Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

イラン旅行(11) エピローグ:イランという国

今から考えれば、イランに旅行する遠いきっかけは2015年に南フランスを旅行したことだったように思う。旅行自体はニース、アヴィニヨン、リヨンを回るごく短いものだったが、エールフランス航空に登場した際に飛行機内の音楽ラジオをつけてみた際、"Moyen Orient"というジャンルが目に入った。当時フランス語など大してわからなかった自分は目にしたことのない文字の配列に興味を持ち、そのチャネルをつけてみた。すると突然今まで聞いたこともないような音楽が耳に入ってきた。短調とも長調とも捉え難い謎の音階で、男性のみならず女性もカワイさではなく力強さで勝負するスタイルの歌声、そして聞いたこともないような打楽器。その出会いは頭を破壊されるような体験で、フランス旅行の初日では頭の中でその音楽がいつまでもこだまして離れなかった。

アラビア語を学びたいなどと豪語していたがいまいちモチベーションが上がらず燻った大学生活を送っていた私に、アラブ音楽との出会いはアラビア語を学習する強力なモチベーションを与えた(現在も苦しみながら勉強を継続している)。アラビア語を勉強するにあたり当然アラブ地域の地理を学ぶことになるわけだが、そこで出てきたのがイランという国である。普通の人であればイランとアラブの違いすら指摘できないようなところだが、このイランという国を調べれば調べるほど面白い(この経緯はプロローグに詳しく書いた)。そしてどういうわけか同時期に野町和嘉氏のPERSIAというイランの写真集を手にし、その国土の美しさと魅力にとりつかれた。そういうわけで大学の卒業旅行にイランを選んだわけである。つまりイランという地に導かれたのは、ほんの偶然の連鎖であったわけだ。

 

10泊12日という日程は、思った以上にあっという間に過ぎていった。街中や公共空間に流れる不思議な音楽、見たこともないような乾いた景色、街の看板を埋めるナスタアリーク書体、絢爛な建築物の装飾。ヨーロッパの観光地しか知らなかった私にとっては全てが衝撃で、非日常的な体験だった。しかしそれ以上に素晴らしかったのは、イランでの人々との出会いだった。

見知らぬ日本人にかつての恩返しにとイスファハーンを案内してくれたおじさん、謎の議論を持ちかけようと試みる勉強熱心な青年、突然求婚してくる美人大学生、嬉しそうに外国人観光客に手を振る女子小学生の集団。私が目撃したイランという国の姿はこういうものだった。皆フレンドリーで気さくで、ホスピタリティに富み、そして文化的であり、それぞれの人生を楽しんでいた。ぼったくりを敢行したシーラーズ空港の売店の女性、法外な値段を吹っかけてきたタクシー運転手、「チュンチョンチャン!」を連呼するタブリーズの少年、後ろ指をさしたヤズドの女性二人組…悪い思い出もそれなりにあるはずであるが、それも含めてイラン旅行で私に残ったものの多くは、美しい景色ではなく人との出会いの記憶である。

見知らぬ土地を旅する人々に興味を持ち、手を差し伸べることを厭わず、様々な話をしようとする人々の姿勢は、どこか他人と深く関わることを避けようとする日本社会や、観光客を斜めな目で見るヨーロッパ人とは全く違った。人を下に見るということをせずに異質な人々を尊重し、親しくなろうというその姿勢はまさに本来我々が持っていたはずの人間の美徳そのものだった。それは社会を生きていくための仮面を作り上げていくうちに失ってしまったものかもしれないし、そもそも自分には備わっていなかったものかもしれない。それでもそんな彼らに出会って、初めて人間というものの素晴らしい側面に気付いたかもしれない、と思う。そして今まで意識的にか無意識にか捨象していた人とのつながりというものの大切さを自覚した。

 

イランという国を実際に歩き、人々と接したあとで、日本という国のあり方についても考えさせられる場面は多かった。日本という国は、新興国の台頭によりかつてほどの勢いはないものの先進国の一角であり、経済大国の一つということになっている。勤勉さは美徳であり、働くことは喜びであり、休暇を取ることは悪であり、人々は2週間をこえる休暇を取ることは滅多にない。必然的に自分を追い込み、自殺者は多くなる。しかしながらテレビをつければ「日本の技術力は世界一」だとか、「日本は世界で一番治安の良い国だ」などと嘯いており、日本の社会通念や社会システムそのものに疑念を抱かせるようなものは何一つない。もし日本を批判するような内容があるとすればそれはほぼ常に、「欧米では〜、しかし日本は〜」という文脈で語られるだろう。

私もかつてはテレビの内容を信じて日本は素晴らしく治安が良く技術は世界一で勤勉な国だと思ってきた。ある程度大きくなり、時代が進んで日本の退潮が露見しても、治安が良いとか勤勉だとかそういう部分ではあまり疑念を持ったことがなかった。しかしながら、その日本人が見向きもしないような貧しい国イランでは、人々は表情豊かで、フレンドリーで、自分たちの人生を楽しんでいるように見えた。貧しい国は大抵治安が悪いと思い込んでいたが、街は驚くほど平和で、日本に勝るとも劣らなかった。日本に帰ってくると、道ゆく人の表情はよそよそしく、暗く、常に見えない義務に追われる焦りと疲労に満ちている。日本は戦後の高度経済成長で豊かになったというが、我々は経済的な豊かさで何を手に入れたのか。経済的に満ち足りたことで衣食足りて礼節を知るよろしく人々の心が豊かになるどころか、経済システムを回すための駒に成り下がり、本当に大切なものを忘れてしまっているのではないか。大切なものとは日々を楽しみ、人生を楽しみ、他者との邂逅を楽しむ時間的な余裕であり、それに豊かさを見出す心なのではないか。そしてそれを見出すためのヒントは、日本の中や我々が崇敬する欧米諸国ではなく、我々が目を向けようともしない「発展途上国(この言い回し自体好きではないのだが…)」にこそあるのではないか。そんなことを考えさせられた。

 

イランは表向きにはいまだにアメリカと鋭く対立しており、ウランの濃縮だとかイスラエルとの戦争といったきな臭い話題は絶えない。もちろんこれは国際社会における被害者という側面が大きいように思うが、政治においては革命防衛隊が実権を持っていると言われており、イエメンやシリア、イラクに対する介入など、白い部分だけでこの国を語ることはできないというのもまた事実だろう。しかしながら、欧米のイメージだけでこの国を語るのはあまりにも間違った試みである。実際に足を運び、現地の人と話せばそれはすぐにわかる。問題は我々が正しい情報に触れていないために彼らに接しようとすらしないこと、日本人には彼らに接するための時間を含め、社会的義務以外のことを考え実行する時間が与えられていないことだろう。

 

なお、地球の歩き方のイラン編は、かつてはかなりの分厚さと内容を誇る本であったというが、バムで起きた誘拐事件のせいかケルマーンやバローチェスターン州は外務省の渡航注意情報で赤く塗られるようになり、それと前後して大きくページ数が削減されてしまったそうだ。我々がイランに行く頃には厚さ5㎜程度の小冊子になってしまい、載っているのも我々が旅した都市の情報しかない程度のものになってしまっっていた。交通手段や宿泊施設の手配をお願いしたイラン専門の旅行会社のお姉さんは昔の地球の歩き方を我々に見せつつ「昔はこんなに厚かったんですけどねえ」などと嘆いていたことが思い出される。その誘拐事件はほんの言い訳にすぎず、本当は某大国に対する忖度があったのではないかと邪推してしまうのは致し方ないことだろう。

 

かつて「インドを旅行すれば世界観が変わる!」などと豪語していた大学生を薄っぺらだと嘲笑していたものだが、そういう自分もまた偶然の連鎖によりイランという国を実際に歩いて、自分の人生や、自分が生きている社会について再考するきっかけを持つことになってしまった。結局は私も旅行で人生観を変えてしまうような薄っぺらな人間の一人であったというわけだ。しかしそれはとてもポジティブな体験として、これからも思い出されるだろう。私は大学生時代バックパッカーをやっていたわけでもないので、訪れた地域はそれほど多いわけではない。これから自分のまだ見ぬ世界を見て、出会ったことのないような人々や価値観と会いたい。そして自分の狭く凝り固まった世界観を壊し、再構築していきたい。それが世界の姿に近づくための歩みだと私は信じる。

 

最後に忙しい中この旅に同行してくれた友人A氏、我々の無理な要求にこたえてくださったペルシアツアーのM.S.様をはじめとした方々、そして何より旅先のイランで我々とかかわった現地のすべての人々に感謝の意を述べて、この旅行記の総括としたい。イランの旅行がこれほど心に残ったのは間違いなく彼らのフレンドリーさとホスピタリティのおかげである。この体験は一生忘れることはないだろう。本当にありがとうございました。

そしていつかまたお会いしましょう。

 

 

イラン旅行(10) テヘラン、そして帰国

2016/2/28

9:00頃 タブリーズ空港着 

10:10 ATA航空5203便でテヘラン

11:10 テヘラン・メフラバード空港

テヘラン市内観光

17時ごろ テヘラン市を出発、エマーム・ホメイニー空港へ

22:30 カタール航空499便 ドーハへ

2/29

0:05 ドーハ・ハマド国際空港

1:15 カタール航空806便 成田へ

16:55 成田空港到着

 

この日はイラン観光の最終日である。残念ながら写真があまり残っていないので、若干淡泊な感じの記事になってしまうと思うがお許しいただきたい。

タブリーズのホテルをチェックアウトし、空港へタクシーで向かう。どんより曇った天気だ。タブリーズ空港の待合室は広く、開放的な雰囲気。

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左:タブリーズ空港は開放的な雰囲気 右:ATA航空の飛行機

 メフラバード空港に到着。やはりどんよりと曇っている。空港に並んでいるタクシーを拾い、まずは空港から一番近い観光地であるアーザーディータワーにまず向かうことにする。例によってタクシーが何台か並んでいたが、吹っかけてくる人もいたので一番良心的なタクシーを地元女性客とシェアすることにした。

アーザーディータワーは1971年、ペルシア建国2500年を記念して建てられた。イラン革命がおこる前の1971年のこと、パフレヴィ―朝時代のことである。当時は大変に先進的な建築であったに違いなく、おそらく親欧米政策を採っていたため欧米からの援助もあったのだろう。塔の地下は博物館になっており、謎のミニチュアが展示されているスペースや動画を放映しているスペースなどいろいろある。しかしながらいずれもイランらしさは薄く、どこか欧米的な商業っぽさを感じる。塔の最上階は展望台になっており、六角形の形をした特徴的なエレベーターで昇っていくが、エレベーターの動きが遅くて若干怖く、そのうちワイヤーが切れて落下するんじゃないかと思った。最上階の窓にはガラスなどはついておらず、展望台を吹き抜ける風が強い。

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アーザーディー・タワー
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左:地下の博物館への入口 右:最上階の展望台

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展望台からテヘランの市街が一望できる


 展望台から見る市街は高層ビルなどほとんど見えず、古いアパートや建物が目立つ。長期にわたる経済制裁で国が疲弊しているのだろう。またテヘランは大気汚染がひどい都市としても有名であり、本来市街の奥に見えるはずの山脈はかすんでほとんど見えない。

アーザーディー・タワーからはタクシーを拾い、ひとまずテヘラン駅に向かう。駅の有人ロッカーに我々の荷物を預け、今度はBRTに乗ってイラン考古学博物館へ。ここの博物館、構えは大変立派だし、地球の歩き方には大変大きなページを割いて取り上げられていたので楽しみにしていたのだけれども、中に入ってみると案外狭く、展示も羅列的で極めて淡泊と言わざるを得ず、かなりがっかりスポットであった。物事を博物学的に羅列するのが得意な欧米人とは違い、ペルシャの人々には珍しいものを蒐集して系統的に並べるという習性がないのだろう。かつてサーサーン朝と東ローマ帝国が抗争していた時代、ゾロアスター教より体系的にまとめられたキリスト教に信者が流れ、それがサーサーン朝弱体化の一因になったといわれている。体系化、系統化は欧米人のお家芸ということか。展示物そのものだけではなく、見せ方も博物館における大事な要素であることを実感させられる。まあ、イランにはまるで屋外博物館のような遺跡や建築がたくさんあるので、こういう生きたものに触れに行ったほうがよほど良いと思われる。

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門構えの立派なイラン考古学博物館
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博物館の部屋は簡素で、展示も淡泊

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こちらはチョーガ・ザンビールというジッグラトからの発掘物。かなり価値があるものらしいが、とてもそうは見えない。

博物館を出て、何をしたのか正直あまり覚えていないのだけど、イラン、特にテヘランは信号がろくに整備されていないので、横断歩道を渡る際は車の途切れたスキを見て渡らなければならない。交通量も多いので横断は命がけである。横断歩道一つ渡るのに命を懸けるなんて大変な国であるなあ。正直大都会の街歩きは風情がないのであまり好きではないし、10日異国に滞在して疲労が隠せない我々は早めに荷物を回収して空港に向かってしまうことにした。

なお、一応備忘録的に書き残しておくが、テヘランのバーザールはかなりゴミゴミしていて、雰囲気も地方都市のバーザールと違って趣が乏しくごちゃごちゃしており、あまり雰囲気がよろしくなかった。確実に歩いた記憶はあるのだが、訪れたのは2月26日か28日かの記憶がまったくない。しかし、東へ向かうBRTに乗ったのちにバーザールを訪れたような気がするのと、バーザールはゴレスターン宮殿に隣接しているので、ひょっとしたら26日にバーザールを訪れてからゴレスターン宮殿を訪れたのかもしれない。(すると(8)の記事は一部に間違いがあることになる。)そしてそのBRTであるが、専用線にバイクや車が入り込んでいて専用線の意味をなしていなかった。まあ、覚えてないということはあまり印象に残っていないということなんだろう。

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イランの市街地ももう見納めと思うと感慨深いが、都会でどうも落ち着かない

BRTで駅まで戻り、駅前で待機しているタクシーでエマーム・ホメイニー空港に向かう。市街地から空港まではかなり距離があり、1時間ほど走る。50万リヤルほどであった。空港でもあまりにも時間が余っているのでダラダラして時間をつぶし、夕食はアメリカ風ファストフード店で済ませた。空港のおみやげ売り場ではイランの代表的なミーナ・カーリーやガラム・カールなどのお土産品を売っているが高価だし、種類も少ない。友人はホメイニー師の顔写真マグネットを買ってニヤニヤしていた。売店で買ったペットボトル入りのザクロジュースは不思議な味がした。

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人の少ない空港内で時間をつぶす

イランでの10日間はあっという間に過ぎていった。前半の3都市での濃密な体験と比較すると、後半は都会が多かったということもありなんだか淡泊な体験であったようにも思われるものの、それでもかなり濃厚な体験だった。カタール航空にてドーハへ。ドーハからはわずかな乗り換え時間で日本に向かう。帰りの飛行機は比較的すいており、ゆっくりと過ごせた。

成田空港からはお決まりのスカイライナーで上野へ。上野でこれから間髪入れずオーストラリアに向かうという友人と別れて帰宅した。あまりにも強烈な文化的体験をしたせいか、それとも緊張の糸がほどけたせいかはわからないが、帰宅後数日間発熱で寝込んでいた。

 

 

イラン旅行(9)2016.2.27 トルコ人たちのイラン

2016/2/27

終日タブリーズ観光

タブリーズ・インターナショナルホテル宿泊

 

この日は終日タブリーズを観光する。

タブリーズの名所といえば、なんといっても規模の大きなバーザールだろう。このバーザールの歴史は1000年以上前にさかのぼるとされ、現在の建物の原型は15世紀ごろに成立したのだという。15世紀といえば黒羊朝(カラ・コユンル)やティムールによる占領、白羊朝(アク・コユンル)の時代であり、白羊朝の首都はタブリーズに置かれていたというから、そのくらいの時代に作られたものということだろう。

タブリーズ・インターナショナルホテルは中心市街から少し外れているので、BRTを利用して市街にアクセスすることになる。BRTはイランの乗り物の常で、男女別々の車両に分けられている。ホテルから10分程度の乗車で、ほどなくバーザールやモスクのある中心市街である。空の色はシーラーズやヤズドといった南部の都市のそれよりも少しくすんだ青色をしていて、どこか控えめな感じがする。気のせいかと思っていたが、写真を振り返ってもやはりシーラーズの空はタブリーズに比べ抜けるような青色をしている。緯度の問題だろうが、こういう細かいが確実な違いは町並みへの印象に少なからぬ相違を与えている。

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左:タブリーズのBRT 右:市街地の時計台

市街地ではよく居るニセ両替おじさんの誘いを無視して、両替屋に向かる。Sephehr Exchangeというところで、レートは100ドル=345万リヤル程度とシーラーズに迫る良いレートであった。町並みは特段に伝統的なスタイルというわけでもないのかもしれないが、くすんだレンガでできた高さの揃った家屋と、落葉した並木の色が調和して美しい町並みを作り出している。

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美しい中心市街の町並み

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両替屋の近くにある構造物はアルゲ・タブリーズという城塞の遺構で、14世紀のイルハン朝(フレグ・ウルス)時代に建てられたものだという。タブリーズ一帯は地震が多い地域であり、この城塞の遺構も一部しか残っていない。装飾にも乏しく、なんだかちょっと寂しげだ。

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寂しげにたたずむアルゲ・タブリーズ

バーザールのお店が開くにはちょっと時間が早いと考えたので、この町の最も大きなモスク、マスジェデ・キャブ―ドに向かう。外から見るとレンガ色をした2つの形の異なるドームが並んでいるのが印象的だ。5万リヤルを支払って構内に入る。

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左:マスジェデ・キャブ―ドと詩人ハーガーニーの像 右:モスク構内

このモスクは15世紀、先述の黒羊朝(カラ・コユンル)のスルタン、ジャハーン・シャーの時代に建てられたものだという。今土色をしたドームも、かつては美しいブルーの装飾タイルでおおわれていたらしいが、度重なる地震で装飾は大きな損傷を受けたそうだ。エイヴァーンや外壁の一部に装飾タイルが残っており、地震ではがれ落ちたタイルの一部が展示されている。

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露出した漆喰が痛々しいエイヴァーン

モスク内部の装飾は修復中のようで、床には工事現場のような緑色のシートが敷かれている。やはりオリジナルの装飾タイルが残存しているのはごく一部にとどまるものの、その8本の大きな柱で区画された大ドームは大変特徴的な構造をしている。修復のためと思われる、仮塗りされてまだタイルが埋め込まれていない装飾が認められ、もとの美しい姿が偲ばれる。

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大ドーム内部の装飾。一部にオリジナルが残る

上の写真の明るい部屋のほうに向かうと、こちらには地震で落ちてしまったタイルの一部が展示されている。振り返ると今まで見たこともないような濃い青の6角形タイルで装飾されている部分が残る。かつて完全に装飾がなされていたころには、この部屋にいるとさぞかしコバルトガラスの瓶の底に沈められたような気持ちになったに違いない。

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左:濃い青のタイルの装飾が残る 右:地震で落ちてしまった装飾タイル

モスクをあとにする。バーザールに向かう途中で、若者の集団に声をかけられた。このあたりの大学の大学生だという。そのうちの一人、オードリー・ヘプバーン似の美人な女性が私のところに寄ってきて、「私もラインやってるの!ライン交換しましょう!」とか「ガールフレンドはいないの?私と結婚しましょう!」などと適当なことを言ってくる。いや、あまりに日本にいる奥ゆかしい()女性たちとは異なることをいってくるもんだから真意がつかめない。同行する友人も別の女性に絡まれていた。この国の人々は本当に他人に話しかけることに躊躇がないし、女性はとても積極的なイメージがある。いつも男性のアプローチを待っている日本人女性は少し見習っていただきたい…とかいうとたぶんフェ●ニ●トがこのブログを発見したときに発狂するだろうからやめておく。この大学生集団と記念撮影させてもらったが、我々の映っていないほうを掲載しようと思う。

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市街地で出会った学生さんたち

ここで学生さんたちとは別れて、バーザールに向かう。途中の道で「チュンチョンチャン!」と言ってきた少年が。イラン旅行のブログで、中国人を揶揄するこの「チュンチョンチャン!」のうわさを聞いてはいたのだが、実際にこれを喰らったのは初めてである。外交上は友好関係を保っているものの、実際のところ例の国に対するイラン国民のイメージは決して良くないように思われる。

さて、本日の目玉、バーザールに入っていく。迷路のような建築なので入口は当然多数あるが、イランの建築の常で入口からは内部の美しさは想像できない。

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バーザールに入っていく

バーザールは迷路になっており、これはほかの都市のバーザールでも同じだが、道によって扱っている商品のジャンルが異なる。このバーザールでは特に絨毯のお店が目立つ。それも観光客向けのチャラチャラしたお店ではなく、地元民向けの大きなサイズの絨毯が平積みにされていて、なかなか壮観だ。狭い道を歩いていると急に開けた天井の高いところに出たり、ちょっとした庭のような場所に出たりして、そぞろ歩きはなかなかに楽しい。空から見たらこのバーザール全体の建築はいったいどうなっているのか気になるところだ。リアカーを引いた老人が「Ya Allah!Ya Allah!(どいたどいた!)」と言いながら突き進んでいく姿にも風情が感じられる。

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バーザールの風景。左の写真に映っているような絵の描かれた絨毯が多く売られている

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宝飾系を扱うエリア

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広い空間に出る。この周辺では絨毯を扱う店が多い

質素ではあるが様式美を感じられる建築であり、迷うのが楽しい。少し歩き疲れたので開けたところで休んでいたところ、謎のおじさんが出現してポーズを取り始めたので、しっかりと写真を撮らせていただいた。

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謎のおじさん

先述したようにこのバーザール、規模は大きいがおそらくすべて地元民向けであり、観光客向けのミーナ・カーリーを売っている店は皆無に等しい。金属加工品を売る店もわずかだ。これは観光客が少ないというのもあるが、後述するように民族の違いによる文化の相違によるところもあるかもしれない(推測でしかないが)。

お昼の時間になったため、いったんバーザールを離れてレストランに向かう。レストランはエマーム・ホメイニー通り沿いにある適当なお店に入った。地下への入口を入るとそこには広いお店の空間が広がっている。英語メニューもあった。メニューがありすぎて何を頼んだのかあまり記憶がないのだが、店はすいており、個人ガイドとともに入店したフランス人女性くらいしかほかの客はいなかった。

適当に街を散策することにする。先ほど訪れたマスジェデ・キャブ―ドに隣接して公園があり、そちらで一休み。するとこちらでも地元の学生が話しかけてきた。どこからともなくお茶が出される。彼曰く、「我々はトルコ人」だという。トルコ人ペルシャ人の違いは、彼ら的には顔でわかるらしい。最初は何を言っているのかよくわからなかったが、調べてみると興味深いことがわかってきた。

現在のイランの領土のうち、北東部のアルダビールやタブリーズでは住民の多くがトルコ系のアゼリー(つまりアゼルバイジャン人と同じ)である。アゼルバイジャンもかつてはイランの領土であり、ガージャール朝時代にロシアとの戦争に敗北しゴレスターン条約にてこの領域を失ってしまうが、住民的にはアゼルバイジャンと同じ系統というわけだ。イランというのはペルシャ人の国家ではなく、ペルシャ人やトルコ人、オルーミーイェ州の西のほうに多く住んでいるクルド人など多くの民族を抱える国家である。もっとも興味深いのは、多民族国家だからと言って民族対立が起きているわけでもないということである。国の最高指導者ハメネイ師はそれこそテュルク系の人である。

近代において流行った思想に国民国家とか民族自決とか言った概念があるけれども、民族で国境を分けようとするとその境目はかえって恣意的になり、今まで意識されていなかった民族意識というものが生まれ、民族内での団結は深まるがその一方で今まで意識に上ることがなかった「他民族」という概念を生み出し、無駄な争いが生じることになる。こういういい方は身もふたもないかもしれないが、宗教も民族自決国民国家の概念も、方向性は違えど人類の団結力を深める手段として発明された概念という点では共通しているが、これらの概念を維持するには共通の敵というものが必要である。すなわち団結というのは血なまぐさい争いによって担保されているわけである。本当に民族自決という概念は世界に利益をもたらしただろうか?「トルコ人の民族国家」を作った結果クルド人問題を抱えるトルコや、恣意的に奇妙な国境線が引かれたトルキスタン諸国、そして最近では民族ごとに州を分けた結果ティグレ人とアムハラ人の争いから内戦に突入したエチオピアなどを見ていると、強い疑問がわいてくるわけである。

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ミナレットのある風景。これも見納めに近い

閑話休題

バーザールは大方見終わったので、ほかに特に見るものがないということもありホテルに戻る。本日はイランでの滞在の最終日ということで、ホテルのレストランでは夕食に加えノンアルコールビールを注文した。このビール、なんだかオレンジジュースのような味がして、ビールとして飲むと違和感があるが、案外おいしい。この10日間はあっという間であったように感じられ、名残惜しさとともにイランでの最後の眠りについた。

 

 

 

イラン旅行(8)2016.2.26 ゴレスターン宮殿 ―テヘランからタブリーズへ―

2016.2.26

→→→8:00頃 テヘラン駅着

テヘラン観光

13:00 テヘラン空港

14:10 ATA航空5248便 

15:10 タブリーズ空港

インターナショナルホテル泊

 

本日もまた日程が慌ただしく、寝台特急テヘランに到着し、午前中はテヘラン観光。といっても、それほど滞在時間が長いわけではないので、ガージャール朝時代の宮殿、ゴレスターン宮殿を主に観光する。午後はATA航空でタブリーズに向かい、タブリーズに宿泊するという日程である。イランでは公共交通機関の本数が決して多くないため、どうしても隙間の時間が生まれてしまうのが残念なところ。

起床すると外は既に明るく、窓の外にはひたすら岩石砂漠が広がっている。車掌がやってきて、軽食とお茶を運んできた。同室のおばあさんが列車の振動からか床の絨毯にお茶をこぼしてしまう。そこで初めて、この国では寝台特急の床にすら織は粗いものの絨毯が敷いてあるということにも気が付いた。なんという絨毯文化だろう。

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左:朝の列車の様子 右:ひたすら岩石砂漠の鉄路を行く。ヨーロッパではまずお目にかかれない光景だ

しばらく経つと次第に緑が多くなり、市街地が迫ってきたと思ったらテヘラン駅に到着した。テヘラン駅はテヘラン中心市街の南端にあり、寝台特急から降車した客で賑わっている。

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左:駅構内には到着した寝台特急が 右:テヘラン

駅前には例によって客引きのタクシーがいて、英語で話しかけて来るものもいるが、英語で話しかけてくるやつは大体怪しいので無視して、BRTを使うことにする。BRTは比較的新しいらしく、近くのオフィスで専用のICカードを購入する。二人で1枚を使うということも可能らしいので、ICカードは1枚のみの購入にしてゴレスターン宮殿に向かう。BRTの中は比較的清潔で、ヨーロッパのように頼んだわけでもないのに音楽を演奏して金を要求してくる変な人もおらず快適だ。というか、何回も同じようなことを書いて申し訳ないが、ヨーロッパは非常にクリーンで洗練されたイメージが漂っているけれども、富が偏在しているので貧しい人は貧しく、都市の治安は正直あまり良くない。イランの諸都市のほうがよほど治安がいいはずだ。ヨーロッパというだけでオシャレに感じたり、アメリカというだけで先進的だと思ったり、中東というだけで危険だという先入観を持ったりするのは非常に短絡的な考え方のように思われる。

 

BRTでMoniriye square駅に到着。ここからよく整備された綺麗な歩道をしばし歩くと、そこがゴレスターン宮殿である。

ゴレスターン宮殿は多くの建築物の集合体である。それぞれの建物ごとに料金が設定されており、全ての建物に入ろうとすると80万リヤル程度と、なかなかの値段がする。しかしながら結論から言うと、どの建物も中に入る価値があるので、これは高くても払っておいた方がいい。エチオピアにおけるラリべラの岩窟教会の入場料が異常に高いのと同じような位置付けだろう。

高価なチケットを購入し構内に入ると、細長い長方形に伸びるペルシャ様式の池正面の正面には、鏡張りの間に大理石の玉座が安置されているのが見える。その奥では近代的なビルが美しい景観を破壊しているが、玉座に近づくにつれ見えなくなる。

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ビルが景観を破壊するゴレスターン宮殿。まあ都会の歴史的建造物ははどこの国もそういう運命にある。いや逆に均整がとれすぎて違和感がないかも。

この大理石の玉座はきわめて精巧な彫刻がなされており、「ペルシア芸術の最高峰に位置づけられる」そうである。非常に印象的だ。ガージャール朝時代は内憂外患に悩まされ領土を蚕食されたぱっとしない時代であったというが、こんなものを作るカネはいったいどこから出てきたのか、疑問は尽きない。

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大理石の玉座。精巧に彫刻されている

庭園はそれなりに美しく管理されているが、落葉樹が木の枝だけになってしまっているのでどこか殺風景な感じだ。それもそう、テヘランは北緯35度41分に位置する。東京とほぼ同じ北緯に位置するわけである。東京より標高が高く植物も少ないから冬の冷え込みは厳しい。草木も葉を落とすわけである。

それぞれの建物を回っていく。二つの塔と時計塔が印象的なシャムス・オル・エマーレは、これまた中央部に鏡張りの間を備えている。建物に描かれた壁画はマニエリスム的な色使いでピンクと黄色が目立ち、やや粗野で偶像味が強いが、これはペルシャ系というよりはテュルク系の影響が強いように思われる。実際ガージャール朝はトルクメン人が打ち立てた国家ということで、なんとなく納得できる。そういえばシーラーズのエラム庭園の建物も同時代のものだが、やはり同じようなマニエリスム的色使いで壁画が描かれていた。この建物、内部に入れるらしいのだが、入るのを忘れてしまった。

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二つの塔が印象的なシャムス・オル・エマーレ

ゴレスターン宮殿はかなり広く、さまざまな建築があるが、一番印象的だったのがバードキール。これはヤズドにあるのと同様の風採りの塔なのだが、内部の装飾は鏡張りに加え鮮やかなステンドグラスに彩られており、まるで螺鈿に装飾された空間にいるような、大変美しい空間だ。この建物だけを目当てにでも入る価値がある。なお、地下室にも入れるらしいが、私はその入り口を見つけることができなかった。

ぜひ大きい写真でご覧に入れましょう。

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バードギールの外観はあまりぱっとしない。外からではその真価はわからないだろう

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バードギール内部①

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バードギールの内部②ステンドグラスが鏡のモザイクに反射して螺鈿のようだ

タラーネ・アスリという建築へ。こちらはヨーロッパからの使節団を迎えるために使われた広間らしい。なんだかシュールな蝋人形とか置いてある。内装は鏡のモザイクが使われており、柱の造形は中東風であるものの、金色を基調とした部屋の配色はどこかヨーロッパ的だ。

そのほか、ちょっとした博物館風になっているところもあったが、なんだか展示がシュールだった記憶しかない。

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タラーレ・アスリ外観。左手には絵画を展示するスペースの入口がある。外観はやはりぱっとしない

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タラーレ・アスリの内装

ガージャール朝の建物であるゴレスターン宮殿はイランの伝統的な建築意匠を引き継いでおり、かなり近代的でありながらしっかりとイランの雰囲気がある。しかしながらイマーム広場の建築群のように圧倒的な富を感じさせるような規模の建築ではなく、どちらかというとこぢんまりした書斎風の雰囲気で、どこか黄昏た感じがする。内憂外患の世相を反映したからなのだろうか?しかしその規模に比して内装は豪華絢爛の極みである。

多くの建築物をめぐってみて感じたことだが、イランの人々は伝統的に、「美」というものにきわめて敏感な感性を持っているように感じられる。それはおそらく、古今東西の文化的影響を受けてきたという理由だけではないだろう。ヨーロッパ的なけばけばしさとは違い素朴な、しかしそれでいて煌びやかで装飾的な建築の数々は、イラン特有の強烈な個性を放っている。

 

時間を潰しつつ宮殿内部を散策し、その後タクシーを拾ってメフラバード空港に向かう。テヘランには国際線の発着に主に使われるエマーム・ホメイニー空港と、国内線の発着が主体のメフラバード空港があるが、今回は後者というわけだ。

空港はこちらも随分と素朴な印象。正直あまり記憶には残っていないが、露骨に工事中だった。荷物を預け、今まで乗った中でも屈指の古い機体に乗り込む。この飛行機、冊子を見るとフォッカーとか書いてある。1996年に倒産したということだから、新しく見積もっても20年選手の機体である。なんとまあ味わい深いことか。

離陸から1時間ほどでタブリーズに到着する。窓からは美しい裾野を引き、山頂部に雪をいただいた火山のような山がタブリーズ到着直前に見えたのが印象的だった。調べてみると、これはサハンド山という休火山らしい。

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左:メフラバード空港 右:美しい裾野を引く火山、サハンド山

空港到着後、荷物を回収しタクシーを拾って、本日の宿、インターナショナルホテルに向かう。ここでもタクシーの運転手が聞いたことのないような音楽を大音量で流していた。インターナショナルホテル(タブリーズ国際ホテル)は古めかしい外観ではあるものの格式を感じるホテルで、部屋は新しく改装されており快適だ。

ホテルの裏手には、なんとかわいらしいイルカの像が設置された謎のプールがあったりして、異国の地にあってどこか親しみを感じる。

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左:インターナショナルホテルのロビーは古いながら格式がある 右 ホテルの窓から見る風景はどこか親しみを感じる

この日は移動が多くけっこう疲れた。まあ異国の地では何をやっても疲れるので仕方がない。ホテル内にある小綺麗なレストランで夕食とした。

明日は一日、タブリーズの観光である。イランの旅もそろそろ終わりが近づいてきた感じがあるものの、規模の大きいバーザールのそぞろ歩きを楽しみにして寝ることとした。

 

イラン旅行(7)2016.2.25 夜行列車でテヘランへ

2016.2.25

マシュハド観光

21:15 マシュハド駅発

→→→(車中泊)

 

本日は夜までマシュハドを観光し、そののちに夜行列車でテヘランに向かう。

といっても、マシュハドの唯一かつ最大の観光の目玉であるエマーム・レザー廟はすでに二回も訪れてしまい、あまりやることがない。ホテルを遅めにチェックアウトし、荷物をホテルにあずかってもらうこととする。あまり見るものがないので、適当に市内を散歩することにする。正直この日は全日程を通してもっとも記憶に残らなかった日だったと思う。バーザールも大した規模ではないし、エマーム・レザー廟のほかに観光するものといえばナーディル・シャー廟くらいしかない。しかもそのナーディル・シャー廟も柵の外からなんとなく外観を見ることができるし、外観は明らかに工事中であったので金を払ってまで入場する気が失せた。

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左:趣の乏しいバーザール 右:ベイトル・モガッダス広場(「神聖な家」の意)

ナーディル・シャーというのは世界史においてはそれなりに重要な人物なので、一応紹介しておく必要があるだろう。凋落著しい末期のサファヴィー朝において、彗星のごとく現れたのがこの男である。マシュハドの出身で(廟があることからもわかると思うが)、出自はテュルク系であったという。わずかに命脈を保っていたサファヴィー朝の摂政を務め、ペルシャに侵入していたアフガニスタン勢力や、オスマン帝国を駆逐。トルキスタンやインドへの遠征も繰り返し、一時的に領土を大きく拡大した。しかし後世には恐怖政治を敷くようになり、周囲から恐れられ最後には暗殺されたという。ウズベキスタンに遠征した際にサマルカンドのグーリ・アミール廟からティムールの棺を運び出すよう命じ、その際これを悪い兆候だと考えた部下により諫められたとの逸話がある。結局ティムールの英雄譚を模倣しようとした彼の驕慢さは治世の残酷さとなって現れ、結果的に自らを死に追いやったわけである。いつの時代も人間というのは自分の本来あるべき天分を大きく超えた権力を手にするといい気になり、調子に乗り、羽目を外すものなのだろう。英雄の悲しい性である。

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左:市街地に現れた小さなモスク?? 右:工事中のナーディル・シャー廟

時間が余ってしかたがないので、市役所の前で休憩したり、ホテルのロビーで暇をつぶしたりしていた。ロビーでは聖地ということもあって頭にターバン的なものを巻いたオッサンも出入りしている。このターバンの色、黒だとムハンマドの子孫であることを意味するとかなんとか。ここでも現地人が話しかけてきた。発音はきれいだが文法は(私でもわかるくらい)めちゃくちゃだ。しかしこれなら外国人と話すことができる。なにより彼らは外国人と話すことに全く躊躇がない。外国語上達の秘訣は結局は積極性であるということだろう。外界と隔絶された島国日本と、常に人の流動がある大陸における人々の気質の違いを感じざるを得ない。

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左:マシュハドの市役所 右:夕刻の市街地。ネオンがまぶしいのはほかのイランの都市と同じ

夕刻になったがやはり時間が有り余っているのでマシュハド駅へは徒歩で向かう。治安はよいので特に心配はない。マシュハド駅はとても立派な駅で、下手をすると下手な地方の空港よりも立派だ。

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左:マシュハド駅外観 右:駅は多くの人でにぎわっている

駅は電車の発車を待つ人であふれている。駅にある売店で飲み物や夕食を買い込んだ。隣に座っていたおじいさんに何時の電車に乗るのかと聞かれたので、覚えたてのペルシャ語で答えてみる。するとペルシャ語ができるのかと聞かれたので、ほんの少しだけ、と答えた。

外国語の学習はどんなに簡単といわれる言語であっても長い道のりで、決して容易ではない。現地の人々の言葉を少しでも覚え、コミュニケーションをとろうとすることが、その土地に暮らす人々への敬意につながるのではないかなどとなんとなく思っている。

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列車の一覧が掲載された掲示板。ザンジャーン行きの1本を除き、すべてテヘラン行きだ。我々は21:15発に乗る

定刻に近くなったのでゲートに向かう。駅はまるで空港のようにセキュリティーチェックが厳重で、チケットと一緒にパスポートもチェックされる。先頭車両で写真を撮影するほどの時間的精神的余裕はさすがになかった。

我々の席は二等寝台で、少し古びた電車に乗り込むと老夫婦と同じ部屋であった。途中謎のオッサンに「席をかわらないか」と言われたが老夫婦が追い払ってくれた。まあ、イランの人々はこのように思ったことを好き放題言っては来るものの、だからと言ってそこまでごり押しはしてこないのがいいところだ。大陸的な積極性の中にどこかプライドとひかえめさがある。

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左:テレビが備え付けられた社内。同じ部屋になったおじいさん 右:寝台を広げた様子

部屋にはテレビが備え付けられており、謎のイラン映画が流されていた。イラン人がアメリカに行くが文化の違いから様々な苦労をするという、皮肉とエスプリのきいた映画でなかなか面白かった。私より友人にウケたようである。マシュハドから出ると電車は市街を巻くようにしておおきくカーブし、次第に町明かりのない暗闇に移行していく。消灯し、車両の振動に揺られながらぐっすり寝た。

 

 

 

 

イラン旅行(6)2016.2.24 聖都マシュハド

2016/2/24

 

 

午前中:イスファハーン観光

12:00ごろ イスファハーン空港

13:30 Iran Airtour 943便でマシュハドへ

イランホテル泊

 

本日は午前中は再びバーザールを観光し、午後は空の便でマシュハドへ移動する。

昨日目星をつけたものを買いに行くために再びイマーム広場のバーザールに向かう。友人とは昨日お世話になったおじさんのお店で待ち合わせさせていただくこととし、個人で自由行動(買い物)をすることにした。昨日と比べると少し雲が多く風が強い。そして心なしか人が多い気がする。小学校や中学校の社会科見学、芝生でピクニックをする人たち。多くの人たちでにぎわっている。ここはイスファハーン市民にとっては世界史の学びの場であり、ペルシアの栄光を鼓舞する場所であり、憩いの場でもあるのだろう。確かにこの建造物の規模は日本の有名な古都京都ですら比較にならないほどで、あらためてため息が出る。

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左:ミーナ・カーリー。繊細な青の模様が美しい 右:謎の卵のようなオブジェ

昨日よさそうだと思ったミーナ・カーリーのお店を何点か回ってみると、一つ大変美しいものを見つけた。青と茶色を基調としたポットで、今までみたものよりもはるかに模様が繊細で美しい。お店の人に聞いてみると「これはオールド・マスターが作ったものだ」という。大きいものと小さいものがあり、大きいものは100ドルほどだという。はじめて心から気に入ったものを見つけたので、価格交渉してみる。100→50→75→70ドルで、結局70ドルで落ち着いた。(今更だが、イランはアメリカと断交しているものの、おみやげ店ではUSDがかなりの確率で使える。)

値段が決まると、店の人が「Congratulations!」といって握手してくれた。丁寧に包んでもらったポットをザックの中にしまい、お店を後にする。ペルシア絨毯のうちで大きさや値段が手ごろなものを買えれば、と思っていたが、美しいシルク製の青色の絨毯は1000ドルオーバーだったので、今回は遠慮しておいた。値段や大きさの点では、ミーナ・カーリーのほうがお土産品として優れていると思う。余った時間で、去るのが名残惜しいイマーム広場の写真をたくさん撮った。

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左:北側のバザールへの入口 右:イスファハーンでもフレンドリーな学生たちが手を振ってくれた

昨日お世話になったお店に集合すると、友人は小さなミーナ・カーリーの小さなコーヒーカップのセットを買ったという。また広場では謎のイラン人に「日本はなぜアメリカの言いなりなのか」などという質問をされたのだという。(まあここまで欧米に追い込まれてもなお自らの主張を曲げないイランという国の人々にとっては、他国にこびへつらってばかりの日本が理解できないのも当然だろう。日本は資源がない弱小国家であり、生き残りのためには主張を捨てるのはやむを得ないことだと思う。そこはそれなりに面積のある国家で、資源も豊富なイランとは違う。日本では自分の意見をはっきり述べることはよしとされないということも、これを助長していると思われる。)

2日間お世話になった絨毯店のおじさんとしっかり握手をして去る。いつになるかはわからないけど、私はきっとまたこの国を訪れるだろう。そのときまでどうか達者でいてほしいと願う。偉大な文化と寛容な精神の宿る土地。本当に素晴らしいところだった。

 

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イマーム広場全景。この景色は一生忘れないと思う

ホテルのフロントに預けていた荷物を回収し、タクシーで空港に向かう。空港までの景色はほとんど記憶にない。イスファハーン空港はこれといって特徴のない地方都市の空港といった趣。

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左:アッバースィーホテルのフロント 右:イスファハーン空港は地方都市の趣

古びた機体に乗り込んで1時間ほどであっという間にマシュハドの空港である。空港を降りるとどこか暖かさを感じるシーラーズや圧倒的な文化都市イスファハーンとは違った、少しピリピリした雰囲気が町に漂っている。かなりの大都会で、近くに山とか丘という自然の造形があまり見当たらず、殺風景な雰囲気だ。さっさとタクシーを拾って本日の宿、イランホテルにチェックインする。

マシュハドとは殉教地を意味する(アラビア語の語根sh-h-dは示すとか殉教するとかいう意味を持つ。マシュハドはこの語根から派生した単語)。8代目エマーム・レザーの殉教地であり、イラクナジャフやカルバラー、イラン革命震源地コムと並んでシーア派の重要な聖地のひとつとされている。

マシュハドの宿はかなり取りにくいことがあるので直前にならないとどうなるかわからない、と旅行会社の方が言っていたが、宿とれました、それなりに綺麗でよいホテルだと思いますよーとのことだった。イランホテルは4つ星のホテルで、外装はややオンボロであるが絶賛改装中。部屋は広いというよりだだっ広く、シャワー室が妙に簡素なのが印象的だった。

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左:イランホテル外観 右:妙にだだっ広い部屋

 荷物を置いてマシュハドのほぼ唯一かつ最大の観光(巡礼)スポット、ハラメ・モタッハル広場に向かう。ハラムの中に入る際に「camera mamnu3(カメラ禁止)(3はʕ、すなわち有声咽頭摩擦音を示す)」と説明されカメラを預けることになるが、スマホはどういうわけか回収されないので、スマホで内部の写真を撮ることは可能だ。外国人入口というものもあって、そちらを通ると案内人がつくらしいが、我々はどうやら巡礼者に見えたらしく、特に何のお咎めもなく巡礼者として入ることができた。

モスクや聖地はムスリム以外入域禁止となっている国がかなり多い。たとえば聖地メッカやマディーナはムスリム以外入域不可能だし、2019年に旅したウズベキスタンでもモスクとして現在使用されている場所には基本的に入れてくれなかった。オマーンでも観光客がモスクに入れる時間帯は限定されていた。イランという国はこの辺に非常に寛容で、名だたるモスクや聖地には非ムスリムも入ることが許されている。これはある意味例外的な寛容さなのかもしれない。イラクに行ったことがないのでよくわからないが。

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ハラメ・モタッハル広場

 ハラムの建築はティムール朝にさかのぼるかなり古い部分もあるが新しい部分も多くみられ、訪問当時大きなミナレットが工事中だった。ここは歴史的なモニュメントではなく、今なお多数の巡礼者を迎え入れ、拡張され続けている場所なのだと実感する。

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黄金のドーム前の広場

エマーム・レザーの棺は黄金のドームの中にあり、銀色の柵でおおわれている。ドーム内は神聖な色とされている緑色の光を放つシャンデリアで照らされている。多くの人がこの銀の柵に触れてご利益にあやかろうと押し合いへし合いしており、室内はすごい熱気だ。持ち込んだスマホのカメラでレザーの聖墓の写真を撮ろうとする人もいるが、監視員のような人が先に毛の生えた棒みたいなものでそっと牽制される。私もこっそり写真を撮った。

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レザーの棺が安置されるドームは緑色のシャンデリアで照らされ、すさまじい熱気にあふれている。よく見るとちゃんとtaswir mamnu3(写真撮影禁止)と書かれていた。すみません。

人々はレザーの棺を安置する銀の柵に触れた後も、右胸に手を当てて敬意を示し、何度も棺に向かって礼をしながら少しずつこの空間を後にしていく。訪れる人々の敬虔さがうかがわれる。なお、この空間に連続してまるでシャー・チェラーグ廟のような鏡の空間があったが、撮影は忘れてしまった。

このハラムにはいくらかの博物館が付属している。かつて使われていたレザーの棺を覆うための銀柵や、どういうわけか魚の剥製まで展示されている、割と謎な博物館がある。絨毯博物館というのもあり、こちらは繊細な模様の描かれた巨大な絨毯が多数展示されていて圧巻だった。

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レザーの棺をおおうためにかつて使用されていた銀柵から、魚の剥製まで展示される謎の博物館

いったんホテルに戻りしばし休憩。マシュハドはサフランの名産地でもあり、市街には赤いサフランの袋詰めを売っている店が多数みられる。残念ながら食事をできそうな店がなさそうなので、ホテル内のレストランで夕食をすませた記憶がある。夕食を済ませたのち、再度日没の時間にハラムに向かうことにした。

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夕刻のハラム。礼拝のため人が集まる


黄昏時のハラムは集団礼拝のため多くの人が集まってきており、緊張感のある雰囲気だ。礼拝の方法などはまったく学んでいなかったので、我々は集団礼拝の様子を呆気にとられながら眺めていた。中には集団礼拝に加わっていない人も少しいて、なんだか温度差が感じられる。

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集団礼拝の様子

礼拝が終わって少しゆるんだ空気の中、ハラム内を散策してみる。黄金のドームやティムール朝時代に作られたという青いドームが美しくライトアップされていて、昼に来るのとはまた違った趣がある。

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左:青のドーム 右:美しくライトアップされた黄金のドーム

バーザールに寄ってからホテルに戻ることにする。ここのバーザールは規模も小さく、お土産品のようなものはサフラン以外ほとんどない。香水売りのおっさんにムエットを渡された。中東では香水文化が深く根付いているという話を聞いたことがあるが、どうも本当のようだ。

イスファハーンとマシュハドの都市の雰囲気の違いには正直圧倒された。マシュハドの乾いたよそよそしい雰囲気は、観光客である我々には刺々しく感じられ正直居心地が悪い。聖地を訪れる人々の熱気に疲れた我々は、さっさと眠りについた。

 

 

 

 

イラン旅行(5)2016.2.23 世界の半分

2016/2/23

全日イスファハーン観光

アッバースィーホテル泊

 

イスファハーンは世界の半分。

世界史を学んだ人なら、この言葉を一度くらいは耳にしたことがあるのではないだろうか。私は高校時代世界史は大嫌いだったが、サファヴィー朝の名前もイスマーイール1世の名前も全く記憶にないのに、この「イスファハーンは世界の半分」という言葉だけは覚えていた。それだけこの言葉が強烈なフレーズだったからだろう。

そもそもこの言葉、冷静に考えてみれば意味が分からない。自らの成果を誇示しがちな帝国の支配者が自らの都市を世界のすべてがあると形容するならまだしも、わざわざ半分といっているのである。謙遜だとしてもせめて世界の大半があるくらいにしておけばいいのに、半分にこだわった理由が謎すぎると、当時は思っていた。

高校の頃勉強した世界史の記憶なんて、ジッグラトという不慣れなアクセントを持った単語と、「イスファハーンは世界の半分」というこの意味不明なフレーズと、世界史教科書の表紙を飾る青く美しいモスクの写真くらいだった。どういうわけか、これらはすべてイランと関係のある知識である。そんな自分が高校を卒業して何年かのち、中東の言語・歴史・文化に興味を持ち、このイランの地に立っていたのはある意味運命であったのかもしれない。

朝食を済ませてホテルを出ると、まずはイスファハーンの中心にあるイマーム広場に向かう。風流な街路樹の植わった大通りを越え、西側の通路から広場に入る。広場を吹き抜ける朝の風がさわやかだ。目の前には黄色と明るい水色で装飾されたドームの左右に、均等な大きさの白いフジュラがどこまでも伸びている。広場の中は美しい噴水や針葉樹の植え込みが美しく、図形的な建築との調和が圧巻だ。

どういう順番で見学しようか迷っていたところ、一人の青年に出会う。イマーム広場を案内したいのだという。ありがたい話だが、勝手にガイドしておいて金をとるタイプの人かどうかもわからないので、話はありがたいがこれで失礼したいとうと、なぜありがとうばかり言うのかよくわからないなどと絡んでくる。「No thanks」の意味で「Thank you」と言っているのだがどうやらまったく伝わっていないらしい。我々は自分たちで回りたいというと、13時ごろにここに集まってくれれば案内するよといい残してその青年は去っていった。謎絡み一号である。

まあそんな彼のことはひとまずおいておき、まずはイマーム広場の概要をば。

イスファハーンの目玉ともいえるイマーム広場とその周辺の建築は、サファヴィー朝アッバース一世の命で作られたもの。きれいな長方形をした広場とそれを囲むように作られたバーザール、モスク、そして宮殿の複合建築である。繊細で美しいタイルワークで彩られたモスクはイラン・イスラーム建築の白眉であるとされている。モスクの向かいにある宮殿もまた数多くの柱で高い天井を支える開放的なバルコニーが印象的だ。

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マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー

最初に、我々の入った入口から正面に見えるモスク、マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーを見学することにする。ここはサファヴィー朝時代は王族専用のモスクとしてあり、シャーの妻たちは宮殿から地下通路を通ってここで礼拝をしたのだという。入口にはこぢんまりしたエイヴァーンがある。

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エイヴァーン

横にあるチケット売り場でチケットを購入し、美しいモザイク装飾に彩られた少し暗い通路を通っていくと、唐草模様の装飾が施された小窓から陽光の差し込む空間に出た。天井のドーム部分は紡錘形を基調としたパターンが放射状に伸び、壮大な模様を形成している。シーラーズのシャー・チェラーグ廟とは当然趣向は違うが、繊細な模様の繰り返しが壮大な空間を形成しており、まるで万華鏡の中にいるようで、ため息が出るような美しさだ。メッカの方向には小ぶりなメフラーブが設けられている。

このモスク、着工から完成まで17年かかったという。その精緻な模様からもそれはうなずける。本当に素晴らしい。

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左:天井の繊細な装飾 右:日光が差し込むモスクの空間

マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーを出て、次はマスジェデ・エマームへ向かう。この入口のエイヴァーンは周囲の建築よりも一段高くなっており、2つの大きなミナレットを備えている。まさに私が世界史の教科書の表紙で見た、あの青いモスクである。遠く離れた、自分に縁がない世界と思っていた教科書の写真の風景が今目の前にあることに、静かな高揚感を覚える。

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マスジェデ・エマームのエイヴァーン

入口でチケットを購入し、マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーとは対照的に大きく開放的な回廊を行く。右に45度折れると、正面にミナレットを有するエイヴァーンが大きく構えているのが見える。写真ではやや伝わりにくいかもしれないが、その壮大なスケールには圧倒される。濃い群青を背景として黄色や白の模様が描かれた装飾は、遠くから見ると宇宙に浮かぶ無数の星のようで、荘厳でありながら少しかわいらしい。

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左:ドームへの入口 右:イマーム広場方向を振り返る

天井の高い門を潜り抜けると、天井はやはり青を基調として繊細な唐草模様が描かれている。マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーの天井装飾のような迫力はないが、これはこれで間違いなく美しい。

ドームから横の通路を通ると多数の柱のある空間に出る。天井は多数の柱もありあまり高くない印象を与えるが、日光が差し込んでおり明るい雰囲気だ。

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左:マスジェデ・エマームの天井装飾 右:柱の空間


入口を振り返ると、イマーム広場からの回廊が壮大な入口を構えている。左右にはマドラサのフジュラが規則的に並んでいる。鮮やかな濃い青と白、黄色、青緑の混ざった繊細な装飾は、遠くから見るとくすんだ青色に見え、広場全体を落ち着いた雰囲気にまとめあげている。

 

どのような形容詞もこの空間のもつ荘厳さ、繊細さ、美しさを言い表すには足りない。これが400年前の建物というのが驚きである。本当に素晴らしい。ただただ感嘆の声を上げながらたいして性能もよくないコンデジで何枚も写真を撮った。

つぎに、イマーム広場に面する大きな建築物としては最後の、アーリー・ガープー宮殿に向かう。この建築は修復用の足場が組まれていることもあり、外から見ているとなんだかパッとしないような感じがしたが、内部の装飾は素晴らしい。バルコニーからは壮大なイマーム広場がきれいに見渡せる。バルコニーの天井は細かく装飾されているが修復中で、女性が楽しそうに会話しながら修復作業に当たっていた。壁にはペルシア美人の絵が描かれている。

イランではモスクの入口にはホメイニー師やハメネイ師の顔写真が大きく飾られていたりするし、王宮にはこのように人物画が描かれていたりする。モスクの装飾もアラブ世界のそれと比較すると繊細で鮮やかかつ絢爛である。同じイスラームでありながら人物画のたぐいを一切廃し、質素かつストイックなイメージのアラブ世界とは一線を画したペルシャ的な美的センスを感じる。

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アーリー・ガープー宮殿からみるイマーム広場

宮殿の最上階にある音楽室では、天井に楽器の形に彫られた多数のくぼみが設けられている。余分な音を吸収するためのものだそうだ。楽器の形に彫られたくぼみは、まるで中国の兵馬俑を影絵にしたかのようでもあり、UFOのようでもある。しかし随分薄い素材でできているようだ。木製なのか金属製なのか大変気になるところではあるが、当然触ることはかなわなかった。

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左:ペルシア美人の壁画 右:音楽室天井の装飾

ひとまずメインの見どころは回ったので、イマーム広場の四角形の「辺」にあたるバーザールを散策することにする。青・赤・緑さまざまなミーナ・カーリーを売る店、絨毯を売る店、銅細工の店、そして銘菓のギャズを売る店…たくさんのおみやげ品がバーザールのショーウインドーを飾っている。特に独特の形をしたミーナ・カーリーがとても美しいが、たくさんのお店がありどう選んでよいのかがよくわからない。

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バーザールの様子。ショーウインドーにたくさんの商品が並ぶ

ひとまず多くの店主に話を聞いてみることにした。私も友人も無数に並ぶおみやげに何を買ってよいかわからずバーザールを半周くらいしたとき、ふと「こんにちは」と声をかけてきたおじさんが。日本語が堪能で、かつてペルシャ絨毯の商人として日本にいらっしゃったのだという。彼の経営するペルシャ絨毯のお店に案内してもらい、お茶とお菓子まで出してくださった。お菓子はカラメルのようでとても甘く香ばしい。彼に商品の見分け方についていろいろお話を伺う。

「絨毯は、これはシルク製で、大体800ドルくらいですね。こちらは毛でできていて目も粗いから、300ドルくらいで買える」

ミーナ・カーリーについても見分け方を伺ってみる。それぞれの店舗は当然工房のマスターであり自分たちの作品を売っているわけなので、自分の作ったものを悪く言うはずは当然ない。彼は自分の知り合いだという人のお店に案内し、手に取って説明してくれる。

「(ミーナ・カーリーは)こういうつるつるしたものに絵を描くほうが難しいです。凹凸があるほうが簡単に作れる。これはいい仕事ですね。これはまあまあな仕事かな。」つまり表面が平滑なものに絵を描いていくほうが難易度が高いということらしい。凹凸のあるほうがおしゃれに見えたので、少し意外だった。隣のお店もミーナ・カーリーのお店で、緑色のものが欲しかったのでこのおじさんに伺ってみると、そのお店のスタッフにペルシャ語でいろいろ聞いてくださり、作りたてだという緑色のものを持ってきてくださった。

「これは表面でこぼこしているでしょう。まあまあな仕事だと思います。」なるほど。勉強になる。結局この緑色のミーナ・カーリーはお迎えしなかった。まあ、買っておけばよかったと今更思わなくもない。

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左:お店で出されたお茶とお菓子 右:親切にしてくださったおじさん。ガラム・カールの制作に使う判を手に持っている。本当にありがとうございました

彼の絨毯店の向かいにあるガラム・カールのお店にお邪魔する。ガラム・カールとは綿布に木を彫って作ったハンコで様々な装飾を施した布のこと。見た目は絨毯に比べて大したことないように思えるが制作には手間がかかり、最近では職人の減少が課題なのだという。このハンコを持ってきて作り方についても詳しく説明してくださった。少しくすんだアイボリー色の生地に渋い茶色で装飾をした布を1枚購入することにしたが、彼が値下げ交渉をしてくださり、おまけに小さな布を1枚つけてくれた。

さらに、親切に甘えるようで少し申し訳ないが、このあたりでおすすめのレストランはないかと伺ってみる。するとイマーム広場を出て、地元のペルシャ人以外は決して入らないであろうお店に案内してくれた。

「私はかつて日本にいましたから。日本ではとても親切にしてもらった。これはその恩返しです」

我々が明日までイスファハーンに滞在することを伝えると、またいつでも来てくださいとおっしゃって去っていった。丁重にお礼申し上げて、ひとまず食事をいただくことにする。頼んだのは豆の煮込み料理で、サフランライスの上には干しザクロがまぶしてあり、甘酸っぱさが料理の味にアクセントを加えている。器は質素だが、とてもおいしい。しかしこの店に入る勇気のある外国人はまずいないだろう。まわりの客はみな地元の方だった。

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昼食。ペルシャ語のメニューで名前はわからなかったが、美味

食事のあとに少し離れたところにある、マスジェデ・ジャーメに向かう。(すでに読者の方はお忘れかもしれない、先ほどイマーム広場を案内すると言っていた謎の青年には申し訳ないが、上位互換のガイドが現れてしまったこともあり、トンズラさせていただいた)こちらは8世紀ごろからあるイスファハーン最古のモスクであるが、増築が繰り返されており元の姿をとどめているのはごく一部らしい。イマーム広場の北出口からバーザールにつながっており、ここの道をまっすぐ1㎞ほど歩く。こちらのバーザールは日用品を多く売っている。一度車道をこえて少し歩くとそこがマスジェデ・ジャーメである。かつてのサファヴィー朝の栄華が偲ばれる豪華絢爛なイマーム広場のモスクと比較すると質実剛健な建築が印象的だ。エイヴァーンの下ではちょうど敬虔なムスリムたちが昼の礼拝をおこなっていた。こちらでは久しぶり外国人観光客のカップルに出会った。ロシアから来たらしい。

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左:マスジェデ・ジャーメの入口。左右はバーザールになっている 右:内部。出会ったロシア人のカップ

この近傍に銘菓ギャズの有名店があると地球の歩き方に書いてあったのでそのお店を訪れていたが、大量の地元民たちがギャズをどっさりと箱買いしていく。英語の案内はいっさいなく、人がたくさん並んでいてなんだか質問もしにくい雰囲気だ。しかも箱買いしか選択肢がなく、おみやげとして持って帰るには負担ということもあり、結局買うのはあきらめた。

再び来た道を戻り、今度はイマーム広場を通り抜けて、南のザーヤンデ川に向かう。しばらく大通り沿いに歩くとザーヤンデ川にかかる美しい橋であるスィ・オ・セ橋に出る。スィ・オ・セというのはペルシア語で33を意味し、橋の上に33のアーチがあることから名づけられたようだ。スィ・オ・セ橋の付近は親水公園のようになっており、川べりで多くの人が川の流れを眺めながらゆっくりとした時間を過ごしている。橋の上では若者が「コンニチワ!」などと話しかけてくる。非常に面白い。飲酒という娯楽がないからなのだろうが、人々の時間の過ごし方にとても品性があるように感じられる。

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ザーヤンデ川にかかるスィ・オ・セ橋。1602年完成の歴史ある橋だ

ザーヤンデ川にかかる橋巡りをすると面白いらしいが、すでに本日歩きすぎてなかなか足がつらいものがあるので、これはあきらめた。橋をわたってしばらくまっすぐ歩くとジョルファー地区という旧アルメニア人居留区に出る。ここは、サファヴィー朝アッバース1世が商人としてすぐれた能力を持っていたアルメニア人を移住させた地区である。イスファハーンの繁栄に寄与した彼らには信仰の自由が与えられたという。右手に折れ曲がったこぎれいな道をいくと、ヴァーンク教会というアルメニア正教の教会に至る。外観はモスクのようなドームを持ち、そこまで目立たない。入場料は20万リヤルだ。

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左:ヴァーンク教会外観。地味だ 右:内装。禍々しいまでに派手なフレスコ画が印象的

外観は地味なこの教会であるが、内部の装飾は強烈だ。入ると金色を基調としたまばゆいフレスコ画が目に入る。モスクのどこか奥ゆかしく静謐な模様の世界に目が慣れていると、イスラム世界を旅しているのでなければ美しいと思えるはずのフレスコ画もやや禍々しく感じられる。イエス・キリストの顔だけ描かれたパターンが繰り返し現れる部分などもはやシュールで少し気味が悪いくらいだ。ムスリムが偶像を見たときに感じる感情とはこういうものなのか、というのが体感できるような気がする。この教会は博物館が併設されており、聖書の言葉を記した髪の毛や世界最小の聖書など、興味深い展示がたくさんあった。

ここからはかなり長い距離を歩いてホテルまで戻らねばならない。日が沈むとやはり人通りが多くなり、スィ・オ・セ橋は人であふれていた。帰り道に通ったケバブ屋で買ったケバブを本日の夕食とすることとし、ようやくホテルに到着。イランの夜の市街はネオンがきらめき、昼の光景とは違った独特の様相を呈するのだが、当時自分が持っていたデジカメの暗所性能が著しく悪く、きれいに写真が撮れなかった。

到着したホテルでは先ほどのケバブを食したあと、夜の街を散歩してみることにする。友人は疲れたらしくホテルで休むといったので、一人で街に繰り出すことにした。やはり治安はよく、イマーム広場ではたくさんの人がくつろいでいた。

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夜のイマーム広場の様子。カメラの性能が…

それにしてもカメラの性能が悪い。現代ならスマホのカメラでさえ夜の写真をもっと美しく撮ることができるだろう。しかし夜のイマーム広場もライトアップされており、独特の趣があって美しい。

 

イスファハーンはイランにおけるイスラームの軌跡やサファヴィー朝の隆盛を偲ぶことができ、圧巻だった。「半分」というのはおごりではなく、おそらく当時の人がこれらの建築群の美しさや、この町の繁栄ぶりを前にして実際に体感したことなのだろうと思われた。

明日の午前中は本日バーザールで回って見当をつけたおみやげ品を買うこととし、午後は飛行機でシーア派の聖地のひとつ、マシュハドへ向かう。