Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

南インド(7) コ(ー)チ(ン)

11/30

天気:はれ

8:30 ハウスボート

アラップーラ→コーチン

10:00 コーチン

2時間ほどコーチン市街観光

空港へ移動

AI832 1515COK 1835DEL

デリーにて乗り継ぎ

AI306 2300DEL →

12/1

→0945NRT 成田着

 

朝食は8時。朝起きると昨日かごに入っていたパイナップルが美しく刻まれたものと、細かい揚げバナナを包んだクレープが用意されていた。昨日揚げバナナをおいしそうに食べていたから作ってくれたのだという。ありがとうございます。バナナってこんなにおいしいんだ。

朝ごはんはパイナップルとバナナ揚げのクレープ

船は30分ほどで、昨日の波止場についた。波止場では昨日のドライバーが待っていた。これにてハウスボートの旅も終わりだ。クルーとコックに謝意を述べて、ボートをあとにした。

波止場近くの集落にて

「船旅はどうでしたか?」

「素晴らしい経験になりました。家族にこの話をしたいと思います。」

ドライバーはとはいろいろ話したが、印象的だった会話をここに記録しておく。「ケーララ州の人は中東に出稼ぎに行く人が多いです」という。「ドバイでは家族に送金していましたが、あまりいい扱いをされなかったので戻ってきました。ドバイでは待遇がいい人とそうでない人の違いがすごいという印象があります。現在はケーララに帰ってきて幸せかな。旅行のドライバーをするのが好きなんですよ。仕事をしながら、自分も旅ができるし、多くの外国人と話ができますから。今の仕事には満足しています。そういえばケーララの山のほうにはいかれましたか?」残念ながら時間もなく計画もおざなりのものだった(とは言わなかったが)ため、あまりケーララ州についてはちゃんと調べられていなかった。「ムンナルというところに行ってみてください。山や茶畑が広がっていて、美しいですよ。そういえば」といって、彼はニヤッとした。

「今まで一番印象に残った旅行客がいるんですが、何人だと思いますか?」と聞いてきた。何人?「ペルー人です。体格が大きく肌の浅黒い男でした。常に不機嫌で怒っており、クレームばかり吐き、チップはまったく払わず、それだけでなく道端に唾を吐き、小便までしていたんですよ。」という。「我々は客に対してもそうですが、地元の方々にも迷惑をかけないようにする責任があります。彼と一緒にいる時間は本当に苦痛でしたねえ。あなたの名前は?私は○○さんと話しているのは楽しいですよ。ありがとうございます。」こちらこそ。「この地域に来る日本人はとても珍しいと思います。(日本人のドライバーをするのは)あなたで3人目ですね。前の日本人はもう5年以上前でした」

次第にコーチン市街が近づいてきた。時折川を渡ると、いわゆるチャイニーズフィッシングネットが見える。

「このあたりは私の住んでいるところです」ドライバーがいう。ムスリムの居住地域だという。この地域を過ぎると、湖沼とその間にヤシの木が点在する光景が広がった。この辺りはエビの養殖をしており、住人は敬虔なキリスト教徒が多いという。

ほどなくしてコーチン市街に至った。フォートコーチンと呼ばれる一角はヨーロッパ風の整然とした街並み。もっとインド風のごちゃっとした町並みを想定していたので驚いた。海岸沿いの町の一角で、ガイドと合流する。やや早口だが、かなり聞き取りやすいインド英語を話す。語彙数も豊富で、知的レベルの高さを感じる青年だ。本日は飛行機の時間が早く時間に余裕がないため、巻き気味での市内ツアーである。まずは聖フランシス教会へ。

こちらはポルトガルが上陸して最初に作った教会。オランダの手に渡っり、さらに最終的にはイギリスの管理下に入った。建物はオランダの様式に作り替えられている部分が多いが、天井は創建時のオリジナルが残っている。かつてここにヴァスコ・ダ・ガマが埋葬されたが、死後彼の遺体はポルトガルジェロニモ修道院に移された。以下、今年6月に同修道院を訪れた際のブログのリンクを張っておくので参照ください(ほぼスルーしてしまったので、端っこに映っている程度です)。こういう風に、自分の訪れた国が世界史上のつながりを持っていたりするのは面白い。点だった知識が線になっていくような感覚だ。

 

chevrefeuille.hatenablog.com

ガイドは天井からつり下がっている簾のようなものを指さした。これは簾ではない。団扇のようなもので、これにロープをつけてインド人に煽らせて、欧米人が涼を取るためのものだという。「ヨーロッパ人は、インド人を奴隷のように扱ったのですよ」とガイドは言う。足元を見ると、ヴァスコ・ダ・ガマのかつての墓石があった。足元のタイルはイギリス製だという。

かつてヴァスコ・ダ・ガマが葬られていた

教会を出て、近くの海岸沿いを散歩する。内湾は泥の堆積が著しく、定期的に浚渫を行っているらしい。ごくわずかにオランダが作った当時の城壁が残っている場所があった。

オランダ支配時代の城壁がわずかに残る

僅かな距離でチャイニーズ・フィッシングネットが多数並ぶ場所に来た。この漁業のためのギミックはマカオポルトガル人が使っていたものを輸入したためこのように呼ばれており、中国由来のものではない。ネットの釣り下がる側と反対側には石がくくりつけられており、網を持ち上げるのを容易にしている。面白い仕掛けだ。遠くにはコンテナのクレーンが見えており、木でできたフィッシングネットとのコントラストがすごい。

海岸沿いの公園には美しい街路樹が植えられ、インド離れした、とはいえヨーロッパとも違う、独特の風情を持つ町並みが続く。近くにある木は大きな果実がたくさんぶら下がっている。これはホウガンノキという。花の形がヴィシュヌ神の背後にいる蛇のような形をしており神聖視されているらしい。この木、確かシンガポールでも遭遇したような気がするな。その時は名前がわからなかったが。

美しい町並みをゆっくり散策したいものだが時間がないので巻き気味に、次の観光地へ移動する。次はあまり知らない、洗濯場に連れていかれた。ここの洗濯場はDhobi Khana洗濯場といい、不可触民とされ差別されていた人々に職を与えるために公共洗濯場が作られたらしい。洗濯場の入り口にはインド建国時に法務大臣として憲法の起草に関わり、不可触民の差別撤廃に尽力した不可触民出身の弁護士・アーンベードカルのレリーフがある。「まあ最近はここにある大きな洗濯機で洗ってしまうんですよね…」とガイドは言って笑った。この洗濯場には政府機関の制服などが洗濯されアイロンがけされる。アイロンはココナッツの炭をもちいたアナログのもの。近くに有名なユダヤ人街があるためか、ユダヤ人団体観光客が来ていた。

再び車でそそくさと移動し、マッタンチェリー・パレス、すなわちダッチパレスに来た。ダッチパレスの近くにはヒンドゥー教寺院がある。ヒンドゥー教寺院の奥には寺院側にはマラヤ―ラム文字で、シナゴーグ側にはヘブライ文字で書かれた時計塔がある。これは藩王が宗教的に寛容な政策をとり、様々な宗教がこの町で共存していたことを示している。

奥の時計塔を拡大してみてください

 

このダッチパレスは、ポルトガル人が地元のインド人労働者を雇って建設し、コーチン藩王に寄贈した建物である。パドマナーバプラム宮殿ほど凝ったものではないが、室内には壁画がところどころで描かれていたほか、かつて王の使用していた調度品、欧米による支配の歴史が展示され、博物館のようになっていた。冷房がなく、扇風機だけがまばらに配置されており、とても蒸し暑い。

外観は少し立派なお館程度のダッチパレス

 

ダッチパレスを出て、旧ユダヤ人居住地区に向かう。

ここはとてもかわいらしい町並みで、大きさの揃った家々が立ち並んでいる。イスラエルの建国に伴って多くの人が町を離れ、町に残っていたユダヤ人も高齢化が進んだ。今この町に残っているのは2,3家族のみで、ほかは残った家でお土産屋を営んでいるインド人。それでもヘブライ語の看板とかもあったりして面白い。

ところどころにダビデの星がみられる町並み

 

町並みを奥に進んでいくと時計塔がある。ここを折れると未だに現役のシナゴーグがあった。頻度は低いが未だに説教が行われているそうだ。シナゴーグというものに入ったのは初めて。それほど大きくはないが、モスクとも教会とも異なる独特の雰囲気を放っている。天井のシャンデリアはベルギー製、床のタイルは中国製で、このタイルはユダヤ人商人が貿易で余ったタイルを敷き詰めたらしい。

シナゴーグの横にある小部屋は博物館のような歴史の展示がされていた。歴代のコーチン藩王ユダヤ人との関係を絵で説明するものだった。最後に軽く町並みを散策して、本日の短いガイドツアーは終了。

美しいブティックホテル

骨董品店

ガイドと別れ、中心市街から45kmあるという空港に向かった。時折湖沼の現れる美しい水郷の景色が去っていく。もう少し滞在できればよかったな。道が思ったより渋滞しておりハラハラするが、なんとか飛行機の出発二時間前に到達。ドライバーには心よりお礼し、チップを渡す。マドゥライの悪徳ドライバーよりも安い額しか渡せなかったのが本当に申し訳ない。心から感謝する人へのお礼の価値を保つためにも、チップを大安売りして悪人に渡してはいけないのだ…

 

チェックインカウンターに荷物を預ける。帰りは成田まで荷物を運んでくれるらしい。コーチンの荷物検査は相変わらずインドの地方空港らしく厳しく取り調べられた。

空港では余った現金で、真鍮製の像の彫刻を買った。少し値が張ったが…でもまあ、とても精巧に作られていたのでよしとしよう。離陸する飛行機からは、ゆったり流れる川とヤシの森の緑、そして点在する白い家々が小さくなっていくのが見えた。

コーチンからデリーまでは3時間20分と、結構かかる。機上で日没を迎え、赤く染まった機内が美しかった。機内食はクレープ生地でカレーを巻いたものだった。

 

隣に二人ほど頭にターバンを巻いたシク教徒が座っていたのだが、盛んに話しかけてきて、日本から来たというとなぜか握手を求められた。そして彼らとの記念写真が爆誕した。完全に謎体験であった。

 

デリーの空港でもお土産を売ってはいたのだが、コーチンの空港の真鍮細工の方が売っているものの値段は高かったが品質もその分良かった。デリーのそれは完全に土産品で品質がイマイチ。別のショップに行ってみると石を彫って作ったポットのようなものが売っており、調べてみると石彫りで有名なマハーバリプラムの特産品らしい。せっかくなので買うことにした。すでに手元のルピーは使い果たしたので、クレジット決済で。

デリーの空港にて

乗り継ぎは4時間半。帰りはフライト時間がそれほど長くないこともあり、エコノミークラスだ。1列だけ座席が2つになった最後列を選んだ。チェックインの時には空席になっていたので隣が空席だったらいいなあなどと思っていたが残念ながら若干不思議ちゃん系のサリーを着た日本人女性が座っていて、隣のインド人に謎絡みしていたので、こちらに話しかけられないようにそそくさと耳栓で耳をふさぎ、アイマスクで目をふさいだ。帰りの機内食も当然のようにカレーだったので、もはや写真は省略する。なお、エアインディアはエコノミークラスでもわずかに足元に余裕があり、ターキッシュエアラインズの羽田便よりよほどましだった。

7時間弱のフライトにてようやく日本に到着。

再び日常に押し戻されていく。

それでもインドで過ごした1週間弱の経験は、確かに自分の中に刻まれているはずだ。

帰国