思う。それは単なるヨーロッパの焼き直しや模倣ではなく、南米の文化的都市というオリジナリティが感じられる好ましいものであった。

中心市街を過ぎるとスラム街に至るが、スラム街の建物はレンガやコンクリートで作られており、トタンやダンボールで作られたサンティアゴのスラム街と比較しても随分豊かな印象である。そのことをガイドに話すと、「わかりますよ。私も5年くらい前にサンティアゴに行ったことがあるけど、あまり好きになれませんでした。ブエノスアイレスの方が好きですね。」という。ブエノスアイレスはアルゼンチンの人のちょっとした誇りなのかもしれない。

ブエノスアイレスのスラム街だが、サンティアゴのそれよりきれいだ

次第に家屋が少なくなって森林となる。

時折植樹されたアラウカリアの美しい樹形が見える。今回は叶わなかったけれども、いつかもう一度チリを訪れ、まっすぐ伸びる美しい樹形のアラウカリアが生い茂るマプーチェの土地を訪れたい。そう心に誓った。

アラウカリアの木。いつかこの木の原生林を訪れたいものだ

程なくして空港に到着。

ユナイテッド航空のチェックインカウンターは開いておらず、長い行列ができていた。前の方には修学旅行と思われる地元アルゼンチンの女子高生が列をなしており、それが混雑の原因であるようだ。ガイドは私と一緒にカウンターが開くまで待ってくれた。ガイドがスタッフと話していると、どうやら自動チェックイン機でチェックインするとすぐに荷物を預けられるらしい。ガイドが列で待ってくれている間に、無事チェックイン。その後チェックインを済ませた人用のガラガラのカウンターで荷物を預けることができた。

ガイドに感謝の意を述べて、荷物検査へ進む。

荷物検査の次の出国審査ではちょうどスタッフの交代の時間だったのか人がおらず、日本人団体旅行客のガイドが露骨に苛立っていた。ここは南米なんだからそんなにカリカリするなよ、と思ったが、自分も先ほどカフェでカリカリしていたのだから、あまり人のことは言えない。

 

エセイサ国際空港でお土産の一つでも買おうと思っていたが、この空港は今までで1,2を争うほどにお土産に乏しかった。多くがチェーン店でめぼしいお土産がない中、一つだけあった個人商店風の手作り雑貨や服のお店で、可愛らしいストラップを買ってアルゼンチンペソをほぼ使い切ることに成功。ゲート前では例の女子高生グループが大はしゃぎしていた。元気だなあ。

 

飛行機に乗り込む前に再度の荷物検査が行われ、ヒューストン行きの飛行機に乗り込む。エコノミープラスの席を買っておいたので、足元は広い。

ヒューストンで乗り継ぎ、成田へ向かう。もう飛行機を逃す心配もないと思い、ここでようやく安堵の感情がふつふつと湧いてきた。

ヒューストンで成田行きの飛行機へ乗り込む

2週間に及ぶ、長い旅だった。様々な大変な出来事があり、本当に生きた心地がしなかった時もあったが、周囲の人々や地元の人々のサポートがあって、この旅を終えることができた。確かに不正利用は許せないし許すつもりはないけれども、現地の警察のお世話になるなど今までにない体験ができたし、地元の人により密着した旅行ができたのも事実だ。問題の渦中にいる時でさえこのパタゴニアに旅行に来たことを後悔したことは一度もないし、今も後悔していない。今までの海外旅行と同様に、今回もまた、素晴らしい旅行だった。

音楽プレーヤーをつけ、久しぶりにプレイリストの曲を最初からかけてみる。

ここには中学以来、私が気に入った曲が時系列に並んでいる。改めて聞いてみると、当時に自分がどんなものを見ていたのか、何を考えていたのか、ということが当時のように思い出される。中学の修学旅行で聞いていたエンヤの曲、イランでペルセポリスに向かうときにタクシードライバーが流していた曲、嬉しかった時の曲、辛かった時の曲。この曲リストはまさに私の辿ってきた人生の軌跡であり、一種のフォトアルバムでもある。今回の旅行でもまた、たくさんの素晴らしい旋律に出会った。パタゴニアでの経験は将来、このアルバムのよき1ページとなって残るのだろう。

成田行きの便はガラ空きであり、皆が椅子に横になって寝ていた。私も2席分占領してゆったりと席を使わせてもらった。この広さで席が使えるならビジネスクラスなど完全に払い損である。

 

飛行機の軌跡は綺麗に大圏航路を描き、14時間の長いフライトののち、成田に到達した。

一抹の寂しさがないわけではないが、同じ空の下には南米大陸があり、そこには人の素敵な笑顔や美しい自然があることを、今の私は知っている。日常の荒波の中でも、異国での体験は常に私と共にある。明日は日本では三連休の最終日だから時差ボケ吸収のためにひたすら休息し、明後日から襲ってくる日常の海に、再び飛び込んでいく。