Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

マダガスカル(0.5) 総括

 

パキスタンの時にやってみた、総括から始めるスタイルの方がどうやら自分に合っているみたいなので、今回もパキスタンの時の形式を継承してまずは総括から入ろうと思う。

 

自傷

海外旅行というのは一種の自傷癖なんじゃないかと思う。自分の中で当たり前であった価値観、当然だと思っていた前提、そういうものを破壊し再構築し、そのことに喜びを見出す。その行為はそれが楽しくてたまらない人にとっては最高の喜びだけど、それを苦痛に感じる人も多いからこそ、日本に閉じこもって海外に出たがらない人も多いのだろうと理解している。それでもただの自傷ではないのは、自分の価値観の破壊は新たな創造をもたらす可能性を秘めているからだ。そして世界の解像度が上がれば上がるほど、逆説的ではあるが「自分が知らなかったこと」の存在が浮かび上がってくる。それはまるで宇宙空間において、今まで暗闇で何も見えなかったところに遠いところから光が当たることで、暗黒星雲のシルエットがくっきり浮かび上がるかのようだ。

 

ブラックアフリカ

ブラックアフリカという地域を訪問したのは今回初めてだった。偏見を持つのはよくないなどと偉そうな理想論を唱えていながらも、心の奥底で「サブサハラアフリカというのはエチオピアを除けば非文明の野蛮な地域である」とどこかで思っていたのは事実である(素直に反省したい)。また、米国に行ったことはないのだけれども(日本から米国に行ったことのある人は多いため、そういう人からの話を聞いた感じでは)黒人は多くが享楽的で麻薬をやっており、継続的な努力のできない社会の底辺、というイメージを植え付けられていたことは否定し難い。確かに現在日本で見かける黒人は多くが米国系と推測され、そういう人たちの立ち居振る舞いにや彼らのラフなアメリカンファッションに若干の戸惑いを覚えていた部分もあったため、そういうイメージに共感してしまっている自分がいたのかもしれない。

しかしながら、少なくともマダガスカルで見た光景は、黒人たちが普通に都会を形作り、市場を作って生活している姿であり、他人と協調しながら礼儀正しく節度ある生活をしている姿であった。マダガスカルはアフリカ系とインドネシア系の混血でその度合いには濃淡があるから、その中での気質の違いというのは当然あるだろうとは思うものの、アフリカ系の人が多く住む地域であっても人々は高い礼節を持ち、フレンドリーで親しみやすく、子供達は車が通りかかると必ず手を振る姿が印象的だった。

マダガスカルインドネシア系の人々が持ち込んだ文化が基層文化となっていることもあり、今回の旅行で気づいたことは、ブラックアフリカで一概に言えることではないかもしれない。しかしながら少なくともアフリカで暮らす人々の多くは生き生きしており礼節が保たれている光景を目にして、どこか屈折したように生きているように見える米国の黒人たちは、勝手に異国に売り払われて自分たちの不慣れな社会構造に最下層として組み込まれ、常に差別を受け続けて生きてきたことに対する挫折感と静かな怒りの現れなのではないかと思わずにはいられなかった。

エチオピア航空では(私は見た目では出自を判定できないけれども)多くの異なった民族衣装を着た人々を目撃し、少なくともサブサハラアフリカというのは全く一枚岩ではなく、異なる伝統や文化を持つ人々が暮らす広大な地域であるということを理解した。それは本来当たり前のことだったのかもしれないが、意図的にもしくは無意識のうちに、この地域をとるに足らないとして矮小化していた自分がいたことに気づいた。アフリカ諸国に対する解像度が上がったことは、今回の旅行における大きな収穫だったと思う。

 

貧困とは何か

他の方のブログを拝見すると、マダガスカルIMFの統計で世界⚫︎位の最貧国で、人々は一日⚫︎ドル以下の生活をしている大変貧しい国である、とか、東海岸の家々は木と藁で作られており貧しさが伝わってくる、などと書かれているものもあった。しかしながら、同じ光景を目にしながら私は全く違う印象を持った。私の目には、そのような簡素な家々にも様式美があり、そんな環境の中で皆生き生きとし、自給自足を基調としながら節度を持って楽しそうに生活してるように見えた。少なくともその日食べるものにすら困って貧しい暮らしをしているようには、私には到底思えなかった。上記のような文章を書かれた方は、一体なにを以って貧しさを感じ取ったのかは気になるところだが、もし物質文明的な所持品、例えばエアコン、洗濯機、空調、そしてゲーム機やスマートフォン、から取り残されているから貧困である、というのはそれこそ物質的な豊かさのみを尺度にした貧しい考え方ではないかと思う。

いったいIMFとやらの統計は何を表しているだろうか。1日⚫︎ドル以上の生活をすれば、それだけで人は豊かになったと言えるのか。そもそも豊かさとは何か。そういうものを再考しなければならないのではないのか。かつてチリで出会ったドイツ人と東京で話した時に、彼女がナミビアに政府開発援助系の仕事で訪れた時に感じたことを話してくれたが、その真意の一部を理解できたような気がした。

(ちょうど都知事選があったのでそれを引き合いに出すが)SNS上でミソジニー的で稚拙な言説の候補を真剣に持ち上げたり、公職選挙法をハックして選挙を愚弄している連中を見ると、幸せというものは一体なんなのか、豊かさというのは何なのかを本当に考えさせられる。少なくともマダガスカルの人々は「日本の多くの人よりも豊かな心を持っている」ように見えてならない。もちろんここでいう日本の人というのは、カネはあるのに学びに投資せずマネーゲームに狂奔し、自己責任論を内在化して弱者を切り捨てて弱い者をいびり、強いものに反抗する勇気もなく媚びへつらうような人々のことである。

青年海外協力隊とかNGOとかの活動で後進国に行き現地の人々や子供達と楽しそうに写真に写っている人たちの写真をFaceb○○kなどで見かけることがある。彼らは本当にこうしたことについて丁寧に考えているのか、そして本当に彼らの助けが現地人の必要を満たしているものか、彼らの自己満足にとどまってはいないか。本当に「行動すること」が常に正しいのかも含めて考えさせられるものがある。

 

chevrefeuille.hatenablog.com

 

 

消費社会と精神の荒廃

彼らが物質的には豊かではないが精神的には決して卑屈ではなく陰鬱な感じもなく暮らしていける要因として、消費社会との無縁さがあるのではないかと思った。アフリカ諸国(そしてマダガスカルも例外ではない)はごく一部の人に富が集中しておりそれが国民に全く行き渡っていないため、その意味での格差は大きい。しかしながらごく一部の人以外は富から疎外されているため、昔ながらの生活を送る多くの人にとって物質的な豊かさは縁遠い存在である。この消費社会との無縁さというのが、人々に卑屈さをもたらさずに生き生きとした暮らしを保てる要因なのではないかと思った。

中途半端に物質文明に触れて消費社会に取り込まれると、必然的に「今の生活よりも良い生活」をテレビスクリーンやラジオを通して嫌でも見せつけられることになる。それは自身の生活に更なる上があることを教える。物質的に豊かになりようがない人にとってストレスとなるはずだ。そう考えると、消費社会そのものが格差を無為に強調し人心を荒廃させる構図というのが浮かび上がってくるようで、おぞましくもある。

 

観光客と植民地主義の残渣

マダガスカルでは多くの欧米人観光客を見かけたが、特にフランス人の居丈高な振る舞いが目についた。バオバブの木に文字を刻みつけたり、国立公園でドローンを飛ばしたりする、まるで自分の属国であるかのような振る舞いには心底うんざりさせられた。リゾートホテルで現地人スタッフに「シェフを出せ!」などとのたまう米国人もいて吐き気がした。人々の素朴な暮らしには目もくれず、現地人と現地文化へのリスペクトを全く持たず、現地人を後進的な人々といって見下し、ただ自然の美しさだけを目撃し美味しい食事と欧州仕込みのサービスに満足して帰っていくのは、なんと醜悪であることか。

しかしながら、私が今回宿泊したホテルはほとんどがその欧米風のホテルなのである。カネを払って健康を害し不快不潔を避け、美味しい料理をいただき、美しい建築美術を楽しむことができるのは間違いなくフランスの植民地政策がもたらした恩恵を享受していることになるわけである。私に欧米人を非難する権利などあるのだろうかと自問せざるを得ないところはもちろんある。しかし、現地人が利用するような宿泊施設を利用したところで現地の人々の生活や考え方が簡単にわかったりするものだろうかとも思う。ここには大きなジレンマがある。そして外国人として海外旅行を通して現地の人々を知ることの限界も見えてくる。自分が旅行で何を成すべきか、何を学ぶべきかは、未だに結論が出ていない部分もあるし、多分永遠に結論が出ない種類のものなのだろうと思う。

 

素晴らしき旅の導き手

今回の旅行は大変素晴らしく、学びが多く、そして何より楽しい旅行だったと思う。もちろんそう感じたのはマダガスカルの風土や自然、文化、そしてそこに住む人々が素晴らしかったからであるが、それだけではない。今回の旅行は本当にガイドとドライバーに恵まれた。ガイドのJさんは日本語をかなり流暢に話すガイド歴20年のベテランで、旅行客である私に対する細やかかつさりげない配慮が行き届いていた。知識も豊富で勉強熱心であり、初めて聞いた語彙を熱心にメモする姿が印象的だった。ドライバーのZさんもまた地球の歩き方マダガスカルに写真が出ているようなベテランドライバーで、素晴らしい景色が随所に現れて写真を撮りまくっている私のためにわざわざ何度もフォトストップしてくださった。そして未舗装の悪路を何日にも渡って運転してくれたのも彼である。この二人を抜きにして今回の旅行は語れないし、この二人がいたからこそ、今回の旅行は最高に楽しく、ストレスなく充実したものになったと思う。スルーガイドという仕組みが自分に合わないと思っていたが、そうではない。よきガイドに巡り会えれば、一人で旅行するよりも間違いなく素晴らしいものとなるということがよくわかった。そして素晴らしいガイドとドライバーを手配してくれた現地旅行会社Madagascar Servicesの浅川様、そしてメールに迅速に返信してくださったSylviane様に心から感謝申し上げたい。

 

エチオピア航空

最後に、エチオピア航空についても触れておきたい。エチオピア航空はネットでは時に酷評を見かけることもある航空会社であり若干身構えていなかったと言ったら嘘になるが、少なくともビジネスクラスでは全く不快感は感じなかったし、全てエチオピア人と推測されるスタッフの対応も悪くなく、そして食事も(時に米の調理がイマイチだったりするが、それも含めて)実にアフリカらしさを楽しめる、とても「濃い」航空会社であった。エチオピア音楽を聴きながらエチオピアワインを飲み、エチオピアの主食インジェラを食べられるというのはなかなか素晴らしいと思ったし、エチオピア音楽、インジェラ、いずれもとても私の気に入った。特に古来日本と同じ5音階を持つエチオピア音楽はどこか懐かしい響きとエキゾチックな刺激を同時に内包しており、久々に素晴らしいローカル音楽に出会えたと胸がすく思いだった。

エチオピアは賛否両論がある濃い国の一つとされており悪評も聞くが、憧れの国が少し近くになった気がする。少なくともインジェラが口に合わず滞在期間中苦しむということはなさそうだ。今年はもう予定が詰まっており厳しいが、来年こそは必ずエチオピアを訪れたいと思っている。