Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

イラン旅行(7)2016.2.25 夜行列車でテヘランへ

2016.2.25

マシュハド観光

21:15 マシュハド駅発

→→→(車中泊)

 

本日は夜までマシュハドを観光し、そののちに夜行列車でテヘランに向かう。

といっても、マシュハドの唯一かつ最大の観光の目玉であるエマーム・レザー廟はすでに二回も訪れてしまい、あまりやることがない。ホテルを遅めにチェックアウトし、荷物をホテルにあずかってもらうこととする。あまり見るものがないので、適当に市内を散歩することにする。正直この日は全日程を通してもっとも記憶に残らなかった日だったと思う。バーザールも大した規模ではないし、エマーム・レザー廟のほかに観光するものといえばナーディル・シャー廟くらいしかない。しかもそのナーディル・シャー廟も柵の外からなんとなく外観を見ることができるし、外観は明らかに工事中であったので金を払ってまで入場する気が失せた。

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左:趣の乏しいバーザール 右:ベイトル・モガッダス広場(「神聖な家」の意)

ナーディル・シャーというのは世界史においてはそれなりに重要な人物なので、一応紹介しておく必要があるだろう。凋落著しい末期のサファヴィー朝において、彗星のごとく現れたのがこの男である。マシュハドの出身で(廟があることからもわかると思うが)、出自はテュルク系であったという。わずかに命脈を保っていたサファヴィー朝の摂政を務め、ペルシャに侵入していたアフガニスタン勢力や、オスマン帝国を駆逐。トルキスタンやインドへの遠征も繰り返し、一時的に領土を大きく拡大した。しかし後世には恐怖政治を敷くようになり、周囲から恐れられ最後には暗殺されたという。ウズベキスタンに遠征した際にサマルカンドのグーリ・アミール廟からティムールの棺を運び出すよう命じ、その際これを悪い兆候だと考えた部下により諫められたとの逸話がある。結局ティムールの英雄譚を模倣しようとした彼の驕慢さは治世の残酷さとなって現れ、結果的に自らを死に追いやったわけである。いつの時代も人間というのは自分の本来あるべき天分を大きく超えた権力を手にするといい気になり、調子に乗り、羽目を外すものなのだろう。英雄の悲しい性である。

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左:市街地に現れた小さなモスク?? 右:工事中のナーディル・シャー廟

時間が余ってしかたがないので、市役所の前で休憩したり、ホテルのロビーで暇をつぶしたりしていた。ロビーでは聖地ということもあって頭にターバン的なものを巻いたオッサンも出入りしている。このターバンの色、黒だとムハンマドの子孫であることを意味するとかなんとか。ここでも現地人が話しかけてきた。発音はきれいだが文法は(私でもわかるくらい)めちゃくちゃだ。しかしこれなら外国人と話すことができる。なにより彼らは外国人と話すことに全く躊躇がない。外国語上達の秘訣は結局は積極性であるということだろう。外界と隔絶された島国日本と、常に人の流動がある大陸における人々の気質の違いを感じざるを得ない。

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左:マシュハドの市役所 右:夕刻の市街地。ネオンがまぶしいのはほかのイランの都市と同じ

夕刻になったがやはり時間が有り余っているのでマシュハド駅へは徒歩で向かう。治安はよいので特に心配はない。マシュハド駅はとても立派な駅で、下手をすると下手な地方の空港よりも立派だ。

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左:マシュハド駅外観 右:駅は多くの人でにぎわっている

駅は電車の発車を待つ人であふれている。駅にある売店で飲み物や夕食を買い込んだ。隣に座っていたおじいさんに何時の電車に乗るのかと聞かれたので、覚えたてのペルシャ語で答えてみる。するとペルシャ語ができるのかと聞かれたので、ほんの少しだけ、と答えた。

外国語の学習はどんなに簡単といわれる言語であっても長い道のりで、決して容易ではない。現地の人々の言葉を少しでも覚え、コミュニケーションをとろうとすることが、その土地に暮らす人々への敬意につながるのではないかなどとなんとなく思っている。

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列車の一覧が掲載された掲示板。ザンジャーン行きの1本を除き、すべてテヘラン行きだ。我々は21:15発に乗る

定刻に近くなったのでゲートに向かう。駅はまるで空港のようにセキュリティーチェックが厳重で、チケットと一緒にパスポートもチェックされる。先頭車両で写真を撮影するほどの時間的精神的余裕はさすがになかった。

我々の席は二等寝台で、少し古びた電車に乗り込むと老夫婦と同じ部屋であった。途中謎のオッサンに「席をかわらないか」と言われたが老夫婦が追い払ってくれた。まあ、イランの人々はこのように思ったことを好き放題言っては来るものの、だからと言ってそこまでごり押しはしてこないのがいいところだ。大陸的な積極性の中にどこかプライドとひかえめさがある。

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左:テレビが備え付けられた社内。同じ部屋になったおじいさん 右:寝台を広げた様子

部屋にはテレビが備え付けられており、謎のイラン映画が流されていた。イラン人がアメリカに行くが文化の違いから様々な苦労をするという、皮肉とエスプリのきいた映画でなかなか面白かった。私より友人にウケたようである。マシュハドから出ると電車は市街を巻くようにしておおきくカーブし、次第に町明かりのない暗闇に移行していく。消灯し、車両の振動に揺られながらぐっすり寝た。

 

 

 

 

イラン旅行(6)2016.2.24 聖都マシュハド

2016/2/24

 

 

午前中:イスファハーン観光

12:00ごろ イスファハーン空港

13:30 Iran Airtour 943便でマシュハドへ

イランホテル泊

 

本日は午前中は再びバーザールを観光し、午後は空の便でマシュハドへ移動する。

昨日目星をつけたものを買いに行くために再びイマーム広場のバーザールに向かう。友人とは昨日お世話になったおじさんのお店で待ち合わせさせていただくこととし、個人で自由行動(買い物)をすることにした。昨日と比べると少し雲が多く風が強い。そして心なしか人が多い気がする。小学校や中学校の社会科見学、芝生でピクニックをする人たち。多くの人たちでにぎわっている。ここはイスファハーン市民にとっては世界史の学びの場であり、ペルシアの栄光を鼓舞する場所であり、憩いの場でもあるのだろう。確かにこの建造物の規模は日本の有名な古都京都ですら比較にならないほどで、あらためてため息が出る。

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左:ミーナ・カーリー。繊細な青の模様が美しい 右:謎の卵のようなオブジェ

昨日よさそうだと思ったミーナ・カーリーのお店を何点か回ってみると、一つ大変美しいものを見つけた。青と茶色を基調としたポットで、今までみたものよりもはるかに模様が繊細で美しい。お店の人に聞いてみると「これはオールド・マスターが作ったものだ」という。大きいものと小さいものがあり、大きいものは100ドルほどだという。はじめて心から気に入ったものを見つけたので、価格交渉してみる。100→50→75→70ドルで、結局70ドルで落ち着いた。(今更だが、イランはアメリカと断交しているものの、おみやげ店ではUSDがかなりの確率で使える。)

値段が決まると、店の人が「Congratulations!」といって握手してくれた。丁寧に包んでもらったポットをザックの中にしまい、お店を後にする。ペルシア絨毯のうちで大きさや値段が手ごろなものを買えれば、と思っていたが、美しいシルク製の青色の絨毯は1000ドルオーバーだったので、今回は遠慮しておいた。値段や大きさの点では、ミーナ・カーリーのほうがお土産品として優れていると思う。余った時間で、去るのが名残惜しいイマーム広場の写真をたくさん撮った。

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左:北側のバザールへの入口 右:イスファハーンでもフレンドリーな学生たちが手を振ってくれた

昨日お世話になったお店に集合すると、友人は小さなミーナ・カーリーの小さなコーヒーカップのセットを買ったという。また広場では謎のイラン人に「日本はなぜアメリカの言いなりなのか」などという質問をされたのだという。(まあここまで欧米に追い込まれてもなお自らの主張を曲げないイランという国の人々にとっては、他国にこびへつらってばかりの日本が理解できないのも当然だろう。日本は資源がない弱小国家であり、生き残りのためには主張を捨てるのはやむを得ないことだと思う。そこはそれなりに面積のある国家で、資源も豊富なイランとは違う。日本では自分の意見をはっきり述べることはよしとされないということも、これを助長していると思われる。)

2日間お世話になった絨毯店のおじさんとしっかり握手をして去る。いつになるかはわからないけど、私はきっとまたこの国を訪れるだろう。そのときまでどうか達者でいてほしいと願う。偉大な文化と寛容な精神の宿る土地。本当に素晴らしいところだった。

 

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イマーム広場全景。この景色は一生忘れないと思う

ホテルのフロントに預けていた荷物を回収し、タクシーで空港に向かう。空港までの景色はほとんど記憶にない。イスファハーン空港はこれといって特徴のない地方都市の空港といった趣。

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左:アッバースィーホテルのフロント 右:イスファハーン空港は地方都市の趣

古びた機体に乗り込んで1時間ほどであっという間にマシュハドの空港である。空港を降りるとどこか暖かさを感じるシーラーズや圧倒的な文化都市イスファハーンとは違った、少しピリピリした雰囲気が町に漂っている。かなりの大都会で、近くに山とか丘という自然の造形があまり見当たらず、殺風景な雰囲気だ。さっさとタクシーを拾って本日の宿、イランホテルにチェックインする。

マシュハドとは殉教地を意味する(アラビア語の語根sh-h-dは示すとか殉教するとかいう意味を持つ。マシュハドはこの語根から派生した単語)。8代目エマーム・レザーの殉教地であり、イラクナジャフやカルバラー、イラン革命震源地コムと並んでシーア派の重要な聖地のひとつとされている。

マシュハドの宿はかなり取りにくいことがあるので直前にならないとどうなるかわからない、と旅行会社の方が言っていたが、宿とれました、それなりに綺麗でよいホテルだと思いますよーとのことだった。イランホテルは4つ星のホテルで、外装はややオンボロであるが絶賛改装中。部屋は広いというよりだだっ広く、シャワー室が妙に簡素なのが印象的だった。

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左:イランホテル外観 右:妙にだだっ広い部屋

 荷物を置いてマシュハドのほぼ唯一かつ最大の観光(巡礼)スポット、ハラメ・モタッハル広場に向かう。ハラムの中に入る際に「camera mamnu3(カメラ禁止)(3はʕ、すなわち有声咽頭摩擦音を示す)」と説明されカメラを預けることになるが、スマホはどういうわけか回収されないので、スマホで内部の写真を撮ることは可能だ。外国人入口というものもあって、そちらを通ると案内人がつくらしいが、我々はどうやら巡礼者に見えたらしく、特に何のお咎めもなく巡礼者として入ることができた。

モスクや聖地はムスリム以外入域禁止となっている国がかなり多い。たとえば聖地メッカやマディーナはムスリム以外入域不可能だし、2019年に旅したウズベキスタンでもモスクとして現在使用されている場所には基本的に入れてくれなかった。オマーンでも観光客がモスクに入れる時間帯は限定されていた。イランという国はこの辺に非常に寛容で、名だたるモスクや聖地には非ムスリムも入ることが許されている。これはある意味例外的な寛容さなのかもしれない。イラクに行ったことがないのでよくわからないが。

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ハラメ・モタッハル広場

 ハラムの建築はティムール朝にさかのぼるかなり古い部分もあるが新しい部分も多くみられ、訪問当時大きなミナレットが工事中だった。ここは歴史的なモニュメントではなく、今なお多数の巡礼者を迎え入れ、拡張され続けている場所なのだと実感する。

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黄金のドーム前の広場

エマーム・レザーの棺は黄金のドームの中にあり、銀色の柵でおおわれている。ドーム内は神聖な色とされている緑色の光を放つシャンデリアで照らされている。多くの人がこの銀の柵に触れてご利益にあやかろうと押し合いへし合いしており、室内はすごい熱気だ。持ち込んだスマホのカメラでレザーの聖墓の写真を撮ろうとする人もいるが、監視員のような人が先に毛の生えた棒みたいなものでそっと牽制される。私もこっそり写真を撮った。

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レザーの棺が安置されるドームは緑色のシャンデリアで照らされ、すさまじい熱気にあふれている。よく見るとちゃんとtaswir mamnu3(写真撮影禁止)と書かれていた。すみません。

人々はレザーの棺を安置する銀の柵に触れた後も、右胸に手を当てて敬意を示し、何度も棺に向かって礼をしながら少しずつこの空間を後にしていく。訪れる人々の敬虔さがうかがわれる。なお、この空間に連続してまるでシャー・チェラーグ廟のような鏡の空間があったが、撮影は忘れてしまった。

このハラムにはいくらかの博物館が付属している。かつて使われていたレザーの棺を覆うための銀柵や、どういうわけか魚の剥製まで展示されている、割と謎な博物館がある。絨毯博物館というのもあり、こちらは繊細な模様の描かれた巨大な絨毯が多数展示されていて圧巻だった。

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レザーの棺をおおうためにかつて使用されていた銀柵から、魚の剥製まで展示される謎の博物館

いったんホテルに戻りしばし休憩。マシュハドはサフランの名産地でもあり、市街には赤いサフランの袋詰めを売っている店が多数みられる。残念ながら食事をできそうな店がなさそうなので、ホテル内のレストランで夕食をすませた記憶がある。夕食を済ませたのち、再度日没の時間にハラムに向かうことにした。

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夕刻のハラム。礼拝のため人が集まる


黄昏時のハラムは集団礼拝のため多くの人が集まってきており、緊張感のある雰囲気だ。礼拝の方法などはまったく学んでいなかったので、我々は集団礼拝の様子を呆気にとられながら眺めていた。中には集団礼拝に加わっていない人も少しいて、なんだか温度差が感じられる。

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集団礼拝の様子

礼拝が終わって少しゆるんだ空気の中、ハラム内を散策してみる。黄金のドームやティムール朝時代に作られたという青いドームが美しくライトアップされていて、昼に来るのとはまた違った趣がある。

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左:青のドーム 右:美しくライトアップされた黄金のドーム

バーザールに寄ってからホテルに戻ることにする。ここのバーザールは規模も小さく、お土産品のようなものはサフラン以外ほとんどない。香水売りのおっさんにムエットを渡された。中東では香水文化が深く根付いているという話を聞いたことがあるが、どうも本当のようだ。

イスファハーンとマシュハドの都市の雰囲気の違いには正直圧倒された。マシュハドの乾いたよそよそしい雰囲気は、観光客である我々には刺々しく感じられ正直居心地が悪い。聖地を訪れる人々の熱気に疲れた我々は、さっさと眠りについた。

 

 

 

 

イラン旅行(5)2016.2.23 世界の半分

2016/2/23

全日イスファハーン観光

アッバースィーホテル泊

 

イスファハーンは世界の半分。

世界史を学んだ人なら、この言葉を一度くらいは耳にしたことがあるのではないだろうか。私は高校時代世界史は大嫌いだったが、サファヴィー朝の名前もイスマーイール1世の名前も全く記憶にないのに、この「イスファハーンは世界の半分」という言葉だけは覚えていた。それだけこの言葉が強烈なフレーズだったからだろう。

そもそもこの言葉、冷静に考えてみれば意味が分からない。自らの成果を誇示しがちな帝国の支配者が自らの都市を世界のすべてがあると形容するならまだしも、わざわざ半分といっているのである。謙遜だとしてもせめて世界の大半があるくらいにしておけばいいのに、半分にこだわった理由が謎すぎると、当時は思っていた。

高校の頃勉強した世界史の記憶なんて、ジッグラトという不慣れなアクセントを持った単語と、「イスファハーンは世界の半分」というこの意味不明なフレーズと、世界史教科書の表紙を飾る青く美しいモスクの写真くらいだった。どういうわけか、これらはすべてイランと関係のある知識である。そんな自分が高校を卒業して何年かのち、中東の言語・歴史・文化に興味を持ち、このイランの地に立っていたのはある意味運命であったのかもしれない。

朝食を済ませてホテルを出ると、まずはイスファハーンの中心にあるイマーム広場に向かう。風流な街路樹の植わった大通りを越え、西側の通路から広場に入る。広場を吹き抜ける朝の風がさわやかだ。目の前には黄色と明るい水色で装飾されたドームの左右に、均等な大きさの白いフジュラがどこまでも伸びている。広場の中は美しい噴水や針葉樹の植え込みが美しく、図形的な建築との調和が圧巻だ。

どういう順番で見学しようか迷っていたところ、一人の青年に出会う。イマーム広場を案内したいのだという。ありがたい話だが、勝手にガイドしておいて金をとるタイプの人かどうかもわからないので、話はありがたいがこれで失礼したいとうと、なぜありがとうばかり言うのかよくわからないなどと絡んでくる。「No thanks」の意味で「Thank you」と言っているのだがどうやらまったく伝わっていないらしい。我々は自分たちで回りたいというと、13時ごろにここに集まってくれれば案内するよといい残してその青年は去っていった。謎絡み一号である。

まあそんな彼のことはひとまずおいておき、まずはイマーム広場の概要をば。

イスファハーンの目玉ともいえるイマーム広場とその周辺の建築は、サファヴィー朝アッバース一世の命で作られたもの。きれいな長方形をした広場とそれを囲むように作られたバーザール、モスク、そして宮殿の複合建築である。繊細で美しいタイルワークで彩られたモスクはイラン・イスラーム建築の白眉であるとされている。モスクの向かいにある宮殿もまた数多くの柱で高い天井を支える開放的なバルコニーが印象的だ。

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マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー

最初に、我々の入った入口から正面に見えるモスク、マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーを見学することにする。ここはサファヴィー朝時代は王族専用のモスクとしてあり、シャーの妻たちは宮殿から地下通路を通ってここで礼拝をしたのだという。入口にはこぢんまりしたエイヴァーンがある。

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エイヴァーン

横にあるチケット売り場でチケットを購入し、美しいモザイク装飾に彩られた少し暗い通路を通っていくと、唐草模様の装飾が施された小窓から陽光の差し込む空間に出た。天井のドーム部分は紡錘形を基調としたパターンが放射状に伸び、壮大な模様を形成している。シーラーズのシャー・チェラーグ廟とは当然趣向は違うが、繊細な模様の繰り返しが壮大な空間を形成しており、まるで万華鏡の中にいるようで、ため息が出るような美しさだ。メッカの方向には小ぶりなメフラーブが設けられている。

このモスク、着工から完成まで17年かかったという。その精緻な模様からもそれはうなずける。本当に素晴らしい。

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左:天井の繊細な装飾 右:日光が差し込むモスクの空間

マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーを出て、次はマスジェデ・エマームへ向かう。この入口のエイヴァーンは周囲の建築よりも一段高くなっており、2つの大きなミナレットを備えている。まさに私が世界史の教科書の表紙で見た、あの青いモスクである。遠く離れた、自分に縁がない世界と思っていた教科書の写真の風景が今目の前にあることに、静かな高揚感を覚える。

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マスジェデ・エマームのエイヴァーン

入口でチケットを購入し、マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーとは対照的に大きく開放的な回廊を行く。右に45度折れると、正面にミナレットを有するエイヴァーンが大きく構えているのが見える。写真ではやや伝わりにくいかもしれないが、その壮大なスケールには圧倒される。濃い群青を背景として黄色や白の模様が描かれた装飾は、遠くから見ると宇宙に浮かぶ無数の星のようで、荘厳でありながら少しかわいらしい。

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左:ドームへの入口 右:イマーム広場方向を振り返る

天井の高い門を潜り抜けると、天井はやはり青を基調として繊細な唐草模様が描かれている。マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーの天井装飾のような迫力はないが、これはこれで間違いなく美しい。

ドームから横の通路を通ると多数の柱のある空間に出る。天井は多数の柱もありあまり高くない印象を与えるが、日光が差し込んでおり明るい雰囲気だ。

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左:マスジェデ・エマームの天井装飾 右:柱の空間


入口を振り返ると、イマーム広場からの回廊が壮大な入口を構えている。左右にはマドラサのフジュラが規則的に並んでいる。鮮やかな濃い青と白、黄色、青緑の混ざった繊細な装飾は、遠くから見るとくすんだ青色に見え、広場全体を落ち着いた雰囲気にまとめあげている。

 

どのような形容詞もこの空間のもつ荘厳さ、繊細さ、美しさを言い表すには足りない。これが400年前の建物というのが驚きである。本当に素晴らしい。ただただ感嘆の声を上げながらたいして性能もよくないコンデジで何枚も写真を撮った。

つぎに、イマーム広場に面する大きな建築物としては最後の、アーリー・ガープー宮殿に向かう。この建築は修復用の足場が組まれていることもあり、外から見ているとなんだかパッとしないような感じがしたが、内部の装飾は素晴らしい。バルコニーからは壮大なイマーム広場がきれいに見渡せる。バルコニーの天井は細かく装飾されているが修復中で、女性が楽しそうに会話しながら修復作業に当たっていた。壁にはペルシア美人の絵が描かれている。

イランではモスクの入口にはホメイニー師やハメネイ師の顔写真が大きく飾られていたりするし、王宮にはこのように人物画が描かれていたりする。モスクの装飾もアラブ世界のそれと比較すると繊細で鮮やかかつ絢爛である。同じイスラームでありながら人物画のたぐいを一切廃し、質素かつストイックなイメージのアラブ世界とは一線を画したペルシャ的な美的センスを感じる。

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アーリー・ガープー宮殿からみるイマーム広場

宮殿の最上階にある音楽室では、天井に楽器の形に彫られた多数のくぼみが設けられている。余分な音を吸収するためのものだそうだ。楽器の形に彫られたくぼみは、まるで中国の兵馬俑を影絵にしたかのようでもあり、UFOのようでもある。しかし随分薄い素材でできているようだ。木製なのか金属製なのか大変気になるところではあるが、当然触ることはかなわなかった。

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左:ペルシア美人の壁画 右:音楽室天井の装飾

ひとまずメインの見どころは回ったので、イマーム広場の四角形の「辺」にあたるバーザールを散策することにする。青・赤・緑さまざまなミーナ・カーリーを売る店、絨毯を売る店、銅細工の店、そして銘菓のギャズを売る店…たくさんのおみやげ品がバーザールのショーウインドーを飾っている。特に独特の形をしたミーナ・カーリーがとても美しいが、たくさんのお店がありどう選んでよいのかがよくわからない。

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バーザールの様子。ショーウインドーにたくさんの商品が並ぶ

ひとまず多くの店主に話を聞いてみることにした。私も友人も無数に並ぶおみやげに何を買ってよいかわからずバーザールを半周くらいしたとき、ふと「こんにちは」と声をかけてきたおじさんが。日本語が堪能で、かつてペルシャ絨毯の商人として日本にいらっしゃったのだという。彼の経営するペルシャ絨毯のお店に案内してもらい、お茶とお菓子まで出してくださった。お菓子はカラメルのようでとても甘く香ばしい。彼に商品の見分け方についていろいろお話を伺う。

「絨毯は、これはシルク製で、大体800ドルくらいですね。こちらは毛でできていて目も粗いから、300ドルくらいで買える」

ミーナ・カーリーについても見分け方を伺ってみる。それぞれの店舗は当然工房のマスターであり自分たちの作品を売っているわけなので、自分の作ったものを悪く言うはずは当然ない。彼は自分の知り合いだという人のお店に案内し、手に取って説明してくれる。

「(ミーナ・カーリーは)こういうつるつるしたものに絵を描くほうが難しいです。凹凸があるほうが簡単に作れる。これはいい仕事ですね。これはまあまあな仕事かな。」つまり表面が平滑なものに絵を描いていくほうが難易度が高いということらしい。凹凸のあるほうがおしゃれに見えたので、少し意外だった。隣のお店もミーナ・カーリーのお店で、緑色のものが欲しかったのでこのおじさんに伺ってみると、そのお店のスタッフにペルシャ語でいろいろ聞いてくださり、作りたてだという緑色のものを持ってきてくださった。

「これは表面でこぼこしているでしょう。まあまあな仕事だと思います。」なるほど。勉強になる。結局この緑色のミーナ・カーリーはお迎えしなかった。まあ、買っておけばよかったと今更思わなくもない。

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左:お店で出されたお茶とお菓子 右:親切にしてくださったおじさん。ガラム・カールの制作に使う判を手に持っている。本当にありがとうございました

彼の絨毯店の向かいにあるガラム・カールのお店にお邪魔する。ガラム・カールとは綿布に木を彫って作ったハンコで様々な装飾を施した布のこと。見た目は絨毯に比べて大したことないように思えるが制作には手間がかかり、最近では職人の減少が課題なのだという。このハンコを持ってきて作り方についても詳しく説明してくださった。少しくすんだアイボリー色の生地に渋い茶色で装飾をした布を1枚購入することにしたが、彼が値下げ交渉をしてくださり、おまけに小さな布を1枚つけてくれた。

さらに、親切に甘えるようで少し申し訳ないが、このあたりでおすすめのレストランはないかと伺ってみる。するとイマーム広場を出て、地元のペルシャ人以外は決して入らないであろうお店に案内してくれた。

「私はかつて日本にいましたから。日本ではとても親切にしてもらった。これはその恩返しです」

我々が明日までイスファハーンに滞在することを伝えると、またいつでも来てくださいとおっしゃって去っていった。丁重にお礼申し上げて、ひとまず食事をいただくことにする。頼んだのは豆の煮込み料理で、サフランライスの上には干しザクロがまぶしてあり、甘酸っぱさが料理の味にアクセントを加えている。器は質素だが、とてもおいしい。しかしこの店に入る勇気のある外国人はまずいないだろう。まわりの客はみな地元の方だった。

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昼食。ペルシャ語のメニューで名前はわからなかったが、美味

食事のあとに少し離れたところにある、マスジェデ・ジャーメに向かう。(すでに読者の方はお忘れかもしれない、先ほどイマーム広場を案内すると言っていた謎の青年には申し訳ないが、上位互換のガイドが現れてしまったこともあり、トンズラさせていただいた)こちらは8世紀ごろからあるイスファハーン最古のモスクであるが、増築が繰り返されており元の姿をとどめているのはごく一部らしい。イマーム広場の北出口からバーザールにつながっており、ここの道をまっすぐ1㎞ほど歩く。こちらのバーザールは日用品を多く売っている。一度車道をこえて少し歩くとそこがマスジェデ・ジャーメである。かつてのサファヴィー朝の栄華が偲ばれる豪華絢爛なイマーム広場のモスクと比較すると質実剛健な建築が印象的だ。エイヴァーンの下ではちょうど敬虔なムスリムたちが昼の礼拝をおこなっていた。こちらでは久しぶり外国人観光客のカップルに出会った。ロシアから来たらしい。

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左:マスジェデ・ジャーメの入口。左右はバーザールになっている 右:内部。出会ったロシア人のカップ

この近傍に銘菓ギャズの有名店があると地球の歩き方に書いてあったのでそのお店を訪れていたが、大量の地元民たちがギャズをどっさりと箱買いしていく。英語の案内はいっさいなく、人がたくさん並んでいてなんだか質問もしにくい雰囲気だ。しかも箱買いしか選択肢がなく、おみやげとして持って帰るには負担ということもあり、結局買うのはあきらめた。

再び来た道を戻り、今度はイマーム広場を通り抜けて、南のザーヤンデ川に向かう。しばらく大通り沿いに歩くとザーヤンデ川にかかる美しい橋であるスィ・オ・セ橋に出る。スィ・オ・セというのはペルシア語で33を意味し、橋の上に33のアーチがあることから名づけられたようだ。スィ・オ・セ橋の付近は親水公園のようになっており、川べりで多くの人が川の流れを眺めながらゆっくりとした時間を過ごしている。橋の上では若者が「コンニチワ!」などと話しかけてくる。非常に面白い。飲酒という娯楽がないからなのだろうが、人々の時間の過ごし方にとても品性があるように感じられる。

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ザーヤンデ川にかかるスィ・オ・セ橋。1602年完成の歴史ある橋だ

ザーヤンデ川にかかる橋巡りをすると面白いらしいが、すでに本日歩きすぎてなかなか足がつらいものがあるので、これはあきらめた。橋をわたってしばらくまっすぐ歩くとジョルファー地区という旧アルメニア人居留区に出る。ここは、サファヴィー朝アッバース1世が商人としてすぐれた能力を持っていたアルメニア人を移住させた地区である。イスファハーンの繁栄に寄与した彼らには信仰の自由が与えられたという。右手に折れ曲がったこぎれいな道をいくと、ヴァーンク教会というアルメニア正教の教会に至る。外観はモスクのようなドームを持ち、そこまで目立たない。入場料は20万リヤルだ。

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左:ヴァーンク教会外観。地味だ 右:内装。禍々しいまでに派手なフレスコ画が印象的

外観は地味なこの教会であるが、内部の装飾は強烈だ。入ると金色を基調としたまばゆいフレスコ画が目に入る。モスクのどこか奥ゆかしく静謐な模様の世界に目が慣れていると、イスラム世界を旅しているのでなければ美しいと思えるはずのフレスコ画もやや禍々しく感じられる。イエス・キリストの顔だけ描かれたパターンが繰り返し現れる部分などもはやシュールで少し気味が悪いくらいだ。ムスリムが偶像を見たときに感じる感情とはこういうものなのか、というのが体感できるような気がする。この教会は博物館が併設されており、聖書の言葉を記した髪の毛や世界最小の聖書など、興味深い展示がたくさんあった。

ここからはかなり長い距離を歩いてホテルまで戻らねばならない。日が沈むとやはり人通りが多くなり、スィ・オ・セ橋は人であふれていた。帰り道に通ったケバブ屋で買ったケバブを本日の夕食とすることとし、ようやくホテルに到着。イランの夜の市街はネオンがきらめき、昼の光景とは違った独特の様相を呈するのだが、当時自分が持っていたデジカメの暗所性能が著しく悪く、きれいに写真が撮れなかった。

到着したホテルでは先ほどのケバブを食したあと、夜の街を散歩してみることにする。友人は疲れたらしくホテルで休むといったので、一人で街に繰り出すことにした。やはり治安はよく、イマーム広場ではたくさんの人がくつろいでいた。

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夜のイマーム広場の様子。カメラの性能が…

それにしてもカメラの性能が悪い。現代ならスマホのカメラでさえ夜の写真をもっと美しく撮ることができるだろう。しかし夜のイマーム広場もライトアップされており、独特の趣があって美しい。

 

イスファハーンはイランにおけるイスラームの軌跡やサファヴィー朝の隆盛を偲ぶことができ、圧巻だった。「半分」というのはおごりではなく、おそらく当時の人がこれらの建築群の美しさや、この町の繁栄ぶりを前にして実際に体感したことなのだろうと思われた。

明日の午前中は本日バーザールで回って見当をつけたおみやげ品を買うこととし、午後は飛行機でシーア派の聖地のひとつ、マシュハドへ向かう。


 

 

雑談と教養

かつて初期研修医をしていたとき、とある非臨床系診療科を回ったことがある。

 

その診断室ではクラシック音楽が流れており、大変博識だった部長の先生は音楽から哲学、世界史に至るまで幅広い雑談に花を咲かせていた。前の月まで回っていた診療科では、人々は常に仕事の話ばかりしていて、ようやく雑談が始まったと思ったら下品な飲み会の話や低俗な噂話や耳を塞ぎたくなるような下ネタでうんざりしていたものだ。このような環境で精神的にやや参っていた私は、チャイコフスキーについて語ったり、古代オリエントについての歴史談義に耽ったり、春になり冬眠から出てきたカエルの写真を見ながら啓蟄を感じたりする空間で、草木がまともに育たないツンドラから豊かな緑の生い茂る温帯にたどり着いたような安心感を覚えた。短い期間だったが、毎日そこで仕事をし、学び、また時に雑談に加わるのが楽しく、研修だけでなく日々の生活も充実した。あの診断室には間違いなく、文化の香りがした。

 

道端に街路樹や植え込みがあるのは、人工的な景色に自然な優しさを与えるためだ。建築物に一見不要と思われる装飾を施すのは、小さな芸術が生活に彩りを与えるからだ。同じように、教養や雑学というのは、生産性だけ考えれば全く意味のないことなのかもしれないが、日々の会話にまさに植え込みに咲く花や建築物の装飾のような彩りを添える。文化的であるというのはそういうことである。もし路上から街路樹や植え込みを取り払えば我々はアスファルトとコンクリートだけを目にしながら道を歩くことになるし、建築物は人を匿うだけのただの箱になってしまうだろう。それは生活にとっては必要十分であっても、本当に人間的な生活と言えるだろうか。

 

忙しい職種ほど、職業以外のことを考えなくなるのはある意味当然の事かもしれない。本業以外のことについて考える時間や余裕がない。考える時間と気力を奪われた人は仕事のことしか考えることができなくなり、さらに仕事に没頭していくことになる。つまり思考するツールを奪われた人がますます隷属的立場に置かれるという悪循環に陥っているわけだが、一度その悪循環にはまると、もはや抜け出すことができず、自身が隷属的立場にあるということすら認識することができなくなってしまう。

 

確かに、若手のうちは仕事の技術を身につけることが最優先という考え方はあるだろう。自分の職業の社会における偏りや立ち位置について立ち止まって冷静に考察することには意味のないことという人や、そういうことを考えること自体反抗的で気に入らないという人にはこれまでいくらでも遭遇してきたし、副業や週休3日制という話が出てきた現代では多少マシにはなったかもしれないにせよ、確実にそういう人はこれからも存在するだろう。仕事を疎かにしては間違いなく生活は立ち行かないし、どんな時も仕事の話をするのは仕事に対して真摯に取り組んでいる証左であるかもしれない。それは自分に欠けている部分かもしれず、反省の余地はある。しかしながら、仕事と一見関係なさそうなマージナルな部分がなければ、それこそツンドラの大地に放逐されるのと同じようなもので、文化的には無に等しい。最低限度の生活というのは健康で文化的なものだ。文化がないというのは人として死んでいるのに近い。(それに、命令に忠実で目の前のことしか考えられない人間ばかりを重用し、考える人材を育てなかった結果が今の日本の斜陽を招いたのも多分事実だろうが…それはまた別の話。)

 

仕事が大切なのになぜそれ以外の話をする必要があるのか。そういう質問を投げかけられたことがある。当時そのような質問をする人の存在を想定していなかった自分は呆気に取られ、なんと答えて良いかがわからなかった。自分が教養ある人やそういう話が飛び交う空間を豊かだと感じる理由をよく考えていなかった部分もある。しかし、今ならきっとその質問にも答えることができるのではないかと思っている。あなたは道端に草木の生えない道を永遠に歩き続けたいと思いますか、という質問を、逆に投げかけてみたい。私はやっぱり、多種多様な花が道端に咲き乱れた道を歩きたいと思う。それこそ高山植物の咲き乱れる登山道のように。そしてそれは意味のあることなのだと伝えられれば。

 

イラン旅行(4)2016.2.22 砂漠都市ヤズド、イスファハーンへ

2016/2/22

AM ヤズド観光

13:00 ヤズド・バスターミナル発、バスでイスファハーンへ

19:00 イスファハーン

アッバースィーホテル泊

 

本日は午前中にヤズドの旧市街を観光し、午後はバスでイスファハーンに移動する、ややあわただしい日程である。ヤズドの旧市街はマレク・オットジャールから通りを挟んで向かい側に広がっており、バザールと連続している。まずは市内のどこからでも目立って見えるミナレットを備えた建築、アミール・チャグマーグのタキーイェに向かう。

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アミール・チャグマーグのタキーイェ

タキーイェというのは寺院やバザールなどの複合施設で、ミナレットに挟まれた通路沿いにちょっとしたバザールがある。しかし朝早いからだろう、閉じている店が多い。広場の右には謎の木造構造物が鎮座しているが、これはナフルといって8代目イマーム、ホセインのシンボルであるらしい。大きな広場には噴水や植え込みがあったようだが、絶賛工事中で掘り返されていた。写真を撮り忘れてしまったが、この建築物の柱と柱の間に道路が敷かれており、なかなか不思議な感じがする。

いったんメインストリートを戻り、バザールを抜けて旧市街へ向かう。少し時間がたったのでそろそろ開店している店が増えてもいいはずだが、シャッターが下りている店が目立ち、やや寂れている感じがする。バザールを抜けると、左手にマスジェデ・ジャーメが見えた。このモスクのミナレットはイランでもっとも高いのだという。正面入り口のエイヴァーンは深みのある青緑のタイルで装飾されており、重厚感のある雰囲気だ。中に黒ずくめの女性がたくさんいて近づきがたい雰囲気だったので、のちほど再度観光することにして、旧市街の中心部へ向かう。

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マスジェデ・ジャーメのミナレット

このあたりで再び女子小学生の集団に出会う。彼らは外国人観光客とわかるととても嬉しそうに手を振ってくれ、こちらも嬉しくなる。この旅行ではイスファハーンなどの観光地で多くの学生集団に出会ったが、決まって外国人観光客とわかると笑顔で手を振ってくれる。しかも作った笑顔ではなくとても嬉しそうなのである。彼らの笑顔を見るたびに、異質な人に自然に笑顔を向けられるような社会は素敵だなあと思うし、「見知らぬ人についていかないようにしなさい」と徹底的に教えられ、外国人を見れば眉を顰める(欧米人には尻尾を振るが)日本人とは対照的だなと思わされる。

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嬉しそうに手を振る小学生たち

閑話休題

バザールを通り抜けると迷路のような旧市街に至る。広場からはレンガ造りのバードキールが多数認められ、独特の景観を呈している。これはカナート内の熱をここから逃がすための設備で、「天然の冷房」なのだという。砂漠で生きる人々の知恵が垣間見える。天井まで土で塗り固められた通路が迷路状に張り巡らされているところもある。これも日差しが強いこの地ならではのものだろう。町はとても閑静であるが生活の香りがしてなんだかほっとする。旧市街の一角では兄弟がサッカーを楽しんでいた。

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地下の貯水池とバードキール

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迷路のような旧市街。閑静で雰囲気が良い

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広場でサッカーを楽しむ兄弟

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旧市街の一角にて

途中にアレキサンダー大王が建てたというアレキサンダーの牢獄という観光スポットがあるが、正直なかなか綺麗でとても紀元前の建築には見えない。

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アレキサンダーの牢獄なる建物

別の道を通ってマスジェデ・ジャーメをめざす。先ほどのような黒づくめの人(おそらく礼拝に来ていたのだろう)の集団はすでに去っていた。先ほど写真で紹介したエイヴァーンはメッカの方向を向いておらず、入ると左手にドームがある。すなわち動線は正門から90度折れ曲がっているという独特の構造である。ドームに至る回廊は天井が高く開放的かつ威厳があり、ドームの外観も内装もほかのモスクではあまり見ないような独特の装飾が施されていてとても美しい。

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マスジェデ・ジャーメ

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ドームへの入口。装飾が美しい

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天井の装飾も独特

バーザールを見て回ってはみたものの、シーラーズのバーザールと比較すると規模も質もやや劣る。特にミーナ・カーリーや絨毯などのお土産品はほとんど売っておらず、生活感が強い。というかそれ以前に先述の通り閉店している店が多く少し物寂しい雰囲気だ。買い物を楽しみたいならイスファハーンかシーラーズがよいかもしれない。両替はAmin exchangeという両替所で行ったが、100ドル340万リヤルと、そこそこのレートだった。なお、道を歩いている途中で、女二人組に「チーニー(中国人)」と後ろ指をさされた。この国でも残念ながらお隣の大国の印象はあまりよくないらしい。

午後はホテルに預けていた荷物を回収してバスターミナルへ移動し、いよいよ世界史にも名をとどろかせる観光地、イスファハーンへの移動になる。今回のバス会社は、Hamasafarというらしい。旅行会社から渡されたPDFチケットを印刷したものを持って乗り込むが、乗客の一人の女性が、近くのオフィスに行ってチケットに替えてこいという。ヤズドに向かうバスではそんな手続きなど必要なかったので、何かの間違いかなと思いスルーしたところ、バスのスタッフがチケットを確認しに来た。PDFを印刷したチケットを見せたところしばらく居なくなり、別のチケットを手にもって戻ってきた。どうやら先ほどの女性の言ったことは本当だったらしい。申し訳ないことをした。まあ、結果良ければすべてよし、ということで。

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ヤズドのバスターミナル

バスからの車窓は相変わらず単調であったのであまりよく覚えていないが、一度検問所を通過する際に「Police check.」といってバスを降ろされた。なお、イランの高速バスは軽食がついているのでとても快適である。

18時を過ぎたころにようやくイスファハーンに到着する。すでに日が没し薄暗い。バスターミナルでは定番のタクシー客引きがたむろしていたが、英語を話せるタクシードライバーが「どこまで行くか?」という。「アッバースィー・ホテル」と言うと、50ドルなどというとんでもない値段を吹っかけてきた。一応高級ホテルということになっているので、足元を見てきたわけである。大体こういう観光地で英語を流暢に話す奴はロクなことがない。顔もまるでキツネのようで、狡猾で性格が悪そうだ。申し訳ないが君のタクシーには乗れない。吹っかけずに正直な稼業をするタクシードライバーを応援したいんでね。近くの別のタクシードライバーにお願いし、アッバースィー・ホテルの名を出さずにホテル近くの広場、Meydan-e-Emam-Hussainまで行ってくれるようお願いする。16万リヤルであった。さっきのキツネ男はざっと10倍以上の値段を吹っかけてきたわけである。あまり吹っかけるとその国に対する観光客の印象が悪くなって自分たちの首を絞めるのでやめたほうがいいと思う。笑。

イスファハーンは夜だというのに町はネオンが輝き、ごった返している。イランというのは砂漠で昼間は暑いから人はあまり外に出ず、日が没するとまるで土から春の虫が這い出てくるかのように家から出てくるわけである。道はやや雑然としているが、もう夜であるにもかかわらず女性や子供が普通に歩いており、スリのような変な人がいる雰囲気ではない。そもそもヨーロッパの都会であれば外出がはばかられるような時間帯である。イランという国のイメージと内情の違いにはつくづく驚かされる。

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イスファハーン市街の夜の様子。人で混雑している。

青い大きなドームを持つモスクを過ぎると、ようやくアッバースィー・ホテルに到着した。イスファハーンの中でも有名な5つ星ホテルである。ぼったくりタクシードライバーのカモにされるわけである。受付のプライドの高そうな女性にバウチャーを渡すと、流暢な英語で「おたくの旅行会社はダブルベッドの部屋を予約したようですよ」と苦笑しており、ツインの部屋に替えてもらった。ホテルには大きな中庭があり、外観、内装ともにとても美しい。我々の部屋は増築された新しい部分にあり、あまりその重厚な雰囲気を味わえなかったのが残念だ。ホテルには内装の美しい(一部改装中だったが)レストランがついており、夕食はそこでいただくことにした。

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ホテルの中庭

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レストラン


ヤズドは派手さはない都市ではあるものの随所にイランの長い歴史の痕跡、特にゾロアスター教の遺産が色濃く残っていた。その町並みには砂漠を生き抜く知恵が随所にあふれていて、ローカルで味わいがあった。明日はいよいよ「世界の半分」を存分に体験することになるわけだ。

 

イラン旅行(3)2016.2.21 拝火教の軌跡

2016/2/21

7:00 シーラーズ・バスターミナル

7:30 高速バスにてシーラーズ発

15:00ごろ ヤズド・バスターミナル着

ヤズド市内観光(ゾロアスター教寺院、鳥葬の塔)

マレク・オットジャールホテル泊

 

本日はヤズドへ移動の日だ。Breakfast boxをあらかじめ頼んでおき、早朝にホテルを出る。タクシーでバスターミナルまでは11万リヤルだったが、10万リヤル札しか持っていないことを伝えるとまけてくれた。ありがたし。

自分たちの乗るバスはバスターミナルの15番に停車していた。Miihannur-Aaliyaaというバス会社のものらしい。ヤズドに来ていたというオーストラリアからの旅行者が今まで訪れた自分の旅行先について語っていた。親の遺産で食いつないでおり仕事はしていないという。イランは北朝鮮と並びもっとも面白い旅行先だったという。北朝鮮に旅行するとガイドがぴったりとついて親切に案内してくれるのだという。なるほどね。私も親の遺産で食いつないで好き放題旅行したいわ。と思ったのは内緒。

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朝のシーラーズのバスターミナル

バスに乗り込む。バスでも相変わらずローカルな音楽が流れている。この国では乗り物で音楽を流すのは普通のことなのだろうか。そういえば沖縄で高速バスに乗った時、日本では珍しく音楽を流していたことを思い出した。昨日ペルセポリスに行く際に通った道をさらに進んでいき、深く刻まれた谷を越えると、次第に景色が砂漠化してくる。まばらに枯草の生えた茫洋とした地平をただただ進んでいく。途中でトイレ休憩をはさむが、そこで珍しい5000リヤルのコインを手に入れた。

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トイレ休憩。周りは完全な砂漠で、こんなところに放置されたら多分死ぬだろう。

砂漠地帯から少しずつ標高を上げ、頂上に雪をいただいた山が見えてくる。植物が次第に増えてきて峠を越えたと思うと市街地に下っていく。本日の目的地、ヤズドだ。なおこの峠、手元の高度計を見ると2000mを優に超えていた。もっともイラン高原上の都市は多くが標高1000m以上のところにあるので、それほどすごいことではないのかもしれない。

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山を越えるとヤズド市街に出る。奥には残雪を抱いた山も

ヤズドのバスターミナルではタクシードライバーたちがバスの扉のところにスタンバっていて、おそらく白タクの運転手に半ば強引に勧誘された。ホテルへ向かう途中、タクシー運転手は「マレク・オットジャールホテルはきわめてイマイチのホテルだ、○○ホテルのほうが絶対にいい、そっちにしなさい」というが、残念ながらすでに手配済みである。若干眉唾な雰囲気のオッサンだし、とりあえず聞いたふりをして右から左に流した。ホテルまで14万リヤル程度で、調子のいいオッサンのわりにあんまりぼったくってこないなあなどと思った。しかしそのドライバーはトランクから荷物を取り出す際に、友人のザックのサイドポケットがトランクのどこかの突起に引っかかっていたのを力づくで取り出したので、友人のザックの一部が破れてしまった。なお新品だったそうである。

マレク・オットジャールホテルはキャラバンサライ(隊商宿)を改装したお洒落な雰囲気のホテルで、全館にかぐわしいフレグランスが焚かれている。こういうお洒落な装飾は日本だと妙齢の女性が「カワイイ~」などと声を上げてまるで女子力の象徴であるかのように女性雑誌に取り上げられるが、本来こういうのは現地の人々が生活に彩を添えるための遊び心で、元来性別というのは特に意識されていないはずである。荷物を置いて少し休んだ後、タクシーを呼んで拝火教神殿と鳥葬の塔に向かう。ヤズドのメインストリートは正面に大きなミナレットを備えた建築が見え、大変印象的だ。

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メインストリートの奥にそびえるタキーイェが印象的

拝火教神殿では入口で5万リヤルを払う。小ぶりな建物であるが、ゾロアスター教の守護霊プラヴァシが描かれている。

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ゾロアスター教寺院(アーテシュキャデ)。小ぶりな建物だ

内部に入ると1500年前から燃え続けているという火が展示されているほか、ゾロアスター教の教祖ザラスシュトラの絵が飾られている。ニーチェの有名な著作、「ツァラトゥストラはかく語りき」のツァラトゥストラである。あの著作ももはや有名になりすぎて一種の流行になってしまった感じがある。人口に膾炙することと正しく理解されることは残念ながら往々にしてトレードオフの関係にある感があり、流行になるということは当然多数の人にとってわかりやすいように棘が抜かれ、内容が歪められて消費物の一つに成り下がってしまったことを意味する。それは本当にニーチェの望んだことだろうか。

さて、ゾロアスター教の軌跡については自分の知識の整理も兼ねて一応まとめておく。ゾロアスター教はアケメネス朝ペルシア時代にはイランの国教であったといわれており、ペルセポリスでも王の墓に守護霊プラヴァシ(フラワシ)が刻まれていることを述べた。その後アレキサンダー大王による一時的な征服、セレウコス朝アルサケス朝といったヘレニズム文化の影響を受けた王朝の隆盛と衰退ののちに、サーサーン朝において再度国教としての扱いを受ける。サーサーン朝はイランやトルクメニスタンアフガニスタンからアナトリアに至る大帝国を築き上げるが、東ローマ帝国との相次ぐ抗争の果てに国力が減弱。7世紀に興ったイスラーム勢力との闘いに次々と破れ、651年にあっけなく滅亡してしまう。その後のイスラーム王朝による支配によりペルシアの地にはイスラームが浸透していき、ゾロアスター教は次第に衰退していくことになったわけである。

なお現在のイランでは、ヤズド市の1割にあたる3万人程度の信者がいるそうだが、ゾロアスター教は信徒を親に持たない人の入信を受け入れていないらしい。燃え続ける火もなんだかさびしげで、縁起でもないかもしれないが風前の灯火という言葉を思い出してしまう。この火はガラス越しにしか眺めることができないので、あまりきれいに写真を撮れなかった。

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燃え続ける火

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ゾロアスター教の祖、ザラスシュトラ

そのままタクシーで鳥葬の塔に向かう。鳥葬の塔は町のはずれの小高い山の上にある。塀に囲まれた区画の入口で5万リヤルを払い、少しゴツゴツして歩きづらい山の上にある塔をめざす。敷地内にはバードキールというカナートの換気口がある。

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鳥葬の塔とバードキール


火を神聖なものとみなすゾロアスター教のもとでは火葬は行われず、遺体が鳥により食べられることで土に還す鳥葬という独特の葬儀が行われた。この葬儀を行う場所が鳥葬の塔というわけである。このエリアには2つの鳥葬の塔があるが、より手前にある立派な塔をめざすことにする。頂上からは雑然としているが様式美のある旧市街と、人工的なアパートの立ち並ぶ新市街が見て取れるヤズドの市街が一望のもとに見渡せる。鳥葬の際に遺体が安置されたであろうへこみがあるが、当然人骨などのおどろおどろしい気配はなかった。友人はこの塔で寝ころんだ写真を撮っていた。

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鳥葬の塔から市街地を見下ろす

鳥葬の塔から降りたころにはすでに日はだいぶ傾いていた。タクシーでホテルに戻る。ホテルの部屋の鍵は古びた閂だが、カギをこじ開けて侵入するような人などそうはいないのだろう。白塗りの壁に囲まれた狭い部屋だが、ところどころに遊び心がある。このホテルは中庭が雰囲気のよいレストランになっており、ひさしぶりにくつろいでまともな夕食をいただくことができた。感無量である。バスターミナルで拾ったタクシーの運転手が言っていたよりよほどまっとうなホテルである。なおバスタブはなくシャワーであったが、それは砂漠都市という都市の事情を考えれば、仕方のないことだろう。

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ホテルの中庭はレストランになっており、雰囲気がよい

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久しぶりにまともな夕食にありつけた。ナン、サフランライス、ヤズドの煮込み料理

 

イラン旅行(2)2016.2.20 シーラーズ、ペルセポリス

2/20

~10:00 シーラーズ観光

10:00~13:00 ペルセポリス、ナグシェ・ロスタム観光

13:00~ シーラーズ観光

ザンディーエ・ホテル泊

 

本日は一日中シーラーズ観光である。

イラン旅行の中では一つの目玉といってよいだろう、アケメネス朝ペルシアの遺構ペルセポリスやナグシェ・ロスタムを観光し、その後シーラーズの観光地をめぐる。ペルセポリスに向かう前に、「ステンドグラスのモスク」として有名なマスジェデ・ナスィーロル・モルクに向かう。この時間帯に訪問するのは、モスク内に差し込む太陽光によりもっともステンドグラスが美しく見えるのが朝の時間帯だという情報を得ていたが故。このモスク、ネット上では「マスジェデ・ナスィーロル・モスク」と紹介されているものが多いが、あれは間違いである。これを訳すと「ナスィーロル・モスクモスク」になってしまう。ネット上の情報にコピペが多いことの証左だろうか。情報があふれる世の中であるが、正しい情報にアクセスするのにはかつてよりますます困難になり、個々人のリテラシーがより要求される時代になったと思う。

 

ホテルを出発し、ひなびた街並みを歩いてモスクに向かう。朝のシーラーズの町は、現地の人々が路上をほうきで掃除する姿が多く認められ、この国の清潔に対する意識の高さをうかがわせる。フランスなど道路上に犬の糞が落ちていることがしばしばあり、それを踏んで気分の悪い思いをしたことがあったが、そもそもこの国では犬を飼うという習慣がないらしい。当然路上に動物の糞など落ちていない。お洒落で洗練されたイメージがあるフランスだが、その足元は思った以上に不潔であり、いろいろ考えさせられる(フランス語の教材にはglisser sur une merde de chien(「犬の糞でスベる」)などという表現が載っており、そういうことが日常茶飯事であることが推測される。なおこの知識はイラン訪問時にはなかった笑)。などと考えているとモスクに到着した。モスク入口のムカルナス(鍾乳石造り)が大変美しい。入場料は10万リヤル。

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マスジェデ・ナスィーロル・モルクのムカルナス。大変美しい

モスクに入ると、典型的なペルシャ様式の池があり、奥には上に人の手形のような装飾のついた小ぶりなミナレットが一対ある。この人の手は「ファーティマの手」であり、魔除けの意味があるらしい。そしてその左右にステンドグラスの窓がある礼拝堂が並んでいる。

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池のある中庭と「ファーティマの手」のあるミナレット

ステンドグラスの窓がある礼拝堂には絨毯が敷かれており、そこには昨日のシャー・チェラーグ廟とは異なった陶酔の空間が広がっている。

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鮮やかな色のあふれる空間に呆気にとられつつ写真を撮影し、その後ホテルに一度戻る。その際に日本人ツアーとおぼしきなんだかビクビクしたアジア人集団を見かけた。日本人は中国人や韓国人と似た東洋人風の顔貌をしているが、外国では大体少し怯え気味ですぐにそれとわかる。日本人は一言でいえば内弁慶なんだと思う(まあ、それが必ずしも悪いわけではないだろうけど)。イランを旅行していた十数日間で、日本人に遭遇したのはこの時だけであった。

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シーラーズのくすんだ町並み

ホテルのロビーで、ペルセポリス+ナグシェ・ロスタムに行くためにタクシーをチャーターしたい旨を伝えると、どうやら値段が決まっているらしい。たしか30ドル程度だったと記憶している。しばらく待っていると入口にタクシーが到着。てっぺんハゲで口髭を生やしたオッサンであるが味のある雰囲気を醸し出しており、なんだか優しそうだ。

タクシーでホテルを出てペルセポリスへ向かう。シーラーズ市街の道路は混雑しているが、日本の道路のように車線を守って走行する車はほとんどおらず、まるでゴーカートのようだ。レンタカーなど借りた暁には一瞬で事故に巻き込まれるに違いない。次第に人家が少なくなっていき、半砂漠地帯の高速道路を猛スピードで走行していく。そして現地のポピュラー音楽と思しき、聞いたこともない音楽を流している。基本的に短音階なのだが、乾いた大地の景色と大変にマッチしており、文化というのはその土地の気候や風土を多分に反映するものだと思わされる。なお、このタクシー運転手が流していた曲を大変気に入り、日本に帰ってから血眼で調べてみたところどうやらその曲に行き着いたので、下に記す。興味がある方はYouTubeなどでペルシアの空気を味わっていただければと思う。

♪Mahasti, Bezar man khodam basham

♪Mahasti, Nazi Nazi

♪Mahasti, Barge gol

途中マルヴダシュトという小さな町を抜け、広い松の林を抜けるとそこがペルセポリスである。タクシーの運転手のオッサンは我々一行をチケット売り場に案内してくれ、その後ここで待っているから行ってきなさいとジェスチャーで示す。

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我々をペルセポリスの入口へ案内するタクシー運転手のおっさん

ペルセポリスパルミラ、ペトラは中東の3Pと呼ばれ、観光客に大変人気な観光地である。ペルセポリスは、アケメネス朝の宗教的な首都として築かれ、ノウルーズなどの儀式が行われたという。しかしながら、紀元前331年、アレキサンダー大王の征服により陥落。宮殿は廃墟と化したという。日本の歴史を学ぶと法隆寺建立の607年ですら太古の昔のように感じるが、世界史を学ぶと日本の歴史もそれほど深くないのだなと思ったりもする。

 

ペルセポリスの入口は段の低く奥行きの大きな階段になっており、上っていくと羽の生えた人面獣の彫られた門が姿を現した。これはクセルクセス門というそうだ。顔面はおそらく偶像崇拝を嫌うムスリムによってであろう、削り取られているが、門の裏手の像は顔が残っており、なんとなく元の血の気の通わない平面的な顔貌を推察できる。門の壁には平面的に並んだ多くの人の姿が刻まれているが、上の段の人は顔が削られているのに対し下の段は彫刻がきれいに残っており、おそらく砂か何かに埋もれていたのではと考えられる。

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クセルクセス門の全貌

ホマーという双頭の鷲を横目に見ながら順路を進むと、女子中学校の社会科見学と思われる女性集団がいくつもおり、先生とおぼしき人がおそらく遺跡についての解説をしている。外国人観光客と気づくと手を振ってくる生徒がたくさん。とてもフレンドリーでほほえましい。このような集団をこの旅行では多く見かけることになる。

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百柱の間を見学する地元の学生集団

隣接する高台にはアタクセルクセス2世の墓があり、そこからペルセポリスの遺跡を一望することができる。乾いた風と日差しが実にさわやかだ。

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アタクセルクセス2世の墓からペルセポリス全景

ペルセポリスにはイランの企業や団体で現在使われているシンボルのもとになっている彫像や彫刻が大変多く認められる。例えばIranAirのマークはは先述のホマーをマークにしたものだし、ヤズドのゾロアスター教神殿に刻まれた守護霊プラヴァシのマークは、アタクセルクセス2世の墓にすでに彫刻として刻まれている。シーア派イスラームが国教となった今なお、ペルセポリスはある意味イラン人の精神的支柱の一側面を担っているわけである。
自分がイラン旅行に行くきっかけを作った野町和嘉氏の写真集「PERSIA」で大変印象的であった東階段の彫刻や、比較的保存状態の良い冬の宮殿など、実に見ていて飽きない。北アフリカやレバントにも古代遺跡はあるが、パルミラをはじめ多くは古代ローマの遺産である。非ヨーロッパ系文明の古代遺跡をこれほどの規模で拝めるところはなかなかないのではないだろうか。

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保存状態の良い「冬の宮殿」

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やはり東階段に刻まれたこの彫刻を載せないわけにもいくまい。

この彫刻は、世界各国からの使者が刻まれているそうであり、ガイドブックを見れば詳しく書いてあるが、残念ながら予習不足によりどれがどこの国の使者なのかは同定できなかった。しかしながら当時オリエント世界で絶大な影響を誇っていたアケメネス朝の強大さの片鱗を見るには十分だった。

先ほどのタクシーに戻る。次の目的地はナグシェ・ロスタムである。

ナグシェ・ロスタムはアケメネス朝の歴代の王が眠る墓が巨大な岩壁に彫られたものであり、その近傍にはゾロアスター教関連の建築物と思われる謎の建物が認められる。こちらもやはり規模が大きく圧倒される。しかしながら次第に日差しの強さと乾燥した空気でのどが渇いてきた。写真をササっと撮影し、タクシーに戻る。

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ナグシェ・ロスタム

(なお、最近知ったことだが、このロスタムというのはペルシャの民族的叙事詩であるシャー・ナーメにも登場するペルシャの英雄の名前だそうである。なおウズベキスタンサマルカンドにはアフラシャブの丘というのがあるが、アフロースィヤーブ(=アフラシャブ)というのはトゥーラーン(今のトルキスタン地方と比定されている)の英雄の名らしい。イラン文明圏に対する理解をさらに深めるには、このシャー・ナーメを紐解くことが必須と思われる。)

タクシーで1時間ほどで、シーラーズの市街に戻る。大体13時ごろにホテルに戻った。タクシー運転手にありがとうと言っていったんホテルに戻る。少し休憩し、午後は昼食&シーラーズ市街の観光スポットをめぐることにする。その前にホテルの近所の銀行で両替をしたが、100ドル=350万リヤルというかなり良いレートだった。

まずはマスジェデ・ヴァキールというモスクを訪れる。こちらは朝訪れたマスジェデ・ナスィーロル・モルクを一回り大きくしたようなモスクで、装飾は美しいが、やや無個性な感じがする。

昼食はバザール内にあるおという洒落なお店、サラーイェ・メフルを訪れることにした。バザールを本格的に歩くのは初めてだが、まるで迷路のように入り組んでおり、どこに何があるのかがよくわからず同じところをぐるぐると回ってしまう。少しわき道にそれると四角い池のある小広場に出たりする。緻密に積み上げられたレンガにより生み出される様式美が美しく、まるでおとぎ話の世界に入り込んだかのようだ。窓の装飾なども凝っており、これほどの文化的遺産の中で日常生活を送っているイランの人々が羨ましくもある。バザールには装飾品や有名なおみやげ物のミーナ・カーリー、香辛料や食べ物を売る店が区域ごとに集まっており、バザール内には香辛料の独特の香りが充満している。歴史が教科書上の記述ではなく、現在に連続していることを意識させられる空間。個人的には拳より一回りも二回りも大きいザクロが売っているのが印象的だった。

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美しいバーザールの空間

レストランはバザールの少し奥まった一角にあり、入口がわかりにくい。しかし内部は絵やステンドグラスがたくさんあり、とてもお洒落な雰囲気だ。ここで食べたチェロウキャバーブについていた焼きトマトは、その後食べたすべての焼きトマトの中で一番おいしかった。

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お洒落な雰囲気のレストラン。味もGOOD

その後は市街地の西のはずれにあるエラム庭園に観光に行くことにする。タクシーをひろうほどの距離でもないと考え、市街地を歩いていくが、やはり町並みは古びているものの清潔という印象だ。ヨーロッパ諸国にありがちな柄の悪い青年がたむろしているスラムのようなところもあまり見受けられない。1時間ほど歩くと、エラム庭園についた。内部のバラ庭園は絶賛整備中で重機が轟音を挙げて土を掘り返しており、四季折々の花が咲き乱れるというゴレスターンとは程遠い印象であった。このエラム庭園もまた、世界遺産に登録されているらしい。独特の形をした屋根が印象的だ。

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エラム庭園の宮殿は、ガージャール朝時代のもの

エラム庭園からは徒歩でホテルに帰る。今日もまた外に出る気力がないので部屋食である。ホテルのルームサービスで食事を持ってきてもらおうとも検討したが、結局高価だったのでやめた記憶がある。友人は近くの商店で買ったビスケットを食べていたが、私は持ってきた保存食を消費した。明日はヤズドへ移動することになる。どんな都市なのか楽しみだ。