Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

2010年3月

その日家で待っていた私に、果報が訪れることはなかった。

そのあとの1ヶ月に私がどのように過ごしていたのか、全く覚えていない。失意の中手元に送られてきた手紙には、0.2点合格には届かなかったと、まるで私を嘲笑うように各科目の点数だけ書かれていた。

入学式では今までの抑圧から解放されんとばかりにリア充生活を楽しもうと浮き足立っている周囲の人々を尻目に、自分は全く馴染むことができなかった。同期には本来自分と同じ段階に分類されるべきではないはずの人間の名前が並んでいる。彼らと接することは自分の敗北を認めるようなものだった。しかしながら、2度同じ失敗をした自分が、もう一度立ち上がって挑戦しても、成功する保証はない。何度も挑み失敗するうちに、同志は減っていき、同期からは取り残され、多浪という軽蔑の眼差しを注がれることは明らかだった。私にはもう、プライドと共に生きる屍のように心を殺して生きるか、自分の無能さを受け入れて自慢げに生きる人間の靴を舐めて生きるか、死ぬか。それしかなかった。分不相応に高額な学費を親に払わせて延命治療のように生かされている自分も、自分自身が内面の苦悶を抱えている中で何一つ過去に後悔などないように享楽的な日々を送っているように見える同期の奴らも、何もかもが許せなかった。

 

当時の自分は、他人と関わりたくなかった。同期と関わって楽しそうにしている人々と一緒にいるのが辛かった。私はなぜ自分がこんな状況に追い込まれているのか。なぜ自分はこんなふうに「ならねばならなかったのか」。それを冷静に考える時間が欲しかった。かつてYouTubeか何かの媒体で線路に入って電車の走行を妨害し「全部タヒね!」と叫び続けている発狂者の動画を見たことがあるが、簡単に言えばその時の自分の精神は、一歩間違えればそのようなものだったかもしれない。心なく投げかけられる言葉も、知ったふうな同情も、全てが不愉快なものに感じた。

 

「そんなに不満ならもいう一度挑戦すればいいではないか」。欠けたることのない満月のような人生を送る人からこのような侮蔑の言葉を頂いたこともある。もし失敗という結果に対して抵抗する気力が残っているならば、すでに実行しただろう。だがそれは不可能だったのである。それができないほどに心が折れていた。粉々だった。私は失敗したのではない。敗北したのである。圧倒的な戦力差を前に戦意を喪失し、歯を食いしばりながら敗北を受け入れた人間に対してそのような台詞を吐くことができる人間の精神が知れない。傷ついた人間に労りの言葉ではなく塩を塗ることを生業とするような程度の低い人間は、本来私に見下されなければならないはずであるが、そういう輩に対して私は何も言い返すことができない。自分の無力が情けなく、この世界にいることがいたたまれなかった。

 

大学生になったら一人で登山をしたい。その夢は大学受験の敗北後、別の意味を持っていたように思う。それは敢えて自分を死と隣り合わせにする行為だった。もし死んでしまえるなら、最後に見る景色は美しい世界であってほしい。そういう願望が少なからずあったように思われる。

 

時が経ち当時の状況を少しずつ客観視できるようになると、自分には本当は大した能力などなかったのではないかという現実が少しずつ浮かび上がってきた。よく考えてみれば初めて学ぶことの飲み込みは悪いし、記憶力も大して良くない。数学的思考も弱ければ言語能力も低く、大舞台で実力を発揮する胆力もない。所詮私には何もない。ああそうか。高校生の頃は自分の行きたい学校に行けて少し調子に乗っていたが、自分は所詮、この程度の人間だったんだな。結局私は自分自身の能力を高く見積もり、自分の無能という現実を直視せず、才能もないのに努力を怠り、将来に対する明確な目的もやりたいこともなく、のうのうと中高6年間を生きてきた。所詮今の自分の置かれている状況は、その顛末に過ぎない。

 

その真実を直視し始めたあたりから、少しずつ物事の見方が変わってきたように思う。無能なら他人の100倍努力すればいい。胆力がないなら胆力がある人間の100倍場数を踏めばいい。努力で変えられないことなんて何もない。そう思うようにした。高校時代英語の能力が低かったが、現地の人間なんてどれほど頭が悪くてもそれっぽい言語を喋っている。自分にできないはずがない。正しく現実を直視すれば、今の自分に何が足りないのかが見えてくる。正しく対策を立てることができる。自分の気持ちで現実を捻じ曲げて解釈し、目を覆いたくなる現実を否認するのではなく、感情と現実認識を切り分けて考える能力を得たことが、私がこの大学受験から得た最大の成果なのだと思う。いい大人になって現実を直視できない人の多さを考えると、本当にそう思う。しかし、全能感を持って生き続けることができていたらどれほど幸せだっただろうとも、また思う。自分を客観視せずともあらゆる障壁を乗り越えられるならば、それが本当の強者なのだろうとも思う。しかし、私にはそれが許されなかった。許されないほど無能な存在だった。人の100倍努力しなければ才能溢れる人間に肉薄できない凡人だという評価を自分自身に下すのに、痛みを伴わなかったというと嘘になる。天真爛漫な人間を見ると未だにソウルジェムが濁るのは、彼らの存在が自分の無能さを際立たせるからなのだと思う。

 

一人での登山は、自分と向き合う時間そのものだった。時には悔しさや無力感を思い出し、唇を噛み涙を流しながら山道を歩いた。それでも歩みを続けるうちに、自然の本当の美しさに気づいた。「国破れて山河あり」。何もかも失った心にとっては、自然はあまりにも美しかった。この自然の中でもっと時間を過ごしたいと思った。当時山には自分の惨めさを強く意識させる同年代の楽しそうな若者は少なく、年配の方が多かったのがとてもありがたかった。荒波を乗り越えた彼らのちょっとした人生訓を少しずつパズルのピースのように組み合わせていった。そして人生を変える人、人生を変える言葉と出会った。死に場所とすら思っていた山に、私は命を救われたのだろうとも思う。

 

さて、聞くところによれば、大学受験に失敗して、その後人生を憂いて自殺にまで追い込まれる人もいるようで、妻からは離散に行くことができず第三志望の大学に行き、しかしその環境に馴染めず、最後に拒食症で自死してしまった人の話を聞いた。その気持ちはよくわかる。競争というのは残酷だし、敗北すればするほど孤独になる。そういう人間に「生きていればいいことがある」などという言葉は底の浅い綺麗事に過ぎない。自分が欲しいと焼きつくほどに手を伸ばしたものが手に入らず、自分が適正と思う評価を受けられず、光と闇の淵で光が見えながらも暗黒に吸い込まれ、しかもそれが自らの能力の不足によってなされたという、あの真っ黒で出口の見つからない絶望。それはまさに生き地獄に他ならない。都合の良いことは自分の手柄にして都合の悪いことは他人と運のせいにするご都合主義的な考えの持ち主や、特段大きな苦労もなくぬるま湯を生きてきた人間に、その地獄の中で生きる人間の気持ちなど、わかるはずがないのである。私がそちら側の人間になっていた可能性も十分ありうる。その中でギリギリのところで死の淵に吸い込まれなかったのは、単なる運命というだけで、彼らより私が優れていたわけでも、メンタルが強かったわけでもない。

 

今の自分を支えているのはさまざまな素晴らしい人、素晴らしい言葉との出会いであることは疑いないことだけども、それが私の表面だとすれば、私の裏面として現在の自分の根源となっているのが、冒頭に触れた経験であることは変えようのない事実である。他人のfacebookなどを時折見る機会があると、彼らの過ごした大学生活の華やかさ、そしてそれを私が手に入れることのできなかった悔しさを思い出し、ああ自分何やってるんだろうな、と発作的に思うこともある。それほどまでにあの出来事は私に大きな影響を与えていることを、いまだに実感する。自分の半生は虚無感や黒く蠢く感情との戦いであり、それと共に生きることだった。過去には根気がないとか三日坊主などと言われて生きてきた自分が、未だに仕事が終わると毎日言語を学び、海外の世界を知ろうと時間を捻り出す熱意を持って生き続けているのは、この決して枯れることのない動機、一番多感な時代に一番得たかったものを得られなかったことに対する静かな怒りと激しい渇望感を持って生きているからだと思う。

2010年3月を抜きにして自分の人生は語れないし、あの経験があったからこそ、医学界の了見の狭さやその底の浅さを早く見抜くことができたし、早くから距離を取ることができた。闇はすなわち光であり、絶望はすなわち希望であり、死への階段は同時に自分の導き手でもあった。そしてこれからもそうであり続けるだろう。自分には揺るがない原点がある。それはそれである意味幸福なことかもしれない。恨むべき人がいることが憎むべき人がいない人よりも幸福であるように、復讐することが生き甲斐となりうるように、幸せそうに生きている人々に抱く陰性感情と復讐心を燃料として、生に縋り付いてきた。それが私の半生だった。

 

時折ふと思い出すように自分の過去のこの出来事について書きたくなるのだけれども、それはおそらく、それほどまでに自分の心の奥底に突き刺さっている出来事だからなのだろう。

悪いことも大抵はしばらく経って忘れるけれども、一部の大きな出来事は何年経っても何歳になっても、毎日のように思い出すものだ。

 

さて、年度末にかけて、再び何個かの海外旅行の計画を練っている。

今まで遠過ぎて時間がかかり行きたいと思っても行くことができなかった地域だったり、今までそのあまりの文化の違いから避けていた地域である。どのような経験ができるのか楽しみであるが、冷静さと周到さを失わず、かといって慎重になりすぎることもなく、訪問先の良さに気づくことができるような、そんな旅行にしたいと思っている。