Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

パキスタン(10) 文化都市ラホール

5/5

ラホール市街観光

城塞都市、ワズィール・ハーンのモスク

ラホールフォート(シーシュマハル、バードシャーヒーモスク)

シャリマール庭園

ワガのフラッグセレモニー観光

ラホール空港へ

TG346 2340LHE 0610(+1)BKK

5/6

TG676 0735BKK 1545NRT

 

 

本日はパキスタン旅行も最終日であるが、相変わらずの体調不良により感慨もない。とにかく生きて帰ることが使命と自分に言い聞かせる。朝食はジュースと軽いパンのみ摂取した。

ラホールでは一人で自由に歩き回る時間をくださいと旅行代理店を通してお願いしたのだが、残念ながらガイドは私の要求を理解せず、ボディガードのようにつきっきりである。いや、ボディガードのようについているだけなら良いのだが、自分の思ったように行動させてくれない。

まずは城郭都市(Walled city)を見学する。本来はこういうところを「あえて迷いながら」歩くのが旅行の醍醐味だったりするのだが、効率重視のガイドはDelhi Gateとワズィール・ハーンのモスクの間しか歩かせるつもりがないようだ。

デリーゲート

まずはワズィール・ハーンのモスクへ向かう。Delhi gateとモスクの間の短い散策であったが、2階に独特の造形のテラスを持つ、歴史を感じる家々が立ち並ぶ様は、なかなか壮観である。まだ朝早いので閉まっている店も多いが、閉まった店の木の扉もまた良い雰囲気を出している。この旧市街の歴史ある家をまるでモロッコのリヤドのように宿泊施設に改装すれば人気が出そうなものだけど、おそらく国の治安や豊かさがそのレベルに達していないのだろうと思う。モロッコもそれほど豊かな国とは思わなかったが、この国はそれとは比較にならないくらい貧しそうだ。

美しいテラスを持つ家々が並ぶ

ワズィール・ハーンのモスクは1634年のムガル帝国統治時代に建造されたモスクである。最近までイスラーム書道の修練場としての役割もあったらしい。

ワズィール・ハーンのモスク

ワズィール・ハーンのモスクは四方に大きなミナレットを持つが、その1個は修復中であった。イラン・イスラーム様式とインド・イスラーム様式を折衷したような様式を持つ。赤煉瓦で作られた建物で、門番に靴を預けて構内に入る。

モスクの内装は赤褐色を基調として暖色系でまとめられており、まるで木造建築の中にいるような、温かみのある雰囲気。青や水色を基調としたモスクとは違う、ゆったりとした空気が流れている。装飾は一部剥がれてしまっているところもあるが、描かれた唐草模様はまるでお寺の庭にある植物を眺めているような、落ち着いた趣がある。

 

旧市街をちゃんと歩きたいのだと強く主張すると、モスクを出て奥の方、すなわちカシミール・バザールの方へ少し案内してくれたが、店はまだ多くが閉まっており、また建築もデリーゲートからモスクまでと打って変わってそれほど伝統的なスタイルが守られておらず、あまり美を感じない。この奥にはゴールデン・モスクと呼ばれるモスクもあるそうだが、閉まっているらしいのでそこまでは行かず、引き返すことになった。

ラホールはムルターンと違って警察の同行が必要ない地域なので、もしこれから旧市街を訪問される方はガイドなし個人で行くとより楽しめると思う。いや、単に私のガイドが悪かっただけなのかもしれないけどね。

バザールにて

次はラホールフォートへ向かう。ラホールフォート自体はすぐ近くにあるが、すでに気温はかなり高く、体調不良ということもあって車移動というのはありがたいため、文句を言わずにおいた。

ラホールフォートはムガル帝国時代に建造された巨大な建造物群が立ち並ぶが、このフォートはムガル帝国時代より以前の11世紀にはすでに、泥で作られた城があったとか。そもそも「ラホール」という都市の名前自体が古代の言語で鉄を意味していたらしく、この地に鉄壁の防御を誇る町があったのではないか、このフォートがそれなのではないかとか、色々言われているらしい。

駐車場で車を降り、公園を通ってシク教徒の廟を横に見ながら、フォートに入場。

ラホール・フォート入口

穏やかにカーブを描く坂道を登っていくと、たくさんの建物が並んだフォートの中の一角に出た。ここには大小さまざまな庭園や宮殿、謁見所や裁判所などの建物が立ち並び、その様は壮観ではあるが劣化してしまっているものも多く、時の流れを感じさせる。

時の流れを感じさせる建造物群

謁見所

アクバル・コートにはゾウの彫刻もある(拡大してみるべし)

ここの主な見どころはシーシュ・マハル。鏡のモザイクで彩られたさまは大変美しい。無色の鏡の中に時折赤い鏡が使われ、それが良い差し色になっている。ここはペルシャの「アイナ・カリー」(鏡仕事)という技術が使われているそうだ。ここだけの話、シャー・チェラーグ廟を訪れたこともある人間の感想としては、やはりこの技術に関してはイランの方が一枚上手だな、というのが率直な感想だが、ムガルらしい少し粗野な感じがかえって良さを醸し出しているという面もあると思う。

 

シーシュマハルを出て、広場に戻る。

広場からはラホール・フォートにあるたくさんの建築物を一望のもとに見渡すことができた。

 

次にフォートのすぐ近くにあるバードシャーヒー・モスクへ。ゾウの通り道を降りて、歩いて数分のところにある。

バードシャーヒ・モスク入口

このモスクはアウラングゼーブによって建造された巨大なモスクで、10万人が一度に礼拝できると言われている。アウラングゼーブといえば、それまでのムガル帝国の王であったアクバルやジャハーンギール、シャー・ジャハーンが比較的宗教的に寛容な政策を採って成功を治めていたのに対し、彼は彼は熱心なムスリムであり宗教的に不寛容な姿勢を採っていたと言われている。彼の治世にムガル帝国は最大版図となったが、急速かつ無理のある領土拡張政策はムガル帝国の崩壊を招いた。不寛容で原理主義的な姿勢はかえって組織や国の崩壊を招くというのは、実に示唆に富む話である。

こちらのドームは大理石、そして本体はインドの赤砂岩で作られており、インド・イスラーム建築の典型といった趣である。モスクの中庭を通っていくが、死ぬほど暑い。

モスク内部

モスクの建物の中は広い。使われている色はほとんどなく、全てが彫刻による凹凸によって表現されており、質実な印象を与える。

回廊を通ってモスクを出るが、途中で地面が濡れており靴下がびしょ濡れになった。おそらく清めの水が漏れていたのだろうけど、このガイドはなぜ地面が濡れているとか注意喚起しないのだろうか?気づかなかった私が悪いのだろうが、つくづく無神経な感じが否めない。いや単純にいろいろ鬱積しすぎて坊主憎けりゃ状態になっていた可能性はあるが…

回廊からモスクを振り返る

車に戻り、城郭都市に隣接したバザール、アナルカーリ・バザールへ向かう。

こちらは主に衣服などが売り買いされているバザールで、ここもムガル帝国時代からの歴史あるバザールだそうだ。もう昼なので多くの店が開店し、人々で賑わっている。ここでも2階にテラスを持つ古い建築が見られた。

アナルカーリ・バザール

「サトウキビジュースを飲んでみますか」というので、お腹の調子が悪いのにこんなもの飲んで大丈夫かと思ったが飲んでみる。サトウキビを潰す機械で甘い汁を搾り出し、これにレモン汁を入れて飲む。さぞ黒糖のような風味がするのだろうと思ったが、レモン風味の甘いジュースといった趣で、なかなか美味しかった。

サトウキビジュースをいただきます

バザールを散歩しながら、レストランへ。

レストランは冷房が効いている。灼熱のバザールを何時間も歩くのは、この体調不良の中では正直きつい。

腹痛が継続しており、レストランにはそこそこ綺麗なトイレがあり助かった。ここではドライバーどガイドに食べ物を食べてもらい、私自身はあまり食べ物は食べず、ひたすらラッシーを飲んだ。ラッシーはヨーグルトということもあるのか、不思議とお腹がしばらくの間安定する。店の前ではファルサというブルーベリーのような果物をジュースにする屋台があった。お腹の調子が良ければ試してみたかったが、残念ながら今回はパス。4−5月限定の果物ということで、もし今度機会があれば飲んでみたい。酸味が結構強いというので、多分自分好みの味であるはず。

 

ラホール市街地の観光は、最後に少し離れたシャリマール庭園へ。

シャリマール庭園入口

こちらの庭園は17世紀のシャー・ジャハーンによって造営された大きな庭園である。庭園は3段の高低差が設けられており、貯水池や噴水、宮殿が配されている。所謂チャハール・バーグと言われる美しいペルシア様式の庭園だ。現在は市民の憩いの場となっており、老若男女様々な人が涼しい木陰でゆっくりと時間を過ごしている。

 

ここでワガの国境セレモニーまで時間があるので30分ほどガイドと雑談する時間になった。またもやパキスタンでは彼女はダメだとか日本人はいい人が多いから日本人と結婚したいとか言っている。そんな話をする時間があったら郊外のジャハーンギール廟を観光するなり、城郭都市のバザールを歩き回るなり、もう少しいい時間の使い方があると思う。本当にそういうところなんだよな。

人々の憩いの場になっている

パキスタン観光の最後は、ワガの国境セレモニーである。

こちらの国境セレモニーには正直私はほとんど興味がなかったのだが、旅行会社に「ぜひみていただきたい」といわれ、特に抵抗する理由もないので承諾することにした。

国境の数キロ手前から、国境に聳え立つ巨大なインドとパキスタンの国旗と旗ポールが見えてくる。

巨大な2つの国旗

本来セレモニーを見るためには国境の数キロ手前から歩かねばならないようだが、事前登録すると国境近くまで車で行けるらしく、今回は車で国境近くまで接近することができた。簡単なセキュリティチェックを受けて、地元民でにぎわう中、国境セレモニーへ向かった。

この国境セレモニーは毎日開催されているらしい。インド側とパキスタン側にはいずれも観覧席があるが、その規模は圧倒的にインドのそれの方が大きい。観覧席にはわらわらと人が集まってきた。

 

インド側の様子は遠すぎてあまり見えないが、パキスタン側ではスーフィーの踊りのようにくるくる回っている人やドンドコ太鼓を叩いている人がいる。軍人が登場し、声の張り上げ合戦や足を高く上げる高さを競うなどということをやっていた。

白熱した応援合戦が繰り広げられていた

ナショナリズム的な意味ではどちらかというと私は冷めている人間ということもあり、こういうのに熱中する人はおそらくナショナリズム的な感情というか、自分の所属する集団に対する帰属意識を抱きやすい人なのだろうなと思った。そして毎日行われるこのセレモニーは一種の国威発揚装置であり、ナショナリズムに人々を目覚めさせるためのシステムとして機能しているのだろう、などと考えてしまったが、そんな屈折した見方をしながらセレモニーを眺める人間はそう多くはいるまい。

最後に軍人と握手する機会を得たが、大変大柄で2メートルくらいあったのが印象的だった。軍人たちは群がる人々と快く記念撮影に応じていた。

セレモニーが終わると、最後にレストランへ。

このレストランからは日が暮れていくラホールの夕景がよく見えたが、残念ながら暑い。さらにあまり食欲もないので、ラッシーを飲み、焼きそば的な食べ物を少し食べる程度のことしかできなかった。

夜でにぎわうレストラン。パキスタンでの最後の晩餐

全ての旅程を終えて、空港へ向かう。

寡黙なドライバーに感謝を述べてチップを渡し、ドライバーと分かれてガイドと空港の敷地内へ。

ラホール空港

正直このガイドに対する私の心情は複雑極まりなかった。確かにガイドとしての仕事はしてくれたし、常に私の身の安全と健康を気遣ってくれた。しかしながら、そもそも日本語ガイドを自称しながら意思疎通には不十分な程度の日本語しか話せないというのは大きな問題だと思ったし、旅の序盤ではこちらの調子が悪くなるほどに料理をわんこそばのように盛ってきたり、こちらの希望する「市街をゆっくり時間をかけて歩きたい」という要望を正しく理解してくれなかったり、人が用を足すトイレの前で私を待とうとしたり、時間配分が適正ではなかったり、などなど、私との旅行に対するスタンスが違いすぎたし、(もちろん旅行に来ているのだから、こちらもある程度適応する必要があるとはいえ)日本人の生活習慣に対する理解があまりにも薄く、この10日間でかなり不満が蓄積していたことも事実である。日本円でいいというので1万円渡したが、これは最低限の礼儀だから渡しただけであって、チップというよりも手切れ金であり、彼が今のまま変わらないのであれば彼にもう一度ガイドをお願いすることはまずないだろう。一応感謝の意を示し、空港のセキュリティチェックへ。パキスタン全般に言えることだが、空港の職員は全体的にインドの人々よりも優しい。

荷物の預け入れ後、出国審査、そしてセキュリティチェックへと進む。出国審査はやや並んでいたが、入国時にハンコを押されたe-visaを見せると比較的スムーズに審査は終了した。

ラホール空港はかなり古びた空港で、空港内にショップはあるものの、お土産を見ようとショップに入ると店主のおっさんが「もう商売は始まってるんだぜ!」などと言っていきなり価格交渉を始めたりしたので、「わかったわかった」と言って店を後にした。元気ならば価格交渉して物を買うところだが、度重なる下痢や体調不良で激しく消耗しており、交渉してお土産を買う気力はもう残っていない。私に課された仕事は、生きて日本に帰ることだけだ。

ラホール空港の構内

国際便の行き先はアラブ諸国が圧倒的に多い

ようやくタイ航空の飛行機に乗り込み、安堵。そういえば行きの飛行機で、同じ日にラホールから帰ると言っていた気の良さそうな彼は一体どこにいたのだろうか。最後まで見つけることができず、申し訳ない。

バンコクで乗り継ぎ、日本へ。

 

日本に帰り着いて「あー今回の旅行は本当に素晴らしかったな」と思ったことは多いが、ここまで過酷な旅行は初めてで、旅行を振り返る余裕はもうすでになかった。生きて帰っただけでもう十分である。