Le Chèvrefeuille

世界は遊覧、思い出の場所であり、われらは去りゆく者

学び

人は何のために学ぶのか?

 

幼稚園生だったら、親や先生に「いい子」と言われるためかもしれない。小中高校生だったら、良い点数を取り、良い成績をあげるために勉強をするだろう。しかし良い成績を得るのは何のためだろうか。いい大学に行っていい就職先へ就職するため?いい大学に行っていい就職先に就職先に就き、そのまま昇進のレールに乗って社会的に成功した人生と言われ、賞賛される。なるほど、それもいいだろう。それではその人生は何のためにあるのだろうか。何のために社会的に成功し、何のために他人に賞賛される必要があるのか。他人に賞賛され名誉を得ることにどれほどの価値と意味があるのか。

 

このような問いに最後まで答えられる人は少ないと思うし、このような問い自体が無意味という人もいるだろう。他人に賞賛されればそれだけで気分が良い、金銭的に不足のない生活できることが重要。それも正しいかもしれない。与えられた目の前の課題さえ高得点で取れればそれで良い結果と良い人生が導かれる、そういう考え方もあるだろう。実際人生のうちで、このような人はかなりいたし、それらはそれらで彼らの正解に到達しているのだと思う。大いに結構。私にとってそれは正解ではない、ただそれだけである。

 

私は上のような考え方には幼い頃から納得が行かなかった。自分の成績の良さを鼻にかけることは小学生で飽きてしまった。ある程度の進学校出身だったので、東大に行くことが当たり前のような雰囲気があったものの、中高あたりから勉強する意味がよくわからなくなってきた。正直言って大学受験を控えた時期にそのような誰もが目を背ける本質的な悩みにぶち当たってしまったことは私の人生の失敗だったのかもしれない。しかしながら、大学受験が終わり、その不成功について、そして周囲のはしゃぎぶりと自分の冷めっぷりの落差に自問しているうちに、「勉強する意味がよくわからなくなった」理由が次第に形をとって明らかになってきた。それは、あまりに多様な選択に対して唯一絶対の頂点を仮定し、それに向かってひたすら盲目的に努力するという、それこそ日本で幼少時から受験、職場などでの昇進において何の疑問もなく前提とされているような考え方に対する視野の狭さと胡散臭さに対する強烈な違和感であった。

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実は高校生くらいまではあまり国語や外国語、古典や世界史といった文系の学問に興味が持てず、化学や生物など理系、特に理科が好きな典型的理系人間であったはずだった。親は自分を理系だと言ったし、自分もそう思っていた。しかしながら、ある年齢になった時に突然気づいた。理系の学問は、我々の生きている世界のうち理論で説明できる部分に対して答えてはくれるが、人間とは何か、自分たちの生きる社会はどのようにしてできたのか、なぜ今の世界はこのようになっているのかについて、何一つ答えを与えてはくれないということに。(ある人が、「理系の学問は神様の作った世界を知ること。文系の学問は人の作った世界を知ること。」などと言ったが、神様の存在云々の議論は置いておくとして、なかなか言い得て妙だと思う。)

理系の学問の世界は確かに無限大に広い。無限大に広いのだが、理系の学問を用いて知ることのできる世界、理系の知識を用いて説明可能な世界の体系は「閉じている」。それはちょうど極限値を有する曲線が漸近線まで無限に近づくことはできるが、その極限値をこえた世界を決して見ることができないのに似ている。(その気づきには、医学という学問において無批判に人の生存期間を伸ばすことを至上命題とし、そのために莫大な労力と金銭を投入して人の遺伝子をひたすら解読し、重箱の隅をつつくようなことに人々が躍起になっている滑稽な現状を目にしたことが、多少なりとも影響を与えている可能性は否定できない。)私はその見えない限界の外が見たい。自分の生きている世界について、もっと知りたくなった。

大学3年ごろに突然世界史や地理、文学や哲学の勉強を始めた。学んでいるうちに日本という国の外を見たくなってきた。海外旅行に行く人のモチベーションは様々だと思われ、おそらく多くの人は「何となく華やかなイメージ」に惹かれて行くのだと思われるが、私の場合はそれとはかなり違った切り口であり、「自分の生きている世界を、もっと知りたい」という知的好奇心がある意味国境を超えてしまった結果なのだと思う(いや、自分ではそう思っているだけで、実際は単に海外が華やかで楽しい、それにもっともな理由付けをしているだけなのかもしれないけどね)。某友人のブログに以下の言葉をどういうわけか引用されてしまい大変恐縮であるが、海外旅行の真髄は地理や歴史、地学や生物、建築学や文学、語学など、あらゆる学問を生きた知識として体感する大人のフィールドワークであった。これまで学んできたことが実際に形となって目の前に現れることは大変な感動で、自分の生きている世界の大きさや多様性、そしてそれと対照的に自分の生きるコミュニティの狭さの対照に愕然とする。この世界の広さ、偉大さ、圧倒。これに触れるために私は勉強をしてきたのだなあということが何となく、しかし直感的に理解できた。

 

知的好奇心が国境を超えた結果、どうやら世界は米国や欧米を中心とし頂点としたconcentricのものではなく、それぞれの国が素晴らしい文化や歴史を有し、世界に中心や頂点などあるはずがないということが見えてきた。強いて言えば欧米だけではなく、中国、ロシア、中東、東南アジア、アフリカ、インド、ラテンアメリカなどの国々がそれぞれの文化の中心をなしている、すなわちmulticentricである。おそらく世界に中心があるという誤謬は、演繹で物事を考えたがる人間という種族のイドラの一つなのだろう。しかし残念ながら、実際はそうではなかったのだった。このあたりに気づきはじめたとき、先述のように、とりあえずいい成績をとり、とりあえずいい大学のいい学部に行き、とりあえず欧米諸国に留学し、とりあえず昇進し、とりあえず社会的に成功しました、ちゃんちゃん、という日本人が無意識のうちに敷いているレールというのが、あまりにもconcentricなつまらないものに思えてならなくなり、その正当性がガラガラと音を立てて瓦解した。だからと言って学びのモチベーションが喪失したかといえば、全くそんなことはない。なぜなら無用なノイズが崩れ去ったことで、自分が学ぶ理由がかえって、くっきりと浮かび上がったからである。

 

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勉強というのは「自由になるためにするものだ」と思う。無知であれば、他人の言うことに盲従するしかなく、いいように使われる以外に選択肢がない。しかしながら、様々な分野を学ぶと、自分の生きている世界を知ることができる。判断を他人に委ねることなく、己の知識と信念にしたがって、自分の生き方を選択することができる。人というのは自分の生きているコミュニティが世界の全てだと思いがちだが、実際はそうではないということを日々自覚しながら生きることは、コミュニティ内でダメージを負った時も大きな福音となりうる。所詮コミュニティというのも多種多様な選択肢のうちの一つに過ぎない。仕事というのも自分の見たい世界に到達するための手段に過ぎない。職業に貴賎はなく、医者以外にも素晴らしい職業はたくさん存在する。日本以外にも素晴らしい文化を持つ国はいくらでも存在する。こういったことに気づくために学ぶんだと私は思う。そして学ぶということは単に知識を得るだけではない。それが自身の血肉とし、あらゆる状況において異なる種類の知識を瞬時に引き出し実行に役立てること、すなわち知識の実践が必要である。

 

知識の実践において人間は幾らかの発達段階を経るものだと私は思っている。

第一段階は、完全に無知な段階。人間というのは本当に無知な時は、自分が無知であることすら気づかないので自由である。自由というか裸で走り回っている野生状態に近い。いかなる桎梏も彼らには無意味である。

第二段階は、知識はあるが全く実際に活かされない段階。これは他の段階とオーバーラップしていたり、特定の分野の知識は実際に活かされるが他の分野は全く活かされない、などのことが多々あるので綺麗に線引きすることが難しかったりするのだが、卑近な例を挙げれば世界史や政治経済、倫理などの分野で、教科書に書いてある歴史上の人物の考えは理解できているが、それが全く「モノに」なっておらず己なりの考えを求められても答えることができないとか、ケッペンの気候区分自体は知っているのにイギリスを歩いていても西岸海洋性気候に気づかない、という手のものである。この段階の人間はまだ知ることによる不安すら手に入れることができない低次元の段階だが、日本の教育システムはこの段階で止まってしまう優等生を量産しがちであるように見える。

第三段階は、知識に操られている状態である。人はある程度学ぶと不安になってくる。例が適切でなかったら申し訳ないが、「飛行機に乗ったら落ちるんじゃないか」「イスラム圏を旅行すると危ないんじゃないか」…こういったものである。もちろん飛行機は一定確率で落ちるし、危険なイスラム圏の国は確かに存在するので、彼らの言説は間違ってはいないが、それは人を不安にさせる様な一部の知識を切り取ったものであって、正確ではない。中途半端な知識は人をかえって不安にする。

第四段階は、完全に知識を統御する段階である。中途半端に学ぶと不安になるのは、その学びが不完全で、危険を避けるための方策や詳細な知識、そしてそれを実践できるだけの能力がない、もしくは訓練が足りない、もしくは真実を受け入れるだけの覚悟がないからである。物事を知悉し、その知識を完全に近い形で実践できるならば、あらゆる迷妄や不安は無意味である、ということが理解される。(何だか哲学や宗教くさくなってしまったがそういうものではない。というかそういうのに興味がないので胡散臭い人々はさっさと退場願いたい。)この領域に至るのは簡単ではないけれども、その片鱗に触れられるように日々精進したいものである。

 

知というのはあらゆる文化的社会的桎梏を無効化し、自由自在に世界をとらえる「窓」の位置を設定することを可能にする潜在能力を秘めたツールであるはず。しかしながらその知識を得てなお、例えば先に挙げた典型的な日本人の成功モデルのような文化的桎梏そのものにエリートと呼ばれる人々のうち多くが何の疑問も抱いていないように見えるのは、知識の実践という観点から見ると甚だ稚拙であり無念でならない。これにはおそらく知識を「よき社会の歯車となるためのスキル」と極めて近視眼的に位置付け、思考停止人間を量産するこの国の教育方法にも問題があるようにも思うが、これについて語り始めるとそれだけで一冊の本ほどの駄文が生産できてしまいそうなのでやめておく。

学びというのは山を一歩一歩歩いて登るような行為であり、知識というのは翼のようである。その翼があれば、今まで見ることができなかった世界にも触れることができるかもしれない。そして、その世界に触れるために実際に行動をする、すなわち実際に翼をはばたかせるのは我々自身なんだと思う今日この頃である。