Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

メキシコ(8) チチェン・イッツァ

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メリダを拠点に以下を混載ツアーにて

イサマル

チチェン・イッツァ

セノーテ

ホテルメリダ

 

旅程も終盤に差し掛かっているが、本日はチチェン・イッツァ観光である。

これは英語の混載ツアーということだが、旅程表には詳細が書いていないので、チチェン・イッツァのみの観光だと思っていたがそうでないらしい。まず黄色の町イサマルに行き、次にチチェン・イッツァへ。最後にセノーテでちょっとした水泳(いや水着持ってきてないんですが)ということだそうだ。

 

8時には出なければならないので、6時には起床し、荷物をまとめて朝7時半にレストランに行くと、ちょうど開店したところだった。朝食メニューとしてはドリンク1つと何個かの料理メニューを選ぶことができるが、適当にトーストとサラダを選ぶ。8時には出なければならないのでなるべく急ぐようお願いしたが、料理が出てきたのは7時50分。流石に無理なのでテイクアウトできないかと言ったらできるとのことだった。料理をテイクアウト用のボックスに入れてもらい、フロントにて待つ。すると本日のツアーガイドが迎えにきた。恰幅のいいメスティーソ風の男で、Wといい、スペイン語と英語を話す。

自分が最初に迎えられ、他の人を次々とホテルでピックアップしていく。本日のツアーメンバーはカナダやアメリカをはじめ英語圏の人が7人ほど、メキシコの人が4人、そして日本人の自分。なんというか面白いメンバーである。そして全体的に年齢層が高く、圧倒的に女性が多い中で自分だけが浮いている。ちょっと不安になってきた。隣に座った太ったおばさんに話しかけてみると、なんだか人懐っこい人柄のようで少し安心した。彼女らはカナダのトロントから来たのだという。すでに退職しており、バカンスとして長期滞在しているようだ。自分の1週間の旅程を伝えると、慌ただしいわねえ!という感じの反応であった。

市街地から離れて高速道路に乗ったあたりで、ガイドのW氏が本日の旅程について話す。まずは黄色の町、イサマルへ向かう。次にチチェン・イッツァへ。その後レストランで昼食。昼食ののち、セノーテで泳ぎたい人は泳ぎ、メリダのホテルまで各自送迎・解散という旅程である。

イサマルに到着すると、我々を乗せたバスはまず聖堂を迂回し、街の中の小さなお土産屋に通された。ここでトイレ休憩ののち、ガイドW氏に聖堂に導かれる。簡単な地理屋歴史の説明を受けたのち、45分程度の自由行動時間を与えられた。チチェン・イッツァでは620ペソの入場料を徴収するが、チチェン・イッツァのATMは手数料が高いからここの町にあるATMでお金を下ろした方が良いとのこと。ていうかツアー代に入場料含まれてないのかっていう。

イサマルという町はかつてマヤ人の祭祀センターの1つであったが、スペイン人によって破壊・征服され、大きなキリスト教の聖堂が建てられたという。これはまあ南北アメリカにお決まりの、既にどこかで何度も聞かされたような歴史である。町並みは概ね黄色で統一されたコロニアルな雰囲気であるが、街の外周にはピラミッドが点在しており、祭祀センターであったかつての名残を見ることができる。

右手奥にはピラミッド

聖堂はユカタン半島随一という規模の大きさの回廊を有する。回廊の下はハトやツバメなどの鳥のすみかになっていた。大きさはあるが内側の装飾は質素であり、回廊に囲まれた中庭には特に何もない。ちょっと街並みの散歩に行ってみる。町名の看板がある広場あたりに観光用のカラフルな馬車が並んでいるものの、全体的に町は簡素で鄙びた雰囲気が漂っており、この地方特有ののんびりした趣。

立派な回廊をもつカテドラル

町並み

町の写真を一通り撮影し、ATMでお金を下ろしてバスに戻る。ちょうどツアーのおばさんが、写真を撮ったら自分が写り込んでしまったからといってメールで写真を送ってくれた。

 

さて、それでは次は本日のメインディッシュ、チチェン・イッツァへ。

W氏がチチェン・イッツァについて、スペイン語と英語で交互に説明を始める。

チチェン・イッツァもまたユカタン半島にある数ある祭祀センターの一つで、その中で中心的な役割を担っていたという。チチェン・イッツァ自体はマヤ語で「聖なる泉のほとりの魔術師」を意味し、実際に近くにはたくさんのセノーテがある。この遺跡自体は8-10世紀に栄えたトルテカ様式の建物が集まる旧チチェン、その後に栄えたプウク様式の建物が集まりピラミッドを中心とした新チチェンに大きく分けられる。かつてはマヤ文化圏には人身供与の習慣はなかったようだが、新チチェンではメソアメリカ文化圏の影響を受け、生贄の習慣が見られるようになったという。

バスの車窓からは時折藁葺き屋根の家屋が見え、興味を持った

チチェン・イッツァに到着すると、観光客でごった返していた。まずはトイレ休憩ののち、徴収された入場料で遺跡へ入場する。トイレから戻ってくると、W氏がルチャ・リブレの仮面をかぶっていた。ツアーの参加者のうち、先ほどの写真を送ってくれたおばさんがガイドと二人で写真を撮っており、楽しそうな様子である。皆がその二人の写真を取ろうとすると件のおばさんが

「あなたたちも5ペソ払わないとダメよ!」

などと冗談を飛ばしていて大変に面白い。

 

さて入場である。途中で簡単な荷物検査があった。

入って土産物屋が立ち並んだ道を行くと、左手にジャガーの神殿と大きな球技場が見える。ここの木陰でガイドのW氏がさらに説明を始めた。

チチェン・イッツァは元々二重の外壁を擁する祭祀センターであった。マヤの文化は階級が存在し、内側の壁の中、つまりこの祭祀センターには上流階級のもののみが入ることを許されていたという。チチェン・イッツァの球技場はメソアメリカの球技場の中では最大級の規模を誇る。ここではボールを腰で打つ独特の球技が行われており、勝った方が生贄になったとも、負けた方が生贄になったとも言われている。いずれにせよこの球技は儀式的な性質を有していた。この球技場には神殿のような建築が設けられているが、これはジャガーの神殿と呼ばれ、王が球技を観戦したとも言われている。

壮大な球戯場と、ジャガーの神殿

 

さて、次はメインディッシュのピラミッドである。

チチェン・イッツァのピラミッドは、その名前が(泉のほとりの魔法使い)示す通り実はセノーテの上に築かれている。このピラミッドは2度にわたって増築され、現在見えているピラミッドの内部には2つのピラミッドが包含されており、まるでマトリョーシカのようになっているらしい。ガイドのW氏がその断面の想像図を見せてくれた。元あったピラミッドの上から新しいピラミッドを増築していくのは、メソアメリカ文化圏におけるピラミッド建築の特徴である。ピラミッド上部の四角形の部分は一方向だけ3つの穴が、他の三方向には1つだけ穴が空いているが、これは方角によってマヤの人々が異なった意味づけをしていたからと言われている。春分秋分の日には階段にククルカンの羽が浮かび上がり、マヤ人が高度で精密な天文学の知識を有していたことがわかる。

ピラミッドの威容

さて、順路を通って次へ。ツォンパントリに出る。

ツォンパントリというのは骸骨の石彫が並んだ祭壇であり、これもまたメソアメリカに大変特徴的なものである(テンプロ・マヨールにもツォンパントリがあるそうだが、残念ながらそこまで見る時間はなかった)。この祭壇の上には実際に生首が展示されたりしたようである。彫られた頭蓋の形によって人種の違いが見分けられるようで、旧チチェンの人々はドーム型の頭蓋を、新チチェンの人々は頂部が平坦な頭蓋を持っていたという。

ツォンパントリ

ここで15分の自由行動になった。列柱の広場や、納骨堂とされる小型のピラミッドにまではたどり着くことができたものの自由時間があまりにも短かったため、尼僧院や天文台など、旧チチェンの主要な建造物にたどり着くことができなかったことが大変悔やまれる。

列柱の広場・戦士の神殿は連続した建造物で、戦士の神殿の上には鉤型の独特な柱が1対備えられ、チャックモールが中央に鎮座している。新チチェン期では、アステカ王国と同様、生贄から心臓を取り出す儀式が行われていたようである。列柱の広場は、多数の柱が規則的に並んだ広場で、かつてここに立派な建造物があったことが推測される。

列柱の広場と戦士の神殿

戦士の神殿遠景

 

こちらは納骨堂。この方面をより奥に進むと尼僧院や天文台にたどり着くそうだ。セノーテなども遺跡の敷地内にある。写真で見たところ水は濁った緑色であまり綺麗な代物ではなさそうだが、このセノーテにもまた生贄や供物が捧げられていたようだ。

さて、この先を進んで天文台や尼僧院などの旧チチェンに行く時間はもうないので、残念ながら時間なのでバスに戻ることにする。

敷地が広大だし、集合場所の説明がクリアではなかったので急ぎ目に入口の通りに向かうが、ツアーのおばさんが何人か入口付近に座っており、彼らと共に集合場所に向かうことができた。入口付近の売店ではこのおばさんたちがチップを払うためお金を崩そうと、飲み物やアイスを買っていた。

チチェン・イッツァ入口の売店。ここで水を買うと高い

次はレストランで昼食。昼食といえどもすでに時間は14時ごろ。大変お腹が空いていた。

レストランはチチェン・イッツァから15分ほどのところにあり、こちらもビュッフェ形式。飲み物代は別です、自分の飲み物は持ち込まないでください、とW氏が親切にも説明してくれた。食事はなかなかに美味しい。こんな時間だと夕食を食べる時間にお腹はどうせ空いていないだろうから、お腹いっぱい食べることにする。同席していたおばさん(といってもほとんどがおばさんかおばあさんなので、なんの個人の特定にもなっていないのだが)に勧められたスープは酸味が効いていて、なかなか美味しかった。

さて、食事の時間であるが、このおばさんたちは話で大いに盛り上がっていた。

このレストランもいわゆるツアーで組み込まれるタイプのレストランである。マヤ人の女性が頭の上に物を乗せて踊ったりする(頭のお盆に乗せた自らコップは全くこぼれない!)パフォーマンスをしているが、自分の席の周りのおばさんたちは「どうせチップを払わされるのよね」といってあまりそちらの方を見ないようにしていた。案の定マヤ人の女性はチップを徴収しに来た。

「そういえばツアーのガイドにチップを払わなければいけないわよね。いくら払う?」

「ツアー料の1割ほどが目安かしら?それだったらガイドに200ペソ、ドライバーに100ペソほどかしら。」

「チップというのも考えものよねえ。いくら払えばいいのかもわからないし、本当によくわからない習慣だわ。廃止してほしいわよね。」

全くである。この議論をしているとき自分は英語を話せない日本人風に彼らの話に耳をそば立てていたのだが、チップというのは全くよくわからない習慣である。ネットでチップについて調べると、「チップで社会が成り立っているのだから払うのは当然である!」という意見も見られるが、問題の本質はそこではない。郷に入って郷にしたがうのは当然だが、ここで議論になっているのはそういうことではないのだ。「チップという基準額のよくわからない支払いを前提とした社会システムそのもの」が問題なのである。チップの習慣のない日本人だけでなくアメリカ人ですらそう思っているのだから実際非合理的なのだろう。私は旅行会社から渡された冊子に書いてあった通り、1日ガイドには50ペソ札を手渡すことにしていたが周りの人の様子を見ると少し少ないような気もした。こういう「相場がよくわからないことによる無用な心配」を払う側はしなければならないし、貰う側も不安定な収入に頼らざるを得ない。高級レストランならまだしも、最初からチップ込みの値段や給与体系にした方が問題が少ないと考えるのは私だけではないはずだ。

さらに議論は白熱する。彼らは政治の話を始めた。

ニューヨーク市議の一人が公表していた経歴が、全て嘘であることが発覚したみたいよ。彼の学歴、スポーツ歴、企業のボランティア、…全て嘘だったみたい。」

「政治家なんてそういうものよね。人を騙して票を集めるなんて、全く腹立たしいわ。」

ドナルド・トランプもそうよね。彼の言っていることは嘘ばかり。全く真実に基づいていない。なぜ彼があれほどの票を集めるのか、不思議でならないわ」

「確かにそうだけど、彼を支持する人々が一定数いるのも事実。それもまたアメリカの姿よ。その事実には目を向けなければいけない」

政治の話は私も嫌いではないし、ちょうど前首相が射殺されたという話題もあり、彼について知っていることを話してみた。

「知っているわ。カルト宗教と結託して票を集めるなんてひどいわね。それで彼が撃たれたのね。」

「でもまあ、政治家なんてどこの国もそんなものよね。嘘をつくのが仕事のようなものだわ」

「どうしてドナルド・トランプが撃たれないのか、不思議でならないわね!」

彼らはおそらく政治的にはリベラルに属するのだろう。退職後に海外でバカンスを過ごせるような層は、少なくともそれなりに豊かであるはずである。しかしながら、半分程度の米国民が言っていることに全く合理性がない米国の前大統領を支持していたのもまた事実である。このおばさん達とトランプの支持者の間には大きな溝があり、それはもはや埋め難いほどに決定的なのだと思われる。

(なお、私の政治的立場についてこのブログでコメント等するのは控えていただきたい。私はブログを政治の議論をするのに適した場とは考えていないし、ネット上での議論は不毛である。)

その他、メリダにあるユダヤ人コミュニティについて話が盛り上がっていたり、なかなか様々な話題について議論が盛り上がっていた。人前では自分の政治的立場について明瞭にせず表面的な議論に終始する日本人(政治的立場を表明するのが極端な人ばかりなので、それが余計に中庸な人の意見表明控えを助長している部分もあるだろう)と違い、自分の政治的立場を明らかにし、他人と活発に意見を戦わせるその熱量、そしてそれをいい歳のおばさん達が行なっていることに大変感心した。日本人、特に女性は政治的立場を明らかにしないこと、そして何より無知であり、愚かであることが求められる。男性より知識において優れていてはいけないことになっているからだ。私からすればそんなことはちゃんちゃらおかしいのであるが、しかしながら無知を装い男性に媚びていればうまく生きていける、日本社会がそういう風な仕組みになっているのは変え難い事実である。そしてさらに、女性の無知をありがたがる風潮それ自体が日本を女性の地位向上を妨げて要るのもまた事実であるように思われる(男女平等とは何か自体議論があるものの、とりあえずそれは置いておく)。

残念ながらあまりにも議論が白熱しすぎたため、料理の写真を撮り忘れてしまった。

レストランでの食事が終わるとセノーテに向かう。

セノーテへ向かうバスの中で、隣に座っているカナダ人のおばさんと話した。

「あなたは政治的立場は右?もしくは左?」

「(日本の政治自体右や左を議論する段階に達していないほど未熟であるが)どちらかといえば左ではないでしょうか。残念ながら日本の政党はどれも主張にそれほどの違いがなく、言っていることは皆同じで有権者としては違いがわかりません。人々がLiberal Democratic Partyに投票するのは、特に理念が優れているからではなく、今まで支持されてきたからという理由です」

そもそも日本では左翼というと特別な響きがある。本来の右翼とか左翼とかいう定義からすればそうではないし、そうであってはならないのだが、残念ながらこの意味づけは既存の政党(特に自●党)にとって政敵を潰すのに大変有効に機能してしまっているように思う。

「私は3人兄弟で、家では自由に政治の議論をして育ったわ。あなたのご家庭は?」

「自分の家庭も政治についてはかなり自由な議論が交わされていました。しかしながら、日本では(特にリアルでは)政治的議論はタブーとされています。もし政治的意見の対立があれば、私の友人達は友人であることをやめるでしょう。尤もそれを友人と呼べるのか、私にはわかりませんが」

「なるほど。大切なのは人と違っても自分の立場をちゃんと表明することよね」

イギリスやドイツなどでは学校で政治的討論や、デモの参加の仕方が教育されていると聞く。意見が違ったとしてもお互いの人格を尊重し、政治について活発な議論を交わすのは少なくとも民主主義国家を標榜するなら必須であるはずだが、この国では民主主義国家を標榜する一方で政治家は依然として全体主義を志向しており(というか全体主義と民主主義の区別すらろくに考えたことがなさそうな雰囲気である)、民主主義を育てるような教育は全くと言っていいほど行われていない。自分の国のあるべき姿を一人一人が思い描き、人前で表明することすらできないようでは、真の民主主義など生まれるはずがない。

このカナダ人のおばさんは、時に大変明るく、ガイドが先住民へのスペイン人侵略の歴史を解説している時に「そう、このバスにおけるW(ガイド)のように(集団の中で一人だけ別の言葉を話しているわ)ね!」などと言ったり、このツアーではペットボトルの水がクーラーボックスに入っており自由に取ることができたのであるが、そのクーラーボックスの水を「我々のセノーテ!」などと言ってみせたり、なかなかウィットの効いた冗談を言って、場の雰囲気を盛り上げていた。その一方で、政治的な話になるとしっかり自分の意見を表明するだけの知性があり、大変に尊敬できる人物であった。日本にはこういうタイプの人々は、あまりみたことがない。いや、存在を許されていないのかもしれないが。良い意味で欧米らしい、忖度や忌憚のない活発な議論をしている場に居合わせることができたのは、大変な幸運だったように思う。

 

さて、セノーテに到着する。入場料100ペソはまた、チチェン・イッツァのように別に徴収された。このセノーテは完全に地中にあるタイプのもので、自分のイメージしているセノーテとは違った。地下への道を降りていくと大変湿度が高く、暑さで汗が吹き出す。ライトアップされており、セノーテは美しいコバルトブルーの水を湛えていた。

セノーテ

人々がライフジャケットで泳ぐ姿はなかなかに楽しそうだったが、残念ながら自分は水着を持ってきていない。ひたすら写真を撮り、この地底の空間は暑すぎるのでさっさと外に出た。外に出ると、孔雀が放し飼いにされていて、ギャーギャー鳴き声をあげている。ちょうど人があまりいなかったので、ガイドにチップを渡した。皆がセノーテから引き上げてくると、記念撮影。ここには写真をあげるつもりはないが、良いメンバーに恵まれたと思う。最初はハラハラしたものの、最初の不安が強いほど、最後の満足度も高かったりするものだ。団体ツアーというものに対する忌避の念が強かったが、蓋を開けてみれば素晴らしいメンバーに恵まれ、団体ツアーならではのメリットをたくさん享受することができた。ホテルへ向かうツアーの車は、いかにもメキシカンなBGMが流れており、Sound Houndでたくさんの曲名を記録しておいた。ホテルに到着し、ガイドとドライバーに別れを告げる。もう18時を回っている。

 

さて、メリダではソカロ広場で日替わりイベントがやっているのだが、本日土曜日はなんと、20時からメキシコ伝統の球技のパフォーマンスが行われるという。20時ごろになってホテルを出て、ほど近くのソカロ広場に向かう。メリダという都市は夜も大変治安がよく、どこの都会にもいるような夜になると出てくるガラの悪い連中はここにはほとんどいない。町はイベントを目にしようという観光客で賑わっていた。残念ながらモンテホの家がソカロに面して存在したようだが、訪問するのを忘れてしまった。

夜のメリダの町並み

Pasaje de la Revolucionと名付けられたアーケード

ソカロ広場では、球技が始まっていた。話で聞いていたように、プレイヤーは装飾的な衣装と腰のプロテクターを纏い、腰でボールを打っていた。これは大変興味深い。思っていたよりもはるかに人気で、背伸びしないと中の様子が見えないほどであった。

球技のパフォーマンスは大変興味深い

少し球技を観戦したのちにホテルに戻るが、ホテルの隣にあるユカタン自治大学では先コロンブス時代の踊りのパフォーマンスが行われており、青いライトと炎が灯されておりこちらも大変白熱していた。この町は夜の治安が良いため、イベントが大変充実しているようだ。治安がいいというのは素晴らしいことかな。

ホテルに戻り、受付で明日の朝食について話す。明日もまた朝8時に出なければならないので、その相談であったが、本日のフロントの男は対応が悪く、自分でレストランに行って議論しろという。まあ仕方ない。レストランに行って明日朝テイクアウトできないかお願いした。最初はテイクアウトはできないと難色を示していたが、本日朝7時半に来たが料理が出たのは7時50分で、それでは間に合わないと伝えるとようやく納得してくれた。ありがたい。

 

ホテルはまだ時間がそれほど遅くないからか、宿泊客で賑わっていた。宿泊している客層は欧米人のファミリーが多く、意外と悪くない。ホテル奥のパティオにはプールがあり、そこではしゃいでいる子供の声が聞こえる。どうやらこの地域は治安が良いため、ホテルの鍵をわざわざ最新のものに変える必要がないのかもしれない。昨日は最悪に思えた部屋の設備やアメニティも、二日目で慣れてみるとこんなものかな、という感じであった。

いよいよ明日は最終日。長く思われたメキシコ旅行も、あっという間である。

ホテルメリダ

夜のホテルメリダのパティオ