Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

パタゴニア(13) ブエノスアイレス

2/9

終日ブエノスアイレス観光

1730ごろ空港へ

2/10

UA818

2205EZE 0535IAH

ヒューストン空港にて乗り継ぎ

UA007 1000IAH

2/11

1510NRT 成田空港着

 

2週間に及ぶ旅も本日が最終日。ブエノスアイレスを観光する。

ブエノスアイレスは東京からの距離が1万8千kmをこえており、日本から最も遠い都市の一つで、まさに「地球の反対側の都市」である。そんなブエノスアイレスは「南米のパリ」とも言われ、先住民がほとんどいない無人の草原を切り拓いて、主に白人の移民によって作られた町。ヨーロッパ風の町並みが広がるそうだが、その町並みはヨーロッパのそれとは似て非なるものとも言われ、独特の哀愁が漂っている、らしい。母を訪ねて三千里的なノリだろうか。下馬評としてはそんな感じだが、海外旅行では往々にして下馬評に裏切られるので、ニュートラルな視点での観光を心がけるようにする。

昨日の飛行機が深夜にブエノスアイレスに到着したということもあり疲れていたので、本日は朝8時半ごろゆっくり起床。9時半ごろに食堂に向かうが、スペイン語を話す現地の宿泊客で賑わっていた。食堂の雰囲気、建築意匠もまた素晴らしい。


昨日乾かしていた服を回収し、荷物をまとめてチェックアウト。Savoy Hotelのチェックアウトは12時と比較的遅くまで滞在できるが、観光のため流石に10時半ごろにはチェックアウトを済ませ、市街観光をすることにした。

すばらしいSavoy Hotelの意匠

ブエノスアイレスはそれほど治安が良くないということで、安全なルートを昨日ガイドに教えてもらっていたので、概ねそれに沿って歩く。行動の概略としては、まずはHotel前の通りを北上し、劇場を改装して本屋にした「世界で最も美しい本屋」の一つ、エル・アテネオにて休息。その後高級住宅街レコレータ地区を通ってレコレータ墓地へ向かう。レコレータ墓地を訪問したのち、7月9日大通りを経由してメトロポリタン大聖堂へ。大統領宮殿前の大通り沿いに歩き、ブエノスアイレスで最も古いカフェの一つ、カフェ・トルトーニで軽くランチしつつ昼食。ホテルに戻る計画とした。サンテルモ市場にも寄れればいいが、時間と自分の体力との相談となりそう。

 

ホテルを出る。国会議事堂近くに位置するホテルの周辺は道端に時折ルンペンの姿を見かけるものの、比較的賑わいがあり、サンティアゴのような「人が少なくて不安になる感じ」はない。ホテル前を南北に走るEntre Rios通りに沿って北上する。10ブロックほど、やや荒んだヨーロッパのような町並みを歩き、左折。ここに本屋「エル・アテネオ」はある。

 

エル・アテネオは壮大な劇場を改装して本屋にしたもので、当時の面影を残す天井の装飾や建築様式はなかなかの面影がある。ステージ部分はカフェになっていた。本日の天気は時折分厚い雲が出現し通り雨がやってきそうな雰囲気だが、よい雨宿りにもなりそうだ。特に何かの本を買うというわけではないのだが、ブエノスアイレスの文化の一角を堪能できた。

 

エル・アテネからはさらに北上し、少し右側に曲がっていく通りをそのまま北上。レコレータ墓地へ向かう。通りの名前は気がついたらCallao通りになっている。

エル・アテネオの目の前の大通りを越えるとあたりは急に整備された美しい街路樹に囲まれた高級感のある町並みとなり、ブティックが並ぶ。この地区では飼い犬と散歩している人を多く見かける。建物の共用入り口にシャンデリアが使われていたりして、高級感と趣のあるところだ。

 

左折してManuel Quintana通りに入り、レコレータ墓地前の広場に出た。

 

レコレータ墓地の入場料は5090ペソで、カード払いのみ。カードがなかったが、家族共用のカード番号を持っており、これを伝えると支払うことができた。

入場。とても静かな雰囲気の墓地だが、樹木が植えられ、綺麗に手入れされている。ところどころに天使の像が置かれたまるで小聖堂のようなお墓が並ぶ様子は、日本の墓地のような物々しく幽霊の出そうな感じはなく、どこかすがすがしく満ち足りた雰囲気を感じる。ここは歴代大統領や偉人、富豪などが葬られた場所。おそらく裕福に生まれ、周囲から大切にされて育ち、周囲の人々から尊敬の念を抱かれ、多くの親族や関係者に見守られながら静かに最後を終えた人ばかりなのだろう。

 

レコレータ墓地を出て、7月9日大通りへ向かう斜めに走った道路を歩いていく。このエリアも高級ホテルや素敵なブティックが並ぶ。香水ファンとしては必見のFueguia 1833のブエノスアイレス店も発見。しばらくいくとおしゃれなフランス大使館に突き当たり、ここから7月9日大通りに合流。

ブティックが並ぶ。Fueguia1833のブティックもあり、香水ファン必見

7月9日大通りは大変な賑わい。広い通り、咲き乱れる花々、なかなか美しいところだ。通り沿いには大きな劇場などもある。ところどころに警察が配置されており、治安の心配はそれほどない。大きなオベリスクのある交差点で斜めに走る通り沿いに入る。

オベリスク

この通りからCasa Rosada周辺までは、特に街並みに統一感があり美しいところだ。

 

しばらく歩くと、メトロポリタン大聖堂、カサ・ロサーダがある広場に到達。まずはメトロポリタン大聖堂で一休み。

メトロポリタン大聖堂

ブエノスアイレスのメトロポリタン大聖堂は、ファサードがまるでギリシャの神殿のようだ。内部は黄金色にライトアップされた広大な空間が広がり、荘厳な雰囲気。

 

中にはサン・マルティン将軍の棺が祀られている場所があり、天井はローマにあるパンテオンを模したものと推測される美しいドームになっている。サン・マルティン将軍はアルゼンチン独立戦争を率いた将軍であり、シモン・ボリバルほどではないにせよ南米南部諸国独立の立役者とされている。

 

この教会でしばし休息し、体力回復。

教会を出て、カビルドという時計塔のような建物(確かアルゼンチンの独立宣言が行われた歴史ある建物であったはずだ)とカーサ・ロサーダを横目に見て5月通りを少し西に進む。ここも大きなポプラの木とアイボリーのビルの壁が美しい通りだ。しばらく歩くと、カフェ・トルトーニがある。

カビルド(左)とカーサ・ロサーダ(右)

 

ここはすでに長い行列ができていた。時刻は14時ほど。ちょうどカフェでゆっくりしてホテルに戻るのに最適な時間だ。並んでいる人は多くが地元の方で、ブエノスアイレスの人々に親しまれているのがわかる。特に名前を記入する紙などはなく30分ほど並ぶと、カフェ内に案内された。

行列のできるカフェ、Cafe Tortoni

内部はアールデコ調の大変美しい装飾で、ゆっくり落ち着くことのできる場所だ。カプチーノと看板メニューのチュロス、そしてベーコンとトマトのトルトーニ特製サンドイッチを注文した。しばらくゆっくりしていると、チュロスとコーヒーが出てくる。サンドイッチがまだ来ないのでおや?と思ったが、すぐに来た。

 

コーヒーはシナモンがかかっており独特の苦味。

サンドイッチは5800ARPとは思えないほどボリュームがあり、ベーコンやトマト、そして何よりチーズの質がよく、値段から考えられないほどおいしい。

サンドイッチを食べ終わった後に、デザートのチュロス

チュロスは中が空洞となっており、キャラメルが入っている。どちらもホッとするような味だ。

 

会計を呼んだがすぐに来ず、スタッフが来るまで10分以上待たされた。その間スタッフを観察すると、スタッフ同士で楽しそうに会話したりキスしたりしている。彼らは彼らのリズムで仕事をしているらしい。そして確かにこういうリズム、こういうゆっくりとした時間の過ごし方がブエノスアイレスには似合う。生き急ぎすぎているのは、私の方なのかもしれないなと少し反省した。

 

あとは5月通りを歩いて数百メートル、国会議事堂前を通って、ホテルに戻るだけだ。

立派な国会議事堂

時間は16時を回っている。非常にいい時間の使い方ができた。ロビーに近接する歴史あるホールでしばらく携帯をいじっていると、ガイドのおばさんは17時にやってきた。道が混むことがあるので少し早く来たらしい。

 

ホテルを出発。昨日は暗闇で見えなかった街の姿が見える。

ブエノスアイレスを観光した正直な感想としてはサンティアゴのセントロと比較するとよほど活気があり、治安も良く、人々も生き生きとしているように見えた。確かに昨今のミレイ大統領就任とそれに伴う経済的混乱によるものか、路上生活者が少なくなかったのは事実だが、少なくとも私はサンティアゴより居心地の良さを感じたし、ずっと気に入った。

確かに時折デザインが周囲と統一されていないビルやアパートがあったりして街並みの完成度自体はヨーロッパのそれと比較するともちろん劣るけれども、おしゃれなカフェや点在する大劇場など、かなり文化的な生活が営まれている雰囲気があり、そして南米ならではの明るさと輝きがあった。哀愁と呼べるような物悲しさを私は見出すことができなかった。「哀愁漂う南米のパリ」というのは所詮「かつてヨーロッパから出稼ぎせざるを得なかった貧しい人々がヨーロッパ風の町並みを夢見てブエノスアイレスを建設し、日々の苦労を忘れるためにタンゴを踊り、酒を飲んだ」という文脈に当てはめるための定型句であって、現実はそれとは大きく異なっていたように思う。それは単なるヨーロッパの焼き直しや模倣ではなく、南米の文化的都市というオリジナリティが感じられる好ましいものであった。

中心市街を過ぎるとスラム街に至るが、スラム街の建物はレンガやコンクリートで作られており、トタンやダンボールで作られたサンティアゴのスラム街と比較しても随分豊かな印象である。そのことをガイドに話すと、「わかりますよ。私も5年くらい前にサンティアゴに行ったことがあるけど、あまり好きになれませんでした。ブエノスアイレスの方が好きですね。」という。ブエノスアイレスはアルゼンチンの人のちょっとした誇りなのかもしれない。

ブエノスアイレスのスラム街だが、サンティアゴのそれよりきれいだ

次第に家屋が少なくなって森林となる。

時折植樹されたアラウカリアの美しい樹形が見える。今回は叶わなかったけれども、いつかもう一度チリを訪れ、まっすぐ伸びる美しい樹形のアラウカリアが生い茂るマプーチェの土地を訪れたい。そう心に誓った。

アラウカリアの木。いつかこの木の原生林を訪れたいものだ

程なくして空港に到着。

ユナイテッド航空のチェックインカウンターは開いておらず、長い行列ができていた。前の方には修学旅行と思われる地元アルゼンチンの女子高生が列をなしており、それが混雑の原因であるようだ。ガイドは私と一緒にカウンターが開くまで待ってくれた。ガイドがスタッフと話していると、どうやら自動チェックイン機でチェックインするとすぐに荷物を預けられるらしい。ガイドが列で待ってくれている間に、無事チェックイン。その後チェックインを済ませた人用のガラガラのカウンターで荷物を預けることができた。

ガイドに感謝の意を述べて、荷物検査へ進む。

荷物検査の次の出国審査ではちょうどスタッフの交代の時間だったのか人がおらず、日本人団体旅行客のガイドが露骨に苛立っていた。ここは南米なんだからそんなにカリカリするなよ、と思ったが、自分も先ほどカフェでカリカリしていたのだから、あまり人のことは言えない。

 

エセイサ国際空港でお土産の一つでも買おうと思っていたが、この空港は今までで1,2を争うほどにお土産に乏しかった。多くがチェーン店でめぼしいお土産がない中、一つだけあった個人商店風の手作り雑貨や服のお店で、可愛らしいストラップを買ってアルゼンチンペソをほぼ使い切ることに成功。ゲート前では例の女子高生グループが大はしゃぎしていた。元気だなあ。

 

飛行機に乗り込む前に再度の荷物検査が行われ、ヒューストン行きの飛行機に乗り込む。エコノミープラスの席を買っておいたので、足元は広い。

ヒューストンで乗り継ぎ、成田へ向かう。もう飛行機を逃す心配もないと思い、ここでようやく安堵の感情がふつふつと湧いてきた。

ヒューストンで成田行きの飛行機へ乗り込む

2週間に及ぶ、長い旅だった。様々な大変な出来事があり、本当に生きた心地がしなかった時もあったが、周囲の人々や地元の人々のサポートがあって、この旅を終えることができた。確かに不正利用は許せないし許すつもりはないけれども、現地の警察のお世話になるなど今までにない体験ができたし、地元の人により密着した旅行ができたのも事実だ。問題の渦中にいる時でさえこのパタゴニアに旅行に来たことを後悔したことは一度もないし、今も後悔していない。今までの海外旅行と同様に、今回もまた、素晴らしい旅行だった。

音楽プレーヤーをつけ、久しぶりにプレイリストの曲を最初からかけてみる。

ここには中学以来、私が気に入った曲が時系列に並んでいる。改めて聞いてみると、当時に自分がどんなものを見ていたのか、何を考えていたのか、ということが当時のように思い出される。中学の修学旅行で聞いていたエンヤの曲、イランでペルセポリスに向かうときにタクシードライバーが流していた曲、嬉しかった時の曲、辛かった時の曲。この曲リストはまさに私の辿ってきた人生の軌跡であり、一種のフォトアルバムでもある。今回の旅行でもまた、たくさんの素晴らしい旋律に出会った。パタゴニアでの経験は将来、このアルバムのよき1ページとなって残るのだろう。

成田行きの便はガラ空きであり、皆が椅子に横になって寝ていた。私も2席分占領してゆったりと席を使わせてもらった。この広さで席が使えるならビジネスクラスなど完全に払い損である。

 

飛行機の軌跡は綺麗に大圏航路を描き、14時間の長いフライトののち、成田に到達した。

一抹の寂しさがないわけではないが、同じ空の下には南米大陸があり、そこには人の素敵な笑顔や美しい自然があることを、今の私は知っている。日常の荒波の中でも、異国での体験は常に私と共にある。明日は日本では三連休の最終日だから時差ボケ吸収のためにひたすら休息し、明後日から襲ってくる日常の海に、再び飛び込んでいく。