Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

パキスタン(11) エピローグ

 

パキスタンから帰国したのち、パキスタンにいた時には全く治る雰囲気がなかった鼻水は嘘のように止まり、下痢も数日してすっかり治った。これでもう元通りだと思っていたところ持病の群発頭痛が約2年半ぶりに爆発し、仕事以外の活動にロクに手をつけられない期間が続き、生きた心地がしなかった。私の持っているあらゆる持病を暴発させるほどに、今回の旅行は身体的負荷、そして精神的ストレスが大きい、過酷な旅行だったんだと思う。しかしながらこうして写真を振り返るとやはり一部不満はあるものの概ね良いものが撮れており笑ってしまう。そして写真に映る景色の美しさと毒のある文章の内容のコントラストが強烈なのも我ながら失笑という感じだ。

 

思うように活動ができない時期が1ヶ月ほど続くうちに、パキスタンの旅の記憶も過去のものとなり、身体的精神的負荷から来る記憶のノイズが旅の風景から分離されてきて、少しこの旅行を客観視することができるようになった。印象に残っているのは、山間部のカシミール地方とサッカルやムルターン、ラホールをはじめとした平野部は全く別の風土と文化を持ち、同じ国を旅していたとは思えないほどの違いがあったということである。そして、ふとした時にヒマラヤ山脈の山間部の厳しい自然の中でわずかな平地に住処を見出し、厳しい環境の中で暮らす人々の笑顔と力強さが思い出される。

 

今回のパキスタン旅行は何度も述べているようにかなり不満というか、「こういう計画にしていればもっと楽しめたのにな」という点が非常に多い旅行になった。もちろんそれには人災という側面も否定はできないが、当然それだけではない。この国は公共交通機関だけでなく、道路も未発達であり、イレギュラーも多い。想定よりも余裕のある日程を設定し、現地の事情に合わせてゆっくり旅行するバックパッカー型の旅行の方が合っている。もちろん、南部のサッカルや中部のムルターンのように、警察の警護がないと旅行ができない地域もあるので、こういうところはツアーに参加した方が、効率よく回れるのは事実だろうけど(正直スルーガイドでハズレを引くと損失が本当に大きい)。

 

そしてもう1点気になったのは、パキスタンは多くの観光客が訪れるフンザ地方を除いて、外国人観光客を受け入れる素地がまだできていない感じがしたということである。特にムルターン以南では外国人観光客に対して奇異の目を向ける人が多く見受けられた。パキスタンの人々は善良でフレンドリーな人が多かったけど、数は少ないが間違いなく怪しげな人間の存在も認識され、それは多くの人の善意に埋もれさせて存在を無視できるようなものではない不穏な感じがした。サッカル周辺では治安が悪いとされている場所もある。もちろんモヘンジョダロやムルターンの旧市街など魅力はたくさんあるが、例えば本文で述べたように、旧市街の歴史ある建物をブティックホテルに改装するとか、そこまでの発達段階に至っていない。社会的ダーウィニズム丸出しな言い回しになってしまったので批判を受けそうだが、観光客がこの地域の魅力を正しく理解するためには、もう少しこの国の発展、発展という言葉が適切でないならば観光客を受け入れる準備が整うこと、を待つ必要があるような気がした。

 

結局のところ、私はパキスタンという国を正しく見積もれていなかったということなのだろう。11日という短い日程、しかも密に日程を設定した旅行では、この国の本質というか、真髄には到達できない。所詮私が今まで旅行していたのはそれなりに文明が発達し、公共交通機関が遅れると言ってもある程度の定時性が守られた国だけだった、そういうことなのだろう。私の見ている世界が狭かった、そういうことだろう。ヨーロッパだけでなく中南米やインド、中東を旅行し、世界を理解した気になっていたが所詮それも世界の一部に過ぎなかったということである。そして現代文明から漏れた(という言い方は不適切なのかもしれないが)地域を旅行するには、やはり現地のリズムに合わせた長い時間が必要である。

 

もし今度パキスタンを訪れることがあったら、その際は全て自分で手配して訪問したい。2週間くらい取って厳密な日程を決めず、その場で空きのある宿に泊まり、地元の時間の流れや人々の歩みに合わせて、じっくりと(観光するのに警察の警護の必要のない)フンザ地方とラホール、そしてペシャーワルをめぐってみたい。情勢が許すならそのままアフガニスタンに行くのも良いだろう。そうすれば見えてくるものもさらに多いのだろうと思う。今の立場ではそういう旅行は難しいと言わざるを得ないが、時間が無限にあるならばそういうバックパッカー的なスタイルをぜひやってみたい。

 

ネットやSNSではパキスタンバックパッカーの聖地とか言われているのをだいぶ昔に目にし、その時は(性格が屈折しているので)ミーハーっぽいから行きたくないなどと思ってしまったけれども、パキスタンバックパッカーにとってまるで聖地のように考えられている真の理由を、ここまで文章を書いていて初めて理解した。根も葉もない噂は多いし、本質が見えていない人々が適当なことを言って騒ぐことも多いが、これに関しては残念ながら多くの旅人が実際にそう感じたものなのだろう。私の了見の狭さに恥じ入るばかりである。

 

最後に、ヒンドゥスターン地方において仏教が衰退した理由について、ネットにあるような説明ではどうにも納得できず、成書を紐解いてみた。保坂俊司「インド宗教興亡史」では多くの理由が挙げられていた。これは上記の本に基づいて自分なりに整理したもので、引用ではない。

バラモン教と仏教の関係

・仏教はインドのバラモン教を背景に発展した宗教であり、本質的にバラモン教の一部という性質を否定しがたかった。

バラモン教によって抑圧された人々が身分の平等といった理想を提唱した仏教に改宗したため、仏教はバラモン教を否定する教義を有しており、バラモン教と仏教は対立関係にあった。

グプタ朝以降バラモン教が国教とされ、それ以降仏教徒の密度が高い地域にバラモンを送り込んで積極的に仏教コミュニティの破壊がなされたという。ちなみにエフタルはタキシラを滅ぼしたが、数世代後にエフタルは仏教を受け入れていたらしい。

バラモン教が仏教の要素を取り入れ、形式主義を脱して道徳的な要素を獲得していく過程で、仏教と性質が被るようになり、仏教のインドにおける意義が薄れてしまった。

②仏教そのものの性質

・仏教は教団の維持を専ら善意による寄進に頼っていたため、寄進がなくなると教団の維持が困難になった。また聖職者は家庭を持たず子孫を残さないという点は教団の維持を困難にした。バラモン教の支配者階級が世襲制であったために教団、というより支配者階級が安定して維持されたのとは対照的である。

・仏教の衰退とイスラームの浸透に伴い、バラモン教に反感を持つ人々はイスラームに改宗したが、非武装平和的かつ融合的な性質を持つ仏教が、仏教的価値観からは不寛容とも言える教義を持つイスラームを受け入れるとその変化は不可逆的になった。

③他宗教による破壊

・上記の通り、バラモン教と根を同じくしながら対立関係にあった仏教はバラモン教から敵視され破壊工作を受けていた。

イスラームの到来によりナーランダ僧院をはじめとした主要な僧院が破壊された。しかしこれは仏教衰退の決定打となったが、すでにイスラームが到来したころには上記に列挙した理由によりかなり衰微していたようである。一旦僧院が破壊されると、それを復興するほどの体力は仏教コミュニティにはすでになく、そのまま消滅への道を辿った。

 

まとめてみると、仏教の衰退には何か一つに絞れるような原因があったわけではなく、仏教そのものの性質、他宗教による破壊工作、そしてインド土着のバラモン教ヒンドゥー教との関係が複合的に作用した結果であったということのようである。ここインド亜大陸の地では、日本では絶対的な権勢を持ち、人々の道徳観のバックボーンとなってきた仏教という宗教でさえ、一時代に流行し衰退していった宗教のうちの一つ、インダス文明から続く悠久の時間の流れの中の1ページに過ぎない。

 

日本という国にとどまっているだけでは決して見えてこない世界の広さ、そして時間的奥行きを、パキスタンという国は教えてくれたのかもしれない。

 

夕暮れのインダス川。サッカルにて