Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

パタゴニア(5) 玉座の上の乞食

1/31

6:30より マグダレナ島+マリア島 半日ペンギンツアー

午後 市街観光+α

Hotel José Nogueira泊

 

5時ごろに起床した。

6時半からペンギン島ツアーがあり、これに参加する。プンタアレーナスの近辺にはペンギンの生息地が何箇所かあり、一方はマグダレナ島。こちらはマゼランペンギンが生息している。もう一つはフエゴ島のポルべニール付近にキングペンギンの生息地がある。

どちらにもツアーが出ているが、マグダレナ島ツアーは午前中だけなのに対し、キングペンギンツアーは終日ツアーとなる。元来プンタアレーナスは休息日という扱いで、長い旅程で体調を崩さないように、もしくは何かあった時のために余裕を持たせた日程だったので、午前中で終わるマグダレナ島ツアーを選択していた。この日程の余裕が、クレジット不正利用に関わる各種行政手続きのための時間にそっくりそのままなるとは皮肉なものである。

朝6時ごろにホテルを出た。ここでフロントの方より、本日分の弁当を受け取る。どう見ても2食分くらいある量の食料が渡される。サンドイッチ、ドライフルーツ、そしてナッツ。現金が少ない自分のために、わざわざたくさん用意してくれたらしい。どう感謝を伝えるべきだろうか。ミニバーで水を買うほどのお金も勿体無いので、悪い水でもいいからくださいと言ってボトルを差し出すと、いい水をあげるよ、と言ってボトルを水で満たしてくれた。涙をこらえきれなかった。重ね重ねお礼を言って、ツアーに向かった。

朝6時半にホテルからほど近い旅行会社のオフィスに集合する。ここで受付。受付終了後、旅行会社のバスに乗り込む。どちらかというと女性の観光客の方が多い印象だ。まあペンギンかわいいからだろうな。40分ほどバスに乗ると、マグダレナ島への船着場に到着した。

マグダレナ島への船着場

マグダレナ島への船は比較的小ぶりだが、40-50人程度は乗っているだろうか。船にガイドが乗り込み、マグダレナ島の自然と生物についての解説がされる。マグダレナ島には主にマゼランペンギンとウミウの生息地になっている。他に褐色の鳥が生息しているそうだが、名前は忘れてしまった。この褐色の鳥は嘴の力が強く、服を食い破られてしまうから気をつけるように、とのことである。マルタ島にはシーライオン(アシカ)が生息しているようだが、こちらの島は天気が良くなければ近づくことができない。行けるかどうかは天気を見て判断するが、今のところは微妙です、と言っていた。船の運転手はリズムの速いノリノリの音楽を流しており、船の揺れも軽快に感じる。

 

1時間ほどすると、マグダレナ島の船着場に到着した。船を降りると風が強く、鳥の生息地特有の強烈な匂いが漂っている。おそらく鳥のフンの匂いなのだろう。45分ほど時間を与えられ、この間に散策を終えるように、ペンギンに触れたり近づきすぎてはいけない、給餌は禁止である、等々の説明がされた。

 

マグダレナ島には島をぐるりと1周まわるように遊歩道が設置されており、海に近い低地にはマゼランペンギンが、高台にはウミウが多く生息するという微妙な棲み分けが成立している。カップルのペンギン、子育て中のペンギン、群をなすペンギン、そして独り者のペンギン。鳴き声はあまり美しいとは言えないが、とてもつぶらな瞳をしており、なかなかかわいらしい。

 

地面に多く認められる穴はペンギンの巣で、ここで子育てやら何やらが行われている。人々は自分のペースで歩を進めているが、自分は歩くのが割と速いのでさっさと進む。するとペンギンが道を横切ったり、まるでついてくるかのように一緒に歩くようなシチュエーションに出会ったり。なんだか童心に帰ったような気分である。ツアーの宣伝文句は「ペンギンと歩くツアー」だったが、これは文字通り、ペンギンと歩くツアーだ。同じツアーに参加していたスイス出身のおばあさんより、ペンギンは両親から泳ぎや餌の集め方を教わるらしい、という話を聞いた。

こちらはウミウ

とても穏やかな気持ちで島を1周。ツアーの人々の帰還を待って、船は出発する。

本日は天気が好転し、風も落ち着いてきたので、マルタ島に向かうという。こちらはシーライオン(アシカ)の生息地として知られている。マルタ島に上陸はしないが、島のかなり近くまで接近し、シーライオンを眺める。海にはたくさんのコンブが見られる。シーライオンの鳴き声は、まるで所謂ジジイの呻き声的な感じで美しい響きは微塵もなく、集団で寝転がりダラダラしている雰囲気と相俟って、非常にシュールである。

 

マルタ島の様子を全員が見えるように船が何回も回転したのち、本土へ引き返す。船では温かいココアと簡単なお菓子が出された。波に揺られて、1時間ほどで海岸に。さらに40分ほどで、プンタアレーナス市街に戻った。

 

時間はまだ11時を回った程度。

本日は風が強いが、気持ちの良い晴れだ。澄んだ空の青が美しい。この日は昨日と打って変わって観光客はまばらで、町は静かだった。

 

今日は“Policia de investigaciones de Chile” という、国際的な業務を行っている警察の一部署で、今回のクレジットカード不正利用被害はチリで受けたものであるという証明、所謂滞在証明書をもらう。このオフィスは昼の13時までしか開いていない。午前中のみのツアーで大変助かった。受付でめんどくさそうに仕事をするおじさんに昨日と同様の事象を説明。カード会社の名前を聞かれたので2枚のカードの会社名を伝え、滞在証明を得ることに成功した。これでようやく現地警察のお世話から解放されたというわけである。本当に大変だった。

近所のスーパーでは2Lの水を購入。1本で850ペソと安価で手に入った。所謂地元民向けのスーパーであるが比較的綺麗。値段が書いてない商品もあるが、これは店の中央部にあるバーコードリーダーで値段を確認できる仕組みらしい。

両替はホテルの人おすすめのScottという両替商で行った。アルゼンチンペソを手に入れておくことが目的。12000CLPが10000ARPに両替された。この両替屋の近くに、明日の朝ウシュアイア行きのバスが出発する、Bus-Surのオフィスとバス停があることを確認しておいた。

 

今回のカードの件に加え、警察に行ったり慣れない作業をしたりして本当に疲れた。今日はホテルでゆっくりすることにする。

いただいたたくさんの食料を、昼食と夕食に充てることにした。本当は美味しいレストランに行って地元のグルメを楽しんでいるはずだった。水色を基調とし水玉をアクセントとした装飾、天蓋付きのベッド、そしてシャンデリアが輝く美しいスイートルームの一角で何をしているかといえば、実質的に無心した穀物やサンドイッチという、まるで戦時中の配給のような食糧をひたすら食べているのである。まさに「黄金の玉座の上に座る乞食」。これは豊富な資源を活かせずに最貧国の地位に甘んじていたかつてのボリビアという国を揶揄する文句であるが、あまりに自分の今の境遇を的確に表しており、自分が惨めすぎて乾いた笑いがこみ上げくる。

この部屋でシリアルとナッツを夕食として食べる。最高に寒い

昨日に引き続き諸々の連絡を行い、旅行会社からは「現地手配会社からBookingで予約しているホテルと同じホテルの予約を行い、私の予約は自分で取り消す、ということが可能そうだ」という回答を得たので、早速この算段での手配をお願いした。

何もかも失って身にしみたのは、海外における一個人の無力さ、現地にオフィスを持つ旅行会社の力、人との繋がりの大切さ、そして手を差し伸べてくれた地元の人々の優しさである。我々は異国の地に入る機会を与えてもらい、右も左も分からない状況で見えない人々のサポートを得て旅行させてもらっているだけなのだ、ということを改めて強く実感させられた。自分で手配できるのになぜ高い中間マージンを払って旅行会社に金を払わなければいけないのかと思っていた部分があるのも事実であるが、今回のような被害に遭遇する可能性を考えれば、彼らに払うカネはむしろ安いくらいであった。それは最近海外旅行に行く頻度が高くなっていたからこそ忘れがちであった点であり、私自身が知らぬ間に自分の力を過信してタカをくくり、謙虚さを失っていた可能性は常に自覚しなければいけない。

これみよがしに自撮りを披露し、全能感丸出しで、まるで自分の存在意義など疑ったことなど一度もないような無邪気さと自己肯定感に溢れている所謂海外旅行好きの人々を多く見かけるが、そんなものは所詮まやかしである。地に足のついていない裸の王様である。彼らの派手で煌びやかに見える主張に触れすぎて、自分の世界観が毒されていなかったか。再考する必要がある。

 

 

 

パタゴニア(4) 砂の岬

1/31

8時ごろUberにてホテル発

H2 401 1038PMC 1249PUQ

プンタアレーナス市街観光(+α)

Hotel José Nogueira泊

 

朝起床して、ゆっくり朝食を食べる。

朝食の会場はガラス張りになっており、美しいジャンキウエ湖が相変わらず青々とした水をたたえている。昼に移動ということもあり、朝食は多めに摂取しておいた。

部屋に戻り、荷物をまとめ、チェックアウト。

 

Uberを呼ぼうと思ったら、クレジットカードの支払いが拒否された。昨日ドイツ人が話していたクレジット詐欺の記憶が蘇る。まさか。明細を開けてみると、記憶にない、驚くほど高額な支払いが複数されている。しかもさらに仮想通貨サイトと思われる謎のサイトで何度も金が使われた形跡がある。この取引でカードが止まったらしい。Uberはもう一方のカードで呼ぶことができたが、もしこれが1/28のタクシーの金銭徴収人の犯行であれば、もう一方のカードもすでに暗証番号などの情報が奪われており、同じように高額請求がされている可能性がある。にわかに心がざわめきはじめた。プエルトバラスから空港までの風景はたいそう美しいものだったはずだが、そんなものはあまり目に入らなかった。ひとまず大部分の支払いが済んでいる今の状況では旅行を続行するしかない。プンタアレーナスへの飛行機に乗り込んだ。

 

スカイ航空は新しい機材が使われているものの、シートピッチは狭く、窮屈だった。プエルトモントを出発してしばらくは雪をいただいた美しい山々が見えたが、次第に雲に覆われた景色となる。

山火事の現場も見えた

2時間ほどのフライトで、低い雲に覆われ、濃い青緑色の海と起伏の少ないモスカラーの大地が現れた。いよいよ、南米最南端パタゴニアの一角に足を踏み入れる。本来この瞬間はワクワク感を持って迎えたかったものだが、漠然とした焦燥感、そして何をすべきかという考えがひたすら駆け巡っていた。

 

ひとまず旅行の続行が不可能になってしまってはまずい。アルゼンチン側を手配してくれた旅行会社に、現在一方のカードが不正利用で止まったこと、もう一方のカードもいずれ止まる可能性が高いことをこの時点で連絡した。

プンタアレーナスで荷物を回収し、Uberを呼ぶ。この時点まではなんとかもう1つのクレジットカードが使用できた(が、これを最後に使用できなくなった)。鉛色の雲に覆われた暗い海岸沿いに一直線、プンタアレーナスの市街に到着。

本日のホテルはJosé Noueira。サラブラウン宮殿というマゼラン海峡貿易で財を成した富豪の邸宅の一部を改装してホテルとしたもの。そのうち1室は水色を基調として水玉模様のカーテンなどの装飾がおしゃれで、滞在を楽しみにしていた。チェックインよりわずかに早い時間に到着したので、受付の青年と話して時間を潰す。お調子者な感じではあるが、話してみると案外悪いヤツではない。チェックインし、ひとまず美しいシャンデリアの吊り下がった部屋に入り、ベッドに横たわった。

サラ・ブラウン宮殿。この一角にホテル、Jose Nogueiraがある
美しい客室。最高の気分で過ごしたかったものだが

さあどうしたものか。まずは現状を整理しなくてはいけない。幸いチリのeSIMカードは15ギガバイト分あり、すぐに枯渇することはまずない。日本に連絡するにしても、日本とは12時間の時間差がありすぐには物事を動かすことができない。まずは観光・散歩をすることにした。

ホテルと同じ建物内のサラ・ブラウン宮殿。こちらは入場料2000ペソである。

サラ・ブラウン宮殿入口

内部の装飾はアールデコ調で、木を多用した落ち着いた雰囲気。装飾、調度品は全てがとても凝っており、ここが南米最南端、最果ての地の一角とは思えない豪華さである。この物寂しい大地と部屋で富豪たちは何を思ったのだろうか。ヨーロッパへの郷愁か。

 

サラ・ブラウン宮殿を出て、次はマガジャネス州立博物館へ。こちらもサラ・ブラウン宮殿のように19世紀後半に建てられた立派な建築だが、内装工事のため閉館していた。残念。

プンタ・アレーナスの町並みは、ネット上の写真や過去に見た写真集からは殺伐としていて寒々しい印象を持っていた。確かにグレーの雲が覆う空、夏でも低い気温で寒々しいのは事実だが、案外様式の整った建築が並んでいる場所が多く、小綺麗にまとまっている印象である。壁はカラフルに塗装されるのではなく素材の色がそのまま生かされており、建築様式としては典型的なラテンアメリカのそれというよりは北ヨーロッパのそれに近い感じがする。

外国人観光客がまばらであったプエルトバラスとは打って変わりヨーロッパ人観光客がかなり多く、日本人や韓国人の観光客も多く見かけた。しかしながら観光客ばかりというわけではなく、メスティーソと思われる先住民系の風貌を持つ人も含め、地元の人間も数が多く町としては賑わっており、地元の人の暮らしの息遣いが感じられる町でもある。

先住民とマゼランの像

しばらく歩き、丘を登って展望台へ。

展望台からは意外にも大きな広がりを有するプンタアレーナスの市域、眼前に大きく広がるマゼラン海峡が見えた。雲の合間より時折太陽が覗き、家々が明るく照らされる。

 

一旦ホテルに戻り、ベッドに横たわる。

混乱と動揺と怒り、あの時現金を手に入れるために外に出ていなければ、あの時あのタクシーを利用していなければ、そもそもチリの手配も旅行会社に任せていれば…という後悔と自責の念が一気に湧き上がってくるが、今やるべきことは冷静に状況に対処し、この旅行を完遂すること、そして不当に奪われた請求をあらゆる手段を使ってカード会社に補償させることである。空港のどこにチケットブースやATMがあるかなんて国によって違うので予想がつかないし、事前にネットで得られる情報は大抵不十分である。そして無線を持ち空港職員に似た服装の客引きは、初めて空港を訪れたものならオフィシャルタクシーだと思うだろう。どう思考を巡らせても、自分がこの状況を回避できる方法はほとんどなかったという結論に至る。

このような境遇になるとは想像だにしていなかったが、同じような被害に遭遇したというドイツ人昨日とたまたまWhatsAppを交換していたため、コンタクトを取ってみる。彼女はPDIという一種の警察(入国審査の時にレシートをくれるのもPDIだ)のオフィスに相談したと教えてくれた。不当な請求があった状況について訊いてみるとどうやら自分とかなり似た境遇であったらしい。善良にしか見えない巧妙な客引き、監視のない場所で金銭徴収を行う男。考えれば考えるほど巧妙かつ組織的な犯行なのではないかという疑念が浮かんでくる。まずはPDIに行くことにした。まさか現地の警察のお世話になる日が来るとは。。。

海外旅行ではあらゆる危険を回避する行動を心がけてきたつもりだったが、今までぼったくり程度で済んでいたのは単なる偶然、幸運に過ぎなかったこと、こういう危険を回避するために旅行会社に送迎の手配をしてもらった方が安上がりであったという現実を直視せざるを得ない。

早速ホテルのフロントにクレジットカードが不正利用されたらしくカードを利用した支払いがもうできないこと、PDIに行くことを告げておいた。ホテルのスタッフたちは大変驚いた様子だったがおおむね同情的であった。

PDIのオフィスはホテルから数ブロック離れたところにある。対応してくれたスタッフはデルポトロに似た風貌の男で、人の良さそうなわずかに英語を話すことができるが、あまり上手ではないらしい。Googleの翻訳アプリを介して会話をする。まずはカードが不正利用されたという現状を説明。国際カードなので管轄権がないこと、保障を受けるためにはCarabineroという警察組織で被害届を出すこと、そしてカード会社に対して滞在を証明する書類が必要であることを教えてくれた。CarabineroはPDIの建物の斜め向かいにある。ほど近くに滞在証明書を発行するImmigration officeがあるが、これは午後1時に閉まってしまうため明日訪れて滞在証明書をもらうように、午後1時までに行けないようならばPDIを再訪するように、PDIのスタッフは私に言った。幸い明日のツアーは午前で終わる。不幸中の幸いというか、まるでこの犯罪に遭うことを想定していたかのような日程である。

Carabineroに行くと、門番として男が立っている。この男に状況を説明するが、スペイン語しか話せずなかなか話をわかってくれない。クレジットカードの番号が騙し取られ不当に高額な請求がされていること、保障を受けるために被害届が必要であることを何度も説明し、ようやく理解してもらえた。どうやらここはCarabineroの出張所のようなところで、書類仕事をするオフィスは別のところにあるらしい。タクシーで行くようにと言われたが、わずかな現金は日本に帰るために使わなければいけない。そんなお金は無いというと、連れて行ってやるからちょっと待て、と言われた。

5分ほど待っただろうか。Carabineroの前に警察車がやってきた。彼は私を警察車に乗るように案内した。言葉は通じないが案外優しい男だった。深く感謝の意を述べ、警察車に乗り込んだ。中ではカーキ色の軍服のような服を着た男女の警官が座っている。警察の車なのだが和気藹々としていて中では陽気な音楽が流れている。なんだか楽しそうだなおい。日本では到底想像がつかない。警官たちにどうしたのかと聞かれたので、クレジットカードの情報を騙し取られ不当な請求がされた、合計額は90万CLPに上る、という話をしたところ唖然としていた。街のはずれのオフィスで降ろされ、担当のところへ連れて行かれる。

取り調べ担当は女性だった。こちらも陽気な音楽を流し、時折腕時計を見ながら仕事している。面倒臭いんだろう。時刻は6時を回っているので、気持ちはよくわかるが、こっちは必死なのでちょっと粘ってくださいお願いします。こちらも英語は全く通じなかったので、カードの被害についてなるべく詳しく説明した。「1枚のカードで詐欺に遭ったのに、なぜもう1枚差し出したのか」「この国で告訴するためには1ヶ月以上の滞在が義務付けられている。あなたの滞在期間ではそれは不可能だ」などと色々厳しい尋問がされたが、なんとか言葉(翻訳アプリは偉大である)を尽くして説明し、一方のカードが使えないという現象は海外では比較的よくあることであるためもう一方のカードで支払おうとした(がその場では失敗したということになっていた)こと、そして告訴ではなく必要なのはカード会社や銀行に提出する被害届であることを説明した。時折不機嫌そうな様子を見せつつも調書を作ってくれ、1時間程度で被害届を手に入れることに成功した(帰国後に書類を精査すると被害額など正確でなかったりしたのだけど、その時は被害届をもらうことに精一杯で、内容の精査などする余裕がなかった)。

取調官の女性には翻訳アプリで謝意を述べた。「プンタアレーナスにくるのは高校生からの夢でした。本当にありがとう」と伝えた。これは全く嘘ではない。プンタアレーナスに訪問する際に、こんな状況に陥っているとは予想だにしていなかったが…

 

建物の外に出たがここは南緯53度の真夏。曇り空とはいえまだまだ明るい町はずれの道を、1km弱歩いてホテルに戻った。食事をしなくてはならない。あまりお高いところでは食べられないが、それでもこの最果ての地までわざわざやってきたのだ、ここでしかできない体験をしたい。しなければならない。Lomito'sという大衆食堂に行くことにした。

ここはまるでファミレスのような内装で、観光客ではなく多くの地元住民で賑わうレストランだった。オレンジジュースと、アボカドと肉のハンバーグを注文。肉は冷凍ではなく、この店で焼いているようだ。10分ほど待つと、大きくて質素なハンバーグがやってきた。アボカドと肉以外に味のアクセントが何一つないので単調で飽きてくるが、節約しなければならないのだから背に腹は代えられぬ。とてもやるせない気持ちではあったが、店内ではクンビアのPVが流されており、地元民向けの大衆食堂感が満載で、ローカルな空気を味わうという意味では最適なレストランだったと思う。

 

夕食を終え、ホテルに戻る。

Carabineroに行って被害届は得たものの、まだやることはたくさんある。

ホテルはBooking.comで予約している。直前にならないと支払いがされないシステムである。持っている現金が少ないし、宿泊費用は案外高いので、支払いがされていないと詰む。調べたところ、プンタアレーナスの滞在中のホテルと、ウシュアイアのホテルまでは支払いがされていた。この直後にカードが止められてしまったようだ。ギリギリ旅行の続行は可能かもしれない。しかし宿泊費用を現金で払うと、ほぼ持ち金の全てを使ってしまう計算になる。考えられる方法は宿泊施設にpaypalなどの送金で支払うか、もしくは旅行会社に手配してもらい費用を別途支払うという方法。前者の方法が可能な施設ばかりではないので、まずは後者の手段をあたってみるしかない。

エルカラファテで3連泊する宿については支払いがされているか不明瞭であったこと、宿の女将が日本語ができる人であったことから直接コンタクトを取って支払い方法について確認することにした。幸い連絡先を得ることに成功し、WhatsAppで現状をお話し。PayPalの使用が可能である旨を確認した。

旅行会社からのレスポンスは現地と時間が逆転しているはずであるが非常に対応が早く、手数料はかかるが宿泊を旅行会社経由で予約し、Booking.comの予約をキャンセルすることで実質的に支払いを代行してもらうという方法を検討するという返信を得た。

まず旅行の続行を可能にしたのち、カードの現状確認と廃止手続きに取り掛かる。残念ながら日本はWhatsApp後進国だから、日本のそれぞれのカードデスクに国際電話をしなければならない。家族にコンタクトを取ってカードの番号を教えてもらい(まるで振り込め詐欺の手法のようで我ながら恐ろしいが背に腹は代えられぬ)、国際電話100分のついた国際SIMカードを購入し、日本国内に直接電話をかけた。「オペレーターにつながるまであと○分かかります」という案内、電話待ち時間が非常に惜しく焦る。まずはWebで明細を確認したカード。こちらの現状を報告し、カードを止めること、そして疑わしい明細を調査してもらうことをお願いした。こちらの連絡は旅行期間中、4-5日後となるとの返信を得た。もう一方のカードはWebで明細を確認できないタイプのものであったため、電話で確認してもらう。やはり前者ほどではないが不審な高額決済があったようだ。すぐにカードを止めてもらい、この取引についての審査をお願いした。連絡は帰国後になるとのことであった。旅行会社にも電話をかける。国際電話ができる時間が限られているが手短に切迫した状況を説明し、先述したような料金未払い宿の手配が可能であるか至急検討する旨の返答を得た。当然家族にも連絡し迷惑をかけてしまっていることを謝罪した。

 

明日はペンギンツアーらしい。当初の計画ではテムコに2泊、プエルトバラスに2泊し、プンタアレーナスは1泊するだけの予定であった。そして初日は日帰りサンティアゴ観光ツアーを検討し、一旦は申し込みをしていた。もしそのようにしておけば今こんな被害には遭っていないだろう。非常に無念だ。早朝からのツアーで朝食を食べる時間がないため、可能ならば弁当を作ってくれないかフロントに話してみる。本来弁当は有料のサービスであるとのことだが、事情を話すとあまりにも憔悴した表情を読み取ってくれたのか、大丈夫ですお金のことは心配しないで!と言って、どんな食べ物が必要かのリストを作ってくれた。これをレストランの方に伝えてくれるのだという。心からの厚意に深くお礼した。感謝の言葉しかなかった。

一寸先は闇とはよく言ったもので、昨日までの幸せな旅行もあっという間に状況が一変し、少ない現金で日本まで戻ることができるかどうかというところまで追い込まれた。まさにアポロ13号のような状況である。しかし危機は旅行初日からすでに、忍び足で私の旅行を蝕んでいたのである。それに私が気づいていなかっただけだった。明日はどうなるかわからないが、ひとまず寝るしかない。そうすれば思考も多少は整理されるだろう。

 

 

パタゴニア(3) チロエ島

1/30 

8:00-19:00 終日チロエ島観光ツアー

ダルカウエ、カストロ訪問

 

ホテルの窓より朝焼け

本日はチロエ島観光ツアーである。GetYourGuideより予約した。

パタゴニア地域のツアーは外国人向けで値段も2-3万するものが多いが、チロエ島ツアーは昼食が含まれていないものの1万円を切る値段設定である。安いのは嬉しいが、ツアーの質については心配がなかったといえば嘘になる。

朝8時になると、ツアー会社の送迎バスが迎えに来た。送迎バスでは数組の参加者をピックアップし、市中心部でツアーバスに乗り換える。ツアーバスはほぼ満員になっており、ふとましい中年女性の隣に座ることになった。参加者はチリの人が多いようで、一部にドイツ人と台湾人が混在している。本日のツアーガイドN氏は体格の良いおばちゃんと言った雰囲気で、人が良さそうだ。まずは彼女が流れを説明する。英語、スペイン語と時々ポルトガル語を混ぜているようだ。

 

「本日はまずフェリーで海峡を渡り、チロエ島に入ります。フェリーが海峡を渡り終わる前には、必ずバスに戻ってくださいね。そこで小さな教会を見つつトイレ休憩。その後ダルカウエに向かいます。ダルカウエでは伝統的な建物でランチをしたのち、市街で1時間ほどフリータイムを取ります。その後カストロに向かいます。カストロで1時間ほどフリータイムがあり、その後帰る予定。帰着は19時ごろになります。」

「ランチは別料金で、1万5000ペソですが、赤ワイン、そして白ワインが飲み放題です。料理は何種類からか選べます。」と言って、席を回ってランチをどうするか聞きに来た。サケのグリル、貝の煮物、そのほか何種類か選べたようで、自分はサケのグリルを選択した。サケはチロエ島の特産品である。

プエルトモント付近では事故があったらしく20分程度足止めを食らった。この付近では煙が立ち込めている。これは山火事の煙らしい。

「この煙は3日前に発生した山火事のせいですね。この地域には森が多いんです。この事故が山火事と関係あるかどうかわかりませんが。」

1時間ほど走ると海が見えてきた。海峡を黄色いフェリーが行き来している。ここは本来チロエ島と本土を結ぶ橋がかかるはずだったが、今は予算の関係で工事が中断中。2基の橋梁だけが海から突き出ている。完成予定は2099年。もはや無期限凍結といった状態のようだ。しばらくフェリー待ちしたのち、バスはフェリーに乗り込む。

「フェリーにはカフェ、トイレ、テラスがあります。いいですか皆さん。バスが出発準備するまでには必ず戻ってきてくださいね。置いていきますよ!」

フェリーのデッキの上に登ってみると風が強いが、爽やかに晴れた空と青い海、そして穏やかな起伏を持つチロエ島が見えた。

この黄色いフェリーが数隻、24時間運航している

チロエ島を渡るとすぐ、チャカオという小さな町でトイレ休憩。この町はとても静かな雰囲気で、青い屋根と2つの尖塔を持つ教会がある。内部は柱や梁の一部に木が用いられているが、どちらかというとこぢんまりした雰囲気だ。

 

 

チャカオを過ぎると、干潟となった入江の周囲に家々が立ち並ぶ美しい光景が広がる道を通り過ぎる。ここを過ぎるとまるで北海道のような、穏やかな起伏に時折ポプラのような木々、そして農場が広がる風景が広がる。

チロエ島はチョノス、クンコ、そしてマプーチェといった先住民が住んでいた。この地にスペイン人が辿り着き、土着信仰とキリスト教信仰が混じって、木造教会に代表されるような独自の文化が育まれた。もちろん降水が多く、木材が多く手に入るという地理的な事情もあるだろう。南緯41度から44度の間に広がるチロエ島はサケの漁獲が多く、サケ漁やサケの加工の産業を合わせると人工の3割弱がサケ関連産業に従事しているらしい。

道が工事中で一部渋滞しており、ダルカウエを観光後に昼食というプランに変更になった。海が見えてくると段丘面と思われる坂を大きく下り、ダルカウエの市街に出た。

穏やかな入り江の町ダルカウエ

ダルカウエでは精霊信仰がいまだに根付いており、このうちTraucoという男の伝説とPincoiaという人魚の伝説について話してくれた。(こちらのページが参考になるだろう。https://www.chile.travel/en/blog-en-2/discover-the-fantastic-myths-and-legends-of-chiloe-a-place-full-of-mysteries/)ダルカウエ市街は落ち着いた雰囲気の港町で、先住民色の濃いお土産のマーケットが開かれている。街並みも可愛らしい雰囲気で、ゆっくりと流れる時間がとても心地よい。時折マプーチェの旗を掲げるお土産屋があり、土地柄を感じさせる。

ダルカウエには世界遺産となった教会群の1つである教会がある。こちらはくすんだ青色の屋根と白い壁、1個の尖塔を有し、チロエ島の教会群に特徴的な意匠を持つ。内部はティファニーブルーを基調とした可愛い色で塗装されている。教会前の広場にはアラウカリアの大木が植えられていた。

市街にはドラゴンボールを模した絵が描かれたトラックなどがあり、南米では日本のアニメ文化が好まれていることがよくわかる。著作権にうるさい人が見たら発狂しそうではあるが。

1時間ほどのフリータイムを終え、昼食へ。

昼食はダルカウエ近くの小高い丘にあるレストランである。ここではムール貝やサケなどの地元の食材を使った料理が楽しめる。前菜とムール貝料理が出てきたのちに、事前に注文していたサケ料理が出てきた。

たまたま同席していたのは一人旅行をしているというドイツ人の女性、そして隣に座っていた太めのおばさんと、その娘二人。

太めのおばさんに「なぜチリを訪れようと思ったのですか」と聞かれたので、「チリにおける先住民について興味がある。特にマプーチェの人々が今どのように暮らしているのか。本当はテムコやコンギジオ国立公園にも行きたかったのですが」と話した。

おばさんは病院付属の弁護士だそうで所謂白人種だが、娘二人は黒髪で肌の色も濃く、所謂メスティーソである。娘二人のうち姉の方は高校生くらいに見えるが英語をよく話す。国際的な弁護士の仕事をしたいのだという。なおドイツ人も弁護士で政府系の法務の仕事をしているらしい。弁護士ばっかりだな。まあ、ある程度の地位と金がないと旅行もできないということだろう。このドイツ人女性は現在アメリカからチリへ縦断したのち、日本、ニュージーランドと旅行するらしいが、サンティアゴのタクシーを利用後クレジットカードに覚えのない高額請求がされていることに気が付き、現在クレジットカードが止まっている状態と言っていた。今後旅行予定のニュージーランドで友人に再発行してもらったカードを届けてもらうそうである。そんなことがあるのか、とまるで人ごとのようにその時は聞いており、自分が同じ目にすでに遭っているとは想像だにしていなかった。

視野を広げられるような経験ができれば、それをきっかけにさらに視野を広げることができる。もちろん旅行も視野を広げる経験の一つ。しかしある程度金がないとできない体験でもある。海外に行く機会のある人が日本に潜む問題を客観的に指摘する一方で、日本を一歩も出たことのない人が日本の何が問題なのかすらわからずどんどん思想が偏っていき、「日本の○○に世界が驚愕!」といった嘲笑を誘うような番組をまことしやかに信じるようになってしまう(それは政治家にとって大変都合が良い。視野が狭く知識がない人は操りやすいからだ)。なお、ワインが飲み放題なのは嬉しいが、わんこそばのように注がれるので車酔いが怖く、たくさん水を飲んでおいた。

バスに戻るまでに台湾人の大学生カップルと会話する機会もあった。女の方の両親がチリで仕事しており、その関係で二人でチリに来たということらしい。大学生二人でチリとは、なかなか渋い。女の方はおそらく所謂帰国子女で英語の発音が流暢。男の方はまあまあといったところだが、大学生としては上出来だろう(私も大学生の頃は大して英語など話せなかった)。男の方は「日本は政治的にも台湾人にとってはモデルだと思っている」というので、「ご存知の通り日本の政治は高度に腐敗している。オリンピックでもそうだっただろう」というと「それは台湾も同じですよ。やはり日本は良い国だと思います」という。そういってくれるのは嬉しいが。。。

なお、女の方は他の人に「その服のブランド知ってる!」という切り口で話しかけていたし、男の方も日本について話すときに「このブランドは日本でたくさん売っていて云々」などと言っており、台湾人の国民レベルでのブランド思考の強烈さを感じ取らざるを得なかった。こういう国民レベルでの思考回路の偏りはなかなか自分で気付きにくい。恐ろしいことだ。東アジア、特に中国や韓国の異常なほどの学歴偏重社会もおそらく本人たちにとっては当たり前のことだし、謎マナーと非合理的なルールでがんじがらめの日本社会も日本人は当然のように受け入れている。慣習とか風土というのはまさに空気のように我々のまわりにまとわりついており、それを振り払うには海外旅行で文字通りリフレッシュすることが必要である。

レストランの庭からはダルカウエの家並みが綺麗に見えた。

 

さて、ツアー同行者との楽しい交流の時間を終え、次はチロエ島の中心都市、カストロに向かう。こちらはまるで京都府の伊根のような、海に突き出した建築が立ち並ぶ様子が有名だ。30分ほど走ると入江に面してカラフルな家々が立ち並ぶ有名な家並みが出現し、程なくしてカストロの家々を海から眺めるクルーズ船の船着場に到着した。

カストロは1567年、マルティン・ルイスによって征服され建設された都市である。今はチロエ島で最も大きい都市になっている。クルーズ船の料金5000ペソが別に徴収され、船に乗り込む。複雑な海岸線に囲まれた、波の穏やかな入江を船はゆく。海から眺める鱗のような壁を持つ家々が可愛らしく、なだらかな地形と可愛らしい家並みの調和は、写真で見るよりもはるかに美しい光景だ。たくさんの写真を撮った。

 

 

同じツアーに参加している別のドイツ人男2人組と話す機会を得た。こちらはいかつい顔をしており、いかにもドイツ人といった雰囲気。日本に3週間ほど出張した際に所謂飲みニュケーションに連れて行かれたよ、ハハハ、などと言われた。この二人組とはエルカラファテで再会することになる。

30分ほどの船ツアーは終了し、バスに戻る。丘を上ると程なくカストロの市街地に至る。有名な木造教会の前でドロップされ、しばし自由時間を与えられた。

外壁を黄色で、尖塔を紫色という独特の塗装がされ、2個の尖塔を持つサンフランシスコ教会は、チロエ島の木造教会群のなかでも有数の規模を持つ。内部は今まで入った教会と違って全てが木目調で、落ち着いたあたたかな雰囲気を醸し出している。外観はぱっとせず、ステンドグラスなど本場の教会に比べれば質素なものなのだろうが、rib vault(いわゆる肋骨交差穹窿)に沿って曲げられた細い木板が規則正しく並ぶ様は壮観である。

市街は意外にも観光客で賑わっており、小観光都市の様相を呈していた。ツアーバスを待っていると、先ほどの太めのおばさんは教会でチロエ教会の建築に関する本を買って読んでおり、またドイツ人男性はダルカウエで買ったというチロエの神話に関するスペイン語文献を読んでいた。彼らの知的好奇心には頭が下がる。

帰り道では、隣の太めのおばさんが色々と話しかけてきた。あまり英語は上手くないが、言いたいことはわかった。

「なぜチリの先住民問題に興味を持ったのですか」

「先住民は日本人と類似した、所謂モンゴロイド人種です。彼らは数万年前にベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に渡り、そこでインカやアステカなどの文明を築きました。尤もその遺産の多くは、スペイン人によって無惨に破壊されてしまいましたが。チリの南部にはマプーチェが住んでいると聞きます。私は彼らがどういう文化を持ち、どういう生活をしてきたか、そういうことに興味があります」

「なぜテムコには行かなかったのですか」

「コンギジオ国立公園とセットで訪れたかったのですが、適切なツアーが見つけられなかったからです(なお帰国後GetYourGuideでコンギジオ国立公園ツアーが爆誕していることを発見してなんとも言えない気持ちになった。)」

テムコはアラウカニア州の州都で、多くのマプーチェ族の人が住んでいる。テムコ自体は事前調査でも先住民マーケット以外にこれといった見所を発見することができなかった。

「マプーチェ族はずっと前からチリに住んでいて、スペイン人の支配に長い間抵抗してきましたよね。私の知り合いに社会学者がいるのですが、マプーチェの人々は今でもチリの支配に抵抗する人がいるという話を聞きます。彼らは彼らの土地に愛情があるのでしょうね。その彼らの心理を理解できているか、私にはわかりませんが」

彼女は会話の途中でよく自分がかつて読んだ本のタイトルを教えてくれ、彼女が大変な読書家であることを理解した。娘二人を旅行に連れてきているのは、チリという国の全体を彼らに見せて、チリの現状を知ってほしいからということらしい。単なる行楽ではなく旅行そのものに教育的意図を込めているところに教養を感じた。

観光バスはプエルトモントで多くの人を降ろし、プエルトバラスまで戻る人はわずかであった。バスから降りる人でガイドにチップを払う人はおらず、この国にはメキシコのようなチップ文化がないことを理解した。プエルトバラスでは町の中心部で降ろされ、ホテルまで徒歩で戻る。ここで台湾人カップル、一人旅行のドイツ人女性と別れた。ドイツ人女性は私と同様プンタアレーナスに飛行機で向かうとのことで、彼女と連絡先を交換しておいた(これがのちに重要な意味を持つことになる)。昼食をしっかり食べられたこと、時間が比較的遅めだったので、夕食は適当に保存食を食べるのみとした。

ホテルに帰室すると、チップとして置いておいた1ドル札がそのまま置かれていた。大きなベッドにもぐり込み、そのまま就寝。

もう遅いが、広場はイベントでにぎわっていた

チロエ島は私が他の人の写真やブログから想像していたよりもはるかに風光明媚な地域だった。事前情報からは、「のっぺりした地形とどこにでもありそうな風景の田舎町」程度にしか思っていなかったが、実際は「なだらかな地形と可愛らしい家並みの素晴らしい調和」であった。同じような意味の単語をポジティブなものに置き換えただけに聞こえるかもしれないが決して言葉遊びではなく、穏やかな地形、干潟の広がる内湾、かわいらしい家々、そして人口規模の小さい町特有の治安の良い町、どれをとっても好ましかった。木造教会も実際に足を踏み入れてみると思っていたよりもはるかに壮大で、心に訴えるものがあった。ツアーバスは少しボロかったけどもガイドは人柄がよく説明も丁寧で、このツアーが安かろう悪かろうなのではないかという心配は杞憂であった。

やはり何事も実際に目で見なければわからないということなのだろう。本をいくら読んでも、情報をいくらネットで集めても、真実には永遠に到達できない。それは人の目を介した情報だからだ。新しい物事に直接触れる時に自分に生起する感情は予測が難しいし、それこそが旅行の醍醐味でもあるのだなあ、としみじみ思った。

パタゴニア(2) 火山と薔薇の町

1/29

7時半ごろサンティアゴ

LA79 1049SCL 1235PMC

プエルトモントからバスでプエルトバラスへ

プエルトバラス観光

Hotel Cumbres Puerto Varas泊

 

本日は朝にサンティアゴを発ち、プエルトバラスへ移動。その後終日プエルトバラスを観光するという日程である。

Hotel Plaza San Franciscoの朝食は比較的充実しており、パンもおかずもなかなか美味だった。

早めに朝食を済ませ、Uberを拾う。5分ほどホテルのロビーの前で待っていると、ほどなくミニバンが到着した。

朝のサンティアゴ市街

サンティアゴ郊外のスラム街

空港まで15000ペソ程度で、昨日のタクシー(?)よりかなり安い。(本当は昨日空港からUberが使えればよかったのだけれど、空港発だとUberは使用不可という制約がある。タクシー業界への配慮のためだろうか。)Uberの車を降りて、LATAM航空のカウンターで荷物を預ける。

国内線ターミナルの待合室は混雑しているが、昨日到着した国際線ターミナルと違ってやや古びた感じが否めない。空港に着く時間が早すぎて待ち時間が長かったが、プエルトモントへの便に乗り込んだ。

LATAM航空の国内線はどういうわけか公式サイト予約時に選択する言語によって値段が大きく違うことが知られている。スペイン語で予約するとごくわずかな追加料金でプレミアムエコノミーを選択できるので、語学に自信があるならこちらがおすすめである。短い飛行時間だが水や軽食、ジュースなどもサービスされた。窓からは緑のまばらであったサンティアゴから南下するについれて緑が多くなり、多くの湖や雪を頂いた火山が連続する風景となってくる。チリ中南部湖水地方とも呼ばれ風光明媚な地域の一つである。そしてこの地域は伝統的にマプーチェ族の地でもあった。特徴的な山容のオソルノ山が見えてくると、程なくしてプエルトモント空港に到着した。

オソルノ山が見えてきた

プエルトモント空港は比較的新しく清潔感のある空港である。

荷物の受け取り場所にてプエルトバラスへの公式の乗り合いバスチケット売り場があったので、ここでバスチケットを購入。5000ペソ。プエルトモント行きのバスは3000ペソと表示されていた。バスに乗り込むと、自分以外は地元の人と思われる人ばかりである。

オフィシャルタクシー・バスのチケット売り場

まるで北海道のように、緑に覆われ大規模な畑が広がる、穏やかな起伏のある大地を20分ほど行くと、少しヨーロッパ風の町並みが広がり、地元の観光客でにぎわうプエルト・バラスの中心市街に到着した。

プエルトバラスの中心市

ここでバスを降りる。カラッとした強い日差しの中、強い勾配のある坂を登り、かわいらしい家並みとバラやアジサイなどの美しい花の咲き乱れる道を行く。ここプエルトバラスはアラウカニア制圧ののちにドイツからの移民によって作られた町で、ヨーロッパ風の町並みと花のたくさん植えられた美しい雰囲気で、「火山と薔薇の町」として知られる。しばらく落ち着いた雰囲気の道を歩くと、本日の宿、Hotel Cumbres Puerto Varasに到着した。

Hotel Cumbres Puerto Varas 客室は広々としている

このホテルは全体的にウッディであたたかな雰囲気。湖を望む高台に位置し、中心市街から少し離れているので静かな滞在が楽しめる。部屋は広く、目の前にはジャンキウエ湖と美しい円錐型のオソルノ山が優美な姿を見せている。荷物を置いてしばし休憩。散歩に繰り出すことにした。

町の辺縁を南北に貫くように線路が走っており、この線路をこえると高台へ道が続いている。高台には公園があり、展望がよく、閑静な別荘地といった、落ち着いた雰囲気である。家々は木がウロコ状に並べられた独特の壁を持っているが、これは雨が多いこの地域に特有のものだそうで、ヨーロッパ風の町並みとあいまって美しくかわいらしい雰囲気を作っている。高台の家々の間からは、尖塔をもつ教会と青い湖、そしてその向こうに大きくそびえるオソルノ山が見えた。この角度はまさにGoogleでプエルトバラスと検索すると出てくるもの。ここから撮ったのか。この地域はチリの中でもとても風光明媚な地域として知られ、チリの湖水地方ともいわれるらしいが、雪を頂いた火山が立ち並ぶ景観は湖水地方よりもメリハリがあり美しい。

 

町を行くのはチリの人と思われる地元の観光客が多く、先住民の血が濃そうな黒髪で肌が浅黒い人々を結構な割合で見かける。今回アラウカニア州を訪れることはできなかったが、アラウカニア、ロス・リオス、ロス・ラゴスの3州はマプーチェ族を中心とした先住民の割合が比較的高い州として知られている。

 

町の中心部に戻ると人でにぎわっていた。

湖のほとりにはいくらかのレストランが並んでおり、カジノもある。正直カジノというのもどうかとは思うが、建物の外観自体は町の雰囲気を壊さないように配慮されている。湖のほとりにはたくさんの出店が並んでおり、湖で水遊びする人々がみられた。

特に今日はアクティビティがあるわけではないが、こういった風光明媚な街でゆっくりした時間を過ごすのは、最高の贅沢である。

夕食はホテルの近くにあるハンバーガー屋、Puelche Restaurantへ。Mr.Puelcheというハンバーガーセットとマンゴージュース、全部で11000CLP程度。コスパよくおいしい店で、雰囲気も良かった。

ホテルに戻る。

大きなベッドと広い部屋。ゆっくりと時間を過ごして就寝。

明日は8時出発、チロエ島の日帰りツアーである。正直団体ツアーはあまり得意ではないし、チロエ島自体情報が少ないのであまり期待はしていないが、まあ楽しむことにしよう程度の気持ちだった。

 

 

パタゴニア(1) サンティアゴへ

1/27 

成田 UA006 1725NRT 1415IAH

ヒューストンにて乗り継ぎ

ヒューストン UA847 2030IAH 0850SCL(+1)

1/28

サンティアゴ市街観光

Hotel Plaza San Francisco泊

 

 

chevrefeuille.hatenablog.com

 

 

ようやく出発の日が来た。

海外旅行自体は数を重ねてきてはいるものの、今回の旅行は今までの旅行とは違う特別な緊張感がある。それは単に、サンティアゴの治安が事前情報からあまり良くないと推測されるとか、チリ側が全て個人手配だからとか、それだけではない気がする。半生にわたって憧れてきた地を、ついに踏む時が来たのだ。緊張というか、武者震いというか、そういうものだろうか。

今回利用するユナイテッド航空はチェックイン時に米国での住所が要求されたが、米国に滞在予定のない自分はオンラインチェックインができず。荷物預け入れゲートでチェックイン作業を行ったところ、無事にチェックインができた。米国経由便では米国で一旦荷物を回収する必要がある国が多いが、ヒューストン経由でユナイテッド航空を利用する場合は荷物がスルーで最終目的地まで流れる。

米国航空会社というだけあって、待機列は日本人ではなく、米国人の姿が多い。航空機内は白と紺色を基調としており、出発前の航空機内はいかにも米国風の洋楽みたいなのが流れている。洋楽ファンにはたまらないのかもしれないが、私はいかんせん欧米文化への憧れがそれほどないので、豚に真珠である。出発前の注意メッセージ(映像)は映画仕立てになっており、いかにも米国という感じがした。

フライトアテンダントは男性女性どちらもいるが、壮年の人が多い。若い女性が多いアジア系の航空会社とは全く違うが、人の命を守るためのスタッフに若々しさなどいらないということなのだろう。これはこれで安心感があって、私は嫌いではない。座席も満席ではなかったので余裕があり、助かった。

ユナイテッド航空機内食もまずまず

12時間ほどのフライトで、まずはヒューストンに到着。長い歩道を通って、入国審査へ。ESTAではなくビザだったのであれこれ尋問されるのかと思いきや、トランジットのみということを伝えるとなんの質問もされず、あっという間に審査を通過した。

入国審査を通過し、次のゲートへ。読書で時間をつぶす


乗り継ぎ時間は6時間。空港では相変わらずよくわからない洋楽が流れているが興味がない。特にやることもないので、「シオニズムとアラブ」というイスラエル建国の理論的支柱となったジャボディンスキーとその後継者の系譜に関する本を読んで、時間を潰す。水1本が5ドル超の世界で、日本の物価が安すぎるのか、米国の物価が高すぎるのかはもはやよくわからない。

チリへの便は2-3-2列という少し変わったレイアウトをもつボーイング767の機体。9時間ほどのフライトである。

ヒューストンからサンティアゴ

起きてみると窓の外にはほとんど植物の生えない山の畝が重なって見える。アタカマ砂漠フンボルト海流という強烈な寒流によって南米大陸の西岸に形成された砂漠である。山脈の奥にはひときわ高い山が見える。おそらくアコンカグアだろう。程なくして、サンティアゴに到着した。

サンティアゴに到着後、トイレを済ませて入国審査へ。

入国審査の列にはたまたま日本人二人がいた。何かの職人をやっているそうで、仕事の関係でチリに来たそうだ。入国審査ではPDIという紙をもらうことになっているが、審査官が適当で、PDIの紙を渡しそびれそうになっており、先述の日本人二人組の指摘でことなきを得た。助かった。

チリへ入国

空港から市街へのアクセスは、事前に情報を得ていたtransvipという相乗りタクシーサービスを使用しようと考えていたが、そのブースに人がおらず。ひとまずキャッシュを手に入れてから考えたかったので、まずは空港の外に出て現金を下ろそうと思ったが、手数料が1400円程度とバカ高い(空港のATMは手数料が高く設定されているようだ)。たまたま無線を持っているタクシードライバーの客引きがいて、服装も空港職員っぽかったので、これはオフィシャルのタクシーサービスだろうと思い、お願いすることにした。

(これが数日ののちに、大失敗であったことを悟ることになる。詳細は別記事を立てる予定だが、ブログの流れを阻害すると思うので、ひとまず今回はこれに関して深掘りせずに、話を進める。)

人の良さそうな客引きが無線でタクシーに情報を伝えると、車庫の奥からドライバーがやってきた。これに乗り込む。25ドルだという。駐車場を出て少し走ると、どういうわけか屋外の少し車が停車している小さなバス停のような場所に出た。タクシーを拾うための場所だろうか。なぜかここで金銭徴収人が出現し、クレジットカードも使えるというのでカードを通すが、2枚とも使えず。結局現金で払うことになったが、最初ドライバーが25ドルと言っていたのに、この金銭徴収人は25000チリペソなのだから30ドルだと言い張り、結局30ドル払った。この時点でほのかに不信感を持ったのは事実である。

空港を出て、高速道路に入って市街へ向かう。

高速道路の周りに広がるスラム街はトタン板や木の板、ダンボールなどでできた家が立ち並び、みるからに貧しそうな雰囲気が漂う。高速道路は小さな川に沿って走る。ドライバーはこの川がインディオとスペイン人の領域との境界線になっていたのだという。

市街地に入り、モネダ宮殿の横を抜けて、ホテルに到着。チップはないのかと要求されたが、ちょっと無理ですと答えておいた。

ホテルプラザ・サンフランシスコは、サンフランシスコ教会の横にあるホテル。木目調のクラシカルな内装が特徴的で、温かみのある雰囲気が漂っている。長いフライトで疲れがないわけではない。外も暑いので、少し休憩してから市街散歩に向かうことにした。部屋はやや天井が低いが、それがかえってクラシカルな印象を強調している。市街観光に行くというとホテルのフロントスタッフが地図を手渡してくれ、通って良いところ、いかない方がいいところなどを解説してくれた。特にひったくりが多発しているから携帯電話をいじりながら歩くことはしない方がいい、またスリが多いから荷物に常に気をつけて歩くように言われた。

ホテル・プラザ・サンフランシスコ。奥にサンフランシスコ教会が見える

客室は木を多く使い、落ち着いた雰囲気

本日の観光予定は、まずホテルから一番遠い観光地であるサン・クリストバルの丘へ向かう。その次にサンティアゴ旧市街に戻ってきて見どころを観光し、旧市街に程近いホテルに戻るという順路にした。

この日は日曜ミサの日であり、ホテルに隣接するサンフランシスコ教会はミサ後に閉じてしまい、隣接する博物館も閉じていた。この教会はチリのコンキスタドールであるペドロ・デ・バルディビアがスペインより携えてきた聖母マリアの像が安置されていることで有名である。ミサの最中に入り口を少し覗いた程度で写真はないが、石でできた重厚感のある内装が特徴的だった。

日曜日で人の少ない大通りをサン・クリストバルの丘へ向かう。途中サンタ・ルシアの丘というサン・クリストバルの丘と比べるとかなり小規模な丘があるが、こちらは見送る。壁には征服したインディヘナの人々にキリスト教を説く司祭か何かの絵があった。「未開の地を拓いた」。これがスペイン人にとっての新大陸征服のイメージなのだろう。その解釈が本当に正しいのか、甚だ疑問ではあるが。

 

しばらく歩くと、次第に観光地っぽい活気が出てくる。川を渡り、しばらく歩くとサン・クリストバルの丘へ登るケーブルカー「Funicular」がある。

ケーブルカー「Funicular」の入口

ここは地元クレジット払いだったので値段を失念してしまった(調べてみると往復で5590CLPらしい)。10分ほど待ってケーブルカーに乗り込む。半乾燥地帯ということもあり木々はまばらで、すぐに展望が開ける。

頂上駅からはしばらく坂を登ると、大きなキリスト像のある山の山頂に到達。地元の人々で賑わっており、外国人観光客の姿は比較的まばらだった。盆地状となったサンティアゴは大気汚染がひどいという。しかしながら綺麗に碁盤の目状になった市街の様子を見ることができた。サンティアゴの建築様式はこの山から見ても今ひとつ統一感がなく、美しさには欠ける。


Funicularを下って市街へ戻る。

川沿いの雰囲気の良い公園を歩き、国立美術館へ。ここは入場料無料で、荷物は受付に預ける。あまり現代美術に興味がなかったので適当に見て通過したが、建築自体は歴史が感じられ、見事なものだった。

1880年に建てられた歴史ある建築だという

ここから旧市街の中心地に入っていく。

時折スラム化した高層マンションが現れる、やや汚らしい旧市街である。以前は夜も歩けたというサンティアゴであるが、コロナ禍を経て経済が悪化しており、治安も増悪傾向だという。銀行などが集まっており、一応首都として歩ける程度の治安は確保されているが観光客はそれほど多いわけではなく賑わいに欠ける印象を受けた。街に警官もそれほどおらず、ルンペンや身なりの汚いものも散見され、歩くものとしては不安である。

旧市街の雰囲気は一部決して良好とはいえない

アルマス広場に面するサンティアゴ大聖堂はサンティアゴ観光の目玉の一つであるそうで、スペイン征服後すぐに建てられた長い歴史を持ち、ピノチェト政権下でも反体制派の集会所となっていたなど、近代史においても重要な場所であるが、残念ながら日曜ミサ後で閉じていた。

アルマス広場

そういうわけで、あとはプレコロンビア芸術博物館とモネダ宮殿を観光して、ホテルに戻ることにする。旧市街の中央部には何個か銀行のATMがあり、このうちの1個で現金をおろすことができた。

プレコロンビア芸術博物館は、プレコロンビア期のラテンアメリカ全域における芸術品を展示する、なかなか興味深い博物館である。個人的にはマプーチェ族の展示を楽しみにしていた。入場料は1万ペソ。

プレコロンビア歴史博物館

マプーチェというのはチリ中南部に住んでいた先住民で、スペインの征服に対して数百年にわたって抵抗を続けてきた、屈強で勇敢な人々である。ペドロ・デ・バルディビアを戦いで破り処刑したのは、マプーチェ族の英雄、ラウタロであった。そのような歴史的経緯もあり、マプーチェ族の文化や芸術、歴史には非常に興味を持っていたが、ネット上で得られる情報はきわめて貧弱であった。

ここではマプーチェ族が先祖の墓に作ったまるでモアイ像のような人物の彫刻や、彼らの使っていた土器、絨毯や布製品、銀細工などが展示されており、非常に興味深い。マプーチェ族の歴史というのはインカやアステカの人々と違って人口もそれほど多くない上に、ピノチェト政権下で弾圧を受けてきた歴史もあるのだろう、どうもスポットが当たりにくかったようで資料も少ない。この博物館の展示はマプーチェの人々の芸術を詳説する数少ない美術館。外国人観光客もおり、ゆっくりと展示や解説を読んでいた。私としても非常に興味深かった。

回廊状の建物になっている2階はインカやアステカ、マヤなどの芸術品が展示されていた。こちらはもちろんメキシコの人類学博物館には劣るが、それなりの規模のコレクションになっておりなかなか楽しめた。

インカ時代の布のコレクションや土器のコレクションなども充実している

次第に町の雰囲気はお堅い感じになり政府系の建物が集中したエリアとなる。最高裁判所の建物の裏手を通り、モネダ宮殿へ至る。

モネダ宮殿

モネダ宮殿はチリの近代史において、非常に重要な意味を持つ。1970年代、選挙により選ばれた初の社会主義政権が成立した。サルバドール・アジェンデ政権である。アジェンデはこれまでアメリカのメジャー企業の食い物にされてきた鉱山の国有化などを推し進めたが、米国の強い反発とCIAの工作により政権の転覆が企てられる。1973年、軍部がクーデターを決行。モネダ宮殿は軍により空爆を受け、アジェンデはこのモネダ宮殿で最後の演説を行い、自死した。奇しくも9月11日、同時多発テロも同じ日である。これを皮肉と言わずしてなんと言おうか。

このCIAの工作を主導したのが今年になって死去したキッシンジャーであると言われている。彼の外交交渉における剛腕ぶりはプラスの評価がされることが多いようであるが、その一方で彼の視点は極めて帝国主義的で多様性を尊重する姿勢に欠けており、自分の理解しない勢力はあらゆる手段を用いて徹底的に潰す人間であったという評価もまた消し難い。1900年代後半のアメリカ全盛期における帝国主義的な姿勢における彼の存在が果たした役割は大きい。もちろん社会主義政権でありながら米国からの圧力を跳ね返し続けたキューバのようにはならず、アジェンデ政権が倒されたことには彼の失政もまた理由の一つとして挙げられることは事実であるようだが、民主主義であること、民主的な手段で選ばれた政権を自分の気に入らないからという理由で好き放題転覆した米国の姿勢には強い疑問を呈さざるを得ない。彼らの掲げる「自由」「民主主義」とはいったい何なのか。我々も熟考せねばならない課題であるように思う。

なお、アジェンデ政権が亡き者にされたあとピノチェト軍事独裁政権を敷き、米国から送り込まれたフリードマン学派の新自由主義経済学者、通称シカゴボーイズが好き放題やった結果チリでは大きな経済格差が生まれた。ピノチェト時代は大きな経済成長を遂げたなどという情報もあるが独裁政権下での情報であり眉唾である。ピノチェト時代は多くの人が弾圧され、アジェンデ政権の転覆と相まって生まれた大きな経済格差、社会的な溝は50年経った今も未だチリ社会に大きな禍根を残しているらしい。新自由主義は米国や最近になって小泉や竹中により日本にも鳴り物入りで導入されたが、結局その場しのぎでうまく行ったためしがない。強いものだけのための社会の行き着く先は常に破滅である。

今や綺麗に修復され、当時の面影のないモネダ宮殿の周囲には多くのチリ国旗がはためき、その横にはサルバドール・アジェンデ銅像が静かに立っていた。

 

旧市街を歩き、大通りを渡ってホテルに戻る。

疲れもあるので、本日の夕食はホテルに付属するレストランでとることにした。こういう時にレストラン探しをすること自体がリスクである。付属するレストラン「Restaurant Bristol」は有名シェフが腕を振るうというレストランで大変好評らしい。この日は貝のスープとチキングリル、野菜サラダを頼んだが、とても美味しい味付けのスープ、そして野菜が山盛りのチキングリルが出された。合計5000円程度であったが、満足度は高かった。数日後にはクレジットカードが不正利用されて止まり、少ない現金でひもじい日々を過ごすことになろうとは、この時想像だにしていなかった。

本日の夕食

 

 

 

 

パタゴニアとイグアスの滝(0) プロローグ

新年の挨拶

明けましておめでとうございます。

そして当ブログを読んでくださりありがとうございます。

さて、1/27よりチリ・アルゼンチン(+ちょっとだけブラジル)の旅に出ます。そのプロローグをば。

 

パタゴニア

かつて無知で英語を話すことができず、海外旅行に一人て行くことなど考えられなかった高校生の頃の未熟かつ未完成な自分は、世界地図を眺めるのが趣味のようなものだった。

その時に地図でふと目が行ったのが、南米最南端のエリアである。また当時植物が好きだったので、高校の図書館で植物図鑑もしくは世界の絶景図鑑などを読み漁っているうちに、パタゴニアの荒々しい自然の写真に到達し、その荒涼とした景色に圧倒されたものと記憶している。インターネット黎明期の頃に他の方の書かれていたホームページでパタゴニアの自然や旅行記を読んだりして、遠く離れた異国、まるで想像もつかない隔絶の地に、憧れの気持ちが募るばかりであった。

プンタアレーナス、ウシュアイア… 調べてみると人の住みうる大地は南半球では南下するほど減っていき、南緯40度をこえるのは南米と南極以外にタスマニア島ニュージーランド、そしてケルゲレン諸島のみとなり、南緯50度をこえる大地は南米最南端のこのエリアと、他にはサウスサンドウィッチ諸島、そして南極大陸くらいしかない。この地域はまさに文字通り、「地の果て」である。

このように、パタゴニアというのは高校生の頃から、私にとって特別な思い入れがある場所であった。

 

人類の到達点

このパタゴニアという地域は、地理的な意味での地の果てというだけではなく、大航海時代以前に人類が到達した場所としては最も遠い場所という意味でも、特別感がある。

エチオピア周辺のアフリカ大陸の高原で生まれたと言われている人類は、その一部が氷河期に陸地となっていたベーリング海峡を渡り、北米からパナマ地峡を通って南米大陸に到達した。さらに一部の集団は南米大陸を南下し、南米最南端の地、Tierra del Fuegoに到達した(その末裔がヤーガン族である)。その旅路は数万キロメートルという途方もない距離である。この途方もない旅路の末に人類が見た景色を目にすることには、何か大きな意味があるような気がしていた。

 

困難と憧憬

この地の果ては日本からは最も遠い地域の一つであり、行くのには片道で30時間以上はかかり、長い休みを取らないと近づくことはできない。この地を踏むことはかつての自分にとって憧れであると同時に、実現不可能にも思われた夢だった。

それから何年も経ち、語学を身につけ、未知の国に足を運ぶうちに、興味関心の軸足はこの世界にどういう人々が暮らしているのか、どういう文化があるのか、自分が立っている人間世界はどのようにして現在に至っているのか、自分は人間についての何を知っていて何を知らないのか、そういうことに移っていった。それは、かつての思春期特有の閉鎖的で刺々しく、人との交流を恐れていた臆病な精神からの円熟という単純な解釈もできるのかもしれないが、大人ならではの社会性を身につけ、英語をはじめとした外国語を身につけたことによる、他人との交流に要するストレスもしくはコストの減少というものが、大きく影響しているのだろう。しかしその分かつての純粋さや青々しさは、幾分減じてしまったのかもしれない。それに応じて自然の美しさを純粋に追求するよりも文化や現地の人々の生活に対する理解を深めるような旅行を志向するようになり、最果ての地という響きに対する漠然とした憧憬は薄れていき、南米最南端の夢は頭の片隅に追いやられていった。

しかし、長いコロナ下での幽閉を経て、身の回りの環境も安定したので、ようやく長い休みを取って旅行に行くことができると思いふと世界地図を紐解いた時に、オタマジャクシの長い尾のようなパタゴニアの地形が目に入った。10年以上前に思い描いた旅が、ふと頭によぎった。2月に長い休みを取ることは困難だと思っていたが、今私はそれが可能な環境にいる。条件は整っている。いよいよこの地を踏む機が熟した、いや、「この地に行くべき時期を迎えた」のだと思う。

パタゴニアは観光できる季節が限られており、シーズン中は混雑が予想されることから、ちょうど半年ほど前となる8月ごろから手配を開始した。しかしながら旅行業界はコロナ明けで海外旅行に行きたい人で蠢いていたらしいことと関係があるのかは知らないが、何個か手配先に連絡を取ったものの動きが遅かったり条件が合わなかったりして時間がかかり、結局本格的に話が進んだのは10月中旬からになってしまった。特にチリ側の手配にあまりに時間がかかることに辟易したので、宿泊とチリの区間は自分で手配することとし、アルゼンチン側のみの手配を旅行会社にお願いした。

チリやアルゼンチンではそれなりにインターネット予約システムが発達しており、飛行機やホテルの手配にそれほど困ることはなかった。一番懸念されたプンタアレーナス→ウシュアイアのバスは、偶然にも自分が移動する日にインターネットで予約できるタイプのバス会社が運行していたため助かった。

 

気候と治安

観光に訪れるエリアが広大なため、一概には書けないものの、サンティアゴは地中海性気候(Csa)。気候を生かしたワインの生産が有名である。南下するにつれて気温が下がり、冬季の乾燥が和らいでくる。プエルトモント、プエルトバラスは西岸海洋性気候(Cfb)に相当する。

プンタアレーナスやウシュアイアは西岸海洋性気候ではあるものの、最高気温が10度を超える月がほとんどなく、Cfcというかなり特殊な気候区分に属する。これはアイスランドやアラスカの一部で見られるようなかなり珍しい気候で、ツンドラ気候に近い。

ブエノスアイレスは高校の世界地図でよく取り扱われるように、東京とほぼ真逆の温暖湿潤気候(Cfa)になる。イグアスの滝付近も同様にCfaに属するが、どちらかというと熱帯雨林気候に近く、黄熱病の発生地域でもある。今回は黄熱病ワクチンを接種し、万全を期した。

南米は基本的に治安にはそれほど期待しない方がいいと言われているが、チリは特に南米では治安が比較的良い地域として知られていた。しかし情報を集めてみると、2023年に首都サンティアゴでひったくりや集団での追い剥ぎにあったという情報が複数得られ、治安の悪化も懸念される。どの地域も全く油断はできない。気を引き締めて行くことが必要である。

 

旅程

今回の旅程は以下のようである。(2024/1/27-2/11)

1日目 成田発 ヒューストン乗り継ぎ

2日目 サンティアゴ観光、サンティアゴ

3日目 プエルトバラスへ移動、プエルトバラス泊

4日目 チロエ島観光ツアー、プエルトバラス泊

5日目 プンタアレーナス泊

6日目 プンタアレーナス泊(±ペンギン島ツアー)

7日目 バスでウシュアイア、ウシュアイア泊

8日目 世界の果て号・ビーグル水道クルーズ、ウシュアイア泊

9日目 飛行機でエルカラファテへ、エルカラファテ泊

10日目 ペリトモレノ氷河観光、エルカラファテ泊

11日目 エルカラファテ泊(±パイネ国立公園orフィッツロイ)

12日目 プエルトイグアスへ移動、プエルトイグアス泊

13日目 イグアスの滝観光、ブエノスアイレス

14日目 ブエノスアイレス夜発

15日目 ヒューストン乗り継ぎ

16日目 成田着

 

全体的に余裕ある日程とし、体力的にも無理のない旅程を組むことを心がけた。また、パタゴニアのメインとなるアルゼンチン側だけでなくチリ側にもかなりの日数を割き、この地域に対する理解を深めようと試みた。本当は先住民比率が高いテムコや、まるでバオバブのようなナンヨウスギの一種が生い茂るコンギジオ国立公園を擁するアラウカニア地方に行きたかったが、テムコには見どころが少なく、またコンギジオ国立公園行きの現地ツアーをほとんど見つけられなかったので諦めた。アラウカニアとこの地域に住むマプーチェ族はチリという国の歴史において重要な位置を占めるので、いずれ本編でも触れていこうと思う。

プンタアレナスのペンギン島ツアーは午前のみのツアーで、とりあえず申し込みはしてあるものの、疲労が溜まっているようであれば前日にキャンセルし、ホテルでゆっくりしようと思う。

本来はイグアスの滝に行くつもりはあまりなかったのだが、わざわざアルゼンチンに行ってイグアス滝に行かないのはただの損失であるような気がして、行くことにした。そして当初はアルゼンチン側のみの観光をするという旅程であったが、わざわざイグアスの滝に行ってアルゼンチン側のみの観光をするのもなんだか勿体無いと思い、既存の手配に含まれていたアルゼンチン側のみのツアーをキャンセルし(すでにキャンセル料は100%だったが)、個人手配でアルゼンチン側とブラジル側をどちらも観光する終日プライベートツアーを予約した。

イグアスの滝を訪れることにしたため、残念ながら最終日の夜ブエノスアイレスでタンゴショーを見ながらゆっくりすることはできなくなってしまったけど、それほど後悔はない。

旅程は今まで自分が計画したものの中では最も長い、13泊16日である。無限に時間のある学生やバックパッカーを除けば、現実的に取りうる休みの中では最も長い部類だと思う。

 

最南端の大地は、一体どのような姿を見せてくれるだろうか。今の自分は、おそらくかつての自分が見ている景色とは違うものを見ている。最果ての地は現在の自分にどのような感情を湧き起こすだろうか。何米最南端の地に憧れて半生、ようやく実現する計画に、身が引き締まる思いである。

 

闇の中にまたたく光

 

chevrefeuille.hatenablog.com

「ちがう!生命は闇の中にまたたく光だ!」(風の谷のナウシカより)

 

10年ほど前山で出会った人が、ついに7大陸最高峰登頂を成し遂げたという話を聞いた。その偉業は本当に素晴らしいもので、心からおめでとうございます、という気持ちでいっぱいだ。

 

思えば、彼との出会いは本当に偶然だった。かつてこのブログの独り言的な記事にも何度か登場する彼は、2013年8月の終わり、北アルプスを縦走しているときに出会った。爽やかだが芯のある、知性と逞しさを兼ね備えた雰囲気を持つ当時50代の彼は大学の大先輩にあたり、私に親近感を抱いたのか一緒に下山することになり、彼の車で私を東京まで送ってくれた。その際白馬で日帰り温泉に入ったこと、彼が駐車場に向かう中で日経新聞を読んでいたこと、そして一番印象的だったのは、車の中での会話だった。その多くは、いまだに鮮明に思い出すことができる。

 

何度も記事に書いているように、当時の私は腐り切っていた。第一志望の大学に行けず、かといってもう一年やり直す勇気もなく、ただただ負け組として絶望とニヒリズムの闇に堕ちていた。ここは自分のいるべき場所ではない。漠然とした、しかし強烈な違和感の中で、全く帰属意識を持つことなく山を彷徨っていた。

 

私の人生はどん底なんです、と自嘲気味に語った自分の言葉に対して、彼が語った言葉、これについても以前述べたような気がするが、「今がどん底なら、これから良くなるしかないと思えばいい。」特に強烈な感情を込めたわけでもないその言葉は、私に過度に同情することもなく、かといって私を嘲笑するものでもなく、まるで私が精神面で復活を遂げてこれから良き人生を歩むことが当然であるかのような、確信と力強さに満ちたトーンで語った。彼の言葉もそうだが、彼の人生が刻まれているような、そういう話し方が強く印象に残っている。それは当時、本当は私が最も求めていた言葉だったからなのかもしれない。聞いてみれば彼は某メガバンクに勤務後、某外資系金融で10年間働いてお金を貯めたとのこと。自分はかつて野球部であったから、体力に自信があること。そして、その時に語ったのが、7大陸最高峰登頂の夢だった。50代前半で当たり前のように夢を語る彼は、死んだ魚のように社会的義務を果たす没個性の集団しか知らなかった自分には鮮烈な印象を残した。そして彼が好んで聞いていた山下達郎の曲もまた印象的だった。facebookで友達になったものの彼とはそれほど頻繁にコンタクトを取ることもなく疎遠になってしまったが、彼の言葉、そして彼と話した記憶だけは強烈に記憶に残っていた。

 

あれからちょうど10年以上が経った頃、facebookで彼の成功の知らせを受け取った。ああ、10年が経ったのだなあという感嘆、語った夢を本当に成し遂げた彼の有言実行ぶりへの驚嘆、そして自分を導いた恩人への尊敬の念が沸々と湧き上がってきた。思えばこの10年間、彼の一言は私にとってずっと導きの言葉であった。暗闇を照らす一筋の光、どんな闇の中でも決して消えることのない導きの星だった。そして今もそうである。

 

あれから10年、私は少しだけ外国語を操れるようになり、様々な異国の文化や考え方に惹かれて、海外を一人で旅するようになった。自分は彼の言葉に恥じないような、良い人生を送れているだろうか。少しは立派な人間になれただろうか。まあなれてはないんだろうけど。それでも多少はマシな人間になったという自覚はある。かつてのように自分の失敗にばかり目を向けて腐ることなく、それを踏み台にして前に進めているという自覚も、多少はある。そしてかつてよりは自分の人生哲学がソリッドかつ滑らかなものになっているはず。それは私の心の中には決して消えない光があったからだ。今の彼にもし会うことができたら、私はどんなことを話すだろうか。もしその機会が永遠になかったとしても、私は暗闇を照らしてきた光の先にあるものへ、手を伸ばし続けたい。