Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

ウズベキスタン(7) サマルカンド

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終日サマルカンド観光

ホテル・ビビハニム泊

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本日は終日サマルカンド観光の日である。

快晴。しかしながら昨日の寒気がしっかり残っており、相変わらず持ってきた服装では寒い。宿のすぐ裏手にあるビビハニム・モスクの青いタマネギ屋根が美しく輝いて見える。

ホテルから朝のビビハニム・モスクが美しい

少し早いが、まずはビビハニムモスクから。

こちらのモスクは、ティムールの治世にて完成が急がれた巨大なモスクである。当時は大変巨大な構造物であったこと、当時の技術にしては完成を急ぎすぎたことにより劣化が早く次第に自壊が始まり、モスクとしては使用されなくなっていったようだ。実は今の姿は旧ソ連時代に修復されたものだという。大きなエイヴァーンは当時のオリジナルではない。しかしながらタマネギ屋根の建物の中に入ると一部修復前の姿をとどめているところがある。装飾タイルは剥がれ落ち、壁にはひびが入り劣化した様子が見える。これぞ本来の姿。

これはオリジナル建築部の劣化がよくわかる部分である

実物を見たことはないが、ギリシャにあるパルテノン神殿をはじめ複数の神殿は、パルテノン神殿こそオスマン帝国時代の戦争により砲撃を受けて一部が崩れてはいるものの、いまだにほぼ元の姿をとどめている神殿もある。きちんと時間をかけて設計し建築されたものは何世紀をへても残るというわけだ。先のことを考えずに急いで作られたものの末路を垣間見る。

残念ながらティムール朝は彼の没後それほど長くは持たず崩壊したわけだが、かれがサマルカンドに招いた多くの職人によってトルコ・イスラーム文化が花開いた。また、ティムール朝の末裔はインドに逃れてムガル帝国を開き、あのタージ・マハルを誇るインド・イスラーム文化が花開いたことはご存じのとおりである。モンゴルの襲来がその後の中央アジアの文明の土壌となったように、大きな破壊は大きな再生の礎となるし、急激な変化は後世に皺寄せをもたらすものの、それ自体がよいことか悪いことかは、後の時代になってみないと評価できないものなのかもしれない。

さて、再び北へ向かい、ハズラティ・ヒズル・モスクへ。

こちらのモスクも木製の柱で支えられた天井をもち、いかにもウズベキスタン風といった趣である。ドームの天井の装飾は美しいが、こちらはタイルアートではなく描かれたもののようである。シノワズリな装飾がなされたテラスからの眺めは大変美しい。敷地内には前大統領イスラム・カリモフの墓廟がある。

ハズラティ・ヒズル・モスク。昨日夕方の写真

モスクの天井

テラスからの眺めは美しい

次は、昨日夜も訪れたシャーヒズィンダ廟群に訪れる。

夜に訪れるのはそれはそれで良さがあるとは思うが、やはり太陽の日差しの下で見る装飾は圧倒的に美しい。太陽の光を受けてターコイズブルーのタイルが燦然と輝いている。昨日シャフリサブズで出会った日本人女子二人組がいたが、見なかったことにした。そんなことよりも如何に美しい写真を撮るかで夢中であったのだが、振り返ると「もっとこういう写真を撮っておけばよかった」という構図がたくさんあってもどかしい。たくさん写真を載せるので、雰囲気を味わっていただければ嬉しい。

 

 

 

一昨日夜にしまっていたドアより右手に折れると狭い通路となり、それを通り抜けるとクサム・イブン・アッバース廟に到達した。シャンデリアが絢爛な雰囲気を誇っている。

こちらは一昨日夜は閉まっていた、クサム・イブン・アッバース廟。天井の装飾はガイドブックに掲載されていたものより絢爛だった

余りにも夢中で写真を撮っていたので、一時間半は経過しただろうか。人も増えてきたので、廟群を後にした。

シャーヒズィンダ廟群遠景

さすがにおなかがすいてきたので、レストランを探すことにする。レストランはスザニという名のしゃれたレストランに行きたかったが、あまりに旧市街地から遠いので想像にあきらめる。プラタンというレストランに行くことにした。サムサとドルマ(ぶどうの葉で挽肉を巻いて煮込んだコーカサス料理)を注文。サムサがおいしかったので、2個目を頼んでしまった。料理はおいしかったので良かったが、お釣りの分を若干ぼったくられた。もっとも日本円にして100円程度なので黙って見過ごすことにしたが…

こちらはレストランに向かう際、何気ない新市街の雰囲気。ソ連風である
サムサとドルマドルマはヨーグルトで頂くスタイル

来た道を戻り、公園を通ってグーリ・アミール廟である。

グーリ・アミール廟遠景

こちらは実際にティムールが埋葬されたという廟である。修復を受けてはいるものの、この屋根の形はオリジナルのもの。縦線の入った凹凸のあるドームは、タマネギではなくさしずめニンニクである。美しいムカルナスの装飾がされた門のような構造物を通って、廟へ至る。

ゴゴゴゴゴゴゴ…

天井の金箔の装飾は近年修復されたもののようだが、オリジナルの部分もかなり残っており当時の姿が偲ばれる。写真では伝わりにくい、神々しい雰囲気を放っている。それにしても大変規模の大きい廟だ。そりゃあのティムールの墓だものな。大きいわけである。

天井の高さ、壮大さが伝わるだろうか

墓石が安置されている。黒い墓石がティムールのもの
修復されているとはいえオリジナルと見受けられる部分も多く、ディテールも美しい

廟の裏手に出てみると一部崩壊した部分もあり、少しほっこりしてしまう。

崩壊した廟の裏手

近くにはルハバッド廟という建物があるが、これはムハンマドの遺髪が収められているものらしい。建築的にはとくにみどころのない建物だ。

ルハバッド廟

さて、サマルカンドのメインディッシュである、レギスタン広場に向かう。

レギスタン広場へ向かう道はバザールとなっているが、これもシャフリサブズで見かけたような無機質な構造をしている。所謂旧来からのバザールと違って入口が狭くショーウィンドーが大きい。このバザールは写真を撮る気も起きなかった。これでは商品はきれいに見えるが外からは店の中や店員の雰囲気がわからない。なにより道を通っていく人々と店の人の物理的・心理的距離が遠すぎる。最近作ったのだろうか。西欧の商店街をまねたものだろうが、あまりにも風情がないので買い物をする気も起きない。こういう修復はウズベキスタンで散見されるが、残念ながら何かを勘違いしているのではと思われ、この国の歴史的遺産の将来が少し心配になる。もっともそれは日本でも言えたことだとは思うが…

入場料を払って広場へ。先ほどの日本人女二人組が、いかにもノリの軽そうな日本人男二人組とキャッキャと話している。結局人間似た者同士で惹かれるということである。まあ楽しくてよさそうではあるのだが、ちょっと知性がないなあ。せっかく歴史的な地域に旅行に来たのだからお近づきになる動機はもう少し知的であっていと思うし、その立ち居振る舞いはもう少し落ち着いていてもいいと思う。まあ、若い人には難しいかもしれないが。そんなことより目の前にある建築の美しさを楽しみたい。

昼過ぎのレギスタン広場

レギスタン広場には3つのマドラサが建設されている。左手の少し小ぶりなものがウルグベク・マドラサ、正面はティラカリ・マドラサ。左手は顔の描いてあるモスクで有名な、シェルドル・マドラサである。

まずはシェルドル・マドラサ。ライオンの背中に配置された顔がまるで某相撲選手のようで笑ってしまう。ブハラにあるナディール・ディヴァンベギ・マドラサの「顔」から落ち着きを奪って尊大さを追加し、鼻息を荒くしたような表情でおもわず笑いがこぼれてしまう。でもまあ、過去のイランの写真を振り返ってみるとテヘランにあるガージャール朝の建築物にもライオンの背中に配置されたモンゴル人様の顔という絵面は見受けられるので、トルコ系民族にとってはこれは特に違和感のないものであったのかもしれない。

シェルドル・マドラサ

この表情である

次にウルグベク・マドラサ・こちらは小ぶりで落ち着きのある雰囲気である。装飾は星をかたどった幾何学的なものであり、色合いも紺色を基調としていて静謐さが感じられる。

落ち着いた雰囲気のウルグベク・マドラサ

最後にティラカリ・マドラサ。レギスタン広場を入って正面に見える、青いタマネギ屋根を持つマドラサである。正面のエイヴァーンはブハラのマドラサにも似た構造で、壮大さが感じられる。

ティラカリ・マドラサのエイヴァーン

外から見てドームの部分は中から見ると天井は平板となっており、金箔で装飾がされている。もちろんこの装飾は近年修復されたもの。あまりにもきれいすぎてテーマパーク化を嘆く観光客も見受けられるとか。それでもまあ、美しいものは美しい。

金箔の美しい装飾だが、これは後世の修復によるもの。それでも美しい

ティラカリ・マドラサ内の広場

なお、いずれのマドラサのフジュラも現在お土産屋が並んでいるが、正直おみやげの質はブハラ・ヒヴァに劣る。あまりこの都市でお土産は買わないことをお勧めしたい。

本日の夜もまたホテル・ビビハニム泊である。ここ2日の寒さでやや体調が悪く、ホテルの食堂で温かいスープを食べて就寝した。