Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

モロッコ(9) エピローグ

濃厚なのに、なぜか心に残らない国

こうしてブログを編集するために写真を振り返ってみると、やはりモロッコの都市の町並みはどれもイスラーム的な様式美があり、少し粗野な感じを受けるメキシコと比べるとその美しさは顕著であった。そして一歩建物に足を踏み入れれば、精緻で洗練された内装が埋め尽くしている。文化をとってみてもスペインのイスラーム国家がない今アンダルス・イスラーム文化を引き継ぎつつベルベル文化が融合した独自の文化は大変純度が高く、濃密であるはずである。マラケシュ、フェズ、メクネス、それぞれの都市が長く重層的な歴史を有し、それだけではなくシャウエンやエッサウィラといった美しい都市をたくさん擁しており、観光地としての魅力に富んだ地域であることは、確かに間違いない。

それなのにモロッコを旅行し日本に帰ってきた時、メキシコで感じたような、心がいっぱいになったような感じがほとんどしなかった、というのが正直な感想である。

 

やや詰めすぎた計画

その理由としてまず思い当たるのは、あまり時間に余裕がない中で砂漠、フェズ、マラケシュやメクネスなどの要素を詰め込んでしまったこと。そのため逆にそれぞれの都市での滞在がやや薄味になってしまった可能性はあると思う。マラケシュやフェズはたくさんの魅力がある都市だが2日の滞在ではメディナの半分程度しか回れておらず、特にフェズは金曜日が当たってしまった関係であまり買い物を楽しむことができなかった。メクネスに至ってはほとんどの遺跡や歴史的建造物が修復中で、ただ無駄に足を伸ばして滞在するだけになってしまった感じがある。あまりにも要素を詰め込みすぎるとかえって薄味な旅になってしまうというのは、今後の旅に活かすべき反省点であるように思われる。

 

ロッコ人の精神

次に、そしてこれがおそらく最大の理由だと思うが、道を歩いて出会う人に心の美しさというものに、残念ながらあまり触れることができなかったことである。物事を比較して考えるのはあまりよくないのかもしれないけど、メキシコの街中で出会った人々は優しく親切で、控えめながらも心が温まるような体験がたくさんあった。しかしながらモロッコでは、地元の人に道を尋ねつつ会話に花を咲かせるといった、現地の人と話をする楽しみがほとんどなかったのも事実である。(穿った見方をすれば、異国で人々の良心とか心の美しさに触れる、というのも人の良心を無心してもらいに海外に行っている、という考え方もできなくはないが…)

特にフェズでは迷路のように入り組んだ道の主要な交差点には大抵自称道案内人の青年がスタンバイしており、彼らは観光客に絡みつき、無視すると悪口雑言を垂れ流す人すらいる。道は自分で把握せざるをえず、Google Mapに齧り付くことになる。それ自体は町の道を覚えるきっかけとなるから悪くないのかもしれないが、地元の人のちょっとした親切から感じられるような、住民の澄んだ心というものに触れることは、最後までできなかった。そもそも道の真ん中で片っ端から観光客に声をかけて金を徴収する時間があったら学校で学ぶべきことを学び良い職に就いた方がよほどお金を稼ぐことができるはずであるが、彼らは平日から学校に行かずに何をしているのか。あまり民度という単語を使いたくはないけれども、レストランとかリヤドとか、外国の人と接することを仕事にしている人々ではなく、市井の人々の民度が高くないように感じられてしまったのは致し方ないことである。

 

ロッコの教育レベル

調べてみると、モロッコという国の教育レベルはやはり、あまり高いとはいえないようである。ソースがWikipediaなのでどこまで信用していいのかわからないのだが、以下のような記述がある:

「7歳から13歳までの7年間の初等教育期間が、義務教育期間と定められているものの、就学率は低い。モロッコの教育は初等教育を通して無料かつ必修である。それにもかかわらず、特に農村部の女子を始めとした多くの子供が、未だに学校に出席していない。教育はアラビア語やフランス語で行われる。2004年の調査によれば、15歳以上の国民の識字率は52.3%(男性65.7%、女性39.6%)である。このようにモロッコ全体で見れば非識字率は約50%程度だが、農村部の女子に至っては非識字率が90%近くにまで達する。」

やはり自分の直感は間違っていなかったのかもしれない。イランの識字率は85%以上、メキシコの識字率は90%以上であることを考えると、やはり相対的に教育レベルは低いと言わざるを得ない(まあ、大学進学率が50%以上の日本人は科学リテラシーが怪しかったりするので、この指標もどこまで当てになるのかはわからないけど)。彼らは高等教育機関で教育を受けず、暇だから道端で観光客からお金をせびろうと試みていると考えるのが妥当である。

 

「中」と「外」

しかしながら、ただ「民度が低い」というだけでこの国を語ろうとするのもまた、それはそれで一面的なものの見方に過ぎないように思われる。もしモロッコの人々が単なる精神の退廃した醜い人々であるならば、あのようなリヤドや宗教施設の美しく手のこんだ装飾を作り出すことができるはずがない。自分たちの仕事に誇りを持っていなければ、この便利になった現代において頑なにタンネリのような伝統的な手工業を守り通すことができるはずがない。そもそも現存する世界最古の大学は何を隠そう、モロッコのフェズにあるあのカラウィーン大学(カラウィーン・モスクに併設)である。

ひょっとするとこのモロッコという国は「中」と「外」を峻別しているのではないか。それは観光客への態度にも通じるのではないか。「中」たる国民には親切に接するが、「外」たる外国人観光客は完全な金集めマシーンととらえ、観光客からは地元民向けとは全く異なった観光客値段を徴収し、彼らに自分の本質である精神性を見せることはない。彼らの精神性の中には美しさが宿っているのかもしれないが、外の人には全く触れられないところにあるのではないか。

確かに、リヤドやお店など、一旦門の中に入ると、主人やスタッフは素晴らしいサービスを提供してくれた。それぞれのリヤドでは到着すると必ずお茶を振る舞ってくれたし(最初はこれもチップを要求されるのかと思った)、レストランのスタッフはどこも親切に対応してくれた。Dar Hatimのおばさんの対応もとても嬉しかった。そもそもこの「中」と「外」を峻別する意識は、外観は素っ気ない建築であるが一旦中に足を踏み入れると、とても精緻で美しい装飾がなされた別世界のような空間が広がっている…という、リヤドの建築それ自体にも表れているように思われる(単なる深読みかもしれないが)。

 

ロッコという国の神髄は、一度観光に行くだけでは触れられないほど、奥深いところにあるのかもしれない。そのように思わされる1週間であった。

途中で体調を崩したりもしてなかなか苦労も多かったが、もし機会があればマラケシュを再訪してみたいし、今回行くことができなかったシャウエン、滞在時間が短く十分に観光できなかったムーレイ・イドリスやほとんどの見どころが修復工事中だったメクネスもまた訪れてみたいと思う。その時にはこの国の神髄にもう少し触れられるよう、私も見識を深めておきたいと思っている。