Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

オマーン(7)エピローグ

オマーン旅行を振り返ってまとめてみると、やはり時間がたってしまったからなのか、「極端な表現だが,写真だけがむなしく残って,記憶は風化していく。些末な部分は跡形もなくなってしまう」という某氏のブログの一節が思い出される。殊にこのオマーン旅行に関してはあまり記憶がなく、自分が敢行した最近の数少ない単独海外旅行の中でも最も印象が薄い。

当時自分が喪失感や罪悪感から逃れるような気持ちで旅行していたからなのか、あまり目の前に現れる景色やそこに住む人々に関心がなかったのか、それともプライベートカーによる移動が主体で現地の方々とのふれあいが希薄だったからなのかはわからないが、ともかく海外旅行の醍醐味ともいえるはずの、心の奥深くまで楔を打ち込まれたような感覚は、この旅行ではそれほど体験されなかった。今となってはただ砂漠のように何もない色褪せた景色と乾いた空気、そして当時の自分の根底にあった、ガラスのショーウィンドー越しに世界を見ているような、どこか欠乏感のある感覚ばかりが思い出される。それはメキシコをはじめとしてモロッコアゾレス諸島を旅行してきた時の生々しい感覚と比較すると一層顕著なように思われる。

 

ただ写真だけがむなしく残って記憶が風化しただけでは決してないのかもしれない。当時の自分にとって、海外旅行は現実逃避でしかなかった。本当に心から異なる環境を楽しみ、異なる考え方や慣習を持つ人々と接する精神状態ではなかった可能性が高い。それほどまでに当時の状況は私にとって過酷なものだった。今となってはそのショーウィンドーのガラスは粉々に粉砕され、硝子の破片が心に突き刺さっているのみだが、それは今なお私の人生に爪痕を残しており、良くも悪くも消えることはない。しかしながら、この硝子の破片もまた、自分の人生を豊かにするものなのだということを最近はなんとなく実感しつつある。それは敢えて思い出し反芻する必要もないし、かといって忘れようと努力し、なかったことにする必要もないものである。過去の体験が自分に刻まれている、ただそれだけのことだ。

 

やはり旅行というのは行って終わりなのではなく、現地に実際に赴き、そこで得た体験を咀嚼し整理し、言語にして残すことで初めて完結するものなのだろう。3年半かけて、手つかずの状態であったオマーン旅行の写真を掘り出し、記憶をたどることは自分の人生における暗部のひとつの決算という意味合いもあった。

 

人生というのは必ず山と谷があり、それはある意味避けようのない運命のようなもの。素晴らしい体験をしたいと思ったコンディションの時に素晴らしい経験ができる機会が得られるわけではないし、突如として自分の好きだったものが一瞬にして崩れ去っていく時もある。だからこそ、人生を楽しむだけのバイタリティがある時には、人に期待されたことや義務として与えられたことに力を注ぐのではではなく、自分のやりたいことをやりたいだけ楽しむことが大切なのだと思う。どこの馬の骨かもわからない人間の下した命令をこなすだけのアリではなく、自分の信念と哲学に従って生きるキリギリスでありたいというのが最近の自分の考えである。