Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

八丈島・青ヶ島(3) 崩壊の爪痕と青酎

○○〇〇/7/18

終日青ヶ島観光

 

本日は終日青ヶ島観光に充てる日だ。

特に、この日は以前訪れることのできなかった三宝港へのアプローチ道、そして大千代港の現在の様子を観に行く。世の中には物好きな人がいるもので、大千代港などと検索するとわざわざ危険を冒して大千代港の港湾施設にたどり着いたという妙にテンションの高いブログが行き当たるが、とても推奨されたものではないのでそういうのは一部の人に任せて、安全な範囲内での観察を行おうと思う。そしてせっかく時間があるので、この日は余った時間でのんびりすることにした。

 

まず最初は大凸部に向かうことにする。大凸部へ向かう道はあおがしま屋の奥の道を行く。コンクリートで固められた道は途中で終わり、簡単な階段が付けられた苔むした道を行く。

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大凸部への道

大凸部は青ヶ島の最高地点。山頂は開けているが、この日の午前中は曇っており、なかなか霧が晴れない。あたりには鶯の鳴き声が響き渡り、流れていく霧が美しい。海側には尾根のはるか下のヤバい場所に付けられた道が見える。あれはかつて三宝港へのアプローチとして使われていた道だ。

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雲が厚くなかなか晴れない。眼下にはすさまじい法面が

景色を目的としないのであればなかなかの雰囲気だが、残念ながらカルデラの景色をカメラに収めに来たので拍子抜けである。30分ほど待つが、一向に晴れず。残念ながら引き返すことにした。

次は集落から直接三宝港へ向かうアプローチへ。一応都道236号線ということになっているが、地震で崩落し現在は工事中だそうである。集落の左手に続く道を歩いていくと、次第に道のつけられた斜面の傾斜がキツくなってくる。小さなアップダウンを繰り返しつつ、斜面はすでに傾斜45度をはるかに越えている。なかなか恐ろしいところに道を作ったものだ。ガードレールの向こうは海であり、ハンドル操作を間違えると海まで真っ逆さまという具合だ。それに昨日述べたような地質ではこのような道を作ればそれ自体が崩落の引き金となりそうだ。事実法面は一部で数百メートルの高さまで固められており、以前は島の生命線であったこの道路を守ろうという執念が感じられる。

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眼下には海が青い。

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次第に道は下り傾斜になる。おそらくそのうち行き止まりだろう。工事の様子も観察したいが、降った後には必ず登らなければならずだるいので、ここで引き返すことにした。

しかしながら本当に凄まじいところに道をつけたものだ…

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斜度がすごい。道端に小さな祠があった

この後尾山展望公園にも行ってみたものの、霧の中で何も見えなかったので結局引き返す。

本日は宿でお昼ご飯を食べることになっているので、冷房の効いた自室で少し休むことにする。青ヶ島は先述の通り大変湿度が高い風土なので、夏は本当に蒸し暑い。冷房がある部屋が天国のようだ。お昼も冷房の効いた食堂で美味しくいただいた。

 

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昼食

午後は大千代港に向かう道端にある佐々木次郎大夫の家跡を観光し、いよいよ大千代港の視察(?それほど勿体ぶった言い方をすべきではないかもしれないが)である。その前に、なぜ大千代港が気になるのかを述べておく必要があるだろう。大千代港はオンライン上で一番上?にヒットするこの画像で右手前に写っている。

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この写真では地滑りによって大千代港へのアプローチ道路が寸断したことがわかる。一体なぜなのか。大千代港造成の工事と何か関係があるのか。非常に気になった。そしてこの地滑り。まるで山に乗っかった溶岩の皮を一枚ベロリと剥がしたように綺麗に層をなして地滑りが起きている。これは青ヶ島の地質と何か関係があるのか。その辺りを知りたくなったわけである。まあ、昨日宿前の広場の露頭を観察した結果ある程度推測はついているわけだが…

途中まではカルデラに向かう道と同じだ。佐々木次郎大夫の家跡は途中の道を海側に降ったところにある。オオタニワタリの生えたコンクリートの階段を下っていくと左手に祠があり、正面には青ヶ島には珍しい玉石垣がある。右手は民家と通じているが、これは佐々木次郎大夫の御子孫が住んでらっしゃるのだろうか?

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玉石垣とオオタニワタリ

玉石垣の道を進むと、おそらくかつて家が建っていたであろう広場に出る。すさまじい角度に屈曲して生えた大ソテツがあり、青ヶ島還住の歴史が偲ばれる。

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青ヶ島天明の大噴火で島民は八丈島への避難を余儀なくされた。彼らは八丈島で差別的な扱いを受けていたという。その元島民の帰還事業を推進したのが、名主の佐々木次郎大夫だったそうだ。全島民が青ヶ島への帰還を果たしたことを還住という。この還住という単語はかつての八丈島との連絡船の名前「還住丸」にも見ることができる。

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元来た道を戻り、カルデラのへりで大千代港への分岐に至る。ここを左、すなわち絶壁沿いに行く。いよいよという感じであるが、途中までは今までとあまり変わらないような、左手に緑豊かな急斜面を見るゆるい下り道で、むしろ牧歌的な趣である。しばらく行くと、左手に石碑が現れる。

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この先に大崩壊が待ち受けているとはあまり思えない牧歌的な道。行き止まり近くに石碑がある

この石碑は、大千代港へのアプローチ道の崩壊に気づかずに車で転落し、命を落としてしまった3名の方への慰霊碑のようだ。調べてみるとオンライン上で都の作成した資料に行きあたる。この崩壊はどうやら1994年すなわち平成6年に起きたようだ。しかしながら、この石碑からは崩壊地はあまり良く見えない。錆び切ってあまりその役目を果たしていない通行止めの鉄パイプを乗り越え、生い茂った雑草の中を進むと、眼下に深さ10メートルはあろうという大崩壊が目の前に現れた。あまり地質はよく見えないが、スコリア面で滑って崩れたというよりは溶岩ごとずるりと割れるように崩れた印象を受ける。

大崩壊の対岸には青々と生い茂った笹で覆われた手付かずの斜面が見え、道路という切れ込みが入れられる前の自然な青ヶ島の姿が偲ばれる。

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すさまじい崩壊跡


 

この崩壊により大千代港の整備は実質的に放棄されたというが、ここに道路を無理やり作ってもまた崩壊してしまうだろう。法面なんてこんな深い崩壊に比べたら料理の入った皿にかけられたサランラップ程度のものだ。これでは致し方あるまい。崩壊の目の前で道はヘアピンカーブを描いて左に折れるが、一応舗装されたこの道も途中で途切れ、途中から鉄パイプで足場が組まれている。一体どうやってこんなにアプローチ困難な道路を実用に供する予定だったのか?非常に気になるところだ。

 

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大千代港への貧弱なアプローチ道路

眼下のはるか下には、整備途中で放棄された大千代港が小さく見える。

 

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小さな大千代港

石碑に手を合わせたのち、大千代港を後にして集落に戻った。

朝よりは雲が薄くなり、大凸部の山頂が見え隠れする様になったので、再び大凸部や展望公園方面に向かってみる。再び1時間ほど粘ったが、雲は切れそうで切れない。仕方がないので諦めて下ることにした。

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1時間粘った成果(笑)

たまたま一緒に景色を粘っていた人が声をかけてくださり、青酎の試飲会に誘ってくださるという。青酎というのは青ヶ島特産の焼酎。お土産にひとつ買おうとは思っていたが、どんな風味かはわからないのでどうしたものかと思っていたのだった。試飲会についてはインターネットでその存在は知っていたが、まさかそれにこんな形で参加できるとは思っていなかった。予定外であったが、ぜひお願いしますと頭を下げる。あおがしま屋に宿泊していらっしゃるそうで、その前に17:50集合ということになった。夕食の時間に遅れそうなので、夕食の支度をしていた女将さんに試飲会に行くと声をかけておいた。

いざ試飲会へ。酒造所はあおがしま屋から集落中心へ向かう道の左手に分かれた道を下っていく。トマトなどの畑が並んだ緑濃い道を歩くと、突如青ヶ島酒造所と書かれた立派な建物が現れた。

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立派な酒造所

本日案内してくださるのは奥山さん。体格の良い中高年の男性である。

目の前にズラリと青酎の瓶が並ぶが、まずは冊子を手渡され、青酎に関するレクチャーから始まる。青ヶ島は特産のさつまいもを生かして古くから焼酎の生産が行われていたこと、かつては各家庭で焼酎の生産を行っていたため未だに多くの杜氏がおり各々によって全く味が違うこと、青酎は精製された麹ではなく土着の麹を使うため強い個性を持った味わいで品質は安定せず年によって味が全く違うこと、国税局の職員すら立ち入れない場所であったため家庭での酒造が近年まで黙認されていたことなど。このレクチャーをしてくださった奥山さんも杜氏の一人でいらっしゃるそうだ。なんと杜氏の他に畑仕事や牛の飼育、土木建築にも関わっていらっしゃるというマルチな方だが、村の人は皆そのように多くの仕事をこなしているのだという。金を貰って決まった労働をする都会の人とは違い、生きるために必要な活動を行っているという様子で、本来はこれが人間のあるべき姿なのだろう。

一通りレクチャーを受けたのち、いよいよ試飲へ。通常の白麹を使って作った青酎はいわゆる普通の「焼酎」の味がするのに対し、土着の麹を使った伝統の青酎は香りが尖っていて、強烈な味わい。干し草の香り、シナモンの香り、かび臭い香り…これは強烈だ。私は死因の結果香ばしい麦の香りが特徴の麦焼酎「恋ヶ奥」、シナモンのような香り高い三年古酒「あおちゅう 菊池正三年」を買うことにした。

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あおちゅうの解説をされる奥山さん

夕食に到着したのは、結局19時すぎになってしまった。女将さん「あまりにも遅いから、東京に帰っちゃったのかと思ったよ。」

小並感ある感想だが、この島では自然という力の凄まじさ、それを利用して生きている小さな存在にすぎない人間というものを強く意識させられる。都会では寄せ集まって技術とやらを駆使して強くなった気になり傲慢に生きている人間も、自然が圧倒的に強い環境の下では、その顔色を伺って謙虚に生きていかなければならない。そして人間というのは本来そういう存在であったはずだ。

 

八丈島・青ヶ島(2) 断崖絶壁の島

〇〇〇〇/7/17

7:30 あしたば荘出発

8:20 東邦航空チェックイン

9:20 八丈島空港→ヘリで青ヶ島

9:40 青ヶ島到着

本日はいよいよ青ヶ島へ。

ヘリコプターの予約をしておきながら、当日の様子を見てヘリをキャンセルしあおがしま丸(船)でアプローチしようと考えていたが、ヘリコプターのキャンセル料が改定され、当日のキャンセルは5000円ほどかかるという。これならヘリをキャンセルして船を使う意味がない。大人しくヘリコプターに乗ることにした。

今日はよく晴れており、昨日は曇天で今ひとつであった横間ヶ浦の景色も素晴らしく見える。曇っているとわからないが日光が出ると緑の鮮やかさが素晴らしい、まさにこの季節ならでは。

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素晴らしい景色

原付を飛ばしてレンタカーへ。こちらで原付を返却し、例の黄色いハイエースで空港まで送迎してもらう。空港では30分ほど待ち時間があるので、お土産物屋で帰りの時に買う土産の目処をつけておくことにする。パッションフルーツとか美味しそうだ。

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仕事とプライベートは完全に切り離しているので、仕事で遠出をしない限り職場にお土産を買ったりはしないのだけど、家族や近しい人に喜んでもらえるようなプレゼントを考えるのは面倒くさくも楽しい作業だ。良心というか愛想の容量が少なめに生まれてきてしまったので、心を込めて接することのできる人数には限界がある。申し訳ないのだが職場の人にまで愛想を振り撒くほどの余裕はないし、なんなら旅行中に仕事のことなんて一ミリも考えたくないし、そもそもこの旅行中に仕事のことはほとんど全く考えていなかった。ごめんなさーい。

8時20分になると八丈島空港の一角にある東方航空のカウンターが開く。5kgを超える荷物は超過料金が取られる。自分の荷物は11キロで1200円の超過料金だった。時間になるとヘリに乗る人のために空港の手荷物検査が行われ、待合室へ。窓からは空港の滑走路に運ばれてきたヘリコプターが見える。

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空港に運び込まれたヘリ


以前乗ったことがあるので初めての体験というわけではないはずなのだが、ちょっとワクワクする。やはり普通の生活をしていて乗ることができるのは飛行機ばかりであって、ヘリコプターに乗る機会はまずない。4年も経つと過去の記憶は朧げとなり断片化が進んで、パズルのピースのように元の場所に戻そうとしても、完全に復元することはできない。だからこそ過去の記憶に縋るのではなく、今を最大限楽しむことが大事なわけである。

ただ、以前は折角窓側に座ったのにポジショニングが悪く、その上写真を撮ることに集中していなかったためにヘリからの景色を綺麗に撮ることができなかったのでその反省を生かし、左前方の席を狙ってヘリの待機列では先頭に並ぶことにした。そして携帯は常にカメラをオンにしてスタンバイ。

ヘリコプターの乗務員は二人おり、最後の乗務員が乗り込むとドアが閉められ、ヘリの翼が回転し始める。いよいよだ。滑走路を滑るように移動し、止まったと思ったら翼がバラバラと大きな音を立て始め、ふわりと宙に浮く。不思議な感覚だ。この瞬間、過去に初めてヘリコプターに乗った時の感動が一気に蘇ってきて、思わず涙してしまった。

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市街が小さくなっていく

八丈島の市街が次第に小さくなっていく。眼下にキラキラと輝く海が見える。黒潮の流れるこの海域は海の青が驚くほどに鮮やかで、まるで小学生がクレヨンで描く海の絵のようだ。

 

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こんなにキラキラ輝く青い星の下で、我々は生きているんだなあ。

 

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そう思った時、心の中を占拠し自分を束縛していた重たく暗い何かが、音を立てて砕けていくような感触があった。それは感動という、懐かしくてあたたかな、そしてここしばらく忘れていた感触だった。 

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左:まるでクレヨンで描いたような青い海 右:青ヶ島が見えてきた。ピントが合ってない

 

前方には朧げながら青い塊のような島が見えてきた。あれが青ヶ島。島の上には大きな雲の塊があり、何だか迫力のある様相だ。温かく湿った空気が島の急斜面にぶつかって、雲を形成するのだろう。次第に島が緑みを増して、大きくなってくる。私は携帯のカメラで、夢中で写真や動画を撮る。以前は感動のあまり写真を撮ることを忘れていたのだった。

 

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青ヶ島に近づいてくると、上空の雲にかかって少し周囲の景色が暗くなってくる。刻一刻と形を変える青ヶ島の写真をカメラに収めようとするが、焦点が合わなかったり景色が変わってしまったりして、なかなか良い写真が撮れない。というわけでこれが限界でした。急な海食崖が大きく見えてくると、程なく青ヶ島ヘリポートに到着である。

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ヘリコプターから降りるが、ヘリの翼が生み出す強い風に煽られる。青ヶ島からヘリに乗り込む人々と荷物を乗せると、程なく八丈島にトンボ帰りしていき、島には再び静寂が訪れる。

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風が強く、湿度が非常に高い。まるでサウナの中にでもいるようだ。緑の香りが非常に濃い。八丈島とは比べ物にならないような濃密な風土に、懐かしさと喜びが募る。

今回は青ヶ島に2泊して、島を満喫する計画。今回はかいゆう丸という、最近オープンした新しい民宿に宿泊することにした。電話でヘリポートから近いと伺っていたので、徒歩で民宿に向かう。相変わらずアップダウンの多い土地柄である、だがそれが良い。

民宿は発電所の横の路地を入ったところにある。入り口では男性何人かがタバコを吸っている。ドアを開けてお邪魔すると、女将さんと思われるおばさんが台所で仕事をしている。

「こんにちはー」

「… あ、こんにちは。〇〇さんね。部屋は右の〇番目の部屋です。今回は仕事?観光?」

(お昼はどうするんだろうか…青ヶ島にはレストランがないので、1泊3食付きである。)

「観光です。」

「ひんぎゃの方に行こうと思ってるんですが…」

「大体みんな二日目にひんぎゃの方に行くんだけどね。わかりました、ひんぎゃ弁当ね」

こんな感じのノリである。親切丁寧に宿泊案内などを期待してはいけない。おもてなしモード全開とは対照的で、何だか申し訳なくなってしまうが、ここの島にくる人は多くが土建関係の人々で、観光客は少ない。最近こそ「死ぬまでに見るべき絶景」に選ばれて知名度が少し上がっているようであるが、それでもあくまでマイナーだし、本土との交通の便が著しく悪く、半自給自足的な生活を送っているこの島では、あくまで観光客としてもてなされることを当然と思うのではなく、島の生活にお邪魔させていただくという謙虚な姿勢で過ごすことが大切だと思う。

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民宿「かいゆう丸」

 


荷物を置いてカルデラの中にある「ふれあいサウナ」に入るための装備を準備し、その後徒歩で三宝港へ徒歩で向かうことにする。 少し距離がありアップダウンもきついが、往復10キロにも満たず、距離だけなら大したことはない。

集落を出て道なりに歩くと、次第に斜面の傾斜が増していき、左手は断崖絶壁になっていく。道路からはありえないような急角度で海に落ち込んでいく緑色の斜面と真っ青な海、そして海岸に打ち寄せる波が砕ける音が遠くに聞こえるが、海と陸地の境界は集落や道からはほとんど見えない。海は常に近くにあるはずなのに、その海は人々の生活の場からは隔絶されているという、不思議な感覚。

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海ははるか下に

青ヶ島の集落は標高200ー300mのところにあり、島の周囲は断崖絶壁という、かなり特異な地形になっている。そして島の中央部には巨大なカルデラ。この普通ではない地理的特徴こそがこの島の最大の見どころである。斜面の緑の濃さ、そして風の香り。時折響き渡るウグイスの鳴き声。この島の道を歩いて大自然を満喫することが最大の贅沢である。

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カルデラ全景。天気はすっきりしない

 カルデラ内は風が通らないので、周囲と比べてもさらに気温も湿度も高い。まるで植物園の温室のようだ。この季節なのに鳴いている蝉はツクツクボウシばかり。たまにニイニイゼミが鳴いているが、ミンミンゼミやアブラゼミは全くいない。これもまた不思議だ。カルデラへ降りていく道を下っていく。緑が濃い。ジャングルのようだ。

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緑濃いカルデラ

 

カルデラ内ではたくさんのオオタニワタリが見られる。月桃も生い茂っている。とにかく植物の元気が良い。これだけの温度と湿度があればね。カルデラ内にはたくさんの畑があり、水蒸気を上げる噴気孔もある。この地熱がサウナやひんぎゃとして使われるわけである。本日はあおがしま丸の着岸日ということでひんぎゃ方面に向かうのは後にして、まずは三宝港に向かうことにした。

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火口へ降っていく。オオタニワタリがたくさん見られる

三宝港へは青宝トンネルというこの小さな島にはまったくもって似つかわしくない長大なトンネルを抜けていく。かつては三宝港に向かう道は山肌につけられていたが、地震により斜面が崩落してしまった。このトンネルは村の生命線である三宝港への安定したアプローチのために必須であったわけである。

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青宝トンネルへの道

青宝トンネルを抜けると、すでにあおがしま丸が接岸しており、タラップが降りて乗客の乗降が始まっていた。昨日は聖火リレーをこの島でやったそうで、その関係者と思しき人々があおがしま丸に列をなして乗り込んでいく。程なくして貨物が降ろされ始める。これが青ヶ島の生命線である。見上げてみると、三宝港の斜面はコンクリートによって数百メートルの高さまでガチガチに固められている。崖に囲まれ、崩落の絶えないこの青ヶ島で、島の生命線をなんとしても守り抜くという鉄の意志(コンクリートだが…)を感じる。まるで要塞のようだ。貨物の上げ下ろしの様子はなかなか興味深く、場所を変えつつ30分ほど眺めていた。

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あおがしま丸が接岸していた。港の斜面は数百メートルにわたってガチガチに固められている
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激しく波が打ち寄せる三宝港。漁船は釣り上げられ、崖上に収納される

飽きもせず港を眺めたのちに登り坂をひたすら歩いて、ひんぎゃの方に戻る。雲が晴れると日差しが強く体力を消耗する。ひんぎゃに着くと、先客が調理をしていた。干物の匂いが強烈だ、これがくさやという奴だろうか。どうもこの匂いはあまり好きになれない。ジャガイモとサツマイモ、そして干物とソーセージを投入。この金属の網にもなんだかカビみたいなのが付いてるが大丈夫なのだろうか?30分ほど待つが、サツマイモはまだジャリジャリだったので他のものを食べながらさらに20分ほど待ち、ようやく完成。何故か箸がついておらず食べるのに苦労するが、芋に齧り付くのは素朴な感覚だ。

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ひんぎゃ近くの東屋。すでに先客は撤収している

干物に差し掛かると、魚臭いにおいを嗅ぎつけて二匹の猫がやってくる。どうやらおこぼれを虎視眈々と狙っているようだ。放っておくと椅子を駆け上がって干物にかじりつこうとするのでしっかり追い払ったが、それでも遠巻きにこちらを狙っているのは見え見えである。鳴き声をあげれば餌をもらえるとでも思っているのか?甘いな。甘すぎる。

既にかなり汗をかいていたし、食事で手が汚れて耐え難いので、ふれあいサウナに入ることに。入り口に300円置いてタオルを受け取り、中に入る。サウナは地下にあるが、この時点で既に地熱で床が暑い。サウナに至ってはあまりにも暑くてかなり厳しいものがあった。1分ほど入ってからシャワーを浴びるが、地熱でシャワーの水がお湯になっていて、なんの足しにもならない。体を拭いて冷房の効いた休憩室に入ると、ようやく生きた心地がした。

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ふれあいサウナ。休憩室以外は熱地獄だ

サウナを出たのち、御富士様のお鉢巡りをすることに。眺望ポイントを除けば景色は良くない。蚊が沢山いて、案の定被害に遭った。

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御富士様からの眺望

本日の行動はここまで。お鉢巡りののちに宿に戻る。サツマイモやトマト、きゅうりなどの畑があり、農作業に勤しまれる島民の方がたくさんいた。冬も暖かいこのカルデラ内は農作業に格好の場所というわけだ。集落に戻る坂道はかなりこたえる。宿に戻って冷房の効いた部屋で休憩。まさに文明の利器だ。

夕食は地元産の刺身やあしたばをふんだんに取り入れた料理で大変おいしい。

宿の女将さんには、以前から気になっていた大千代港(翌日の記事で詳しく書きます。)について訊いてみた。

「もう随分前の話だよ。ある朝大千代港に車で向かった郵便局の職員が、崩落に気づかずに転落して亡くなってしまったんですよ。音がすれば島民も気づいていたんだろうけど、なんの音もせずに夜が明けたら地滑りが起きてた。」

「もともと一島二港という政策を東京都が推し進めてたわけだけど、あまりにも地滑りがひどかったものだからどうしようもなくて、今は誰も使ってないよ。昔は貝を取りに行くためにそのあたりで船を下ろしてもらってたけど、今ではめっきり行かなくなったね。」

とのことである。大千代港については明日、立ち入れる範囲内で様子を見に行ってみようと思う。なお、この島は地滑りが絶えないが、同じように断崖絶壁に囲まれた御蔵島では地滑りの話をほとんど聞かない。その理由は地質学的な部分にあるのではないか…と思い民宿の庭先に出てみたところ、そこに答えがあった。下の写真を見て欲しい。茶色いところは溶岩の層。墨色のところはスコリア(玄武岩でできた火山砕屑物)からできている。スコリアは非常に接着性が低く脆い。手で触るとボロボロ崩れ、既に上の層と下の層に比べると大きく凹んでいる。

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茶色いのが溶岩、墨色の部分がスコリア。手で触るとスコリアがボロボロ崩れた

つまりこの島の地層は柔らかく脆いスコリアの層を外側から溶岩で固めたものが積み重なっている。スコリアの部分は脆いから、いくら溶岩が硬くても海食や人の手による破壊によりスコリアが露出すると、その切れ込みをきっかけにしてまるでバウムクーヘンの層を剥がすように上の溶岩ごとズルリと剥けてしまうということのように思われる。こんな脆い大地の上で、青ヶ島の島民は生活を営んでいらっしゃるわけだ。まさに崩れゆく大地との戦いである。

夜は星空を見に外にでてみたが、霧に覆われており星など見えるはずもない。町あかりが霧に反射してこれはこれで幻想的かもしれない。

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明日は島の外側から三宝港へ向かう道路、そして無理のない限りで大千代港への散策を行う。かねてより興味のあったところだ。歩き疲れたのでこの日はぐっすり寝た。

 

 

 

 

 

 

八丈島・青ヶ島(1)竹芝出発、八丈島観光

〇〇〇〇/7/15

22:30 竹芝桟橋出発

〇〇〇〇/7/16

6:00頃 御蔵島通過

8:50 八丈島底土港

レンタバイクを借りて八丈島観光

あしたば荘泊

 

※本記事の内容は架空のものであり、実際に起きたこととは一切関係ありません。

 

出発の日である。

浜松町から竹芝桟橋に向かう道は、4年前は古い建物が散在していてやや場末感があったものの、今ではずいぶん立派な建物となり、ソフトバンクやら何やら日本の有名IT企業が入居している。たった4年でここまで変わるのかと思うと色々感慨深いものがある。この間自分は何か成せたことといえば、三歩進んで二歩下がる状態である。

竹芝桟橋最寄りのコンビニは大変広い。品揃えも豊富…のはずだが夜遅いこともあり、商品は売り切れが多い気がする。パンと飲み物、そして幾らかのお菓子を買って桟橋、都会の真ん中にある異郷への扉へ。

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この日は八丈島方面に向かう橘丸のほか、伊豆大島へ向かうさるびあ丸も出発するようで、コロナ禍だからさぞ客も少ないだろうと思っていたが全くそんなことはなく賑わっている。受付で予約した切符を発券してもらい、船を待つ。釣りに行く人、マリンスポーツ好きと思われる色黒の兄貴、初々しいカップル… 皆さま楽しそうだ。

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時間があるので桟橋の建物の上の階へ。皆がベンチに座って橘丸の黄色と緑の船体を眺めている。彼らもこの船に乗っていくのだろう。良い旅を。

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ここ1年ほどメディアはコロナの話題で持ちきりであり、毎日のように何の意味があるかもわからない感染者数の報告を継続している。もはや人々は自粛が我慢の限界であることは明白であるのに、「専門家」は毎日のように第何波だの山場だの聞き飽きたセリフをオオカミ少年の如く連発し、日本政府は「専門家」のいうことを鵜呑みにするばかりで、対応は遅く場当たり的で全く現実が見えていない。

イギリスは毎日数万人も感染者がいるがコロナとの共存を目指し、ジョンソン首相は他の感染症と違った扱いはもうしないという。これが一番現実的な考えの様に思われるがどうだろう。メディアも恐怖を煽りすぎな感じがある。医療関係者の皆様はコロナの危険性についてSNSやメディアを通じてご高説を垂れているが、残念ながら彼らの常で、医療という側面は世界の一側面にすぎないということを見落としている。コロナで命を落とさなかったとしても、お金がなくなって生きるのが苦しかったり、生き甲斐を奪われて生きる屍の様になったりしても誰も責任を取らないことは明白で、もう好きなことをやって自分の健康を維持した方が良いだろうという考えに至るのは当然のことである。そもそもこのコロナ禍における緊急事態宣言で、通い詰め親しんだ飲食店が一つまた一つと店を畳んでいく様子を目にしてきた我々にとっては全ての行為が「必要かつ急」であることが明らかとなってしまった以上、不要不急などというおまじないはもう決して通用することはない。苦しい時や疲れた時は趣味で気分をリフレッシュすることが要かつ急である。

 

さて、出航20分前になった。夜になってあかりの消えたお土産店の横にある桟橋への出口への待機列に。今回も4年前と同様、特一等を予約した。前回より心なしか値段が上がっている気がするが、細かいことはどうでも良い。タラップを上り船内へ。

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特一等室のカードキーを受け取る。部屋は広く清潔で、四人分のベッド、机と椅子、トイレとシャワールームがある。受付の際に相部屋となる可能性を指摘されたが、幸い部屋は私一人で、のんびりと寛ぐことができそうだゼ。荷物を整理していると、程なく出航である。名物の東京湾夜景を見に、甲板へ向かう。すでに先客がたくさんいて、夜景を楽しんでいた。夜の東京湾を吹き抜ける空気が爽やかで、かつてと同じように、これからの旅に心が躍る。

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かつてはやらなかった船内の施設めぐりをしてみることに。

特一等のある部屋は第5甲板にある。さらに等級が上の特等席は、第6甲板。逆に特二等や二等客室は第4甲板やそれより下である。一番下の二等は雑魚寝部屋になっているが窓がなく、人は一人もいなかった。

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左:船内の案内図 右:第2甲板の二等船室は誰もいなかった


そうこうしているともう11時半ごろになったので、就寝。御蔵島到着が6時頃なので、目覚ましをその少し前の時間に合わせておいた。以前船に乗った際は気づかずに損をしたのだが、ベッドについている照明の下にコンセントがあり、これで携帯の充電ができる。

***

目覚ましで起きると、すでに外は薄明るい。三宅島に到着した頃で、島のなだらかな稜線が見える。三宅島と御蔵島の間はあまり距離がなく、数十分で到着。せっかく起きたので、甲板で御蔵島を眺めることにした。

三宅島も御蔵島も火山であるが、三宅島は比較的新しい火山で近年も活発な火山活動が見られるのに対し、御蔵島は数千年前に活動を停止した古い火山で、島の周囲は数百メートルの断崖絶壁に囲まれている。御蔵島の特徴的なシルエットには自然の厳しさを感じさせるすごみがあり、その姿は独特で、何度見ても飽きない。特に断崖を流れ落ちる滝は見事なものだ。

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御蔵島港へ到着する。御蔵島は島の海岸線と垂直に突堤が作られており、集落へ向かう道は島の斜面が削り取られて作られている。沢をコンクリートで固めた滝のような構造物も印象的だ。集落は一段高い海食崖の上に形成されている。朝日に照らされる集落が美しい。

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御蔵島周囲の海は黒々としており、島の周囲の海の深さが窺われる。降りる人はイルカウォッチングを楽しむ人だろうか、心なしかスポーティな女性が多い気がする。しばらくして御蔵島を離れるあたりで自分も船室に戻り、八丈島が見えてくるまで二度寝することにした。

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8時ごろ再び起床。

甲板に出ると、右手の海上にぼんやり浮かぶ3つの山が見える。これが八丈島八丈小島である。

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空が曇っており、海の色もその影響でややくすんでいる。波はこの海域としては穏やかで、船の揺れもあまりない。かつておがさわら丸に乗った時のような激しい揺れを期待して、酔い止めまで持ってきたのに拍子抜けである。青く霞んで見えた八丈島のシルエットも次第にはっきりして緑色を帯びてきて、程なく底土港に到着である。特一等室のカードキーは記念ということでいただいた。

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底土港近くの駐車場では大学生のサークルと思われる若者がたむろしており、何かを待っているようだ。私も大学生になったばかりの頃は何でもできるような気がしていたけど、今考えてみれば所詮はただの世間知らずのクソガキだったなあなどと思わざるを得ない。彼らもまだ若いしこれからだろう。しかしサークルとは羨ましい。私の入った学部は他の学部と隔離されており、「〇学部における上意下達」を身につけるためにほとんど体育会系の部活しかなかったのでサークルに入って楽しく大学生活などという選択肢は最初からなかった。ぜひ頭がアホになるくらい遊び呆けて、大学生活を満喫してほしいもんだね、彼らには。私はあらかじめレンタバイクを予約していたモービルレンタカーに電話をして、港まで迎えにきてもらう。黄色いハイエースだ。

モービルレンタカーはガソリンスタンドと直結している。レンタバイクの旨を伝えると、建物裏の倉庫に行って自分で好きなバイクを選んで持ってくるように言われた。青、銀、黒、ピンク、オレンジ。当然のごとく太陽のように明るく楽しそうなオレンジカラーで決まりである。昔は紫色以外の色はあまり受け付けなかったが、今は黄色以外に特に苦手は色はない。黄色だって使い所が正しければ綺麗に決まる。例えば橘丸の黄色と緑のカラー、一見すると激しくセンスが悪く感じるものの、八丈島近海の鮮やかな青い海にはこの黄色がよく映える。結局色というのは使い所なのだよワトソン君。

 

さて、レンタバイクを借りたので、八丈島周回の計画を考えてみる。まずは右側から八丈富士を一周。大賀郷に戻り昼食。そして昇竜峠を越えて、末吉を経由して中之郷にある民宿、あしたば荘へ向かう。それが良さそうだ。

今回は八丈島随一の寿司処である銀八と、4年前に来た際に気に入ったカフェである空間舎に目星をつけたものの、残念ながら前者はコロナ禍休業中で電話が繋がらず、後者はおそらく以前訪れた時にお話をしてくださった店主のおばさんが電話に出てくださったものの、「例年だったら夏は金曜も営業するんですが、今年の夏休みはコロナということもあるから無理しないで行こうと思ってるんです」とおっしゃっていた。うーんそうか。別の店を探さねばな。そういうわけで、お昼は島の南側の樫立集落にある「いそざきえん」が営業することを確認し、そちらに向かうことにした。

まずは八丈富士の周回である。この道は左手に海を間近に望み、右手にはシダ植物などの緑が鮮やかで、開放的な素晴らしい道のりである。湿度が高い八丈島の空気は緑の香りが濃く、鶯の鳴き声が心地よい。八丈富士の右半分を回り込むと、八丈小島の均整の取れた山体が見えてくる。

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八丈小島は1万年程度前までに活動を停止したという比較的古い火山であるそうだが、八丈島との間には海流があり便は悪く、その地質学的研究はあまり進んでいないらしい。かつては八丈小島にも人が住んでいた。そこではマレー糸状虫症が蔓延しており、住民はこの風土病に大いに苦しめられていたという。近代になってこれは駆逐されることになるが、この狭い島では水も食料も十分に取ることはできない、そして十分な教育も子孫に与えることができないと考えた住民は集団離島したそうである。1969年のことであったそうだ。あんな小さな島にも様々な歴史があるということである。

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大賀郷に向かう道の右手には「南原千畳敷(現地案内図には千畳岩と書いてある)」はかつて八丈富士の噴火の際、溶岩が海に流れ込んだ地形である。黒い玄武岩の表面には流紋が見られ、かつての噴火の様子を想像できるダイナミックな地形になっている。

f:id:le_muguet:20210722103215j:plainこのあたりには空間舎の案内板がある。かつてレンタサイクルを借りて島を半周した際には空間舎にお世話になったものだが、懐かしい。昔お世話になった時の写真を載せておきましょうかね。あしたばチーズケーキとカフェオレが絶品だったな。

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四年前に空間舎を訪れた時のもの。素敵な空間でした

大賀郷から樫立に向かう道には「大里の玉石垣」という八丈島の名物的景観があるが、どうせまた後で末吉方面に向かう際に戻ってくるので、まずはお昼にありつくことを優先することにした。長い坂を越えトンネルを抜けると、樫立の集落に至る。坂の途中で振り返ると、八丈富士と八丈小島が綺麗に見える。残念ながら曇っているので、あまり綺麗な写真がこの時は撮れなかった。

いそざきえんは古民家風の食事処で、伝統的な島料理を提供している。お店の前の広場には大きなガジュマルの木があり、その木のそばには「燃料にも使えないし建築資材としては劣っているし云々だが、台風の風除けとしては役に立つ」などといううんちくが書かれている看板がある。

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左:古民家風のレストラン、いそざきえん 右:庭先にある大きなガジュマル

建物は古く味わいがあり、客は畳の上でご座の上に座り食事をすることになる。一番安いコース料理である黒潮料理を注文することにした。お値段1680円。料理はあしたばや麦といった伝統的な食材をふんだんに使用しており、独特の味わいだ。私は好き。というか最近好き嫌いがあまりなくなってしまったので、余程のゲテモノでもない限り嫌いとは感じなくなった。尤も納豆とくさやは無理であるが…

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左:黒潮料理とパッションフルーツジュースを注文 右:趣のあるいそざきえん店内の廊下

 いそざきえんからは元来た道を戻り、大里の玉石垣集落。かつて訪れた時はこの観光の目玉をスルーしてしまったので、今回はじっくり観察してみることにする。大里は江戸時代から八丈島の政治の中心で、海岸から罪人に玉石垣に最適な丸い石を拾って来させて作ったものだという。よくもこれほど大きさの揃った石を大量に…と感心する。インカの石垣とまではいかないかもしれないが、なかなかのものである。

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玉石垣の町並み。これが集落全体に広がっていて、壮観

 

大里からは三根にある定番のお土産屋、民芸あきへ。

黄八丈から食料品まで、お土産ならなんでも揃う。今回は以前買おうと思ったが高価すぎて買えなかった、黄八丈の巾着袋を買うことにした。これだけで小さいものでも6000円程度する。覚悟がなければこの小さい袋にそこまでのお金は出せないだろう。でもなんとも言えない黄金色の光沢のある生地、細かな紋様、見れば見るほど味わい深い織物で、その値段を出す価値は十分あると思う。かつては年貢として幕府に納めていたそうだから、その美しさは折り紙付きである。最近は後継者不足もあって値段が高騰しているそうだが、高価な巾着袋を複数個買うことにしたのは、黄八丈の未来に少しだけでも貢献したいという思いもあった。

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民芸あき。こちらでは巾着袋をいくつか購入。美しい風合い

 民芸あきからは、末吉集落に向かう九十九折の道を行く。原付の馬力がかなり低くスピードが出ない。法面には大きな葉を持つシダが生き生きと生い茂っており素晴らしいワインディングロードだ。降水量が多く気温も暖かな八丈島は、植物の生育にとっては絶好の環境なのだろう。昇龍峠からは八丈富士が美しく眺められる。天気も次第に晴れてきた。

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昇龍峠からの素晴らしい展望
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遠くに末吉の集落が見える。所々に大きなシダが茂る、素晴らしい道

さっきから素晴らしいばかり言っているが、本当に素晴らしい。この緑の生き生きとした感じ、植物のエネルギーのようなものは本土ではなかなか感じることができないもの。以前もこんな感動を味わっていたのだろうか。

ここ数年は都会歩きに楽しさを見出すことに慣れさせられていた感もあったが、そんなものでは本当は本質的な感動は味わえないんだろう。きっとどこか心の奥底で不満足が蓄積していたに違いない。自然が圧倒的に強く、その中で人々がつつましく伝統を受け継ぎながら暮らしているこの地では、その大きさを間近に感じることができる。そして火山島特有の地形の峻険さ、ダイナミックさ。素晴らしいねえ。

小さな末吉集落を通り過ぎて、民宿のある中之郷へ。途中には奈古の展望台があり、素晴らしい海が望める。この辺りは海食崖が発達している。島の南側を形成する三原山は3000年ほど前で活動を停止したいわゆる死火山であり、新しい火山である八丈富士と比べると侵食が進んでいる。特にこの洞輪沢付近は洞輪沢火山という三原山よりさらに年代の古い火山の残骸が残っているらしく、高度に発達した海食崖を見ることができる。

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奈古の展望台より

中之郷は三原山の南斜面に発達した、雰囲気の良い集落。

町は古い石垣で区画されており、時折玉石垣を見ることができる。オオタニワタリが所々に着生していて、この地の温暖さを物語っているようだ。本日の宿、あしたば荘は玉石垣の上にある鄙びた民宿で、こちらに荷物を置いて散歩に向かう。集落を吹き抜ける風が心地よい。地図を見ると中之郷古民家喫茶なるものがある。時間もちょうど良いのでお邪魔してみることにした。よく手入れされた庭の中に、年季の入った高床式の建物がある。蚊取り線香の香りが懐かしさをそそる。建物の梁は黒みがかっており、調度品も歴史を感じる。この建物の古さを物語っているようだ。

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古民家喫茶、中之郷

店主のおばさん(お姉さん?)に話を伺ってみる。建物の年季とは裏腹に大変気さくな方だ。祖母が維持管理していたこの建物をカフェとしてオープンしたのだという。江戸時代末期の建物で築160年ほど(!)これには驚いた。こんなに湿度が高く雨の多い地域なので、維持管理にはかなり手間がかかっているはずだ。緑鮮やかな苔に覆われた庭、自然な間隔で植えられた地元の植物、全てに美意識が感じられて素晴らしい空間になっている。歴史を重みという息苦しい感覚ではなく、美しさとして肌で感じられることが素敵だなあと思う。抹茶セットとあしたばシナモンロールを注文することにした。いずれもとても美味しい。

なんて贅沢な時間だろう。
 

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ゆっくり寛いだ後、向かったのは裏見ヶ滝温泉。野趣満点の温泉で、観光名所になっている。混浴なので水着で入ることになる。お湯はちょうど良い温度で、少し白く濁っている。沢の音を聞きながら入る温泉、これもまた贅沢なものだ。混浴ということで海が好きそうな女性も水着姿で来ていた。

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裏見ヶ滝温泉

この温泉の裏手には裏見ヶ滝という滝があるが、訪れた時間帯の問題もあってあまり綺麗な写真が撮れなかった。残念。近くの橋からはヘゴ(木生シダ)の群生を見ることができる。八丈島はヘゴ分布の北限とされているそうだ。

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沢筋に群生するヘゴ。真ん中に生える幹の白い木がちょっと芸術的な造形

藍ヶ江の集落を通って宿に戻る。青く鮮やかな海が間近だ。急斜面に張り付くような集落の光景が素晴らしい。

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藍ヶ江漁港と、藍ヶ江の集落

本日の夕食は島寿司。宿泊料金7500円とは思えない、ぜいたくな夕食だ。味もとてもおいしい。冷房は100円入れないと使えないし、建物もなんだか古びていてタオルも付いていないが、この食事の素晴らしさはそれを補ってあまりあるもの。おいしい食事に満足して寝ることにした。

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素敵な夕食

明日はいよいよ青ヶ島。この旅の目玉である。四年前の忘れ物は回収できるだろうか?楽しみだ。

 

 

 

le cri

今回の表題は文字通りの叫びである。

と言ってもかの有名なムンクの叫びではない。もっと一般的なことである。いや、そういう意味ではムンクの叫びも関係があるのかもしれないが。

 

高校時代くらいに他人のブログを指を咥えてみていた頃、こう言っては申し訳ないが彼らは何がしたいのかと思っていた。自分の行い、考えたこと、それらを記録したいのだろうか?それとも自分の活動を人に見せびらかしたいのか。人に見せるという行為を伴っている以上、当時の自分にはそれらは多かれ少なかれ自己顕示的な成分が含まれているように思われた。まあ昔の話なので、少しムッときた読者もどうかお許しいただきたい。

 

ところが歳を取ると(と言っても所詮はアラサーの若造ではあるが)物事の見方も立場も変わってくるもので、私もすでにブログを書く側の人間である。いったい誰が尋ね当たるのかというほど他のブログとの関連性も希薄であるが、それでもやっぱりこのようにブツブツと思ったことを書いている。何が自分をそうさせるのか。考えていると思い当たることがあった。それが表題の「叫び」である。

 

人間は元来孤独である。自分くらいの年齢ではちょうど結婚ラッシュで、私のような独り身を嘲笑うかのように日々幸せそうな結婚の報告を見るが(自分の蒔いた種という謗りは甘んじて受ける)、どれほど友人の数を自慢しても、満足できるパートナーを他人に顕示しても人間は孤独である。自分と全く同じ人間は存在せず、心から通じ合っている仲間などというのは実のところほんの一握りで、そういう人にしても友人を場面によって使い分けているのが実情だろう。そう考えた時ようやく理解した。だから叫ぶのだと。それはこの世界のどこかにいるはずの自分のよき理解者を、そして共感を求める叫びである。そして自身を理解してもらうことのできなかった相手への理解を求める叫びである。他人のいいねの数を誇るとか、閲覧数を稼いで云々とかそういうよりもっと奥底にある衝動なんだと思う。いや、根っこのところは同じという考えもあるかもしれないが、本当に同じであったならば、たとえば負け犬は遠吠えをしたりするだろうか?

 

このブログも結局のところそういう目的で設立した。私がこのブログを設立したのはただ過去の記録を残すためだけではない。それは届いてほしい声があり、伝えたい内容があり、よき共感者を求めているからだ。残念ながらこれくらいの年齢になると、そういう声というのは本当に届かせるべき人には届かないことも、朧げながら理解している。このブログでたまに書き綴る雑感にしても、自分の記事を読んでくださる人のほとんどはすでにある程度自分のことを「理解してくれている」人だろう。そうでない人にはどれほど自分の主張の正当性、とまではいかなくてもこういう考え方があることをせめて認めてほしい、と訴えても決して届かない。過去を振り返ってもそうだったし、それはきっとこれからも同じだろう。最も声を届かせたい人には決して到達しない叫び。それでもブログというものを通して私は叫ぶ。そうせずにはいられないからだ。

 

ブログだけではない。芸術も文学もきっとそうだろう。誰かが自身の最大の理解者になってくれるかもしれない。それは今すぐかもしれないし、1000年経ってからかもしれない。それでもその一人のために、彼らは叫んでいるのだろう。そう思うと、世の中に溢れる叫びというのが、正しい形で報われることを祈りたい気持ちになった。

 

ウズベキスタン(2) ヒヴァ

2019/10/31

7:25 タシケント空港 HY051便

8:55 ウルゲンチ空港 ヒヴァへ

終日ヒヴァ観光

オリエント・スターホテル泊

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本日は朝早くヒヴァに移動し、1日中ヒヴァを観光する日程。宿泊はヒヴァ・ハン国時代の建築をリノベーションしたホテル、オリエント・スターに宿泊する。

朝6時半ごろに送迎車でホテルに来てもらい、タシケント空港に向かう。少し肌寒く、外はまだ暗い。空港の敷地に入る際に簡単なセキュリティーチェックを受ける。がらんとした空港国内線の待合室でしばし待機。荷物検査の際にハイアットリージェンシーからもらってきたガラス瓶入りの水をリュックに入れていたのだが、検査員の人は「これくらいならいいだろ」的な雰囲気で持ち込みを許可された。平和な国だ。

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左:早朝のタシケント空港 右:待合室の様子

離陸すると、次第に景色が砂漠化していく。キジル・クム砂漠である。赤茶けた砂がさざ波のような地形を作っているのが見える。アムダリア川の流れが大地を潤しているのがよく見えるようになると、ほどなくウルゲンチに到着である。空港施設の規模はかなり小さく、それこそ日本の大東島空港のような趣である。

とても寒い。砂漠というのは朝晩は冷え込むくせに昼はかなり気温が上がる。乾燥しているので肌もガサガサになる。体調管理にはかなり気を使わなければいけない。空港のトイレはかなり汚れていて思わず顔をしかめてしまった。

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左:アムダリヤ川の流れ 右:ウルゲンチ空港に到着。風が強く、寒い

ヒヴァ市街まではトラムが敷かれているが、今回は空港からホテルまでの嬉しい送迎付きということなので、ドライバーにヒヴァの市街に連れて行ってもらう。ありがたや。車窓からは綿花の畑が広がっているのが見える。ウズベキスタンの特にこのホラズム地方は綿花の一大産地であり、国旗にも綿花があしらわれている。旧ソ連時代にアムダリヤ川の灌漑によりこの地域には大規模な綿花畑がつくられたが、その結果アムダリヤ川流入先であるアラル海は干上がり、今やほとんどなくなってしまったというのは有名な橋である。スターリンはこの大規模な灌漑計画を「自然改造」といってむしろ肯定的にとらえていたそうな。渋い話である。

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車窓からは一面に広がる綿花畑が見える

ヒヴァのイチャン・カラまではそれほど時間はかからなかった。車を降り、内城の中にあるホテルへまずは荷物を置きに行くことにする。内城の中はまるで別世界。中世のイスラム都市に紛れ込んだかのようだ。ホテルは城門の入口近くにあり、ヒヴァ・ハン国時代のムハンマド・アミン・ハン・マドラサを改装したもの。近くには有名な未完成のミナレット、カルタ・ミノルがあり、ヒヴァのシンボルになっている。なお、この城門の中に入るのにはチケットが必要。イスラーム・ホジャ・ミナレットに登ることのできるスペシャルチケットと、スタンダードチケットがある。当然のごとくスペシャルチケットを購入。高いところが好きなのである。馬鹿だけに。

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左:イチャン・カラの城門 右:城門をくぐると、そこは別世界
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左:オリエント・スターホテル内部 右:客室の様子。狭いが、それがいい

かつてのヒヴァ・ハン国の中心ヒヴァには、イチャン・カラとディシャン・カラという二重の城壁に囲まれた都市であったそうである。ディシャン・カラはすでになくなってしまったようだが、このイチャン・カラは非常に美しい状態で保存されている。かつての王宮や廟、マドラサやモスクなどが高い密度で配置されており、町全体が世界遺産。なかなか見事な様子である。文章で伝えるよりも写真のほうがよいだろうから、以下は写真を中心に街の様子を紹介していく。

チケットはパフラヴァン・マフムド廟を除いて全館共通になっている。まずはクフナアルクからお邪魔することに。

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クフナ・アルクにて。左:音楽にあわせて踊る地元の方 右:高い柱とテラス天井

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細密に描かれたアラベスク模様。微妙にゆがみがあって手作り感がある

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こちらは王の間。絢爛な装飾

このクフナアルクには展望台のような施設があるが、最初に訪れたときはその存在に気付かずスルーしてしまった。後ほど再訪したので、写真はそちらを参照。メインストリートから外れると舗装の荒い道路に至る。おそらくこれが昔の舗装のままなのだろう。民家があり、住民の日常生活を垣間見ることができる。遠くにはミナレットが美しい。

タシュハウリ宮殿に向かう。こちらはヒヴァでもっとも絢爛な装飾を誇るそうだ。二つのゾーンに分かれており、入口が異なっている。南側のエリアは儀式が行われた場所だそうだが、ユルタが設置されている。ユルタというのはモンゴル語でゲル。移動式の住居である。北側のエリアは広く、4人の正妻のための寝室がある。それぞれの寝室前の天井装飾は4つの部屋それぞれで異なっており興味深い。

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ユルタの設置された広場

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こちらは正妻の寝室があるエリア。がらんとしている
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寝室前の天井装飾がみごと。4つの部屋ごとに装飾は異なる

イランの宮殿のような華美さ、絢爛さはないものの、質実剛健さ、素朴さ、力強さが感じられる装飾はもとは遊牧民であったウズベク人の気質に由来するものだろうか。装飾もそこはかとなくシノワズリな風味があり、やはりここはシルクロードを通して中国の影響が少なからずあったのだろうと思われる。

次はメインストリートに戻り、ジュマモスクに向かう。高いがやや質素なミナレット、そしてなんといってもたくさんの柱が立ち並ぶ光景が印象的だ。柱のうち何本かは、10-11世紀のものだという。

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左:ジュマモスクのミナレット 右:柱の間

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古い木の質感が落ち着いた雰囲気を醸し出している

少し歩き疲れてきたのでお昼休憩。地球の歩き方には何個かレストランが載っているが、ホテルのフロントの方おすすめのレストラン、「ミルザボシ」に向かう。格子状の窓でおおわれた開放的な雰囲気が印象的のレストランで、緑色の麺が特徴的な「シュヴィト・オシュ」を注文した。麺の上に挽肉やイモがのっており、ヨーグルト(!)をつけていただく。ヨーグルトは日本で食べるもののような甘みがなく、酸味が印象的だった。あまり日本では食べない味だがそりゃそうか。これはこれで面白い。

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左:レストラン・ミルザボシ 右:シュヴィト・オシュ。緑色の麺

 レストランをあとにして、レストラン奥の通りを南に進んでいく。スザニセンターといって地元の名産スザニを売っているところや、ホラズミの家博物館と称する古い建築が並んでいる。

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ホラズミの家博物館?簾越しにパフラヴァン・マフムド廟のドームが見える

左に折れると正面にイスラーム・ホジャ・ミナレットが美しくそびえている。通りの右側には大きなマドラサ、左側にはお目当てのパフラヴァン・マフムド廟が見える。

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イスラーム・ホジャ・ミナレット

パフラヴァン・マフムド廟は先述の通りヒヴァの共通入場券とは別のチケットが必要となる。6000スムと記憶している。廟内ではクルアーンを美しく読み上げる係員がおり、東南アジアから訪れたと思われる女性たちが祈りをささげていた。内装は繊細なタイルアートが非常に美しく必見である。

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左:大ドーム天井の装飾 右:右手に続く部屋にも棺が置かれている

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繊細で美しいタイルアート

次はさきほど正面に見えていたイスラーム・ホジャ・ミナレットに登ることにする。イスラーム・ホジャはヒヴァ最後のハンに仕えた大臣で、非常に進歩的な人でロシアを訪れて得た知識を生かして近代化を進めたという。しかしながら人気が出たためハンの怒りを買い、生き埋めにされたそうだ。その後ヒヴァ・ハン国はロシアに併合されることになる。出る杭は打たれるというが、悲しい話である。

ミナレットに登る入口付近からタイルアートを間近に見ることができるが、よくみると手作り感にあふれていることがわかる。近くで見ると丁寧どころか雑にすら感じるものだが、それが何枚も並べられることで統一感のある美しいパターンを生み出している。イランのモスクであればこれらの模様はおそらくすべてモザイクで表現されるだろう。やはり繊細というよりは(十分繊細ではあるのだが)力強さが感じられる建築美術である。

らせん状の階段を登っていく。ミナレットは基本的に石造りだが、天井は木の梁によって支えられている。木が朽ちたらいったいどうなってしまうのだろう。ミナレットの頂からは、ヒヴァの町並みが一望のもとに見渡せる。美しい緑色のドームがパフラヴァン・マフムド廟。土色の町並みが美しい。

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左:よく見ると手作り感あふれるタイルアート 右:ミナレット頂上

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ヒヴァの町並み

歩いているとイスラーム・ホジャ・マドラサの近くでスザニを売っているおばさんの熱烈なセールスを受けた。80ドルにするから買って!という。商人はイランよりも熱心なイメージがある。このおばさんのスザニは結局買わなかったけど、結論から言えばヒヴァのお土産品はブハラのそれと比較すると品質は2/3、値段は1/2程度。スザニに限ってはブハラと同程度の品質のものが半分以下の値段で買えるので、おみやげはヒヴァかブハラで買うのがおすすめ。サマルカンドはお土産品の品質はあまり高くないし、種類も少ない。

一通り内城の観光名所はめぐったので、今度はいったん内城を出て、ヌルラボイ宮殿を見ることに。こちらの宮殿も内城とは別の入場料を支払う。20世紀初めに商人の寄進により建てられたとのことだ。

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左:内城の外観 右:ヌルラボイ宮殿

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宮殿の内装は豪華絢爛で、やや西欧的

ホテルに戻ってしばし休むことにする。

イチャン・カラでは地元アーティストの陽気な音楽が流れている。アコーディオンのような音色の楽器を使った味わいのあるメロディが印象的だ。音楽を流している露店の青年にアーティストの名前を聞いてみた。Dilmurod Sultonovというらしい。興味がある方はぜひ聴いてみてください。

夕暮れ時の景色が見事とガイドブックにあった、クフナ・アルクにもう一度向かうことにする。入口はわかりにくいが、右手奥に屋上に向かう階段がある。登りきると内城の美しい景色を、先ほどのイスラーム・ホジャ・マドラサと違う角度から眺めることができる。

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クフナ・アルクからの夕暮れの景色

夕食はファルーフという、ジュマモスクの近くにあるチャイハナで摂ることにした。夜が近いので人はまばらだが、作り立てのプロフを味わって食べる。プロフというのはいわゆるピラフで、ウズベキスタンソウルフードである。

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プロフ

 日が暮れたのちも少し散歩をしてみることにした。カルタ・ミノルをはじめ多くの施設がライトアップされており、夜の景色も大変美しい。

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ライトアップされるカルタ・ミノル

明日は送迎車でブハラに移動する。6時間ほど車に乗り続けるという過酷な日程である。ヒヴァは大変美しい町なので、もう一日滞在してもよかったかもしれないと思った。

 

ウズベキスタン(1) 青・白・緑

2019/10/30

12:30 成田 OZ101便

15:10 仁川空港 

17:10 OZ573便

20:20 タシケント

Hyatt Regency Tashkent泊

 

出発の日である。本日はアシアナ航空にてまずはソウルに向かい、そこでタシケント 行きの飛行機に乗り継ぐ。本来は直接ウルゲンチに向かいたいところだが、ウズベキスタンの国内線は国際線との接続が極めて悪いため、タシケントでそのまま投宿する日程になってしまった。ウズベキスタンは歴史的経緯により日本より韓国とのつながりが深いそうで、大韓航空アシアナ航空といった韓国の航空会社が隔日でタシケントへの直行便を出している。

 

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左:成田空港第一ターミナル 右:これを見るといつもワクワクする

さて、一人の海外旅行というのは思った以上に心細い。成田空港第一ターミナルに来るのは初めてだし、そもそも国際線に一人で乗るなどという体験は初めてだ。Iphoneのウォレットに国際便のチケットが入っているはずなのだが、どうも落ち着かずに自動発券機の近くにいる案内員にこのチケットだけで問題ないのかを訊いてしまう。手荷物はちゃんと預けられるか。預けた手荷物はちゃんと目的地で回収できるか。そういう細かいことを考えてしまう。複数人数であれば他人に荷物を見てもらいながらトイレやお店などに行くことができるが、それはすべて自分一人で管理しなければならない。日本国内ならばまだしも、基本的に治安が日本ほどよくない※(とされている)海外ではスリの危険もあるので気が気でない。しかしまあ、自分でそれを選択したのだから慣れるしかない。

アシアナ航空の飛行機に乗り込む。飛行機の窓からはアシアナ航空の象徴である黄色と紺色、臙脂色の模様がよく見える。飛行機お決まりの景色ではあるが、青空と雲が美しい。何度見ても飽きない景色である。我々の暮らす雲の下では雨が降ったり嵐が吹き荒れたりしても、雲の上は必ず晴れている…そう考えればもう少し人生踏ん張れるという感じがしてよく空を見上げるのがお決まりである。まあ韓国は日本と距離的に隔たりもないので、ほどなくソウルの仁川空港に到着した。

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左:雲が美しい 右:仁川空港周辺の風景

 ソウルの空港ではなんと日本語の案内も流れており、異国感は薄い。しかしタシケント行き飛行機の搭乗口付近の待合室には中央アジアの人々と思われる、コーカソイドモンゴロイドが入り混じった風貌の人々が多くみられる。こういう異国感のあふれる光景は何回見てもニヤニヤしてしまう。搭乗の待機列に並んでいると、青年がいて、電話で流暢な日本語を話している。少し話しかけてみることにした。

「日本語話されるんですね、どちらからいらっしゃったのですか」

「私はウズベキスタンから来ました、日本に留学していたのですが、これからウズベキスタンに帰るんです」

「そうでしたか、日本語がお上手ですね」

「日本で学びました」彼は照れくさそうに笑った。

「日本はどういう国という印象でしたか?」まあこれもお決まりの質問である。

「日本人は皆急いでいるという印象ですねえ」

私もそう思う。イランの記事のエピローグでも触れたが、日本人は常に何かに追われているような表情をして街を歩いている人が多い。何をそんなに急がなければいけないのか。社会の進歩のため?昇進のため?お金のため?本当に大事なものを自分の頭で考えず、社会の命令に従っているだけでは永遠に人として二流のままである。

ウズベキスタンでおすすめの食べ物は?」

シャシリクですね。おいしいですよ」

「ありがとう、またいつかお会いしましょう」

一人旅行の醍醐味は、「他人と話すこと」である。二人くらいまでならぎりぎりなんとかなるが、グループが3人以上になると、たいていの場合現地の人と対話するという楽しみはほぼ消滅する。大学生ぐらいまでは他人との対話を避けて自分の世界という殻にこもっていた気がするけれども、自分との対話はもう一生分やったという自負だけはある。だからこれからはより多くの人と接することで自分の内面を変革していきたいと思っている。もっとも、「話しかける人」自体に選択圧がかかっているので、これはそれなりに恣意的なものであるといわざるを得ないが。この青年はおそらくビザで日本に来ていたがビザが切れてしまったのだろう。日本にいる短期間のうちにこれだけの日本語を話せるようになるのだ、彼は間違いなく優秀なはずである。思うに人の能力というのは本人の才能ではなく環境でほとんどが決まってしまう節がある。有能でありながら社会の辺縁に生まれ、決して日の目を見ることなく一生を終える人がいる一方で、良い家柄に生まれたというだけで社会の中枢までいとも簡単に上り詰める人間もいる。世界というのは本当に無慈悲で残酷なものである。せめてこの青年に良い運命が待ち受けていることを祈りたい。

アシアナ航空タシケント便は、やや機体が古く、シートもモケットが分厚い旧型のものであるため、その分シートピッチが圧迫されてあまり快適とは言えない。まあそれも一興かもしれない。それでは早速この青空に音楽を響き渡らせることにしよう。ゆっくりと移りゆく眼下の景色を見ながら音楽を聴くのは最高のひとときである。

عسى الله يأخذ أحبابها

次第に日が暮れていくのが見える。ウイグルの上空あたりを飛んでいると暗闇の大地にはまるで星のように町のあかりが瞬いている。あの美しい街の明かりのもとで何が行われているかを想像すると、街灯のまたたきすら人々の叫びのように見えてくる。天山山脈を越えるとタシケントはすぐである。美しく輝く夜景が見えてすばらしい。

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タシケントはもうすぐ

タシケントの空港に到着すると、なんだかがらんとした空港で人口密度が低い。日本から来たと思われる人々が散見されるが、女子旅率が高い。別にいいんだけど、海外でコーカソイド風の男性にホイホイ尻尾を振り、日本の女性は尻軽であるという印象を抱かせるような真似だけは本当に慎んだほうがいいと思う(地球の歩き方にも同じようなことが書いてある)。日本人女性特有の雰囲気は欧米人男性の心をくすぐるのかもしれないが、欧米から来た海外旅行客がけっこうピシッとした格好をしている一方で彼らがリゾート気分のような服装をしているのを見ると、これはさすがに犯罪にあっても仕方がないんじゃないかと思わされる時もある。それでもまあ、楽しみを共有できる友人と旅行に行けたら、きっと素晴らしい思い出になるんだろうな。羨ましくもある。

 

砂漠の国で緯度も40度台であるから、夜はそれなりの寒さを覚悟していたのだけども、そこまででもなくて拍子抜けする。入国審査ゲートを出るとなんと空港の職員が、空港を出たところでドライバーが待っているといっていろいろ案内してくれた。両替所でやる気のなさそうな女性職員に両替をお願いし、別の窓口でSIMカード(Ucell)を購入する。なおウズベキスタンのモバイル事情であるが、ネット上に詳しい情報が載っているとは思うが、国土のカバー率的に圧倒的にUcellがおすすめらしい。値段は失念してしまったが、常識の範囲内と記憶している。ネット上では携帯の設定を職員にしてもらう必要があると書いてあったものの、購入したSIMカードを携帯に挿入するだけですぐに起動できた。

タシケントの空港は一国の首都が擁する空港としてはかなり小さい。空港出口では客の到着を待つ観光ガイドであふれている。私もご多分に漏れずその一人である。人のよさそうなガイドの車に乗り込み、本日の宿へ向かう。空港から市街地へ向かう道路は青、白、そして緑というウズベキスタンの国旗の色でライトアップされている。市街地の電飾もこの3色が目立つ。このガイド曰く

Hyatt Regency Tashkentか。あたらしくていいホテルだね」

タシケントはとても治安がいい、夜に散歩するのも面白いと思うよ」

確かに夜の町を歩く人はまばらだが、柄の悪そうな人がたむろしている様子は見受けられない。そしてこう付け加えた。

ウズベキスタンはとてもいい国だ、きっとあなたの気に入ると思うよ」

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左:タシケント空港 右:青・白・緑の3色に輝く街灯

ホテルに到着してチェックイン。確かに新しくて美しいホテルである。

過去の経験から、ホテルの質は旅行の質を決定するのはほぼ間違いないと思っており、今回の旅行で滞在するホテルはすべて自分で選んだ。1日のうち半分程度の時間はホテルで過ごすのだから、当たり前といえば当たり前なのだけど、案外見逃されがちな事実な気がする。異国の地に来て本来くつろぐべき場所で無駄な緊張を強いられ、次の日に無駄な疲れを残すのは本当に意味のないことだと思う。

どういうわけかスイートルームが予約されており、一人でがらんとした広い部屋を行ったり来たりして、調度品やシャワールームの美しさににやにやしながら時を過ごした(高級ホテルの滞在に慣れている人から見れば大したことはないのかもしれない、貧乏人の嗜みということで生暖かい目で見守っていただければ幸いです)。テレビをつけると映るチャネルはロシア系もしくはアラブ系メディアが多い。ここはれっきとしたイスラム圏であることを認識させられた。

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左:ホテルのロビー 右:部屋は広くて快適

次の日は朝早くからヒヴァに移動する日程なので、早めに寝ることにする。

 

ウズベキスタン旅行(0) プロローグ

中央アジアの国、ウズベキスタンは、最近でこそ(といってもコロナ禍の前のことではあるが)インスタ映え(笑)的な旅行で女性に人気が出てきたものの、観光地としてはやはりマイナーな部類に入る国である。

過去にイランを旅行した際、ウズベキスタンもよいかもしれないと思っていたが、サマルカンドの有名なマドラサのエイヴァーンに描かれたモンゴル人風の顔がなんだかシュールで、イスラーム美術としては明らかに異端で洗練に欠けるという印象を受けた。その上、イランの建築美術のすばらしさ、人々のやさしさ、町を流れる音楽、そういった情感があまりにも忘れがたいものであったため、イラン旅行を超える体験はできないのではないかと思い、海外旅行への意欲が虚脱していた。しかしそれから3年も経つとかつての記憶も薄れ、イランとはまた微妙に異なった手作り感のある趣の青いタイルで装飾されたウズベキスタンの建築群もまた、魅力的に見えてくるようになるものである。

海外旅行というのは海外の生活にお邪魔させていただき、少しだけその雰囲気を体験させてもらう、そういったものであると思っている。限られた時間でより深い体験をするには、事前にその国の文化や歴史を紐解くことが肝要だと思っている。もちろんただ美しいとか、○○ヵ国に旅行したとか、インスタ映えとか、そういうこともモチベーションとしては大切なのかもしれないが、やはりそれだけでは30近くになった人間のやることとしては奥行きに欠ける。

かつては世界史になどみじんも興味がなかったが、地球の歩き方をはじめとした海外旅行のガイドブックを開くと、有名な遺跡にはたいてい由緒がある。ピラミッドはクフ王により建てられたものだとか、ペルセポリスアレキサンダー大王に略奪されたアケメネス朝の遺跡だとか、そういうかんじのものである。単にモニュメントの歴史的由来を知るということも重要だし、歴史というのは大変示唆に富むもので、それがまた興味を引く。歴史を学ぶことで、歴史上の人物の栄枯盛衰を通して、人間のはかなくも愛しい営為を追体験することになる。古典を紐解けば、自分が何か悩みに突き当たったり、解決できそうもない問題に頭を抱えたりするときに、歴史上の人物が時を超えて語り掛けてくるような感じがして、なんだか心強くなる。そういう血の通ったあたたかさが、文系の学問にはある。点数化して人の実力を測るにはあまり向いていないかもしれないし、私も受験科目としては苦手だったし興味がなかったが、近年は文学とか歴史とかそういったものの価値を再認識しているし、こういうものが人間というものの存在に奥行きを与えていると思う。

さていつものことだが話が逸れた。ウズベキスタンというのは1990年代になって旧ソ連の一員であったウズベクソビエト社会主義共和国から独立した国であるが、この地の歴史は大変長い。

ウズベキスタンの位置する地域の通称である、マーワラーアンナフル(ما وراء النهر:アラビア語で川の向こうの意)は古くからイラン文化圏の辺縁としてイランの影響を強く受けつつ、地元のテュルク系の人々の文化がまじりあって歴史が紡がれてきた地域である。シャー・ナーメではテュルク系民族トゥーラーンとして書かれ、トゥーラーンの英雄アフロースィヤーブの名前はサマルカンドの「アフラシャブの丘」の地名に見ることができる。

ウマイヤ朝により征服されたのちは、この地にイスラームが根付いていくことになる。アッバース朝の地方政権を由来とするサーマーン朝の中心都市として発展したブハラでは、この地域の最古のイスラーム建築のひとつ、イスマーイール・サーマーニー廟をみることができる。カラハン朝、ホラズム・シャー朝の支配ののち、この地はチンギス・ハン率いるモンゴルによって著しく破壊され荒廃したという。

モンゴルの征服後、チャガタイ・ハン国の支配を経て、この地域に突如登場したのがティムールという男である。ティムールはテュルク系言語で鉄を意味するらしい。文字通り鉄の男ティムールは戦争ではほぼ全戦全勝に近い戦績を誇る圧倒的な英雄であったという。征服した地域で捉えた職人をサマルカンドに連れ帰り、そこで大規模な建築事業を行った。サマルカンドでは素晴らしい建築文化が花開き、グーリー・アミール廟をはじめとしたティムール朝時代の大規模な建造物がみられる。ティムール朝はそれほど長くは続かず、ウズベク族により征服されてしまう(ので、ティムールがウズベキスタンの英雄というのは本来?であるらしい。)

その後テュルク系王朝、もしくはイラン系王朝の支配が続いたこの地であるが、次第に強大化したロシアにより保護領化され滅亡の運命をたどることになる。現在ウズベキスタンの市街地に残るロシア風の町並みから、その強い影響を見ることができるが、ロシア人は地元の人々の住む街を破壊せず、その辺縁に新しい市街を作ることを選んだため、現在でもブハラやサマルカンドで情感あふれる古い町並みを堪能することができる。

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ブハラの町並み


 

 

実は、このウズベキスタン旅行は自分にとって初めての一人海外旅行であった。それ以外にも2019年という年はよくも悪くも自分にとって試練の年であり、それは今なお自分の人生に先の見えない影を落としている。何年も経過したのちに振り返れば解決済みか、どうでも良くなる類のものなのかもしれないが、こういうのは目に見える形で記録しておくというのが大切なように思われるので、敢えてこのような形で言及しておきたい。

そのころ聴いていたクウェートの歌姫(といってもおばさんだが)Nawal(نوال)の"قضى عمري(私の時を過ごした≒時が過ぎた の意)"を聞くと、当時の記憶や自分の考えていたこと、さまざまな感情が色鮮やかに思い出される。興味を持たれた方はネットに出ている歌詞をGoogle翻訳にでも投入してほしい。すべてが明らかになるだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=_ry_WDr_yTI

この言葉がしかるべき人に届くことを祈る。