Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

2021

さて、今年ももう終わりということなので、特にそこまで大きな感慨もないのだが備忘録的な感じで一応振り返るだけ振り返っておこうと思う。

今年の前半はただただ不毛な日々を過ごした。自らの過ちに気づいた頃には時はすでに去り、もはや後戻りはできない。当たり前のことだが時の流れの早さに愕然とする。気分転換に旅行に行ったりもしたがいまひとつ身が入らず、常に後悔の念に苛まれ、日常的に胃痛に悩まされていたように思う。色々ともがいてみたが今一つうまくいかず、当事者は自分の弱点を正確に撃ち抜くがごとく無視を決め込み、これも精神状態のさらなる悪化に拍車をかけた(まあ向こうには向こうなりの言い分があるだろう)。その中で何かにしがみつこうと始めたのがこのブログだった。

このブログを始めたのはイラン旅行のエピローグの記事を書くためだった。あとはすべておまけのようなものだ。(だから記事の更新に身が入らず、ウズベキスタン旅行記は更新が滞り、オマーン旅行記にまで到達しそうも無い。笑。)しかしなぜこれを書きたかったかというと、これがやはり今の自分の原点だったからだ。如何なる状況でもこれだけは見失いたくなかった。精神の健康を売っても魂だけは売ることができなかった。もちろんこの記事が当事者に届けばという目論見もあるにはあったが、そんなものはとうに外れていることは明白であるから、もはやあまり気にしていない。

 

とまあ、色々ありましたが、暗い話はここでおしまい。悪い流れというのもいつかは必ず終焉が訪れる。そういうわけで本題に入る。2021前半の陰鬱な空気を吹き飛ばし、その後半を良きものにした、素晴らしいもの・コトとの出会いを並べていきたい。

 

Colnago C64 disk BDBL(アズーロ)、BORA ULTRA WTO 45

ロードバイクにいくらかけてるんだよという揶揄が飛んできそうだが、今年5月ごろに我が家にやってきた大切な相棒。これが昔のC59に優しさを足したような素晴らしい乗り味で面白いくらいに走る。

最初はフルクラムのレーシングゼロ カーボンDBを履かせていたがどうも高速域の加速に頭打ちを感じたため導入したのがBORA〜。こちらもホイールにいくら投入したんだと言われると答えに窮するが、これがまた大正解。時速が5キロほど向上するほどの圧倒的な性能で、ロードバイクに乗るのはこれほど楽しかったのかと感動し、今まで避けていた標高差のある峠に積極的に出かけるようになった。気がつけば半年で2000キロを超える走行距離。毎日走る人にとっては大したことないかもしれないが、今までの自転車の乗り方を考えるとこの距離は驚異的である。

運動習慣は身体の健康だけでなく精神の健康ももたらした。冬が深まり寒い時期であってもメンタルは健康そのもので、全くdepressしている感じがしない。精神というのは行動によって完全にコントロールすることができるのかもしれない。高い買い物をしたが、この半年で身体と精神の健全を圧倒的に保てていることを考えれば、1000kを超える投資など安いものだ。

Ata Ana - Arzigul Tursun

トルコ系の音楽をネットで漁っていたら発見した曲。ウイグルの女性アーティストがカシュガルの寺院の前で歌っている謎のPVが印象的。日本人が逆立ちしても思い付かないような不思議な旋律は、どこか高い山の上から世界を見下ろしているような浮遊感がある。これも2021年の素晴らしい出会いの一つ。あまりにも気に入ったので、峠のダウンヒル中にiphoneから大音量で流していた。なお、Ata Anaウイグル語で「両親」、の意味である。残念なことに、この曲は11月末にyoutubeから永遠に削除されてしまった。オフライン保存しておけばよかったと後悔している。まあ、誰かがまたアップロードしてくれるのを気長に待ちますよ。

青ヶ島八丈島

これは今年で一番行ってよかった場所。大海原に浮かぶ小さな島。鮮やかで濃い緑。独特の風土… ここまで来ればまるで地平線の彼方に現れる黒雲のように横たわる本土の黒い影も見えない。私を追うものはもう何もない。そういう圧倒的な解放感と隔絶感が味わえる。ここの素晴らしい風土は、今年の前半自分の中にのしかかっていた重い空気を粉々に破壊しどこかに吹き飛ばしてしまった。やっぱり八丈島は橘丸で訪れてこそ。夜行の船旅は素晴らしい趣。いつかまた再訪したい。その時にはこの素晴らしさを共有できるような人と訪れたいものだね。

◆バガヴァッド・ギーター

以前読もうとしたがさっぱり意味の分からなかったこのインド哲学の金字塔のような本。改めて読むと大変に味わい深い。この本はあまりにも深すぎるが故に一部の人の手によって「わかりやすく」書き換えられ、浅はかで安っぽい言葉に置き換えられて理解されてしまうことが多いのだが、そういう安易な解釈に頼らずに、この古典を少しずつ反芻するように読むと、次第にその全貌が見えてくる。

行為の放擲。行為の結果を目的とせず、祭祀として自分の義務を果たし、その結果を(ヒンドゥー教でいう)神に委ねるということらしい。信仰がない人にとっては神を運命と書き換えれば良いだろうか(安易な書き換えは誤った解釈を生むので良くないのかもしれないが)。その一節を引用したい。

「彼は苦楽を平等に見て、自己に依拠し、土塊や石や黄金を等しいものと見て、好ましいものと好ましくないものを同一視し、冷静であり、非難と称賛を同一視する。

彼は尊敬と軽蔑を同一視し、味方と敵とを同一視し、一切の企図を捨てる。このような人が、要素を超越した人と言われる。」(第14章24-25)

うーむ、素晴らしいではないか。最近世の中では何でもかんでも物事を序列化し、値踏みし、金銭的な価値を創出すること、そして結果にこだわり目的を蔑ろにすることが流行っているが、実に狭隘なつまらないやり方である。この本を読むと実に胸がすくような思いがする。

西洋的なものの考え方は「論理的」だというが、人間が議論の際に作り出す論理には必ず破綻がある。それに論理によって相手を論破したところで、勝ち負けを決することはできても、相手の考えを変えることはできない。その点において論理というのは圧倒的な脆弱さを抱えているというわけです。あまり論理とか理屈というのに拘らず、もっと大局的に物事を見た方が良いのかもしれないと思う日々である。

 

とりあえずこのくらいだろうか。今年が終わるまでに思いついたら何かを追加しよう。

最後に、仕事においても一応2つの専門イ試験に無事合格することができた。まあ合格が困難な試験というわけではないが、今年の自分がこのように何とかやれているのは懇意にしている友人から糸魚川で話し相手をしてくれた寿司屋の板前さんまで、ひとえに支えてくださった周囲の人間、そして素晴らしきものとの出会いのお陰である。そして素晴らしいものの素晴らしさがわかるのは暗黒の時期を経験したからであり、自らを驕らず謙虚に生きることの大切さを痛感させられる。これからも初心を忘れることなく、かといって初心に拘泥しすぎることもなく、思想的な軸を持ちつつもその思考を状況に応じて変化させる柔軟さを織り交ぜ、しなやかだが決して折れない柳の枝のように生きていく所存。そうすれば未だ光の見えない物事についても、自ずと正解に辿り着くはずである。